きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

相談される自分・信用に足らない自身

8/9 晴れ


 久々の日記更新。ツイッターで「小論文の書き方をブログにアップする」と言いながら、ブログ自体をまったく更新していなかった。ゼミ合宿に学会の抄録作成・院試の勉強と、様々に忙しかったので仕方ない(ということにしてください)。

 そろそろ、大学院での研究計画書も仕上げなければならない。こういったことをコツコツこなしていくのは別に苦ではないので、やることが多いような少ないような、微妙な心情の日々を送っている。

 


 私はなぜか、昔から人にプライベートな相談をされることが多い。

 今日もダイレクトメールで大学の編入試験にまつわる相談を受けたばかりだ。まっすぐ、本気で相談には応じたが、ご期待に添えたかはわからない。人の心に寄り添うのが苦手だと自負しているので、少し不安だ。これはカウンセラーを志望するのを諦めた一因でもある。

 それなのに、人からの相談を避けたり断ったりしないので、収集がつかなくなっている。実は、私は相談に乗るのは得意なのでは? と勘ぐってみた。苦手だが得意なことなど、この世にありふれている。結局、その答えは私に相談を持ちかけた人のみぞ知ることではあるが。他人から見た自分など、自身にはわかるはずもない。


 プライベートな相談と一言でいっても、私が持ちかけられる相談事には色々なバリエーションがある。

 先ほどのような、純粋に私の知識を求められるものから、純粋に私を信用して投げかけられたものまで、十人十色といった感じだ。

 前者の相談を人からされるのは、なんとなく理由がわかる。ツイッターでは知識人ぶってソフィストしぐさをやっているし、多少は本を読むのでそこに一縷の望みを見出す人もいるかもしれない。

 だが、純粋に人から信用される、という感覚が未だにうまく掴めていない。どちらの相談にも全力で向き合っているつもりだが、私の知識を“信頼”されるのはまだしも、理屈抜きに私自身が“信用”されるのは、なんだかむず痒い気持ちになる。悪い気はしないが、小恥ずかしい。


 相談に関連して、昔読んだ河合隼雄の本に載っていたエピソードを思い出した。

 河合隼雄がタクシーに乗ると、自然にタクシーの運転手が自分の身の上話をするようになり、しまいには心の奥底にあるようなことまで語り出す、というエピソードだ。

 「んな訳あるかスピチュアルクソジジイ」と、当時便秘で苦しんでイライラしていた私は、なぜかその本にキレ散らかした記憶がある。ユング派は嫌いではないのに、そういう逸話がなんだか気に食わなかった。

 こういったことは馬鹿馬鹿しいと考えていたが、大学1年生の頃から似たようなことを経験するようになって、参っている。自分の何が、人に相談をさせるのかがわからない。これは少し不気味だ。

 私は自身を“信頼”してはいるが“信用”はしていない。それなのに、まるで人から“信用”されているようなことが起こる。しかも幾度も。


 ここで少し“信頼”と“信用”の違いを整理しておく。

 大辞林によると、“信頼”は「ある人や物を評価して、すべて任せられるという気持ちをいだくこと」とある。一方で“信用”は「うそや偽りがなく、確かだと信じて疑わないこと」と書いてある。私の知識が評価されて、それにより持ちかけられる相談は“信頼”によるもの。それに対して、一人の人間としての私に持ちかけられる相談は“信用”によるもの、といったところだろうか。

 この意味で、まさに私は自分を“信頼”していても、“信用”していない。自分を“信用”しないということを私は間違ったこととは思っていない。頻繁にミスを犯し、物事への目が曇っており、所詮現在の視点でしか何かを語れない存在が私だ。現時点での自身の能力や知識を“信頼”して問題にアプローチすることはできても、自身を“信用”して物事に取り組むのは危険だ。私を“信用”しないとは、そういうことだ。


 それでは、人から“信用”されるのは何故なのだろうか。おそらく、コミュニケーション・スタイルに原因があると、私は睨んでいる。

 まず、私はあまり嘘をつかない。嘘を上手につける方がお得だと思っているので(人から「あれは実は嘘・ハッタリだった」と伝えられると、ショックを受けるとともに羨ましくなる)、個人的にこれは欠点だと思っているのだが、人の目にはあまりそのようには映らないようだ。どことなく、荒木飛呂彦の「おとなはウソつきではないのです。まちがいをするだけなのです」という言葉が思い浮かばれる。私が嘘をついているように見えるときは、ただ単にミスをしているか、全力で保身に走っているときぐらいだろう。嘘が下手くそなので、バレるときはすぐにバレるのだが。

 また、私は会話を相手中心で進めるということも、“信用”されやすくなる要因かもしれない。私は自分を語るのが死ぬほど苦手だ(語ったところで理解され難い、という諦観もある)。その苦手を直すために、ブログを始めたという側面もある。そのため、私は人に生活史などを語らせたがる。

 もちろん、相手の言っていることが理解できないというのは非常に哀しいことなので、理解のための努力は惜しまない。これまで多くの分野への知見を広げてきたのも、人の言っていることを理解したいからだ。私自身、人から理解されずに酷い気持ちになったことが数え切れないくらいあるので、他の人にはそんな思いをさせたくない、ということもある。知人らの期待に添えているかは分からないが。

 そんなこんなで、このようなコミュニケーション・スタイルによって、私は人から“信用”されているのかもしれない。もし、より単純に私という人間が“信用”に足る存在だったというのなら、それより嬉しいことはない。そうだったらいいな。いやないか。わからない。

 


 久々の日記だというのに、筆が乗ってだらだらとした長文になってしまった。ここまで読み上げる人も少数だと思うので、手短に文章を締めておく。

 院試まであと一ヶ月である。より多くの人に“信頼”、“信用”されるようなプロフェッショナルになれるよう、精進していこう。