きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

誰でもできる!10000RT—基礎知識編その1:Twitter再入門

 皆さんが日々なんとなく使っているTwitter。ある人は友達同士の交流に使い、またある人は情報収集のために使い、さらにある人は人知れず愚痴をこぼすために使っています。様々な利用法をされているこのサービス、そもそも一体どのようなものなのでしょうか?

 

Twitterとはどのようなものか?

 WikipediaにはTwitterについて

Twitterは、『ツイート』と称される140文字以内の短文の投稿を共有するウェブ上の情報サービスである」

「緩い『繋がり』(人間関係)が発生し、広い意味でのソーシャル・ネットワーキング・サービスSNS)の1つといわれることもあるが、Twitter社自身は、『社会的な要素を備えたコミュニケーションネットワーク』(通信網)であると規定し、SNSではないとしている」

と書かれています。

実際、140文字以内で投稿する・社会的な繋がりが生まれるということが、他のSNSには見られないTwitterの最大の特徴です。

 

 Twitterでは、フォロー・フォロワーという目に見える数値が繋がりを生み出し、RT・お気に入り・リプライという機能が情報の共有や評価を促進します。これだけならFacebookなどの他のSNSでも見かける機能です。

しかし、140文字という制限が他のSNSと差別化される要素となっています。この制限のおかげで、よりユーザーは気軽に自分の身の回りのイベントや、自分の感情を投稿することができる訳です。Twitterという語を和訳すると「さえずり・無駄話」という意味になりますが、それはこの特徴のことをよく表現していると言えるでしょう。

 

 気軽にツイートできる結果として、Twitterでは情報の流れが加速していきます。FacebookInstagramのタイムラインを『川』に例えるなら、Twitterのタイムラインは『滝』になぞらえることができるでしょう。それほどまでにツイッターのタイムラインの流れは他のSNSと違い速いのです。有事の際にはTwitterがよく活用されていることから、情報がいかに速いかが伺えます。

 

パノプティコンシノプティコン

 さて、ここまでTwitterは他のSNSより情報の流れが速く、社会的な繋がりが強いということを説明してきました。

これらの特徴に起因して、ユーザー間でどのような現象が発生しているのかを次に話します。Twitter内での人間関係を考えることによって、よりRTという機能がどのように作用するのかを知ることができるでしょう。

 

 ユーザー同士はTwitter内で互いにフォローしあうことによって、情報の共有を行うことができるようになります。基本的に他者にフォローされるということは、その人に自分がある程度の興味を持たれているということの指針となります。

相互フォローが進むと、現実世界の友人同士・ネット上で同じ趣味を持っている人といった、自分が興味を持っている・持たれている人でタイムラインは溢れかえることになるでしょう。

 

 この状況はさながら、哲学者であるミシェル・フーコーの唱えた『パノプティコン』を彷彿とさせます。パノプティコンとは、ジェレミ・ベンサムによって構想された刑務所の形態の一つです。和訳すれば「全展望監視システム・少数による多数の監視」という意味になります。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ac/Presidio-modelo2.JPG

 

 画像を参照してくだされば分かるように、パノプティコンでは、囚人達はそれぞれ個室の独房に入れられます。独房は円形に配置され、それぞれの入り口は円の中心に向けられています。円形の牢獄の中央部には監視塔がそびえ立っており、そこから各独房の内部が見えるようになっています。これに対して、囚人の側からは監視塔の内部をうかがい知る事ができません。それゆえ、実際に監視されているかどうかにかかわらず、囚人は常に監視されている意識を持たざるをえなくなります。囚人は監視の目を内面化して行動するようになり、自ら行動を律することを迫られます。

 

 フーコーはこのパノプティコンを例に挙げ、「近代社会はルールに自ずと従わなければ生きていけないようになっている」ということを論じました。確かに、Twitterではタイムラインを眺めていても(お気に入り登録など、何らかの反応を起こさない限りは)投稿者に見られていることが分からないような仕組みになっています。

 

