きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

ぼくのなつやすみー祟殺し編ー:障害者はサーカスの見世物か

8/27 晴れ時々曇り

 

 予定が実存しない日々。

 今日は大阪大学に編入試験の願書を取りに行った。

 正直なところ、大阪大学に合格し編入すること、関西学院大学にこのまま在籍し続けること、そのどちらがより良いのかはまだ分からない。

 まあ、そんなつまらぬ問いは、一年後の自分がとうに答えてくれているはずだ。どちらにせよ、現状を盲目的に肯定しているか、過去の自分(主に現在の私)を恨んでいるかだろう。

 せめて、悔いがないように万全の態勢を以って編入試験に挑みたいものだ。

 

 昨日は24時間テレビが放映されていた。受信料という、日本国民からの多大なる『愛』で成り立っている某放送局からさえ、「感動ポルノ」と一蹴されたあの番組だ。

 24時間テレビでは毎年、身体障害者精神障害者になんだかよく分からないチャレンジをさせている。

 ダウン症の人にアイドルグループのダンスを踊らせたり、義足の少女に山を登らせたりしている。ともかく、彼らの負っているハンディキャップを乗り越える、という挑戦がほとんどだ。

 それのどこが感動するのかは私には理解できないが、世間で一定の評価を得ているのは確からしい。自らの弱みを乗り越えることなど、人間社会では日常茶判事の出来事のはずなのだが……。

 いっそのこと、彼らに弱点を克服させるのではなく、得意なことをやらせてみてはいかがだろうか。

 ダンスや山登りなど、これらの挑戦は健常者が日常的に行なっている営みである。今も地球のどこかでは健常者が山登りを楽しみ、どっかのサークルではギリギリ健常者がダンスを楽しんでいるはずだ。

 24時間テレビを、健常者が障害者の日々の営みを体感する番組にしてみても良いかもしれない。それも、健常者視点からの傲慢かもしれないが。

 

 障害者の挑戦が感動を呼ぶ一方で、私たちの日常世界では、障害者についての話題がタブー化されているように思われる。

 それは障害者について触れることについて、社会全体の雰囲気が過敏になっているからだろう。

 現実に、健常者の身体特徴を諧謔することは許される風潮が社会には漂っているが、障害者の障害をネタにすることは許されてはいないように感じる。とすると、障害者について健常者と同様に語ることは、非常に難しいと言えるだろう。

 倫理観を殴り捨ててれば、ダウン症に特有のあの顔も、彼らが総じて坊主頭であることもネタにすることはできる。しかし、それをしてしまっては、周囲の反感を買うこと必至なので個人的に控えている。

 人間は自分や相手の容姿・精神を、ユーモアを以って表現し、時折そのユーモアに傷付けられながら生きている。先天的・後天的に、健常者から逸脱してしまった障害者も、このユーモアから逃れることはできない。

 ダウン症などの、先天的な障害を持つ人たちには、サーカスの見世物になってきたという歴史的経緯がある。テレビという現代のサーカスの中で、障害者が感動を呼ぶという構造は、障害者に対する娯楽の新たな形と捉えることができるだろう。

 

 テレビをつければ、誰もが道化師を飼いならすことができる。そんな現代において、障害者も24時間テレビのように、新たな現代のサーカスの見世物となり得る。

 彼らを見世物でないように、健常者と同じように扱うことは、本当に可能なのだろうか。

 そのためには、障害者・健常者という枠組み以前に、より大きな枠で人間を捉え直す必要があると私は感じる。

 ヒトの学名はホモ・サピエンス、「知恵あるヒト」の意味であるが、異常に知能指数の低い人たちは、「人間」を規定する枠から抜け落ちてしまうのではないだろうか。

 より包括的な、たとえ四肢が欠損していても、染色体に異常があったとしても、身体と精神の性別が異なっているとしても、障害者が真に「人間」たり得るような、新しい「人間」の定義が必要だ。

 それは、障害者が「障害者」という枠から自由になる事とともに、健常者が「健常者」という枠から自由になる事に対しても助けになるだろう。

 「健常者」の自虐ネタのように、「障害者」が自虐ネタを発した時も違和感なく爽快に笑うことができるような、そんな社会が訪れることを願っている。