きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

Wish you a 恋人はきっと来ない いつまでも手をつないでいられることをサンタとやらに頼んでも仕方ないよなぁ

12/24 曇り

 

 冬休みが始まった。

 学期末のレポートや冬休み明けの発表準備など、するべきことは多い。

 特に、統計の授業のレポートは厳しい戦いになりそうだ。

 教授に向かって「レポートはRMarkdownで作ってみます!」と高らかに宣言してしまったため、一からソフトの勉強を始めなければならない。

 それもまた一興である。

 長すぎる冬の夜には、そのくらいの課題がちょうどいい。

 これだけ書いておいて、完成度がクソだったらそれはそれで……

 

 

 クリスマスである。

 そう、クリスマスだ。

 

 クリスマスには苦い思い出がある。

 

 大学一年の時には、「クリスマスまでに彼女を作る!」と公約(誰に?)したものの、その目標が果たされなかったのだ。

 彼女は作るものではなく、互いの同意のもとに自然と出来上がるものだと理解したのは、それからしばらく後のことである。

 

 私が何かを宣言する時は、たいてい上手くいかない。

 レポート、大丈夫か?

 

 

 毎年、クリスマスには交際相手のいない人を少人数集めて、クリスマスのない国の料理を食べる、といったことを主宰している。

 一昨年はインド料理、去年はタイ料理を食べに行った。

 

 今年は人を呼ぶ元気がなかったので、一人で中国料理を食べに行った。

 2500円。

 少々お高いが、小籠包や麻婆豆腐は絶品だった。

 

 地上八階で地元の街を見下ろしながら食事ができる、というのも高得点である。

 しがない中核都市に過ぎないこの街に、クリスマスの時期にうろつくカップルなど、イモい奴らばかりに決まっている。

 私はそんな彼らよりも空間的に高いところで、カップルの仲よりもアツアツな小籠包を食すのだ! 

 最高のクリスマスだとは思わないかね? 

 

 クリスマスなので、夜が深まると彼氏は彼女のクリトリスをご馳走になるのだろうが、そんなことは私にとってはどうでもよい。

 カップルなんざクソである。

 彼らは己の自由を引き換えに、性交渉権を手に入れたに過ぎないのだから! 

 ばーかばーか! ホーリーナイト、ホーリー嫉妬!!

 

 

 本屋で自分用のプレゼントに、『異セカイ系』という小説と、『ずっと喪』というショートショート集を買った。

 どちらもツイッターで読書家がやたらと推薦していたので、今から読むのが楽しみである。

 

 クリスマスとかどうとかは関係なく、今夜はいつも通り「裁判ではなぜいつも半ケツが言い渡されるのだろうか、全ケツもたまには出されてもいいのに」だとか、「デヅルモヅル由来の成分で作られたベビーパウダー自然派ママに受け入れられるのか」など、取るに足らないことを考えながら過ごそうと思う。

 

 そして、サンタさんが素敵なプレゼントを運んでくれることを信じて眠りにつくのだ。

 サンタさん、今年のプレゼントは耳かきをしてくれる理学修士の甘々なお姉ちゃんをよろしくお願いします。

 

ぼくらはみんな科学特捜隊

12/13 晴れ

 

 私は子供のころから、『ウルトラマン』シリーズの防衛隊が嫌いだった。

 

 理由は単純で、彼らは無力だからだ。

 怪獣が出現すれば戦闘機を飛ばし、それがことごとく撃ち落される。

 出会い頭にどういう光線銃を撃ちまくっては、それがまったく怪獣には効かない。

 

 私がウルトラマンを見ていた頃は、ちょうど『コスモス』や『ガイア』の頃だっただろうか。

 特撮オタクではないので、あまり各作品の防衛隊については詳しく知らない。

 それでも、防衛隊を画面越しに眺める私は幼心ながらに、彼らの無力さに呆れたものだ。

 

 単純なお金や命の勘定ができるようになってからは、防衛隊がますます嫌いになった。

 毎度のこと怪獣を倒せないのに、戦闘機やら洗車やら大層なものを持ち出しては数分で怪獣に破壊されていく。

 「それを購入した税金はどこからやって来ているのだろうか」

 そんなことを考えたりした。

 

 何もかも、防衛隊の行動は無駄に思えた。

 ウルトラマンが来ると、どうせ3分以内に倒してくれるのに、防衛隊は何を必死になって街を守っているのだろう? 