 もし、あなたが相互フォローの人々の間でまかり通っているルールに反したツイートを見かければ、きっと憤慨するでしょう。ヤンキーがヤンキー仲間のヲタクっぽいツイートを見かけると「何だこいつ!?調子に乗りやがってキメェ」と不快感を覚えるのと同じように、ヲタクがヲタク仲間の攻撃的な内容のツイートを見かけると「ブヒィ!こんな非常識なツイート、拡散してやる!」となるのと同様にです。私たちは自分の属する文化のルールに従い、タイムラインを監視しているとも言えます。

 

 ところが、この状況は逆に「私たちがフォロワー全員に監視されている」と言い換えることもできます。トマス・マシーセンの言葉を借りれば「シノプティコン」——多数による少数の監視です。私たちがタイムラインの大人数を監視できるように、私たちはタイムラインの大人数によって監視されているのです。

このことは非常に意識しにくく、炎上ツイートが毎日のように発生する一因にもなっています。監視者の存在を意識しにくいというのがデジタル媒体全体の特徴でもあるのです。私たちもルールに従わなければいけない以上、Twitterは決して自由につぶやける場所ではありません。ツイートは監視されているものだということを覚えておきましょう。

 

 Twitterが監獄と違うのは、監視者が監視対象に対してリアクションを起こすことが可能な点です。お気に入り・RT・リプライ……リアクションを起こすための道具がTwitterには多く備えられています。

中でも、RTは任意でより監視者を増やせるという特性を持っています。RTされるたびに、監視者は倍々に増えていきます。10000RTを超えれば、監視者は数百万人にも膨れ上がるでしょう。これらの非常に膨大な数の監視者にRTさせるために、ツイートでどのように働きかけるのかということがRTを得る際には重要になってくるのです。

 

 今回はこれまでです。次回はTwitterに渦巻く『欲望』について話します。

 

○参考文献

https://www.amazon.co.jp/監獄の誕生―監視と処罰-ミシェル・フーコー/dp/4105067036

https://www.amazon.co.jp/いま世界の哲学者が考えていること-岡本-裕一朗/dp/4478067023/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1484482751&sr=8-1&keywords=世界の哲学者

誰でもできる!10000RT—はじめに

 皆さんこんにちは。金こんにゃくです。

 

 私は高校生の頃、「〆まんなん」というニックネームでTwitterをしていました。

 このアカウントは、最盛期にはフォロワー80000人を超え、毎週のようにうん千・うん万という凄まじいRT数のツイートを連発していました。全ツイートの累計RT数は25万を優に超えています。

そのほかにも、フォロワーさんに200枚以上オリジナルキャラクターのイラストを書いてもらったり、1000人ほどのユーザーの団体の団長をしていたこともありました。まさに若気の至り、チ○毛の至りです。当時の私はTwitterに青春を捧げていたようなものでした。

 

 しかし、受験戦争の波に飲み込まれ、Twitterガチ勢を続ける気力を無くした今では、「〆まんなん」のアカウントがネットの大海に寂しく浮かんでいるのみです。いつの間にか団体は解散し、私のアカウントは皆に忘れ去られてしまいました。私の青春は塵と化したかと思われました。

 

 それでも、私の脳内にはTwitterガチ勢時代のノウハウだけはこびりついたままでいます。

このノウハウを無駄にはしたくない。私の青春を価値あるものにしたい! 

そこで私は思いついたのです。「私の青春で生み出してしまったこのロクでもないノウハウを後世に伝えよう!」と。

 

 正直、先に述べておきますが、ツイートが何RTもいったところで身元に一銭も入りませんし、彼女ができる訳でもありません。自己愛・承認欲求が満たされるくらいしか利点はありません。これは私が過去に痛いほど経験したことです。

さらに、データは正確なものを使用するために尽力しますが、『ノウハウ』という通り、以下の方法を実践したとしてもツイートが100%伸びる保証はありませんし、科学的な根拠もありません。偏見とステレオタイプもわんさか盛り込んでいます。

 

 これらを踏まえてなお、「人生に一度はものすごい数のRTを経験してみたい!」と考える人に、この雑記を見てもらえれば幸いです。もし、全て読んでもらえることができたならば、100%とはいかなくても、プロ野球選手の打率よりはツイートがヒットすること間違いなしです。それだけの自信が私にはあります。10000RTのホームラン目指して、みなさん頑張っていきましょう。

 あ、あと不定期更新です。

 

