きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

ブランド・ニュー・ワールド

4/2 晴れ


 超久しぶりの日記。御堂筋線で事故があったため、喫茶店に寄ってこのブログ記事を書いている。しばらく日記を書いてないうちにも、お尻から鮮血を噴き出して内視鏡検査を受けたり、23歳になったり、昨日には修士2年になってしまったりと、色々なことがあった。
 
 昨日、寝坊したので研究室に行くのを休んで、学振の申請書に載せる研究計画を練り上げるために論文を読み漁っていた。今年度から「研究者として必要な素質」等々、申請書において自己分析的な項目のボリュームが増したので、そちらのことについても片手間で考えていた。自分が研究者を志した理由や、そのために何をおこなってきたのかを思い出すために頭を捻っていた。こういう、自身の行動原理の「そもそも」を考えるとき、後付けの理由を気づかぬうちに生み出してしまっていそうで、すこし怖い。
 一年後の自分をまったく想像できないように、一年前の、経験したはずの自分ですら、想像することが難しくなってしまっている。この一年間、日記をあまりつけていなかったからだろうか。知らず知らず、自分を見失わないために、私は日記を盲目的に書き続けていたのかもしれない。


 研究者を志した理由の一つに、心地よく日々を過ごせる環境に身を置きたかった、ということがある。身体的な暴力や怒声を浴びせられるとすぐ泣き出すクソザコだが、それ以外の精神的なストレスには他の人と比べて強い。私はそういう、歪なメンタリティの持ち主である。なので、学部生の頃からアカデミアの空気は肌に馴染むということを薄々感じていた。
 実際、大学院に入ってから、すこぶる快適に生活することができている。その分、知らないうちに周囲の人々に負担をかけているのかもしれない、が。


 しかし、この修士の一年間で、アカデミアの違う側面を垣間見ることもできた。その側面とは、それぞれの研究者にも絶対に譲れない感情的な信念があって、時にはわかり合えないこともある、ということである。
 かつては、教養を深め他者への理解を追い求めれば、おのずと偏見や分断は解消されみんなハッピーに共に生きられるものだと、そう思っていた。この幻想に、小さな亀裂が入っていたことには、学部生の後半から気付いてはいた。だが、大きく幻想が打ち崩されたのが、この一年だった。
 どんなに素晴らしく面白い書籍や論文をしたためることができる人であろうと、学識深く平等と他者理解を唱えるリベラルな思想の持ち主であろうと、信念が異なれば対立し、罵倒のうちに関係が決裂することもある。そういう光景を修士1年で数多く目撃することができたのは、きっと私にとって幸運だった。何処まで遠くに行ったって、どんなに広い世界を眺めていたって、人間は変わらない。人間はやめられない。それがなんだか、嬉しかった。
 偏見や不理解はネガティブなものとは限らない。私にも、アカデミアに対する「公平で理知的である」という偏見と、「憧れ」という不理解があったのだ。きっと、こういう光のベールを脱がしたときに、物事は前へと進んでいく。思い返せば、ストレスなく日々を過ごすことより、「本当のこと」を見つけることの方がずっと昔から好きだった。私の原点は、きっとここにあるのだと思った。
 
 今日から研究室での新しい日々が始まる。昨日ゆっくり休憩したおかげか、体調はすこぶるいい。
 どんなに居心地のよい環境に身を置こうが、面倒なしがらみは起こる。きっと失敗することもある。そんなダメな私も、何年経とうが大きく変われないだろうし、私自身を辞めることもできない。

 それでも、一つ一つ丁寧にベールを捲って、「本当のこと」を見つけにいくことはできる。原点に立ち返って、一歩ずつ前に進んでいこう。