 そんな無邪気で残酷な感想を抱いたりした。

 

 

 時は過ぎて、私は背丈が伸びた。

 多くの子供がそうであるように、私は年を経るにつれて、ウルトラマンなどの特撮物にはあまり興味を示さなくなった。

 

 怪獣にはもちろん、何に対しても脅威を感じなくて済むような安寧の日々。

 泥のような平穏の中で、私は生活している。

 

 しかし、雨がいつか止むのと同様に、のっぺりとした日常はいつまでも続かない。

 

 周囲にも、就活について考える人が増えてきた。

 インターンに参加したり、企業説明会に赴いたり。

 ドラマや小説で見たそのままの姿で、就活というイベントはやってきた。

 

 私は大学院に進学を志望しているので、斜め下からその風景を眺めている。

 絶景かな絶景かな、いや、あまりいい眺めではない。

 

 

 就活とともに目立つようになったのが、公務員試験への対策を始める人たちだ。

 私の周囲にも何人かいる。

 

 私は公務員というものがあまり好きではない。

 

 小中学校の教師が嫌いだったこともあるが、公務員という職業については無個性で形式ばっていて、窮屈なイメージがある。

 そのような職に自ら志望するという、その心情があまり理解できなかった。

 

 もちろん、公務員になって行政側から自分の目的を成し遂げたい。そのようなことを考えている人もいるだろう。

 私もそう思っていた。

 

 だが、周囲の公務員を目指している人たちに動機を聞いてみれば、「安定しているから」と、口をそろえたように皆が同じことを言う。

 

 本当にそれでいいのか? 一回きりの人生だぞ? 

 『全体の奉仕者』なんかになっていいのかよ。

 

 身勝手な怒りに駆られた私の脳裏に浮かんだのは、かつての防衛隊の姿だった。

 

 無力、無駄、無益。多数の人間に自分の生命を投げ出すことのできる、その不気味さよ。

 

 

 今の世で言えば、ある人にとっては中国が、また別の人にとってはテロリストが『怪獣』のような存在かもしれない。

 

 人の命を軽々しく吹き飛ばすことのできる力を持ち、気まぐれで、恐れを抱かせるもの。

 個々の存在を薙ぎ払う圧倒的な事象たち。

 

 それは日本国自体も例外ではない。

 自分の意識がどこまでも薄く溶かされていき、日本という怪獣と一体になる。

 否が応でもリヴァイアサンの一部として組み込まれてしまう。

 これは私が最も嫌悪することだった。

 

 怪獣が健康なら、私も体内の共生菌として、もしくはがん細胞として生きる道を選んだかもしれない。

 おこぼれを怪獣からあずかることができるからだ。

 

 しかしながら、日本は老いぼれて、いつ地に沈むかも分からない怪獣だ。

 私は、このままこの国と共倒れになるつもりはない。

 

 理由もなく産み落とされ、夕焼け小焼けでさようなら。

 壮大な歴史の小さな小さなノイズになることは、私の望むことではない。

 そのような考えを抱くことは、傲慢だろうか?

 

 全身全霊で足掻けば、全ては上手くいくと。

 赤ん坊のような、万能感の夢に微睡んでいる。

 そのような青年期を過ごしている。

 

 安定はいらない。ただ、納得のいく人生を送りたい。

 「私は確かにここにいた!」と号哭することができる、最高の事実が欲しい。

 

 要は、私はウルトラマンになりたかったのだ。

 自分の名前がタイトルにつくような、自身を主人公として人生を生きることができる。

 そんな、自惚れた願望。

 

 その心中とは裏腹に、何かを為すことはできず、ただ無銘の日々が続いていく。

 

 

 散々「嫌いだ」などと書き連ねておいて可笑しい気もするが、私は公務員志望者をいい意味で「大人だ」と思っている。

 

 自分の人生について本当によく考えているし、みな真面目な人ばかりだ。

 チンパンジーが操作しているゲームキャラのように、したばたと四肢を振り回すように生きている私とは真逆である。

 

 『ウルトラマン』の防衛隊は、善意に溢れていてエリートぞろいで、眩しいくらいに良い人たちである。

 そんな人たちでも、怪獣には敵わない。

 当然、私も怪獣には勝てっこない。

 

 ならば、武器を磨くしかない。

 聡明な生き方が出来ないのであれば、大きな力にへし折られないように。

 

 例えば、『ウルトラマン』のゼットンを倒した無重力弾のような、比類なき武器を持つしかない。

 それが、不器用な生き方しかできない私の、数少ない対抗策なのだと思う。

 

 

 私はウルトラマンになれない。

 

 私たちはみんな等身大の人間で、少し群れれば埋もれてしまうほどの能力と個性しか持たない存在だ。

 ある意味では、誰もが怪獣から逃げ惑う市民か、小さな力でそれに立ち向かう防衛軍だ。

 

