きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

「走る」という行為を剥奪された“人類”なる愚かな種について

11/12 晴れ

 

 昨日にブラックコーヒーを飲みすぎたのが効いてるのか、今日は一日中テンションが高い。

 

 頭の中で卒論の構想や、小説での登場人物のやりとり、作りたい動画のシーンなどが終わりのない螺旋のように延々と廻り続けている。

 ぐるぐるぐるぐる。完全に躁だ。

 

 こうなると反動が怖い。

 長期休暇になると、毎度の様に鬱状態になり、世の中へのシビアな考えが止められなくなる。

 どうすりゃいいのか、まったくわからないので、今のうちに色々出力しておくか、と前向きに捉えて、ゲロゲロぶりぶりと文章を排泄している。

 

 何かを作るというのはウンコのようなもので、頭の中に留めれば留めるほど、考えが凝り固まって便秘のようになり、排泄することが難しくなる。

 かといって、思いついたものを直ぐに排泄しようとすると、思うように出力することができず、下痢のような惨事に成り果てる。

 

 ブログを書く際に、このプロセスは数え切れないほど経験してきた。

 完璧なバナナウンコの出しどころを見極めるのは存外難しい。

 

 ということで、文章にしろ比喩抜きでの排泄にしろ、ここ数日は便秘気味である。

 便秘を我慢し続ければ、過度に高まった圧力によってウンコがダイヤモンドに化けるかもしれない。

 そこまで待っている暇もないのだが。

 


 普段から歩くのが早いのだが、最近になって余計にそれが早くなってきた。

 早歩きなだけならまだしも、小走りになることも増えてきた。

 別に時間に追われているということも無いのだが、謎の衝動が抑え切れなくなって、己の意に沿わず走り出してしまう。

 

 走り出すようになってから気づいたのは、走ると妙な視線を他人から向けられる、ということだ。

 走っている私に対して、単に注意を向けるのみならず、異なるものを見るような視線を向けられているように感じる。街中で和服の人を見つけて、「うわー珍しっ」となるときと、ほぼ同質の目線だ。

 反対に考えれば、そのような視線を向けられるほど、「走る」という行為は珍しいものになっている、ということだ。

 

 朝、授業開始ギリギリの時間になっても、走り出す大学生は少ない。

 中学生や高校生の頃は、遅刻するかもしれない、という状況に追い込まれると、走り出す人が大多数だったのに(心理学をやっていると、このように主観的な意見を書き連ねることがだんだんと困難になってくる。「その意見に根拠はあるのか」と喚き散らす内なる声を飼い慣らしてしまうと、文章を書く上で非常に厄介な存在になる)

 

 年齢を重ねるにつれて、私たちはある意味で「走る」という行為を剥奪されてしまうのかもしれない。

 誰に剥奪されるのか、と言われれば、「社会」とか「他人の目線」とか、ありきたりなものしか挙げられないのだが。

 私はそれらを別に気にしないシャフテキ(社会不適合者の意)なので、走り続けているが。

 

 走ることは運動にもなるし、無駄な時間も削減できるし、メリットづくしの一石二兆鳥だ。

 逆に、多くの人が通勤・通学で走らない意味がわからない。

 もっと人類は走った方がいい。いや、宇宙の全生物は走るべき。

 


 実験がひと段落して、学校に行く用事もグンと減ってしまったが、運動不足解消と便秘対策のためにできるだけ日頃から走ろうと思う。

 大は小を兼ねる。大便の際に小便が出るように、走ることで私に様々な小さな特典がもたらされるはずだ。

 

 卒論提出まで、それこそ走るように時間が去っていくだろうが、上手くコケないように日々をこなしていきたい。