きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

バカにできなくなってバカになった

11/23 曇り


 卒論をぼちぼち進めたり、小説を書いたり、『アクタージュ』を読んだり。大学生最後の学期を並々のコンテンツ生産性で過ごしている。

 生産性のピークは、クソ動画を量産していた大学1年生の冬と、Vtuberをしていた大学3年生の夏だ。

 

 これまで散々、様々なコンテンツをインプットしていた分、本当は今の時期がピークになるべきなのだが、いつもの怠惰によってそれができずにいる。

 特に今日は酷かった。自転車の電気を直しに店に行った後、スターバックスで作業をしようと思っていたのだが、駐輪場が有料のものしかなく、結局家に帰って午後はずっと耳かき音声を聴きながら寝そべっていた。

 卒論・小説・イラスト・日記・動画と、産み出したい進捗はたんまりとあるのだが、焦燥感ばかり駆り立てられて、どれもできずにいた。風呂に入って集中力が舞い戻ってきたので、こうして日記を書いている。いや、先に卒論をやるべきなのだが。

 

 「べき」「べき」という表現は、使うだけでも首を絞められている気になってしまう。「べき」に囲まれていて、逃げ場がない。

 ここらで気晴らしに、スマホを使わない「なんとかデトックス」なるものを試してみるのもいいかもしれない。

 


 読書をして知識を得て、バカにできるものが少なくなった。

 本当は外国人だったり弱者だったり、自分と意見の違う人をバカにする方が生きていて楽なのだが、それがだんだん出来なくなってきた。最近は、本当に意識してなにかをバカにするようにしている。それはそれで、胸が詰まるような思いがするので、板挟みになっている。


 大学1年生の頃は、田舎のヤンキーだったり、低偏差値の学校をもっとバカにしていた。他にも、もっといろいろなものをバカにしていた。

 しかし、前者は『ヤンキーと地元』という本を読んで、後者は偏差値にかかわらず優秀な人はどこにでもいると知って、両者ともバカにできなくなった。そうなってから、本当にしんどくなった。

 

 何がしんどいかというと、田舎のヤンキーだったり低偏差値校をバカにしている人を見て、抵抗感を覚えるようになったのがしんどい。彼らの価値観をジャッジできるはずもないのに、己の道徳心が勝手に逆撫でされる。それを抑えようとして、こういった出来事が無数に積み重なっていってしんどくなる。

 こんなことなら出来損ないの道徳心などいらなかった。いや、道徳心というよりも、様々な価値観について、私はあまりにも脆弱すぎる。

 

 では、他の人はどうしているのか注意を払ってみると、普通に誰かをバカにして生活しているか、そもそも他人のことなど気にしない性分か、どちらかなのだ。中途半端モノの私はどちらにもなれない。

 繊細でひ弱な感受性、他人のことまで視界に入る注意散漫、この二つをどうにかしないと。

 


 久しぶりに日記を書いた。

 悩み事は積もる。放置すると腐臭を噴出する。それを久々に実感した。

 とにかく、今は卒論を書く。ついでに小説もぼちぼち書く。

 優先順位をつけるのが苦手なのも、私の弱点だ。

 

 弱点と向き合うのは、二十歳を超えた今でも難しい。

 多分、一生難しいままだろう。