きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

ぼくのなつやすみー暇潰し編ー:エイリアン的キャンパスライフ

9/3 曇り

 

 気づけば、編入試験まで二ヶ月ほどになった。なので、最近は英文読解をしたり、心理学の基礎を固めたりしている。勉強ばかりの日々である。

 これほどのやる気を高校生の時に発揮できたなら、東大にでも合格することも不可能ではなかっただろう。あいにく、私は自分の興味のあることにしか能力を発揮できない人間なので、それは叶わなかった。

 心理学を勉強するのは面白い。好きなものに出会え、それを生涯の職にできるかもしれない環境に感謝する。それを実現することのできる自分自身の圧倒的な才能にも感謝である。

 自分に対する自信の方が周囲への感謝を大きく上回っているので、周囲への感謝をすぐに忘れてしまう。酷い悪癖だ。

 

 九月に入ってから、サークルの合宿や留学に出発した人を多くタイムラインで見かける。彼らは皆楽しそうだ。こういう写真などを眺めていると、自分の大学生活とは何だったのかという気分になる。

 私はサークル活動に没頭することもなく、留学に出かけて西洋諸国の雰囲気を肌で感じ取ることもしなかった。

 もちろん、サークルに没頭しなかったのには、広すぎる人間関係や集団行動が苦手だからという理由がある。

 留学に赴かなかったのにも、多大なお金がかかるということと、私にまだ外国で何かを得ることのできる感受性やスキルが備わっていないという理由がある。博士課程に進学する頃に、カナダかイギリスに留学したいという淡い思いも私の中にはある。

 ただし、それらの理由が私にとっては正しいものであっても、社会にとってはどうなのかという疑問が心中にわだかまっているのだ。

 

 私はかねてより、社会的に正しいという価値判断よりも、自分の価値判断を優先させてきた。実際そのことで後悔したことはないし、今後もそうであり続けるだろう。

 だが、それによって所謂『世間』からは、かなりズレてしまった。

 中二病的だと自分でも思うが、芸能人の結婚や不倫に全く面白みや興味を唆られなくなり、ほとんどの俳優の顔の違いがわからなくなった。

 近頃は「不謹慎」や「可愛い」の概念がわからなくなり、自分の価値判断を社会のそれと照らし合わせて語ることすら難しくなってきた。

 社会から見て、私の価値判断が相当狂ったものだというのは理解しているのだが、自分のこれを変えるつもりは全く湧かない。「自分の価値判断は正しいはずだ」という自負があるからである。めまぐるしく変化する社会に価値判断を委ねるよりは、自分自身に判断基準を設けておいた方が信頼できるからだ。

 しかし、所詮個人的な正しさであって、それは社会的には超マイノリティな考え方のはずである。人間は社会的な生物であり、社会との相互作用からは逃れられない。

 

 自分の大学生活は社会からしてみれば異質である。毎日読書に耽り、編入を志し、思想をネットに垂れ流すなど、一般的な大学生であるはずがない。

 「一般的」という言葉の恐ろしいところは、そのイメージに向かう引力が発生するところである。「そうあることが当たり前」という考えは、同調圧力にも似ていて、それに従わない者には凄まじいプレッシャーがかかる。

 人と違う生き方は辛い。それは自らの生活に共感を示すものがおらず、承認欲求に飢え、孤立した時間が多いからだ。

 私は今日も「自分はまだ進むことができる」という根拠のない自信を源にして勉強を続けている。自分の未来くらい、自分で定義をしたい。

 

 今日は日記を「賢者屋」というところで書いた。意識高い系の大学生がミーティングだのなんだのをするという学生限定のフリースペースだ。

 世界を変えるアイデアは大抵一人かコンビから生まれる、私はこうはならないぞ。

 そんな醜い闘争心を燃やしながら、今日も一人勉学に励む。