 それでも、私は夢を見る。

 自分の力が怪獣に届き、真に恐れから解放される。

 そのような夢を。

 

 

 今日は寒空に星が栄える夜だ。

 

 夜空を眺めていたら、ゆらゆらと星が揺れ動きだした。

 『自動運動』という錯覚の一つである。

 

 「宇宙が震えた」なんて詩的な表現でごまかすまでもない。

 私には知識があり、思考があり、身体がある。

 

 この手がいつかM78星雲にも届くことを願って、私は今日も静かな夢に潜り込む。

 

 

『2025 大阪万博誘致 若者100の提言書』を読んで

11/26 晴れ

 

 

 『2025 大阪万博誘致 若者100の提言書』というものが、巷で話題になっている。

 これは、学生がきたる大阪万博に向けて様々なアイデアを纏めたものである。

 

私たちは、議論を重ね、5つの「問い」を決めました。

そして、そのテーマを問うための「アイデア」を計100個発案し、提言書にまとめました。

コンパクトにまとめながらも、抽象的な理念だけではなく、できるだけ具体的な内容まで書くように努めました。

 

 前文には、このようなことが書かれていた。

 

 これが話題になった理由としては、LGBT関連のアイデアが差別だかどうとかで炎上したことがきっかけらしい。

 詳しいことは各自で調べていただきたい。

 要は、ありふれた悲劇である。

 

 『2025 大阪万博誘致 若者100の提言書』を作った団体は東京大学京都大学など、入試難関校の学生が数多く参加している。

 それでも、こういったアイデアが出てしまうというのは、なかなかに考えさせられる。

 

 当たり前だが、若者も一枚岩ではないということだ。

 それに、善意が元のアイデアでも、それが誰かの逆鱗に触れてしまうのは世の常である。

 

 

 これだけ話題になっているものに目を通さないのも勿体ないので、とりあえず全部読んでみた。

 一通り読んでみると、やはりと言うべきか、お金が死ぬほどかかりそうなものや、発想が傲慢なものなど、いくつかの粗が見られた。

 

 が、面白いアイデアも散見された。

 この提言には批判ばかりが目立つので、個人的に良いと思ったアイデアをここでは紹介していきたい。

 

 

  1. 献セル

献血」ならぬ「献セル(Cell)」。

万博内では来場者から細胞が「献セル」(=細胞の任意提供) され、万能な初期状態に戻す iPS 技術を用いて HLA 型によって分類し、 iPS 細胞をストックする。

創薬再生医療の発展、難病の治療など様々な ポテンシャルを持つ日本発の技術 iPS 細胞を、日本の医療インフラに。

世界中の創薬再生医療が 2025 大阪万博から変わってゆく。

 

 全然言葉回しが上手くないが、良いアイデアだと思った。

 医学方面に私は造詣が深くないので適当な意見になってしまうが、このアイデアは市民と最前線の医学を繋げるものになるだろう。

 

 また、集めた細胞は臓器移植の際の拒絶反応や、遺伝子疾患への有効な情報源になるだろう。

 大阪万博のテーマにも沿っていて良い。

 

 問題点としては、生体情報というデリケートで重要なデータの取り扱い方法だろうか。

 あと、名前の言い回し。

 

 

  1. The Oldest Tastes

農耕の開始は人類にとって非常に大きな転換点だった。

人類は農耕を通して、芳醇な食文化を形成していくのである。

古代エジプト文明では農耕で得られた穀物を原料とするパンとビールが食べ物の象徴的存在であった。

今なお世界の食文化の中心に位置するパンとビールをはじめ、穀物食が最古の姿で復元され、万博内で振舞われる。

幾千年と積み重ねてきた「食べる」という営為の歴史の深みを味わおう。

 

 万博が否が応でも国際色の強いイベントになってしまう以上、こういう軽食をとるための展示は必要だと思う。

 穀物ならば、ムスリムやその他の宗教の教義に触れないような食事を提供することが幾分簡単になるだろう。

 

 個人的体験談としては、『食博』というイベントに訪れた際、口にしたフランスの米が使われたデザートが衝撃的であった。

 これはどろどろになった米と、細切りにされたオレンジが砂糖で和えられたものだった。

 

 意外にも、このデザートは美味しかった。

 食は、最も手軽な異文化理解の方法だと思う。

 

 

  1. 死生観 On Air

この世には生と死に精通している様々な職業が存在している。

医師・看護師・助産師をはじめとした生に携わる人々と、 僧侶・葬儀者のような死に携わる人々が集い、「人はなぜ生きるのか」をテーマに大討論会「死生観会議 On Air」を行う。