 全体の流れとしては以下のようになっております。変更等はあるかもしれませんが、大筋以下の通りで進行していきます。

 大きく分けて、基礎知識編・実践編・応用編の三部で論じます。

 基礎知識編では、Twitterとはそもそもどのようなサービスなのか、数多くのRTを獲得するツイートはどのようなものなのかといったことを話します。個人的見解から学術的な研究まで参考にし、広く深くTwitterとはどのようなシステムなのかを説明します。

 実践編では、基礎知識を踏まえていざツイートをする段階に移ります。どのようなアカウントがいいか、文体はどうすればいいかなど、RT数の多いツイートがどのように生まれるか話します。ここは完全な経験談です。自分のツイートを引用したり、他人のツイートを紹介したりしながら論じます。

 応用編では、私が多用していた小手先の技術を話します。綺麗なテクニックから、ドス黒いスキルまで、丸裸でお送りします。パクツイ・炎上なんでも御座れの『汚いTwitter』をご覧あれ。

 

 さて、それでは早速基礎知識から話していきましょう。あなたのTwitterライフに幸多きことを願って。

 

日記:恐ろしき穀物

1/11 晴れ 

 日付がゾロ目。なにも書くことのない素晴らしい一日だった。平成が終わろうが、アメリカの大統領が変わろうが、私の日常にはあまり関係がない。

溢れんばかりのパワーを発散する場所を探しに一人で色々なところに赴いたりするが、なかなか刺激のある出来事には恵まれない。このままではエネルギーが溜まりまくった挙句にオーバーヒートしてしまう。行き着く先は迷走。それだけは避けたい。

 

 私は米が好きだ。日々の活力の源になってくれるし、様々なおかずにも合う。

一時期、炭水化物制限ダイエットにより米には逆風が吹き荒れたが、そんな風潮にはビクともせず、日本を含む世界各国の主食という偉大な地位を守り続けている。

穀物繋がりで言えば、小麦も米に劣らず世界的な主食の一つである。主にパンやパスタといった形でこれまた世界中で愛されている。

私もパスタはめちゃくちゃ好きだ。保存がきいて、安くて、作りやすくて、美味い。万能な食べ物だと思う。

 

 米を食べている時、恐ろしいことに気が付いた。「私たちは穀物を利用しているのではなくて、穀物に利用されているのでは?」という考えが頭をよぎったのである。

古来より、私たち人類は米を含む穀物を有効的に活用してきた。東南アジアに原生していた米や、西アジアに原生していた小麦の栽培を始めたことから、都市国家が形作られ、現在の世界に繋がっていったことは言うまでもない。これらの穀物無くして人類の繁栄はあり得なかっただろう。

人類のおかげで、穀物は世界で最も繁栄している植物になったとも、逆説的に言えるだろう。今や地球は米の水田、小麦・トウモロコシの草原、イモ類の畑に覆い尽くされている。

 

 現在の視点から見れば、間違いなく穀物は最悪の外来生物の一つとみなされるだろう。その有用性ゆえに、穀物が育ちやすい環境を人類が作り出すことを誘発したからだ。

日本では水田を作るために森が切り崩され、ヨーロッパでも畑を作るために想像できないほどの樹木が伐採された。今でも、世界では穀物を作り出すために熱帯雨林が切り開かれ、数々の種の存続、生物多様性が脅かされている。

穀物がなければ私たちの生活が成り立たないことは自明である。日本語でも、『ご飯』とはお米自体のことも指す。米とともに日本社会は発展してきた。これは世界各地の穀物でも同様である。もはや人類は穀物に依存しているといっても過言ではないかもしれない。

 

 ライ麦という穀物がある。この穀物は、もともとコムギ畑の雑草であったものが、コムギに似た姿の個体が除草を免れ、そこから繁殖した個体の中から、さらにコムギに似た個体が除草を逃れ、といったことが繰り返され、よりコムギに似た姿へと進化したものだ。さらに環境の劣悪な畑では、コムギが絶えてライムギが残り、穀物として利用されるようになった。

この例は明らかに、穀物の種の存続という目的に人類が利用された典型例である。

他の穀物も、人類が気にいるように、栽培化されてからはより大きな身をつけるようになった。人類が意識的・無意識的に選択した結果であれ、穀物は人類に種の未来を託したことにより、大きな成功を収めたのだ。

