きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

脳裏上のベテルギウス

4/11 曇り
 大学院生活が始まったが、新型コロナによってバリバリと動くことが難しい状況が続いている。物理的にも、心理的にも。

 近頃は無理やり学校に行こうとして、親と喧嘩することが増えた。「進捗を生み出さねば」という焦りのままに研究室に向かえば、その1日は生産的に過ごすことができるのだが、自宅にいると己の怠惰によって人生を進めることが出来ない。不甲斐なさを感じるが、そちらにフォーカスを当ててしまうと精神的に良くないので、意識的にそういった内なる側面から目を逸らすようにしている。

 という訳で、メンタルヘルスはある程度健全に保たれたまま、世界的なカオスの下にあっても、落ち着いてほうじ茶を飲みながらこうして日記を書くことができている。どういう状況であれ、上手くやっていくしかない。


 「最後の人類になれるなら、それほど喜ばしいことはないけどな」。このような一文を中学生の頃に見かけたことがある。

 「ベテルギウスが爆発することによって、γ線バーストで人類が滅ぶかもしれない」という内容のスレッドがまとめられた記事を読んでいた時のことだった。そういった類の与太話がたくさん記事になっていたサイトだったが、過去の自分にとって、この文章だけがやけにキラキラ光って見えた。それは、自分自身が永い歴史の先端に坐している者であるという気づきを与えてくれたからだろう。永劫の歴史の終わりを目撃するということは価値のあることなんだと、この文に諭されたようだった。

 今思えば如何にも終末論的で、まあ当時の私はそうとう騙されやすい人間だったんだろうな、と思う。なにせ、マヤの2012年人類滅亡説を信じて、その当日には怯えきってずっとコタツにくるまっていたくらいだから。


 歴史は永いが、人の一生も相当に長い。それを新型コロナによって一変した日常の景色を眺めながら、しみじみと感じている。

 ペスト、天然痘、スペインかぜなど、これらの致命的な感染症に準ずるものが近年にも興っていたことを知ったのは、ここ最近のことだった。代表的なものは、香港風邪だ。これによって1968から翌年にかけて、およそ50万人が亡くなったと推計されている。“たった”50年前に、このような感染症が存在していたとは知らなかった。その他もろもろの疫病の存在を考えると、健康に過ごせば、私たちはほぼ確実に未知の伝染病とブチ当たることになる。ビル・ゲイツ「私たちが最も恐れるべきは伝染病だ」と語ったという話も、なんだか示唆的である。


 歴史は節目を刻みながらどこまでも続いていく。その様は春の日差しを感じ取った竹が伸びていく様を思い出させる。

 人文学界隈では東日本大震災を一つの歴史の節目と捉える動きがあったが、“次の節目”までは、どうやら案外短かったようだ。“その前の節目”は、オウム真理教阪神淡路大震災だった。約10年刻みであることを考えると、歴史は結構コロコロ流れが変わるらしい。

 現代は「変化の激しい時代」だとはよく言うが、まさかどこまでもラフティングのように激しいままだとは思わなかった。結局、時代の流れは(人間にとって)いつでも激しいものなのだ。


 新型コロナや地震に絶たれることなく、歴史は続く。職がなかろうが研究が捗らなかろうが、生活も続いていく。それはきっと、超新星爆発によってベテルギウスに世界が照らされることになっても変わらないのだろう。
 コロナとは、本来は「王冠」と言う意味を持つ語である。そして、ヘブライ語で「王冠」は「KETER」である。全くの偶然だが、人類の脅威にうってつけの名前だと思う。

 また、太陽の最も外側にあるガスの層もコロナと呼ぶ。

 640光年先のベテルギウスに、コロナはまだあるだろうか。遠い星のことを考えながら、今日は眠りにつくことにする。