きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

ばぶー

8/8 晴れ

 

 東大での三日間の集中講義が終わって、冷たい毎日が帰ってきた。

 

 Stanコードの構文や、ベイズ統計モデリングの数学的背景が少しは理解できたような気がする。

 まだまだ知識不足が否めないので、復習や自学習が必要である。

 

 高校の頃に数学をサボったツケを、今になって払わされている。

 かつての偏差値35は伊達ではない。

 せめて志は高いまま、キープしていこう。

 

 最近は、また塾講のバイト漬けの生活を送っている。

 統計と英語を勉強する時間は、意地でも確保したい。

 

 

 心理学の勉強をまったりと始めてから、二年半が経った。

 

 大学受験が終わってすぐ、私は心理学関係の本を読み始めた。

 

 ついでに、最初に手に取った心理学の本は「グラフィック心理学」だった。

 心理学の基礎知識が、多くの図解をもって分かりやすく説明されている一冊だった。

 「この選択は間違っていなかった」と今でも思える良書である。

 

 

 高校生の頃、私は勉強をサボりにサボっていたので、大学生からは本気で学問と向き合ってみようと、自分を奮い立たせていた。

 

 高校で勉強を頑張って、大学で遊ぶのが日本のステレオタイプ的な学生生活だと思うのだが、私はそれに真っ向から逆行しているようだ。

 どちらの人生もアリだと、今では思える。

 

 それは、現在の私が比較的退屈に心を蝕まれていないからだろう。

 そのうち、またヤリサー叩きでも始めてしまうかもしれない。

 

 退屈は本当にいけない。

 これに心をやられると、何事にも価値が見いだせなくなる。

 

 ある意味それも一つの現実のようだが、夢見心地で生活する程度が、ちょうどいい気がする。

 

 

 ともかく、18歳の始まりから今に至るまで、私は淡々と勉学を進めてきたつもりだ。

 それでも、頻繁に自分の知識不足を感じる。

 

 例えば、教授と話する時などは、自分の知識の軽薄さと、相手のこれまで積み重ねてきた鍛錬のあまりの差に、言葉を発することが難しくなる。

 自分の発言のすべてが薄っぺらく、つまらないことのように思えてくるのだ。

 

 東大での集中講義の際にも、自分の知識不足を感じた。

 Rといったソフトウェアを日常的に使っていない(もしくは、そのような環境になかった)私は、他の受講生を前にあたふたするしかなかった。

 こういう時に、自分の無力さをしみじみと感じてしまう。

 

 

 こういったことを考えるときに、ある学者が学生時代、指導教員から貰った言葉を思い出す。

 

 それは「知的人生の始まりは18歳からだよ」というものである。

 

 この言葉を反芻するたび、自分のこれまでの勉学の積み重ねがたかが二歳児程度のものであるという事実を噛みしめている。

 

 知的人生を二十年以上生き延びてきた教授に歯が立たず、萎縮しながらあぶあぶ言うしかないのも納得できる。

 相手は知的人生の先達なのだから。

 

 私など、下手したら何かについて語る言葉すら獲得できていないかもしれない。

 

 集中講義で出会った人たちは、R歴を人生とすると、相対的に私の数歳先輩といったところだろうか。

 私に至ってはゼロ歳児である。

 もう喃語を発することしかできない。

 ンゴwww

 

 

 私の知的人生は始まったばかりであり、むしろこれからが正念場ということができるだろう。

 

 また、ある面では、私も誰かの知的人生の先輩なのかもしれない。

 ぼやっとしていると、すぐに発育が抜かされそうなので、私も負けじとすくすく育っていきたいものだ。

 

 知的人生の第一成長期のさなか、次に私が迎えるのは「いやいや期」だろうか。

 学部の先輩や院生を見ていると、何人か「学問いやいや期」に突入している気がする。

 

 私自身、手のかからない子供でありたいものだ。