もし人類が原始的な穀物を食い尽くしていれば、間違いなくこれらの種は絶滅していただろう。しかし、知能が発達していた人類は穀物との奇妙な共存を選んだ。一定数の種を残す代わりに、人類が食物としてこれらを利用するという穀物の偶然に仕掛けた賭けに、私たちの先祖は乗ったのだ。

穀物は今も増加を続けている。最近ではバイオエタノールといった食とは別の面の有用性も見えてきた。この奇妙な共存の行き着く先は、人類と穀物が極限まで増え続けるか、ある一定数でどちらも減少を迎えるかだろう。どちらに転ぶかはまだわからない。

 

 日記を書いて入る最中に、数年前、ドロドロになった米とオレンジを混ぜた謎のフランス料理を食べたことを思い出した。

文化が違えば穀物の活用法も違う。形を変えて、穀物は世界を渡っていくのだろう。これまでも、そしてこれからも。

初めて体験した異文化の味は、ひどく甘かった。

日記:成人式に行くのが嫌な理由

1/9 曇り 

 成人の日である。二回生や浪人生が地元の成人式に赴いている。

私も来年には成人式に出席するかもしれないと考えると、自分がここまで年を食ってしまったという事実に愕然とする。

小学生低学年の頃から、私は自分が二十歳になるまでに死んでしまうのだと思い込んでいた。しかし、現在18歳になっても、どっこい生きてる。早死だけはしないように心がけたい。同年代程度の著名人などの訃報を聞くたび、身が震える思いだ。

 

 短い人生を振り返っていると、私はいつも過去の自分をバカにしているような気がする。正直、今の私も、大学の春休み以前の自分をバカにしている。おそらく、来年の私も今の私を嘲笑しているのだろう。

というのも、後から振り返った自分の行動が、あまりにもバカだからだ。

15歳以前の頃にいたっては、自分自身が自我を持っていたかということすら怪しんでいる。今のような精神が形造られてから、実質3年しか経っていない、と信じてしまっているのだ。物事を段取り立てて行ったり、論理的な思考がある程度できるようになったのは、ほぼ最近のことだと思う。それまでの私は生きる妄想製造機だった。今の方が断然「生きている」という感じがする。やはり妄想のしすぎは体に毒だ。

 

 成人式関連のニュースを見ていると、ヤンキーには自我がないのでは? と考えてしまう。

逮捕されるまで暴れたり、無駄に派手な格好をしたり、どういった論理でこのような行動を起こすのか全く理解できないからだ。だが、ヤンキーはそこに意味を見出しているから、このような行動を起こすのだろう。

私の論理とは別の世界に住んでいるヤンキー達。彼らと触れ合い、「理解できない」と悶々としたくないので、成人式には乗り気になれない。

 

 もう一つ、成人式に行きたくない理由がある。

それは、成長した中学時代の同級生たちの社会階層が浮き彫りになっているのではないか、という不安があるからだ。

子供を持っている人もいるだろうし、ドカタになっている人もいれば、ひょっとしたら、亡くなってしまっている人もいるかもしれない。自分としては、小中の6年間で自分の少年時代に一つの区切りをつけているので、その後を知るのが嫌なのだ。

今の日本社会を眺めてみれば、ド底辺から官僚までいるので、格差ができるのは当たり前だ。しかし、ド底辺になってしまった同級生を見てしまったら、人生の分かれ道を進みすぎて、その分かれ道が二度と合流することはないのだと悟ってしまうだろう。ヤンキーとは二度と合流しなくてもいいが、まあまあ仲の良かった人がそうなっていたら悲しいと思う。

あいつはどうなってるかな、という想像の余地がなくなるのが怖いのかもしれない。

あ、あと卒アルに可愛い女の子があまりいなかったから行く気になれない。

 

 こうして、私が日記を打ち込んでいる間にも、ヤンキーは子を孕み、IT土方は終わりのない残業に追われているだろう。こういう想像をするだけならいいのだが、実際に子を孕んでいたりしたらビビる。

