きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

ミニゴミ

1/10 晴れ時々曇り


 久々に日記を書く。新しい実験の段取りを始めたり、なろう系小説を書いたり、ドストエフスキーの著作をちまちまと読んだり、新年早々濃い毎日を送っている。

 これからは毎週卒論の発表会や口頭試問があるので、その準備をしなければならず忙しくなる。時間や労力のペース配分を考えて上手くこなしていきたい。

 

 卒論に関連したイベントが増えると同時に、これで大学生活が終わるのだと考えると、少し脱力した気分になってしまう。

 巷では「大学に行くのは無駄」だとか、そういった大学生活自体を否定するような言説があるが、卒業を前に控えて、私は大学に行ってよかったと心の底から思う。

 いっぱい恥ずかしいことや愚かなことをしたが、それを差し引いてなお、これまでに比べてウンと人生が楽しくなった。これはひとえに周囲の環境に恵まれていたからであり、私が四肢を広げてもがくことができるほどの許容と自由が大学という空間にあったからだ。そのことに感謝しつつ、2020年も大学院で頑張っていこうと思う。

 


 なんだか、文章を書くということが分からなくなってきた。もっと詳しく言うと、なろう系小説を書くということが分からなくなってきた。

 知らない人のために軽く説明しておくと、なろう系小説とは、主人公が異世界に転生や転移をすることをきっかけに、冒険をしたり国を作ったり好き勝手生きることをテーマとした小説のことである。いわば、エンタメ小説の一種だ。

 これを卒論期間中から私はコソコソと書き始めていたのだが、色々なことが分からなくなってきてしまった。

 

 まず、私の小説では主人公がそんなに強い能力を持っていない。

 「じゃあなろう系小説じゃないやん! それは努力・友情・勝利を元にしたジャンプ系や!」と言う人もいるだろうが、しっかりと異世界に転移し、冒険はするのだ。

 「じゃあなろう系小説か」と思うのだが、最初の十話ほどはまったくヒロインが出ないし、イチャイチャ要素もそこまで無いのだ。

 「じゃあなろう系小説じゃないやん! イチャイチャ要素のないなろう系はただのプロアクションリプレイや!」となるかもしれないが、しっかりとした登場人物同士の絡みはあるのだ。

 なんだか、書いててミルクボーイのネタみたいになってしまった。ともかく、なろう系小説が分からなくなった。

 


 なろう系を書くにあたって、辛いことが2つある。

 一つ目は、ファンタジー系の時代考証を練り始めると途方もない時間がかかる、ということだ。

 衣食住から地理、歴史、宗教まで、世界観の設定は多岐に渡る。それらを登場させるたびに、設定に矛盾が生じないか細心の注意が必要となる。なろう系小説を書くのは卒論の考察を書くのに似ていて、調べ物をしながら構想を練り、文章を少し進めて生じた矛盾点を修正する、という行為を繰り返すものだ。これを疎かにしてしまうと、そこに住むキャラたちの行動がギクシャクしたものになってしまう。

 「人間なんて元来矛盾に満ちた存在なのだから、それでいいじゃないか」とも心のどこかで思ってしまうのだが、それはキャラに失礼なので、こういったことをコツコツ繰り返している。


 二つ目に辛いことは添削だ。

 分かりやすい文章のためには言わずもがな添削が必要であり、一つの作品として公開する以上、読みやすい文章を心がけなければならない。このブログのような独りよがりの文章とは違う。分かりやすさを重視するなら、「プロアクションリプレイ」なんて指が裂けても書けない。それと同時に面白さも必要なので、パロディ的な要素もやっぱり必要になる。「なろう系小説を読む人間はどの程度の事物なら知識として持ち合わせているだろうか」等々、そういったことを考えながら毎度添削をしている。


 そんなことを毎日続けていると、ふとやる気の糸が切れることもあるわけで。

 最近では「吸血鬼の始祖」と書いていて、これがどう「真性包茎」と概念的に異なるのかが分からなくなった。通常の吸血鬼は仮性包茎みたいなものなのか? そもそも始祖だからといって他の吸血鬼と高級であるいわれがあるのか? わからない、わからない……

 


 所用があって、昨日に太宰の『ヴィヨンの妻』を読んだ。

 すると驚いた。文体は古いのに、情景が刻々と思い浮かべることができるではないか。「ここはダッシュを使うか、それとも3点リーダか」と悩んでいる私自身がひどく惨めに思えた。

 マスコミに対し、個人の自主制作物はミニコミと呼ばれる。マスコミのことを「マスゴミ」などと揶揄する言葉があるが、私の作っていたものは正しく「ミニゴミ」であった。(泣く)


 どんな文体であれ、力のある文章というのは存在する。その力の源の正体を知りたいがために、ドストエフスキーを読んだりしている。

 小説を書くことや、それを読ませるために努力することはなかなか体力のいる作業だし、こんなことに意味があるとも思えないが、そうしている。今の私は、自らの妄想に操られた自動書記人形というべきか。そのうち飽きてやめると思うが、まだ今は文章をうわ言のように垂れ流していたい。

 

 何かに打ち込んでいる状態から覚めてしまうのは辛い。今はまだ、夢を見ていたいものだ。