その様子は、オンラインで世界中に配信され、世界中からコメントが寄せられる。

生と死の専門家が、21 世紀の 「真に生きる意味」を語り尽くす。

 

 イベントの一つとして行うなら、面白いかもしれない。

 

 ちょうど、七年ごとに行われる世界宗教者平和会議が次に開催されるのは2020年なので、それを万博でやってもらうというのはどうだろうか。

 2025年にもなれば自動翻訳も多少は進歩しているであろうから、面白い試みになるであろう。

 

 問題は、多くの宗教者が2025年までにそれぞれの天国に行ってしまわないかどうかである。

 

 

  1. Steps For Energy

3,000 億歩。

3000万人の来場者が 1 万歩歩いた時の合計歩数である。

2016 年現在ラスベガスで導入計画がなされている 足踏みのエネルギーを電気に変換する「歩行発電」技術によれば、一歩につき 4~8W を生産できる。

理論上1兆2000 億~2 兆4000 億 W の発電可能になった万博の床から、万博内の LED 街灯に電力供給される。

大地を踏みしめる一人一人の力が、万博を照らす光となって降り注ぐ。

 

 シンプルにいいアイデアなのではないだろうか。

 たくさん歩くことは電力になるだけでなく、健康にも繋がる、一石二鳥である。

 

 うまく動線に合わせて設置しないと、馬鹿にならない無駄な経費がかかりそうだが。

 

 今の大阪に、それを考えるほどの知能はあるのだろうか。

 

 

  1. EXPO SeamlessPass System

「人類の辛抱と長蛇」と揶揄された大阪万博ʼ 70。

せっかく万博に来たのに大混雑で、パビリオンに入れないなんて、やってられない。

パビリオン入場の予約はすべてオンラインで行われ、入場時間が近づくと、自動通知が来るので、行列に並ぶ必要はなくなる。

レストラン、グッズショップにレジはなく、買い物かごに入れるだけで自動的に課金される。

人と人とが無秩序に折り重なる混雑から解放された生活は、私たちにかつてない心の豊かさを与えるだろう。

 

 いる(確信) 

 何だかスシローみたいだ。

 

 ただ、クソのようなUIになることだけは避けていただきたい。

 行政主導のシステムは、いつも使い辛い。

 

 

 特に良かったのは、この5つのアイデアだろうか。

 

 他のアイデアはお金が信じられないほどかかりそうなのに、「え、それだけ!?」といったパフォーマンスのものや、現段階での最新技術にこだわり過ぎるあまり、行き詰っているようなものが見受けられた。

 

 個人的には、国立民族学博物館が前回の大阪万博の折に設立された経緯に倣って、世界中の苦難を乗り越えた先に製作されたアート作品を展示してもらいたい。

 

 日本では東日本大震災後のアートを、アフリカからは、実際に民博で展示されていたものを例に出すと、内戦後に残された銃などの兵器をつなぎ合わせて製作したアートなど、こういった多くの作品を集めていただきたい。

 

 それらは現在の世界を知るとともに、昨日までの後悔と明日への希望を私たちに伝えてくれるはずだ。

 

 その他には、終活関連の活動にも焦点をもっと当てても良いかもしれない。

 もしくは終末期医療か。

 

 どちらも、トップクラスに高齢化が進んだ日本が世界より進んだ分野である(と信じたい)。

 今後熾烈に高齢化が進行する予定である中国などの国家や、高齢者自身に、その知見を活かしてもらうことは必要だろう。

 

 

 万博は7年後である。

 

 7年前と言えば、地上デジタル放送が本格的に始まったり、東日本大震災が起きたりと、いろいろと混沌とした年であった。

 その頃の私たちは、AIだのアルトコインだの、最新技術に翻弄される私たち自身を、果たして想像できただろうか。

 

 2025年、今からは想像できなかった技術が世間を席捲していることだろう(激うまギャグ)。

 その頃には社会も変わっていて、LGBTの人たちへの偏見もある程度は解消されているかもしれない。

 

 未来はいつも分からない。

 

 私たちにできることは、現時点で思いつく最良のアイデアを提案し続けることだろう。

 

 

アレをこめて紙束を

11/17 晴れ

 

 とてもゆったりした休日。

 『何もしない』をした。

 

 私は外出をしないと気分が落ち込んでしまう性があるので、喫茶店に来てからこうして日記を書いている。

 

 正面のガラスの向こう側では、制服を着た男女のカップルが互いに身を寄せ合い、指を絡めていた。

 こういった、人生全般において正しい人間を見ていると理不尽に腹が立ってくる。

 

 憤怒の季節が始まろうとしている。

 

