きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

もっと光を

2/4 晴れ


 1ヶ月ぶりのブログ。最近は卒論の修正をちまちま進めたり、本や論文を読んだりしている。

 1月の終わりから新型ウイルスが話題だ。街中を歩いている人に明らかにマスク姿が増えたのを見ると、感慨深いものがある。海を越えた先の国で起きた、まだ生活にあまり関係のない出来事が私たちの日常を侵食するという事態は、ここ10年でようやく起こり始めたことだろう。こんなことは、これまでの人類史では無かった。まったく、すごい時代を生きているなと思う。

 


 暇な時間が出来て、自分の生活の意義というものを考えるようになった。

 例えば、近頃はよく本を読む。だが、この読書の意義を考えても、しっくりくるものが思い付かなかった。そのせいで、本を読んでいる最中に「死ねば消える知識なのだから、身に付けたところで無駄なのでは」とか「もっと他にするべきことがあるのでは」とか、考えるようになってしまった。

 もう少し自省したところ、「私は読書をしているその瞬間が自体が楽しいから読書をしているのでは」ということに気付いた。案外、自分が思っているよりも私は単純に読書が好きだったらしい。


 今この瞬間を照らしてくれるのが読書の意義なら、それとは異なり将来から光が差し込んでくる意義というのもある。

 その典型例が就活だろう。お金を稼ぐことは将来のために重要で、それは現代社会においては疑う余地もない。そして効率的なお金稼ぎのためには、より良い就活をおこなわなければならない。このことは大学生であろうとなかろうと、自明なこととされている。就活を頑張れば将来は明るく光に満ちたものになる、と。

 

 だが、本当にそうだろうか? 

 就活の意義を考えるとき、私はいつも妙な薄ら寒さに襲われる。

 

 このような感覚を初めて味わったのは、大学1年生のキャリア・セミナーだった。

 そのセミナーでは人生を90年と仮定して、一生のキャリアが説明されていた。多くの逆張り大学生がそうであるように、私もそういう類いのセミナーが吐き気を催すほど嫌いだった。

 「将来のためにキャリアを設計するといっても、“将来”の先には一体何があるというのか。そこには何も残らないという事実から目を逸らすのは欺瞞じゃないのか?」

 そのようなことを感じた記憶がある。

 しかし、多くの人は“将来”の先のことなんてそもそも考えない。ナンセンスだからだ。

 それでも大多数にとって将来は輝いて見えるものらしく、セミナーを真面目に聴いている者も多かった。今この瞬間や近距離の未来のために何かをしていたい私は、キャリア設計とは水と油の関係だったようだ。

 

 今と将来。時間軸は異なれど、今の生活に意義を与えるという一点で読書と就活は共通している。

 おそらく、私が将来を見据えたキャリアに嫌な感触を覚えるのは、将来がとうに私を照らしてくれるものではないからだ。将来から光を投げかけ今を照らし続ける生活より、今この瞬間を刹那的にきらめくような生活の方が好みだった。そういうことだろう。

 


 問題なのは、今この瞬間を照らす意義でさえも最近は虚しく感じるようになってきた、ということだ。

 読書や勉強など、今この瞬間を照らす営みを行なっても、将来の先の暗闇がたちまちそれを覆い隠すようになってきた。

 こういう精神状態に一度なると、なにをするのも億劫に思えてくる。かといって、今以外に私を照らすものはない。自分の過去に、現在に意義を与えてくれる経験がある訳でもないからだ。一見、八方塞がり。

 

 きっと、この状況を乗り越えるためには、時間軸上に限らず空間的な意義も必要になってくるだろう。

 それは人や地域との繋がりだったり、社会における自分の立ち位置だったりするはずだ。これらは空間的なものながら、今の生活に意義を与えてくれるだろう。

 充足感のためには光が必要だが私は逆張りなので、社会貢献だとか地域の発展だとか、これらの事柄がキモく見えてくる。難儀な性格が一番損だと思うが、上手く付き合っていくしかない。

 生活に、もっと光を。