きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

「ビリギャル」と「ビリオタ」

12/26 曇り

 

 クリスマスが平穏に終わった。

 今年はイブにプラカード持ちのバイトをしていた友人に会い、次の日はタイ料理の店に行き、平年に比べて楽しい時間を過ごすことができた。10代最後のクリスマスにふさわしい。

 

 私はいつも読書よりも、友人との会話を優先するようにしている。

 立派な理由は無い。そっちの方が楽しいからだ。

 頭の体操にもなるし、人との会話の方が案外役に立つ情報を得ることもできる。

 孤独は退屈だし、酷く寂しい。

 今年のクリスマスは孤独でなくてよかったと、心からそう思う。

 

 

 「ビリオタ」を書いてから、ちょうど1週間くらいになる。

 いくつか端折った場面はあるが、あれは全体的に一応実話である。

 

 「綺麗な話じゃ無いじゃないか!」と読んだ人が感じたのなら、それは私の受験や生活そのものが汚れているせいであって、読者の感受性がひねくれていることは一切ないので安心してほしい。

 そろそろ自分の行動を顧みて、綺麗な思い出を作りたいものだ。

 

 

 「ビリオタ」を書くに当たって、私はこれまで読んでいなかった「ビリギャル」を最初に読んだ。

 

 今更説明は不要かと思うが、「ビリギャル」はお嬢様学校に通っていたギャルが、そのうち清楚な服装をするようになり、慶應義塾大学に最終的に合格する話である。

 よくできた成功談だ。この物語に勇気をもらった受験生はそれなりにいるだろう。

 

 名前をパロディーしたが、「ビリギャル」と「ビリオタ」で違う点というのは結構存在する。

 中でも一番大きな違いは、いかに高校生活でこの二人が腐っていったか、ということだろう。

 

 「ビリギャル」は不真面目な友人に囲まれ、未成年飲酒や喫煙を繰り返し、勉学を放棄し、典型的な不良・ギャルとして腐っていった。

 一方、私はネットの大海で沐浴しながら、勉学を無視してオタク知識を頭に詰め込んでいった結果、徐々に腐っていった。

 

 「ビリギャル」は周囲の目に見える形で腐っていったが、「ビリオタ」は人知れず静かに腐っていった。

 そこが「ビリギャル」と私の、一番大きな違いだと考えている。

 

 「ビリギャル」には、学校の教師に「君はね、人間のクズだよ」と罵られ、激昂するシーンがある。

 私が同じことを高校時代に言われていたとしても、激昂できた自信がない。

 

 少なくとも高校時代の私なら、ニヤケ面を晒しながら「何言ってんだこいつ」という視線を教師に投げかけていたであろう。

 

 怒ることができるぶん、「ビリギャル」の方が救いがあるだろう。

 怒りというエネルギーを放出できるなら、まだまだ未来は明るいからだ。

 軽蔑に対して感情の波が立たないのは、本当にピンチである。

 まぁ、高校時代の私なのだけれども。

 

 

 「ビリギャル」の概要は知っていても、「ビリギャル」のその後を知る人は少ないと思う。

 

 「ビリギャル」は慶應義塾大学総合政策学部に合格した後、6万円かけて付け毛などをして、容姿を元のギャルに戻した。

 大学入学後はかの悪名高い広告研究会に所属し、サークル活動に勤しんだらしい。

 落単を繰り返し、留年ぎりぎりで卒論を書くことなく卒業し、最終的には大きなブライダル会社に就職した。

 その後、2年半でその会社を辞め、別のブライダル会社に就職。

 下北沢で居酒屋の店長をしている男性と結婚し、今に至る。

 

 「ビリギャル」のその後は「ビリギャル」ほど、輝かしい人生ではないのは一目瞭然である。

 慶応の広告研究会といえば集団強姦事件で有名だし、2年半で退職というと就職が失敗したように受け取れるし、下北沢にはホモしかいない。

 

 どう考えても、「ビリギャル」のストーリーに比べれば、その後の生活は見劣りする。

 

 要は、どこで区切って一つの物語にするか、ということである。

 「ビリギャル」は低偏差値の不良から慶應義塾大学に合格するという人生の一部を区切って、素晴らしい物語に仕立て上げたものだ。

 

 私だって、偏差値35の状態から3ヶ月程度勉強して関西学院大学に合格した。これでも宣伝文句にはなるであろう功績だと思う。

 私の大学受験も、一つの立派な物語に仕立てあげることができるだろう。

 

 だが、私がオカズをマイナーにしていき、どこのラインまで自慰行為に耽ることができるかという物語を仕立て上げたらどうだろうか。

 おそらく、売れない。ごく一部には需要があるかも知れないが。

 

 「ビリギャル」も、そうである。

 大学入学後のエピソードを「ビリギャル」に掲載していたら、売れ行きに多少の変化が見られたかも知れない。

 

 区切りによって、物語とそれに関わる人への印象は大きく変わる。

 「ビリギャル」がギャルのままであったら、彼女をクズと罵倒した教師にも多少の共感が集まったかも知れない。

 

 

 ある人生の一部で「ビリギャル」は勝者だった。

 ある人生の一部で「ビリオタ」は敗者だった。

 

 「ビリオタ」の最後にも書いた通り、勝者の物語も、敗者の物語もその後続いていくのだ。

 

 生きている限りは前へと進んでいくしかない。

 

 「ビリギャル」には「関西学院大学なんて慶應義塾大学の滑り止め、入試は楽勝だった」という記述があった。

 

 それを「ビリオタ」である私が読んだ時、無性に腹が立った。

 形容しがたい悔しさが、心中に立ち込めた。

 

 大丈夫、今は怒りが湧くようだ。そう自分に言い聞かせる。

 

 拝啓、「ビリギャル」こと「さやか」さん。

 私は敗者らしく、これからも頑張っていきます。

 大学受験や、編入試験が人生の目標ではないのですから。