たった三年という月日で、人は恐ろしいぐらいに変わってしまう。そして、大抵は悪い方へと変わってしまう。悪化してしまった同級生。そして、彼らを通して悪化してしまった自分を直視するのは、なかなか勇気のいることだ。成人式には誰かに誘われたら行くことにしよう。

 

 

日記:ガチで幸せになる方法

1/5 曇り 

 図書館が開いたので、早速特攻した。

家と違って、大学は勉強する環境が整っている。読書のペースも三が日の頃より好調だ。本の内容が頭にどんどん入ってくる。脳がスポンジになってしまったような気分だ。もちろん、牛海綿状脳症のように、物理的にスポンジになった訳ではない。最近、妹に比喩が通じないので、至る所で自分の比喩が意味を成しているか不安になってくる。

他人の知識も加味して発しないと、比喩はつまらないものになってしまう。理解されない比喩は意味を失うからだ。私自身、他人の発した比喩を理解できないと何だか悲しい気持ちになるので、できるだけ分かりやすい比喩を使うよう心掛けている。

いや、そもそも牛海綿状脳症は比喩として通じているのか。自己矛盾。

 

 書くことがないので、幸せになれる方法を書く。もちろん、実証されている範囲で。

ポジティヴ心理学という学問は、心理学の中でも、人間が幸せになる方法を研究する分野の一つだ。この分野を生み出したセリグマンは、アメリカ心理学会の会長に抜擢された。そのくらい、最近アツい学問の一つだ。

ポジティヴ心理学の考えによると、以下の行動を起こすと幸せになれるらしい。

 

・週に一回、自分の幸福を数える時間を作る

・他人に親切にする

・自分の強みを知り、それを活用する

・感謝を人に伝える

・人と一緒にいる

・他人と自分を比較しない

自己実現を目指す

・他人に多くを与える

 

 なるほど、ウェイは幸せになれる訳だ。EXILEやGreee(略)にうつつを抜かしているような人たちはさぞ毎日ハッピーなことだろう。

しかし、全て実行することは正直面倒くさい。もしかしたら、個人的な信条などの理由で、これらの行動を起こすことができない人もいるかもしれない。

なので、さらに幸せに毎日を過ごしている人たちの特徴を記しておこう。これらの特徴を真似ることで幸せになれるかもしれない。

 

年齢が20歳以下か70歳以上・年収が平均以上〜800万円・人を愛している・子持ち・親が多幸感を持つ人物・ストレスがない・女性・社交的な性格・周りに幸福な人がいる・ラテン系などの陽気な国民性の国家に住んでいる・常にコカインを体内に注ぎ込まれている

 

 最後一つはともかく、他に書いたことは実証されていたり、科学的な根拠がある幸福な人の特徴だ。以上から、彼氏持ちの社交的な女子大学生はとても幸せだと導き出される。

だが、交際相手もなく、ストレスフルな生活を送っているコミュ障男子大学生には幸福のチャンスはないのか。

いや、まだこれらの特徴に当てはまらなかった人にもチャンスはある。

哲学者ダニエル・デネットによると、『自分より価値があると見出したものに力を注ぐ』ことが、幸福になる最大の条件らしい。

確かに、子供を大切にしている親は幸せそうだし、研究に没頭している学者も幸せそうだし、毎日教祖に祈りを捧げている新興宗教の信者も幸せそうだ。幸せになりたい非モテ大学生共は、このお題目を目指して日々精進するのが良いのかもれない。

 

 ここまで幸せになる方法を書いてきた。健忘録代わりだが、多分下手な自己啓発書よりはまともに書けたと思う。

もっとも、私は恒久的な幸せにはなりたくないのだが。幸せは退屈であり、何かに対して考える機会を奪ってしまうからだ。

正月は幸せだったが、ひたすら退屈だった。たまには不幸と向き合って、刺激的な楽しい生活を送りたいものだ。べ、別に幸せな人に嫉妬してる訳じゃないんだからね!

