きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

コウモリにはなれない

7/12 曇り


 雨ばかりの日々が続く。もうしばらく、日の光を浴びていない。
 根暗な空模様のせいか、些細なミスで精神がヘタるようになってきた。そこで、「セントジョーンズワート」というサプリメントを飲み始めた。

 「セントジョーンズワート」とは、西洋弟切草のことだ。どうやら、軽・中程度の抑うつには効果的らしい(Google Scholarで調べればすぐにメタ分析の論文が出てくる)。しかも、20日分で600円ほど。とても安価だ。寝る前に半日分を飲んでから寝ると、これまで頭の中でネガティブな思考が堂々巡りしていたのが少しマシになった。

 弟切草は魔よけのお守りとしても、海の向こうでは用いられているらしい。そう見るとなかなかに縁起がいいのだが、花言葉は「迷信・敵意・恨み」と、仰々しい単語が並んでいる。きっと、「呪い」と書いて「のろい」とも、「まじない」とも読めるのと同じようなものなのだろう。

 


 近頃は「人間の想像力などあてにならないのではないか」と思うことが増えた。それは、今流行のBlack Lives Matter運動や、Twitterでの男女の価値観の違いなどを眺める時間が増えたからなのかもしれない。その他にも、COVID-19での「夜の街」に対するものであったりと、いくらでも想像力の欠如に関する問題を挙げることができる。

 単刀直入にいうと、「他者に対して想像力を呼び起こすことが、そもそも私たちにとって理不尽なレベルで困難なのではないか」という疑問が頭にこびりついて離れないのだ。


 哲学者トマス・ネーゲルの有名な問いに「コウモリであるとはどういうことか」というものがある。

 私たちは擬人的な見方で、つまり人間という視点から「コウモリであるとはどういうことか」をある意味では理解できるかもしれない。「虫が飛んでいる。食べちゃうぞ」とか。

 しかし、コウモリ自体の視点に立って、コウモリにとっての「コウモリであるとはどういうことか」を理解することは困難を極める。その理由は考えてみれば簡単で、人間はエコロケーション能力や飛行能力など、コウモリの意識体験を支える重要な要素を併せ持っていないからだ。また、コウモリが人間に比べて中枢がすごく小さいという、どうにもならない理由もある。ユクスキュル風に言えば、人間はコウモリが自身を取り巻く世界をどのように「理解」しているかを読み解くことすら難しい。ここでは、他者の意識体験理解の困難さは、主に生物学的な要因によって規定される。


 これに加えて、「他者を理解することの困難さには、生物学的な要因のみならず社会的な要因も関わっているのでは」と、ふと思うようになった。

 Black Lives Matter運動を例に考えてみる。これを読んでいる人のほとんどは日本人の黄色人種であり、ほとんどの黒色人種とは社会的に異なる状況下で暮らしているだろう。生物学的な差異はさておき(炎上するので触れない)

 


 ここで、飽きた。

 要は「他者への想像力が喚起される背景には、その他者に関連する経験の大小が深く関わっている」ということを言いたかった。


 「We are the world」を聴きながら、このブログを書いた。

 元々はエチオピアでの飢饉をきっかけに作られた曲らしいが、その歌詞とメロディは35年たった今でも色あせない。

 COVID-19が流行しているこのご時世、「We are the world」を再収録しようという動きもあるようだが、ウイルスの特性から歌手が集まることが難しく、進捗は芳しくないらしい。

 

 夏の夜は浅い。今日も弟切草を飲み込んで眠りに就こう。