11/30 曇り
卒論を書いたり、小説を書いたりする予定だったが、結局一日中ダラダラしてしまった。
朝7時に起きて3時間ほどYoutubeで同人音声を漁り、ラーメン屋に行って、それから昼寝をしたら夜の6時になってしまった。
空の色が移り変わる早さに、体と頭が追いつかない。しかも、風邪気味だ。
日常が末端から腐り落ちていく。
小説を読んで物語の世界に入り浸るのは、その防腐剤になるだろうか。
大学生になってから貪るようにして読書をしているが、実は私は本を読むのがそんなに好きではない。
助長だし、体力を使うし、面倒くさいからだ。
それでも読書をしているのは、己の無知ゆえに生じる苦痛から逃れようとしているからだ。読書をするほど、自分の無知を思い知ることになるので、かえって苦痛を増幅させているきらいはある。このパラドックスを、かれこれ4年近く繰り返している。
読書は嫌いだが、小説を楽しむのは好きだ。
私は小学生の頃から図書館によく通うような人間で、そのころから万城目学や森見登美彦、恩田陸らの小説を読んでいた。
もっと汚い話をすれば、ワンセグ携帯を片手に毎晩眠りに就くまで、ネットのエッチな小説や、ショートショートを読み漁っていた。
この小説好きは中学生・高校生になっても続いた。
中学生ではブーン系小説やなろう系小説など、高校生になると村上春樹、筒井康隆らの作品をよく読んだ。
小説を読むのと同時に、作品を書くことも“それなりに”好きだった。
物語を生み出すのが好きになったのは、小学5年生の頃だっただろうか。
国語の授業で、教科書で学んだ作品の続きを考える、という課題が出された。
簡潔に言うと「親子がニジマスを釣りにいって、親子の中が深まる」という内容の作品だった。
ここで私は、「子供が成長して大人になって、『お爺ちゃんとの思い出』という形で、自分の子に対して語りかけている」という続きを書いて提出した。
ありきたりな話の締め方だとは思うが、これがどういう訳か、クラスで唯一の最高評価を教師からもらった。
それが嬉しくて、少しずつ私は日頃から物語を生み出すようになった、のだと思う。
物語は頭の中に収まらず、現実世界にまで拡張していった。
暇さえあれば、使い終えたプリントに物語を書き連ねた。
有志と組んで、退屈な授業をリレー小説で誤魔化したこともあった。
アイデアの結晶を圧搾して、指の先から垂れ流し続ける日々をしばらく続けた。
アイデアがアイデアを産む循環が、人知れず教室の片隅で回り続けていた。
そうしていると、物語が生活を侵食するようになった。
ものの理解の仕方も物語の筋に沿うことが多くなったし、この世のあらゆるものに意味があるように感じるようになった。実際は、そんなことはないのに。
そのうち、タガを外した癌細胞のように物語は無秩序な増殖を始めた。
それらを逃すために、「魔法のiらんど」に自作小説を投稿したこともあったし、「小説家になろう」に短編を投稿したこともあった。
これまでは、こんな状態では生活が立ちゆかないので、物語の栄養源である妄想を断つことによって解決してきた。
これと同じことを、大学の最後の学年になって繰り返している。
現在は長編小説を書いている最中である。
卒論を書くべき時期に、既に約6万字を書き終えている。
この熱がいつまで持つかは分からないが、ここだけの話5年は温めていた話なので、丁寧に扱っていきたい。
卒論は、もっと丁寧に扱いたい。
近頃、小説を書くときに「夢十夜」の第六夜をよく思い出す。
「なに、あれは眉や鼻を鑿(のみ)で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」という作中の台詞が想起されるのだ。
明治の木の中に、仁王像は埋まっていなかった。
土塊をこねて、仁王を真似た泥人形を作り上げるしかない。
だが、これが面白いんだと感じる。
この面白さを、忘れないようにしよう。