 

 最近、半ば強引に本を贈りまくっている。

 希望者に対し、その人を象徴するような本を1500円程度で選んでプレゼントしている。

 

 自分が本を買う場面では、自身がそれを読むことしか今まで想定していなかった。

 なので、人のために本を選ぶというのは意外と新鮮で面白い。

 もちろん、本は偏見でセレクトしている。

 

 これまで、Amazonの欲しいものリストから唐突に人に本を贈ったことはあったが、一から本を選ぶというのは初めてである。

 

 クソのような内容の本を贈っては申し訳ないし、読書家としてのプライドも損なわれてしまうので、本を選ぶのには結構な時間を費やしている。

 

 

 例えば、日頃あまり本を読まず、これから読書を始めようとしている男の子がいたとしよう。

 

 彼には『そして、生活は続く』というエッセイと、『面白い本』という新書をプレゼントした。

 

 『そして、生活は続く』は星野源が『恋』などで大ヒットする前の生活を綴ったエッセイ集である。

 言い回しが親しみやすく、下ネタ満載で面白かった。

 

 正直、星野源はこちらが勝手に嫉妬していてあまり好きではなかったが、この本を読んでから、少し好きになった。ウホッ。

 

 著者の人となりが分かるというのは、エッセイの持つ長所の一つだろう。

 

 『面白い本』は岩波から出版されているブックガイドである。

 

 どこかの編集者をしている著者が、オススメの本を簡潔に紹介している。

 

 流し読みしたが、なかなか本のセレクトが良かった。

 こちらが本をうまく選べているかどうか、不安になる程度には。

 

 

 その他にも、猫を飼っていて、ひたすら「就職したくない」とか何やら呻いている女の子には『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』という小説と『ブラック奨学金』という本を贈った。

 

 『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』は小学生の女の子と、猫が主人公の小説だ。

 著者は万城目学。私が昔から好きな作家だ。

 

 中学生の頃にこの小説を読んで、とても心が浄化された思い出がある。

 この小説がなければ私はとうに闇堕ちして、世界に瘴気をまき散らしていたかもしれない。

 

 『ブラック奨学金』は文春新書から出版された話題作である。

 奨学金の怖さが綿密に記述されている。

 

 奨学金を借りている人は、周囲を見渡してみると結構多い。

 彼女にとって、じわじわ迫りくる就職への発破になっただろうか。

 

 私は大学院に進学を志望しているので、就職など屁の河童である。

 モラトリアムを延長することと、自分の無知を自覚することに、暫くは精進していく予定である。

 

 

 このほかにも、様々な本を様々な人に贈った。

 

 彼らには本を渡す際、「私に合うようなものをプレゼントしてくれ」と押しつけがましく伝えたので、何が届くか今からでも楽しみである。

 

 もし、私に本をセレクトしてほしい人がいるなら、気軽に私に伝えてほしい。

 やる気とお金があれば、あなたにピッタリの本をお届けしよう。

 

 あ、もちろん返品不可でお願いします。

 

 プレゼント後は、私という存在に『高評価』をお願いします。

 

 

推しなきオタクの挽歌

11/4 晴れ

 

 十一月にあるまじき暖かさ。

 この気温で、街がクリスマス用のリースなどで飾られているというのは、なかなか奇妙で面白い。

 

 クリスマスが来るのを嫌がるフリばかりして、これまで二十年生きてきたが、私は聖夜を一人きりで過ごしたことが実は数えるほどしかない。

 だいたいは家族が一緒にいるし、大学生になってからは、毎年のように有志を募って民族料理を食べに行っている。

 

 今年はどこの国の料理を食べようか。

 トルコ料理なんかが良いかもしれない。

 

 

 自分が推しのいないオタクだということに、じわじわと悩んでいる。

 

 実生活を過ごすにあたって、推しがいないことは別に支障をきたさない。

 だが、周りのオタクの多くが芸能人やキャラクターを推しにして生活しているのを見ると、なんだか侘しい気持ちになってくるのだ。

 

 自分のほかにも、推しなきオタクは数多くいると思うのだが、おそらくこちら側のオタクはマイノリティである。

 

 私は多趣味であると自認しているし、二次元コンテンツを嗜んだり、一部の分野についてはそれなりに深い知識を持つオタクなはずである。

 だが、推しがいない。

 

 「何をぐちぐち言っているんだコイツは」とお思いの方もいらっしゃるだろう。

 

 とどのつまり、推しはもちろん、『自分が全てをなげうってでも、尽くしたい何か』が存在しないということに、やるせなさを抱いているのだ。

 

