きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

間違ってしまった僕らのために

10/16 晴れ


 台風の影響で人生初学会発表がおじゃんになってしまったので、ここ数日はモンハンをしたり、本を読んだりしてダラダラと過ごしている。

 学会に行くついでに、森美術館の塩田千春展や国立博物館の恐竜博に赴こうとしていたが、機会を逃してしまった。何というか、自分は予定の急な変更に脆弱であることを思い知らされた数日間だった。

 

 このままウダウダしているわけにもいかないので、卒論の構想を思い浮かべたり、実験の準備をしたりしている。

 やりたいことは頭の中にあるのだが、それを形にするのはめんどくさい。それは日記でも動画制作でも、研究でも同じことなのだろう。物を形にするのは、遍くめんどくさいのだ。

 


 「どうでもいいこと」でキレ散らかしている人が増えているように感じる。

 Twitterを眺めていると、台風への行政の対応であったり、裁判の結果であったりに怒っている人をやたらと見かける。ひどい場合はデマに対して調べることもせず怒り狂っている人もいる。

 私からすればすべてどうでもいいので、スルーするか、あまりにアホそうだったら二度と目につかないようにブロックをしている。

 こういうことを書くと、「世の出来事に関心を抱かないのは市民精神の欠如だ」とか、どこからか声が聞こえてくる気がするのだが、個人的にはそういったことも含めて本当に「どうでもいい」のだ。

 

 「東日本大震災の日から、僕らは疲れて続けている」みたいなことを書いていたエッセイストか何かがいたが、きっとそういうことなのだろう。

 台風で街がめちゃくちゃにされて、みんな疲れているのだ、たぶん。

 私はまったく疲れてないが。

 今日も元気に下ネタで爆笑したり、モンスターを狩り続けている。

 この種の鈍感さに自分自身これまで困らされてきたが、今は有利に働いている。

 


 怒っているとき、私たちはよく人が間違っていることを許せなくなる。

 それでRADWIMPS野田洋次郎はボコボコに叩かれたし、安倍晋三はもはや公衆サンドバックだ。

 

 怒っているときに間違いを叩きたくなるのは私もそうで、お腹がペコペコでイラついているときは、長文ツイートをしてまで世の中の話題を批評したつもりになったりする。

 だが、お腹いっぱいになってから冷静に振り返ってみると、自分もなかなか間違いだらけの存在であることに気がつく。

 精神障害者の真似をして笑いを取ったこともあるし、21歳になってまでお風呂でおしっこしてるし(湯船ではしてない)、エロゲをしているときに親にそれを見られてしまったことなんて数え切れないほどある。

 

 友人が私を「尊敬できる部分と完全に間違ってる部分がある」と評したことがあるが、まったくその通りだと、自分でも思う。

 真面目に遺伝子解析や実験をしている私と、意味不明な下ネタを連呼する私が奇妙に同居している。でも、そんな私自身が嫌いではなかったりする。

 いや、精神障害者の真似をしたのは今でも流石に反省しているが。シャワーを浴びながらメチャクチャ悔やんだ。悔やむと同時におしっこもしたけど。

 


 最近暇だったので、私的に好感度の高い人たちにどのような共通点があるのかを考えていた。

 「顔がいい」とか「頭の回転が速い」とか色々思いついたが、一番共通していた特徴は「どこかしら間違ってる」ということだ。

 なかなか失礼なことを書いているのは重々承知しているが、間違った部分があるのは悪いことでもなくて、その人の魅力にも繋がっていたりする。というか、そういう部分があることで、気を許しやすいのかもしれない。

 

 世の人は自分の間違っている部分をよほどのことがなければさらけ出さないし、そういう部分に無頓着である場合も多々ある。

 そんな中で、自分の間違った部分を見つめ続けてきた人というのは、なかなかに親近感が湧く。相手の方からすれば、勝手な親近感かもしれない。

 


 間違った部分があるからといって、その比較対象である「正しい人々」や「世界そのもの」が完璧なのかというと、そんな訳がない。

 「何が正しいか」の基準は文化圏や地域を跨げば瞬く間に違うものに変わってしまう。

 

 時間軸で捉えても、正しさの基準というのは非常に心許ないものだ。

 1960年までは女の人でさえ路端で当たり前のように立ちションをしていた。

 現代の判断基準で言えば、これに比べるとお風呂でおしっこをするほうがよっぽどマシだ。

 

 肝心の正しさの判断基準でさえ、「常に規範に従って正しいことをなすべきだ」とするカントの義務論と、「臨機応変に幸福が最大になるように振る舞うべきだ」とするベンサム功利主義は激しくぶつかり合うことが多い。

 どちらの「正しい」の意見も「正しい」のだから、最後は感情の衝突に行き着く。

 

 私個人は正義とか悪とかには微塵も興味がない。「私は間違っているのか」と思いながら、日常を過ごしているだけだ。自分が正義でも悪でも、どちらでもいいとさえ考えている。

 


 しかし、私たちがどこかの基準で間違ってしまっているなら、私たちにできることは「開き直り」しかないのでは、と思う。

 自分が間違っていると、悪であると知りながら開き直る。

 開き直りながらも、自分の欲するところをおこなう。

 それは混沌なのかもしれないし、理想郷なのかもしれない。少なくとも私にとっては、それは日々の暮らしと変わりないことは確かだ。

 


 タイピングのリハビリがてら、久々に長い日記を書いた。これで卒論にも楽々と取り組めるだろう。

 卒論では間違っている部分があってはダメなので、添削を繰り返しながら進めていこう。