きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

アルファルド

6/25 晴れ


 院試の勉強をしたり、ツイッターで適当に呟いたツイートがやたらと人気になったり、そんな変わり映えのない日々が続く。

 

 そろそろ卒論の序論を書き始めたいが、真面目に資料を読んでないので、未だ書けずにいる。
 「卒論を書けば、研究や学問全体への自分の視点が一変するだろう」という曖昧な確信があるものの、己の怠慢のせいでそこへたどり着けないというのはもどかしい。

 卒論に限らず、英語論文を一本完成させることや、もっと身近な例を出せば、恋愛したり、素晴らしい映画を観ることも、人生を大きく変えるきっかけになり得るだろう。

 だが、そうした出来事は自分自身に不可逆的な変化を生じさせることに直結している。不可逆的変化はなんか怖くて、私は苦手だ。日記を続けている目的の一つに、そうした大きな変化以前の自分をタイムカプセルのように保管するということもある。


 ファイヤアーベントのパラダイム論のように、「大きな変化がそのまま進歩に繋がるとは限らない」ということもあると思う。未来の私にとっては、現代の私は錆びた価値観の持ち主かもしれないし、その逆もあり得る。自身の価値観を客観的に、斜め上から眺めるために、今日も日記を綴る。

 


 SNSなどで活動していて、才気溢れる人に出会うことが増えた

 単純に私にある程度の実力が伴ってきたのか、そのような見せかけが上手くなったかどうかは知らないが、「相手の凄みがわかるようになってきた」ということは確実だ。


 また少しだけ、相手の実力をその人の書く文章で理解できるようになってきた。大抵、実力者は言葉に対して誠実だ。自分の頭の中でしか通用しない専門用語のようなものを使わないし、他者との理解の齟齬があれば、辛抱強くそのズレに向き合うことができる。まだ私はその領域には至れていないので、見習いたい。
 もちろん、別に文章力のみで実力が決まるというわけでもない。実績や創作物、どれだけ人が周囲に集まっているかを見れば、その人の実力は概算できる。誰かの実力を見つめれば見つめるほど、己の不甲斐なさが際立つので、ずっと直視するようなことはできないが。実力者の輝きの、あまりの明るさに目が焼き爛れる

 


  目に見える輝きが、そのままその人の実力を必ず示しているとは限らないときもある。

 自分と近しい分野なら、その人の実力が直ぐに推し量れるが、他分野であればあるほど、その解像度はひどくぼやけていく。ちょうど、太陽が宇宙の果てのアルデバランよりも明るいように。

 多くの人が太陽の光を眩しく感じて、重力のようにその魅力に惹かれる以上に、アルデバランは多くの星々を惹きつけているのかもしれない。それは知識という望遠鏡で覗き込んでやることでしかわからない。相手の実力を理解し誠実であるためには、曇らないように入念に望遠鏡を磨き続けてやるしかない。

 


 ちょうど手塚治虫の『ブラック・ジャック』に、似たような話があったのを思い出した。

 『6等星の男』というタイトルで、実力があるのに影の薄い医師がブラック・ジャックにその腕を絶賛され、紆余曲折あって、ラストシーンではその腕をようやく周囲の医師にも周知される、という話だったか。


一等星は あのでかい星だ
六等星は ほとんど目に 見えないくらい かすかな星の ことだ
だがな ちっちゃな星に 見えるけど あれは遠くに あるからだよ
じっさいは 一等星よりも もっと何十倍も 大きな星かも しれないんだ
世の中には 六等星みたいに はえない人間が いくらでもいる


 このようなセリフが印象深い。SNSはまるで、六等星が集まって一つの銀河をなしているようなものでもある。

 


 さらには、その存在さえあまり知られていない実力者もいる

 私の元カノなんかも、その部類に入る人間だろう。桁外れの努力をこなし、実績も残しているのに、その力量はあまり知られていない。彼女が果たして満足なのかは定かではないが、そういう生き方もまた乙なものなのだと思う。星系から離れたところで一人瞬く、孤独な蛇の星である。

 


 今日もつらつらと日記を書いた。

 私なんかは何の光も放つことができず、奇妙に宇宙を漂うオウムアムアのような人間だが、恒星のような人々と巡り会えたことは幸運に思う。

 望めば望むほど底のない地獄に落ちるような気もしなくはないが、いつか輝く球になれたらと、そう願いつつ眠りに就くとしよう。