きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

恋愛弱者のレゾンデートル

5/3 晴れ


 元号が変わったり、実験をやったり、ラジバンダリ。代わり映えのない日々が続く。「こういう一日一日の積み重ねが自分をより良い存在にしてくれるのだろう」という信仰をもって生きていくしかない。

 元号が変わって、なにか良いことが起きるのを微かに期待していたら、案の定なにもイベントが起きなかった。西暦や元号が変わろうが、『現在』という牢獄から私たちは逃れることができないと、再認識させられた。私たちが、未来に生きることはできない。時間は幻想。タイムマシンはフェイク。


 私は恋愛弱者だ。童貞だしモテないし、ムホホな経験もない。

 こういうことを書くと、「突然なにを言ってるんだ」「今更そんなことを蒸し返して」など、多くの声が頭の中で勝手に反響する。他人の視線や声を頭で飼い慣らしてしまったのが運の尽き。「いや違う、静粛に」と脳内議会に呼びかけて、文章を続ける。


 私が恋愛弱者なのにはちゃんと理由がある。身長が180cmほどあって、そこそこの学歴もあって、めちゃくちゃブサイクなわけでもなく、人助けは結構する方だし、ユーモアもあるし、サムネも作れるし、動画も編集してる私がモテない理由とは。「言動がクソすぎる」、以上。

 言動がクソなのは本当に辛い。なにが辛いかって、「クソ」という価値判断自体がアホバカマヌケの社会から押し付けられたものだし、それに反抗して先ほどのように自分のメリットを羅列すると、「自惚れている」という人格半額ラベリングをダメ押しでベタベタと貼り付けられてしまうのが辛い。これは罠だ。言動がクソだと、人生が低評価から抜けられない蟻地獄と化す。

 あ、そういや、今日見た夢は「植木鉢をひっくり返したら大量のアリに群がられる」という内容だった。アリに群がられながら、女の子に売春の交渉を持ちかけられたのを覚えている。30分で、2万円! 私は清貧な人物なので、「ただのSEXには興味がありません!」とハルヒの真似をして断った。こういうことを書くからブロックされちゃうんですね。とほほ。


 言動がクソで恋愛弱者な私だが、(いやらしいことに)男と女の関係とか恋愛トークとか、そういった議題にとても敏感である。いまキーボードを打ち込んでいる間にも、「男と女の関係、という表現は『男と女』をちゃんと並列できていないのでは? 自分の性別は男だし、一応“男性”を先にしておくか、それともフェミニストに媚びて“女性”を先に書いておくか?」「“恋”という漢字は下に“心”があるから下心か。“愛”という漢字は真ん中に“心”があるから真心か」などなど、余計なことを考えてしまうくらい敏感だ。シンプルにタチが悪い。


 この手の話題に敏感で、さらに恋愛弱者だからこそ、「男女平等」のような話題を斜め下から覗き込みがちである。

 例えば、「性差別は男性に全面的に責任がある」なんて言説を見ると、猛烈な違和感を感じてしまう。私のような下の世界の恋愛弱者は、女性から積極的に搾取した覚えなどないからだ。「そういったことはウェイやヤリチンに向けて言ってくれ。恋愛強者である彼らこそ、“おちんぽオブリージュ”を身につけるべきだ。大いなるおちんぽには、大いなる責任が伴う!」なんてことを叫びたい恋愛弱者も、結構多いのではないだろうか。私はそこまでは言わないが。保身じゃないですよ?


 だが最近では、「性差別に加担したことはない」と反発している恋愛弱者に対するカウンター的な言説も登場している。

 それが、「生まれながらに特権的なものを併せ持っている男性が、搾取の存在を否定すること自体、望んで性差別の加害者になっているのと等しい」というものだ。この言説は、「アフリカの人々から搾取している日本企業が、安価で製品を販売している現状において、そこで苦しんでいる人々を無視し、その企業の製品を購入し続けることは差別を肯定し、加害者になっているのと同じなのではないか? という論理と、現代日本の性差別が同じ構造を持っている」という形で発信されている。

 性差別が存在する現状を無視して、男性であることの利益を享受すること。それは即ち女性への加害であるので、男性は各個人が性差別の解消に向けて努力するべき、と。本当に?


 やはりというか、この言説にも違和感を感じる男性は多いように感じる。私自身も、そのうちの1人だ。まるで、恋愛弱者である我々にも、“おちんぽオブリージュ”を突然課せられてしまったかのような、そんな息苦しさ。上野千鶴子の東大スピーチにも通じるなにかが、ここにはある。
 先述の性差別に関する論理には、いくつかの問題点がある。1. 行政レベルの問題が、男性個人個人の存在に帰属されている。2. 性差別問題の過度な単純化。3. 恋愛弱者への救いのなさ。主にはこの3点である。
 面倒臭いので、それぞれの問題点については詳しく書かない。1については地球規模の環境問題に対して「ボランティアだけでなんとかしましょー」と言われているようなニュアンスが伝わればいい。2は性差別は双方向+αの問題であり、男性・女性という同性の中にもややこしい構造が潜んでいることが匂えばそれでいい。最後に3は、2とも通じるが、恋愛弱者が新たな被差別対象になるだけでは、ということだ。他の差別がどのように解消されてきたかを検証して、その知見を日本の性差別にも生かすしかない。が、そこまでモチベーションは振るわないので調べない。関心のある人で勝手にやってくれ。言動がクソなのを言い訳にして、私は早々にこの議論から退場する。

 

 恋愛弱者は救われない。恋愛であれ経済であれ、弱者は徹底的にロマンチストになるしかない。恋愛弱者は存在もしない“理想の人”とめぐり合うことを、経済弱者はいつかのゴールドラッシュを夢見ている。

 一方、強者はリアリストである。恋愛強者は何をすればカップルになれるか体に染み付いているし、経済強者は宝くじを買ったりしない。

 だからといって安易に恋愛弱者を助けようとすると、それはそれで酷いことになる。「恋人の存在を国家が保証するため、恋愛弱者には国家が恋人をデリバリーする」なんて、どこかのエロ漫画みたいで興奮する。いや興奮しない!


 恋愛弱者が救われるパターンは現代では2つ。“理想の人”とめぐり合うこと。もしくは、恋愛というゲームから降りること。私は後者の方法で試行錯誤している。恋愛という社会に蔓延るルールから降りて、別のゲーム(学問でも、スポーツでも、何でもいい)に参入すること。精神的な健康には、これが丁度いいように思われる。自分自身で新たなコロッセウムを作り出し、自分に有利なルールを設定することも有効かもしれない。それができるようなハイスペックな人間は、そもそも恋愛弱者ではないかもしれないが……


 今日は久しぶりに恋愛について書き連ねた。所詮は言動がクソな恋愛弱者の戯言なので、ここまで読んでいただけたことだけでも儲けものである。この文章を読んでくれた人が、また新たに何かを考えてくれれば、それで良い。

 自分の思考が誰かの糧になるということ。それ自体が、恋愛とはまた違う形の、私の存在証明になってくれるはずだ。

 それでは皆さま、良い暮らしを。