 周りの人間が当たり前に持ち合わせている、この感情が欠落しているという現実は、私の自尊心の小さな疵となっている。

 

 

 推しを作ろう、と思ったことは何度かある。

 

 だが、すべての場合において、それは『好きなキャラクター』の範疇を超えなかった。

 

 この言いようもない感覚、あえて名付けるなら『空白感』に、これまで真綿で首を絞められるような思いを強いられてきた。

 

 この感情の延長線上には、彼女ができない焦燥感なんかもあるのかもしれない。

 

 なんだか、『オズの魔法使い』のブリキ男になった気分である。

 

 胴体までブリキでできたブリキ男は、がらんどうの胸を埋めるため、ドロシーらと一緒に旅に出る。

 

 「どうして、いつもうつむいて歩いているの?」というドロシーからの質問に、ブリキ男は「自分には心が無いから、気をつけないと、小さな虫をうっかり踏み潰してしまうかもしれない。温かい心を持つ人が、自然にできることが、自分にはできないから、気をつけないといけないんだ」と答える。

 

 私自身、人助けであったり、そういった善いはずの行動全てが空っぽに感じられる、ということがある。

 そこには、「善いことをしたな」という満足な余韻もない。

 

 ただ退屈な日常に、がむしゃらに何かを詰め込もうとしているのみである。

 推しができないもどかしさも、この空白感と繋がっている。

 

 他の人が当たり前にできることの真似事をする。

 それをただ繰り返す。

 そこに温かみはない。

 

 

 ブリキ男は物語の最後、オズの魔法使いにおがくずを詰めたハート型の袋を授かる。

 「あんたには心がある。無いと思い込んでいるだけだ」という言葉と共に。

 

 まがい物の心でも、魔法を信じるブリキ男にとっては救いとなったのだろう。

 

 もちろん、この世界に魔法はない。

 見せかけの夢や不思議があるのみである。

 

 けれども、世界は広い。

 私の空白を埋め合わせてくれる、何かがきっとこの世界にはある。

 

 そんな魔法を、私は信じている。

 

 広い世界に旅に出る。

 それが、私が推しに辿り着き、自身の心の温度を感じさせてくれる方法の一つだろう。

 

 要は、私はまだ無知だということだ。

 

 推しのいない、空白を抱えたオタクたちに心を寄せて、今日の日記はここまでにしよう。

 

 

 じつは『オズの魔法使い」には後日談があり、そこではブリキ男は依然、自分を「心の無い男」と評している。

 救いがない。

 

 オズの魔法使いはただの老いぼれた詐欺師なので、魔法がつかえるはずもないのだから当然である。

 さらに救いがない。

 

O

10/24 晴れ

 

 十三夜。

 まだ昇りきっていない、山吹色の満月がビル街に映えた。

 

 こういう時にカメラが手元にあればいいのだが、あいにく家に置いてきたままであった。

 10万円もした一眼レフは、日の目も月の目も見ることなく、埃をかぶって机の下で眠っている。

 

 それでも、何とか風景を形にして残しておこうと、iPhoneのカメラで撮っておいた。

 

 スマホで映した月は、ひどくぼやけていた。

 どうして、スマホのカメラはこうも天体に弱いのだろうか。

 

 気が付くと、周りを見渡せば大勢の人が立ち止まって空を仰いでいた。

 

 私も彼らと同じように、頭の中のセンサーに今夜の満月をしっかりと焼き付けておいた。

 パシャリ、と。

 

 

 迷走が激しくなってきたので、そろそろ自分の研究の原点を綴っておこうと思う。

 学部三年生のくせに、研究も原点もクソもあるか、という気もする。

 

 だが、いつか自分がどうしようもない精神状態に陥ったとき、帰ることのできる心の故郷的なものがあったなら、それは未来の私の助けになるだろう。

 特に、物事を始めてしばらく経ったらその動機を忘れてしまいがちな私にとって、原点を思い出すことは大切だ。

 

 なので、半ば自己満足だが、ここに書いておく。

 

 

 私は現在、動物心理学や比較認知科学を専門としている。

 

 その中でも、ヒトと動物の向社会行動に興味があり、さらに言えば動物全般に当てはまる『道徳』の法則に関心を持っている。

 分野の周辺領域としては、社会心理学・行動生態学ゲーム理論・応用倫理学・動物行動学・神経科学などを挙げることができる。

 

 領域が非常に広いので、勉強するべきことは多い。

 器用貧乏になりそうだ。

 

 

 もともと、私が道徳というものに最初に興味を持ったのは小学生の頃だった。

 

 多くの人が気にも留めない『こころのノート』を読みふけったり、何が善で何か悪かを暇があれば考えたりする、私はどこかひねくれた子供だった。

 