日記:不可視、無知、思考放棄

1/4 曇り 

 三が日も終わり、社会人が仕事に勤しみ始めた。かくいう私は家で淫夢動画を見ていたり、T-SITEに赴いて本を乱読したりした。大学生というのはまったくご気楽な身分である。しかし、課題には全然手をつけていない。春休みの課題は概念。

 

 T-SITEで、中島芭旺という現在11歳のガキンチョが書いた「見てる、知ってる、考えてる」を読んだ。

この芭旺という子供は、学校でいじめられたことがきっかけで『自宅学習』という形で勉学を続けている、所詮不登校である。

この子が書いたこの本が、アホっぽい大人を中心に10万部以上の売り上げをあげている。これほど売れているのだから、よほど立派なことが書かれているのだろうと手に取ったわけだ。

第一印象、字の間がものすごく広い。次に、書かれていることが浅い。金を払うだけの内容はない。

 

おい芭旺 態度でかいな 大人に甘やかされてんちゃうか

甘やかしている大人も悪いが それに気づかんお前の言葉は軽い

どこまで言っても小手先 お願いこめかみ つけフローおねだり

勝利の女神 眼光すぐ見せてるアドレナリン

 

といった感じである。11歳の本に期待した方がバカだった。

私も小学生の頃に戻ってこのような本を書きたい。そして印税をたんまりと稼ぎたい。11歳の頃といえば私は官能小説を携帯で読んでいた時期だ。18禁仕込みの文章力が光っただろう。チャンスを逃してしまった。

 

 今日は色々考えていたことがあったのだが、考えすぎて忘れてしまった。世界を終わらせる方法・肩書きは必要・私たちの存在は周囲によって規定される、とか考えていたような気がする。

新鮮な発想は腐る前にどこかへ書き込んでおきたいが、そのやる気がない。何か物事を語るには、私の視野はあまりにも狭く、無知で、煮詰まって考えることをよく止めてしまう。よって今日の日記はここで終わりにする。

芭旺くんが「見てる、知ってる、考えてる」なら、私は「不可視、無知、思考放棄」だ。11歳に負ける18歳。洒落にならない。

 

 

日記:みんなろりだった

1/3 晴れのち曇り 

 人生初神戸。ハーバーランドに行くが何も買わず、南京町はただ人が多いだけだった。

移動時間や食事中、暇になれば知り合いがまだロリやショタだった頃を想像して時間を潰した。しかし、義務教育時に鍛え上げた私の強靭な妄想力を以ってしても、何人か幼少期をどうにも想像できない人がいたのが面白かった。まさか、あんな男や女にロリショタだった時期があるとは・・・。

 

 大学生というのは、それぞれが「いかにも大学生」といった振る舞いをしているので、彼らの過去を想像するのが難しい。

それでも、現在の行動から大体の過去は察せることもある。

高校生だった頃以前のTwitter垢が無いのに、今の垢に昔の同級生がいない人。長期休暇中でも、一年を通して全く地元に帰らない下宿生。夏でも長袖の女子。

一つの行動から過去を推測するのは難しいが、いくつもの要因を組み合わせることで、どのような思春期を送ってきたのか大体は明らかになる。

そこから導かれる結論は、大抵 † 闇 † である。過去を隠すのはまあそんな場合だけだろう。

 

 話は戻る。

 快活なロリも好きだが、闇を抱えたロリも良い。ショタは知らん。

この世にはまだ私の知らない経歴や属性を抱えたロリがいると思うと、なんだか冒険に出たい気分になる。

「清純さ」の象徴である少女に、様々な属性が加わることによって、神秘性が増すと感じるのは私だけだろうか。少女を汚すのではなく、その清純さに私が飲み込まれることによって、その神秘性を全身で感じてみたい。

 

 私のロリ愛は尽きることがない。

快活なロリには、おはようからおやすみまで一緒に遊んでいてあげたい気持ちになる。そのままハイエースに乗せてあげるのも良い。

闇を抱え、頭の中で卑屈な考えをこねくり回しているロリには、是非とも男子校という光で照らし、新しい世界を見せてあげたい。そのまま夜の世界を見せてあげるのも良いかもしれない。

 

 ここで文章を見返した。ヤバい。今の私は明らかにクリミナルと健常者の間を行き来している。数年後に、ブルーシートの中から現れる顔色の悪い私が全国放送されるかもしれない。

クソ、急いで健全なコンテンツにならなければ。日記はこのような妄想を垂れ流すような場所ではないはずだ。あぁ、早くロリの清純さを浴びて精神を浄化しなければ・・・。