きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

憎い醜さ、愛してる

4/23 曇り


 生活がズタズタになったので、進捗が狂いつつある。何も手につかなくなった。勉強をしようと思ったり、論文を読み始めた途端に眠くなってしまう。話の流れを体系立てて文章に起こすことすら難しくなってきた。
 なので、執筆のトレーニングがてら、こうして日記を書いている。ともあれ、だらけきった習慣は手軽なことから始めて、上手くチューニングしていくしかない。論文を読むのが苦なら、まずは講談社ブルーバックスくらいの文章を読めばいい。論文執筆が進まないなら、生まれるものが拙文でもいいから手を動かせばいい。私はいつもそうしてきた。今回もそうするつもりだ。小難しいことを為すには、簡単なところから梯子を架けていくことが大切だから。


 リフレッシュがてら、高校生の頃の日記を読んだ。まあ、当時の生活の酷さがうかがえる内容だった。「稲荷神社に参拝して狐耳の幼女を見つけたい」など、今と遜色ないような内容のものも多かった。「私はちゃんと成長できているだろうか」と不安になってくる。
 過去の日記というのは、その時のリアルタイムな感情がダイレクトに書かれていて、なかなか凄まじいものがある。負の感情も正の感情も、豪速球で心中に飛び込んでくる。
 「理不尽な目にあって涙が出た」とか、そういう記述もあったから驚いた。なぜ私が泣いたのか、思い出せない。思い出そうとすると胸がざわついて頭が痛むし、感動によるものではないのは確かだ。
 そのうち、自分のこれまでの人生を振り返った自伝を若いうちに一度書いてみたいのだが、それを公開することによって周囲の目線が変わってしまうことに怯えている。あまり良い過去でもないのだが、今のうちに何処かに書いておかないと記憶はみるみるうちに色褪せて、まったく別のものになってしまうだろう。それはそれで勿体ない気がする。
 こういうことをグルグル考えることは、自身が有限で、弱い存在だということを直視するのと同等なので、精神的にキツい。もしかしたら、私は自分の弱さがあまり許せない人間なのかもしれない。それもまた、一つの弱さなのだろう。


 醜さを愛せ。『リーガル・ハイ』というドラマの2期終盤の台詞だ。この台詞が最近は頭から離れてくれない。
 きっと、それはTwitterで惨い光景を眺めすぎたせいでもある。千里眼を持ちあわせているキャラクターが大抵捻くれ者であるのが何故なのか、少し理解できる。なにせ、TLという比較的狭い世界の出来事の潮流にさえ、私たちの感情は押し流されてしまうから。相当捻くれてないと、TLはとても直視できない。
 他人の激情や過激な言動をいちいち真正面から受け止めていると、こちら側はそのうち耐えられなくなる。鉄球を投げつけられるブロック塀のようなものだ。特に正直な人ほど、SNSの環境や新型コロナが跋扈している現状は辛いものがあるだろう。
 そんなときだからこそ、「醜さを愛せ」という台詞が光る。人間は弱いし愚かだし、醜い。しかし、「それでもいいじゃないか」と、人間のダメなところを認めて、受け入れる寛容性が必要なのだろう。

 それに、そうじゃないと面白くない。全員が強くて聡くて清らかな世界など、勘弁してほしい。漫画版ナウシカの最後も、確かそんな展開だった。


 いろいろと大変な今だからこそ、寛容であることの大切さを認識していきたい。カウンセラーでなくても、自分や他者に無条件の肯定を示すことはできる。弱さも醜さもイヤなものだが、それらの存在を否定するのではなく、無条件に受け入れることができれば、ずっと生きやすくなるだろう。

 イヤなものでも存在していていいのだと、そういう姿勢でコロナ後になっても日々を過ごしていきたい。

 でも、適度に進捗は生まないと。テヘッ。