 今考えれば、直感的に物事の分別が付かない人間だったからこそ、そういったことに頭をフル回転できたのかもしれない。

 

 

 時は進んで中学生の頃、私は学校裏サイトを開設した。

 

 理由は単純で、同級生がどのようなことを考えているかや、どのような恨みを抱いているかに興味があったからだ。

 

 それを作った当初、掲示板の多くの書き込みが日陰者のものになり、クラスの人気者への恨み嫉みが殺到することを秘かに期待していた。

 宣伝をしたり、口コミで噂が広まったおかげで、裏サイトにはそれなりの人数が訪れ、次第に陰口が書き込まれるようになった。

 

 書き込みの発信元を様々な手段を用いて調べてみたところ、予想に反してクラスの人気者が同じく人気者を貶めるような書き込みをしている、ということが判明した。

 日陰者の書き込みは、むしろ少数だった。

 

 今となっては単なる黒歴史だが、当時の私には衝撃的な出来事だった。

 

 

 高校生の時、私はもともと薬学部志望だったが進路を変更し、近大の農学部公募推薦で合格した。

 そのまま農学部に進路を定め、食品メーカーなどに務めて、安牌な人生を送るつもりだった。

 

 しかしある日、河合塾をサボってマクドのコーヒーを片手に大川沿いを散歩していたところ、急に気が変わって心理学の方面を受験することを決めた。

 

 頭のねじがこの時に外れたのだと思う、多分。

 

 その後もなんやかんやあって、今の大学で心理学を学ぶことになった。

 

 

 大学一年生の頃は、臨床心理学や社会心理学に興味を持っていた。

 

 特に認知行動療法に惹かれており、不登校児の支援ボランティアをするなど、完全にカウンセラーになるつもりでいた。

 

 だが、気が変わるのは私の常である。

 

 臨床心理学について学んだり、不登校児と接するうちに、「自分が関心を抱いているのは不登校児を不登校児に至らしめたメカニズムなのではないか」と考え始めた。

 対人支援というより、いじめ行動が生じる仕組みといった方面に興味が徐々に移っていった。

 

 それに、当時の私は明らかに生き急いでいた。

 

 自分の身体で助けになることのできる人数は一生のうちに限られている。

 「それならば、基礎研究に従事することで、より多くの人のためになったほうがいいのでは」と思うようになっていた。

 

 

 生き急いだまま、私は某大学の三年次編入試験を受験した。

 

 試験が終わって面接で、私を取り囲む教授陣に「社会心理学を専攻して、道徳について解き明かしていきたい」と自分の関心を説いた。

 

 「どうやら、君は人というよりも、動物の面からそれを解き明かすことに関心があるように思えるなあ」と、それがある教授の第一声だった。

 

 その他もろもろの理由により試験に落ち、気が付けばその教授の言った通りに、私は動物心理学のゼミに入っていた。

 

 当時は全く知らなかったのだが、他のゼミに動物の援助行動を専門としている教授がおり、現在は2つゼミを掛け持ちする形で参加させていただいている。

 それなりに忙しいが、充実感もひとしおである。

 

 

 勉強してみると、比較認知科学はぶっ飛ぶほど面白かった。

 

 学習心理学のクールな論理と、認知心理学の大胆な論理が組み合わさっているようで、好奇心がそそられる。

 社会心理学との接点も多い。

 

 こういう、領域の垣根をあまり気にしない分野が私には向いているのかもしれない。

 

 

 その後、統計の授業で某教授に「ベイズ統計というものが流行っていますね」という内容のメッセージを書いて、出席票を提出したことがあった。

 

 すると、しばらくしてから「某大学でベイズ統計の集中講義があるので、参加してみてはいかがですか」という旨のメールが届いた。

 

 その集中講義に参加してみると、未知すぎる世界が広がっていた。

 なんだこれは、という感じだった。

 

 正直今でもあまり分かっていないので、勉強中である。

 

 ベイズで動物の向社会行動における認知モデルを作れるのでは、という考えが胸中にあるのみだ。

 認知モデルについてもあまりよくわかっていないので、これも未だに妄想の域を出ていない。

 

 学部の卒業研究では無理かもしれないが、大学院に進学した暁には、これらの手法もモノにしてみたいものだ。

 

 

 以上の経緯が、私の研究の原点になっている。

 

 道徳、もしくは向社会行動への疑問は結構昔から私の中にあるような気がする。

 それは道徳心が私に欠けているからかも知れないし、そうでないかもしれない。

 

 振り返ってみると、軸がブレブレな人生だ。

 今後もブレていくだろう。

 

