きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

愛飢え男

5/26 晴れ

 

 最近になって学習指導のアルバイトを始めた。

 小中学校に行って、ICT教材を使って生徒に問題を解かせる、という形式のものをやっている。

 生徒の情報がペーパーレスを求められているのに対して、私たち講師の勤務報告書などは書き込み式なのが不合理を感じるが、全体的には楽しいバイトである。

 

 あれだけ働きたくないと喚いていながら、現在は3つもバイトを掛け持ちしている。

 自分の勉強する時間が少なくなったので、少しシフトを余裕のあるものにしようと思う。

 

 

 周りで恋愛が頻発している。

 人肌恋しい季節はとっくに過ぎたはずなのに、大学三年生にもなって恋愛ブームが巻き起こっている。

 これがゼミ分属の力か。

 それとも春が人間の発情期なだけか。

 

 ガチなことを言うと、人間の発情期は動物の中でも珍しく、存在しない。

 それがどのように人間の生存に役立ったのかは、よく分からない。

 人間は社会的生物である以上、集団で交配の機会を探るには一過性の発情期では不利になるだけだったのだろう。

 

 人間の近縁種であるボノボ(ピグミーチンパンジー)なんかは、万年発情期であるどころか、オスもメスも関係なく、喧嘩からの仲直りなどで日常的にSEXが行われる。

 実際のところ、ボノボの発情期は一年中ではないのだが、発情期でもないのに、発情期のサインである性皮 (股の皮)の肥大化が見られる。

 このことは、チンパンジーで行われているような、発情期のメスを巡ってオスが争うという事態を抑制している。

 オス同士、メス同士で盛り合うことも、彼らにとっては日常的である。

 

 そのような近縁種がいながら、なぜ人間はエロを日常から遠ざけ、禁忌にしてしまったのだろうか。

 そういえば、中世日本など多神教を土着化してきた民族では、あまりエロが禁止されることはないらしい。

 むしろエロに寛容でさえあるのだ。

 

 だが、西洋的価値観や文化の流入によって、日本でもエロがタブー視されるようになったという。

 エロのタブー視は、文化が人間の思考に影響を与えるという好例である。

 自身の感情そのものに対する疑念を抱かせない、その無意識性こそが文化や集団規範の持つ強みであり、恐ろしさでもあると思う。

 私はそこらへんがすっかり分からなくなってしまった。

 

 

 私もしばらくは「彼女欲しい、彼女欲しい」と闇に呻くグールだったわけだが、最近はそんなことをめっきり口に出さなくなってしまった。

 恋愛を話の話題に出すのも疲れてきたし、自分の恋愛感情がただの性欲や、孤独を埋め合わせるもののように思えてきたからだ。

 それに、別に子孫を残さなくても、より多くのものを生み出せる方法が私にはあるのでは、と考え出したのだ。

 

 GeneではなくMemeを残す。

 それは私に限らず、誰もができることだ。

 

 もはや、恋愛を過度に神聖化することも必要がないように感じられた。

 結局は、私が交際相手を求めてモゴモゴしていたのも、一般大衆を真似た健常者への擬態の一環だったのかもしれない。

 世間と自分の解離を身に沁みて感じるこの頃である。

 

 

 こないだ、彼女ができる夢をみた。

 彼女といえども、姿形はぼやけていて、はっきりとしなかった。

 

 朝に、どこかは分からない純白の大理石で造られた綺麗な街で待ち合わせをして、水族館に行った。

 ミュラー・リヤーなどの錯視が描かれた体をくねらせて泳ぐ数多のウツボを彼女とともに眺めた。

 彼女のその横顔も、もやのようで思い出せない。

 

 水族館を出ると、隣にいたはずの彼女が消えて、夢から覚めた。

 なんだか、虚無を連れ回していた気分である。

 

 中身のない夢だったが、目覚めは良かった。

 それだけである。

 

 

 今宵も、夢の中で虚無と共にどこかを歩きたい。

 いつも通り、中国人がよく分からない果物をひたすら齧っている動画を見ながら、眠りに就く。