きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

ファッキンボーイ・ミーツ・ジーニアスガール

5/13 曇りときどき晴れ


 論文を書いたり、久保『データ解析のための統計モデリング入門』を積み重なった本の地層から掘り出して読み始めたり、そこそこ進捗を生めるようになってきた。しなければならないことや勉強したいことは沢山あるので、何気に忙しい毎日である。

 Scholar(学者)という語は、もともと古代ギリシア語で「暇」という意味だったらしい。大学院生は学者の卵であり、すなわち暇人の卵でもある訳だが、近頃は必要以上にセカセカしているので、どうやら立派な暇人として孵化はできなさそうだ。ある程度タスクをこなし終えて、無事暇人として生まれ変わることができたのなら、美少女の姿を脳のシワというシワに刷り込んで、一生その子についていこう。

 


 私は天才美少女が好きだ。かなり昔から、天才美少女に一度お目にかかりたいという願望がある。

 高校生の頃の日記を読み直したところ、その旨が書かれていて今更ながら驚いた。さらに内心に秘めたことを言えば、天才美少女に論戦を挑んで、全力を尽くしてなおボコボコに言い負かされたいという欲望を中学生の頃から抱き続けている。

 この欲望が、これまで満たされたことはない。悲しいことに、その原因は私にある。論争に全力で挑む度胸が無いのもそうだが、天才美少女に易々と会える環境に身を置けるほど、私自身に実力がないからだ(涙)。

 あとこれは余談だが、「天才美少女」でググるとトップに「天才美少女生徒会長が教える民主主義のぶっ壊し方」という本がAmazonに売られているのが出てくる。あんまり、天才美少女には民主主義をぶっ壊してほしくない。なんか、民主主義なんかよりもっと良いものをぶっ壊してほしい。NHKとか、通天閣とか。


 なぜ突然、天才美少女について語り始めたかと言うと、彼女らと真っ当に接することの出来る時間が、もう既に限られたものになっていることに気づいたからだ。私は今年で22歳。一方で天才美少女は15歳から22歳(個人の感想です)。このままボーッと「あー天才美少女に論破されたいな」と煙を巻いていたら、あっという間に30代、40代になってしまう。

 そうするともう、天才美少女と運良く巡り合えたとしても、オッサンになった私が彼女らに関わろうとすればセクハラだ。私はロジハラを彼女らから受けたいだけなのに。いつの世も、キモい願いを叶えるのは難しい。


 結局、天才美少女と巡り会うためには、自分自身が彼女らのお眼鏡に適うような実力を身につけるしかないのだ。そうすれば自ずと星は巡ってくる。孫正義財団のホームページに載っている人たちの経歴をヨダレを垂らしながら眺めるのはやめて、私も奮起して勉強をするのが吉だ。

 今日からベイズ統計の勉強を再開したのも、そんな理由がちょっとだけある。こういう薄汚いモチベで勉強したら、メチャクチャ学習が捗った。最高に最悪だ。


 実は、「天才美少女に会うために自分自身が賢くなる」という方法は、一種のパラドックスを抱え込んでいる。私が勉強するほど、天才美少女だと私が個人的に考える能力の閾値がドンドン上がって、結果として巡り会うことの出来る確率が下がっていくのだ。世間的に「天才」ともてはやされる東大生が、実際東大に入って才気溢れる人間と出会って意気消沈しているのを見ると、恐らく天才であることの閾値はそれを見る人自身の能力によって簡単に上下する。タブンネ

 これを避けるためには、「自分がさも秀才であるかのように見せかけるスキルだけを身に付ける」という方法があるが、これはなんか嫌だ。平常時でさえソフィスト気味なのに、これ以上フェイク野郎になってしまったら本当に歯止めが効かなくなる。

 濁った水の湖は往々にして深く見えるものだ。こういう手合いは何人もいて、実際に天才美少女を周りに取り囲んでキャッキャしている輩も見かけたことはある。だが、そうはなりたくないので、キィー! とハンカチを噛む古典的な悔しがり方をして、立ち去るしかない。


 今日の日記は、久々に取り止めのない文章を書けた気がする。実は、こういうバカっぽい文章は、新型コロナが跋扈しているような非常時には書くのが難しくなる。こんな文章が書けたということは、私のメンタルヘルスも向上して、日常が好転してきたということだろう。

 好転した気分をコネコネしつつ、天才美少女に出会える日を、首を長くして待っていようと思う。待ちきれなくなったら、アマゾンの奥地にでも天才美少女を探しに行こう。Amazonの奥地では、民主主義をぶっ壊す系の天才美少女にしか出会えないだろうから。