 しかし、方法論や分野が変わっても、人間の道徳について知りたいという欲求は変わらないという自信がある。

 

 

 編入試験の面接のとき、動物のゼミを進められた際に、私は「もし、動物を研究の対象にするならば、人間と動物に共通する部分について探求していきたい」と返答した。

 

 ある意味、それは叶っている。

 

 とにかく、まだ研究者としてひよっこどころか孵化してもいない状態だ。

 

 謙虚に知識を深めていこう。

 原点を忘れずに。

 

なんか暗いねナハトムジーク

10/17 晴れ

 

 睡眠時間が9時間を超えるようになってきた。

 明らかにこれは疲れているサインだ。

 

 この疲れが身体的なものか、精神的なものなのかは分からないので、思考停止でぶらついていたら発見した喫茶店に入った。

 高層ビルに店を構える喫茶店であり、高いところが好きな私はすぐさま二階へと向かった。

 

 馬鹿と煙は高いところが好きという。

 私は馬鹿ではない。

 なので、私が煙なのは自明である。

 ただし、論理学的な小難しい話は考えないものとする。

 

 そして、いつも通り何の進捗も生み出せないまま、この日記を書いている。

 

 

 三日ほど前、iPhoneXSに買い替えた。

 だが、フリーSIMカードの設定が諸事情で終わっていないので、未だに外出先ではインターネット回線を使えずにいる。

 

 ネットサーファー歴が10年を超え、ツイッタラーでもある私から電波が奪われると、日常に穿ったような空白の時間が生まれてしまう。

 仕方なく、その埋め合わせにいつにもまして読書をしている。

 

 最近は本を読むと左目が痙攣してくるので辛い。

 視力と知識を等価交換している気分だ。

 

 

 インターネットが使えなくなって、もう一つ困ったことがある。

 それは、外出中に音楽が聴けないということだ。

 

 私はこれまで「SoundCloud」という、音楽制作が趣味の人たちが曲を投稿しているアプリを利用して、登校などの時に流したりしていた。

 それが、すっかり無くなってしまったのだ。

 

 全く奇妙なことだが、久々に音楽をBGMとすることなく一日を過ごしてみたら、めっきりテンションが下がってしまった。

 電車内で会話する女子高生の声が、虫の羽音と同じように耳障りだったし、学校への山道を登っている途中には、環境音の多さに圧倒させられてしまった。

 

 昔は、これほど音に敏感ではなかったはずである。

 いよいよ疲れが溜まっている。

 それを実感させられる出来事だった。

 

 

 私はたびたび、音楽に救われてきた。

 

 受験期、予備校の自習室に閉じこもって鬱屈としているときは、「夏影」や「you」、久石譲の「summer」といった、どこか爽快な夏を感じさせる曲をよく聴いたものだ。

 

 また、寝起きが辛いときはカードキャプターさくらの「プラチナ」を聴くことをルーティンにしていた。

 

 大学の春休みなど、本の読みすぎからか猛烈な孤独感に苛まれたときは、ラジオを付けながら眠りにつくことで、今もどこかで頑張っている人がいるという事実に励まされたりもした。

 ただし、運悪くflumpoolやback numberが流れてしまえば、恋愛ソングと自身の状況を比較してしまい、人知れず苦しんだ。

 

 

 音楽は人並みに好きだが、歌うことは好きでも嫌いでもない。

 お風呂で一人歌うのは好きだが、カラオケに行って、自身の音程が届かなかった瞬間は苦手だ。

 

 でも、別にカラオケが嫌いという訳ではない。

 

 魂のルフラン」を誰かが歌うとき、エヴァンゲリオン二号機が量産機をバッタバッタとなぎ倒していくシーンがひとたび映し出されたなら、歌よりもそっちの映像にみんなが釘付けになってしまう時なんかは、なかなかに趣深いものがある。

 

 そういう楽しみがある一方で、私は少し閉所恐怖症気質なので、カラオケの個室が狭いときは長時間居座っているとキツイ。

 そういうダウナーな気分の時に誰かが失恋ソングを歌えば、人生についてどっぷり考え込んでしまう。

 

 カラオケと私は、ちょっと複雑な関係である。

 

 

 その他にも、音MADを毎日視聴していたり、音ゲーマーだったり、音楽については語ることができるものが多いが、ここらで止めておく。

 

 音楽のない人生などもはや考えられない、というのは間違いない。

 ノーミュージック、ノーライフ。

 メンタルヘルス面でも娯楽面でも、音楽は役に立っている。

 

 ブルーハーツから米津玄師まで、今日も音楽に埋もれた夜を過ごそう。