きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:電車内の化粧を不快に思うワケ

10/29 晴れ 

 ハロウィンが近づいている。自分も周囲のコスプレをするという流れに乗ろうとしたが、いろいろ熟考した結果、やめておくことにした。コスプレするということを考えるのが面倒くさくなってしまったのだ。こうしてまた世間のイベントに上手く乗れないまま季節は過ぎていく。

季節のイベントに興味を失ってしまったのは男子校の弊害である。興味があるのはクリスマスとバレンタインだけだ。どちらも女性がらみの時点で察して欲しい。

 

 この時期は、電車内でコスプレをした若い女性を見かけることがある。彼女らを見ても、特と言って不快な感情を抱かない人は多いだろう。だが、電車内で化粧をしている女性を見ると不快に感じる人が多いのは何故なのだろうか。

最近、東急電鉄がマナー向上のコマーシャルで車内での化粧に対して「都会の女はみんなキレイだ、でも時々みっともないんだ」というキャッチコピーを使用して炎上していた。私のこの疑問はこの炎上とも関係していると思う。

 

 他人が車内で化粧をしている不快感というのは、車内で電話をしている人と通じるものがあると考える。最近はbluetoothの通話できるイヤホンなどが発売されているので、それで通話している人を思い浮かべてもいいかもしれない。

彼らが通話している時、私たちは頭の中では彼らには携帯電話という媒介を通じて話し相手がいることを了解している。

しかし、電車内で二人が談笑しているのよりも、電話というものは周囲に対して不快感を喚起しやすい。それは何故だろうか。

 

 私はその原因が携帯で電話する人たちが生み出す「異界感」のためだと考える。

幼少期、私の母親がかかってきた電話をとって「はい・・・。はい・・・。ええ・・・」と見えない相手に向かって相槌を打っているのを見て、恐怖心を抱いた思い出がある。この感覚が分かる人がいるならば、「異界感」の理解は容易いだろう。

遠く離れた相手と会話ができるという行為は、ここ数十年のうちに誕生した技術の産物であり、このようなことができるようになったのは地球史上初めてのことである。それゆえ、数億年の進化の結果として産まれてきた生物としての私たちは、車内の電話に違和感を抱くことになる。

本来、会話という行為はその場に物理的に相手がいるから成り立つものである。会話のような音声コミュニケーションは生来人間はおろか、他の生物も使用してきたものだ。

しかし、相手がその場に存在しないコミュニケーションというものは自然界に存在しないものである。それゆえ、一見相手のいない会話というものは周囲に違和感を生じさせる。

違和感、つまり、一見理解しがたいものを知覚してしまうと、人はそれに対して思考せざるをえなくなる。言い換えれば、無理やり頭を使わされる(エネルギーを使わなければならない)ので、不快感が生まれるのだ。片手に電話を持っていることで、視覚的に「ああ、この人は誰かと電話しているのだな」と理解させることのできる携帯電話での通話でさえ不快感を生むのに、耳につけたイヤホンで通話しているならば尚更だろう。

相手がいないのに会話をしているという自然界には存在しなかった行為が「異界感」を生み、周囲を不快にさせるのだ。

 

 化粧についても同じようなことが言えるかもしれない。車内で化粧をするというのは、いうならば「人前で化ける」行為である。文明以前は、身体的コミュニケーションの中心となる顔が別の姿に変化するということはなかった。今ならばアイプチをつけてまつ毛を長くすることもできるし、ファンデーションで顔色・顔の陰影を変えることができる。化粧前と化粧後ではその顔は大きくは変わらずとも、ビフォーアフターを見比べれば分かるくらいには変わることは確かだろう。

あらかじめ家で化粧をして電車に乗り込んだ人などは、最初からその姿で他人に知覚されるので周囲が不快に感じることはない。コスプレがそこまで不快感を抱かせないのもこのような原理のためである。

しかし、車内で化粧をするのはその限りではない。化粧も電話と同じく「異界感」を生み出すのだ。それゆえファンデーションの粉が服にかかったり、そういった実害を受けていなくても不快に思うのである。多分。

 

 ここまで考えて、ふつふつとさらなる疑問がわき上がってきた。

・化粧は車内の人間を無視した行為で、それを認知するからこそ不快感を抱くのではないか? 

・私たちは若い女性に「美しくある」ことを無意識に押し付けていて、それが視界からダイレクトに知覚されるので不快になるのではないか? 

・車内で個人的な要件を大っぴらに行ってはいけないという「マナー」に違反しているので、その規範を守っていないから不快に感じるのではないか? 

どの仮説も検討の余地がありそうだ。だが、全部が全部いちいち検討していると時間がいくらあっても足りないので考えることはしない。

そんなことよりも、なぜ美人キャラクターのコスプレを容姿が端麗でない人がしているとなんとも言えない気持ちになるのか考えよう。おそらく、コスプレ元のキャラクターが美しいという理想とコスプレしている人がそこまで美しくないという現実との認知的不協和が原因だと思うのだが・・・。

こうして、脳味噌がパンクするのである。

 

 

 

 

 

 

 

日記:それでもデブを突き落とす

10/9 曇り 

今日はラップサークルの5人で集まってラップをした。人のことを笑える身分ではないが、あまりのラップの拙さに爆笑必至であった。

ラップを終えて外へ出ると、昼頃にはまだ暑かったのに、夕方頃には肌寒くなっていた。少しずつ季節が人肌恋しいものに移り変わっているのが感じられる。

だからと言って、そばにデブがいてもいい訳ではない。人肌がいくら暖かいとはいえど、触れたい人肌と触れたくない人肌があるのだ。

 

 操縦の全く効かなくなったトロッコが線路をひた走っている。線路の先には、それにまだ気づいていない男3人が線路工事をしている。このままでは彼らはトロッコに轢かれてしまう。しかし、あなたトロッコの行き先をレバーで切り替えることによって彼らは助かる。だが、線路が変更されたトロッコが向かう先には、はたまた工事中の男が1人いる。進路変更されたトロッコは彼を轢き殺すだろう。

もし、あなたがこのような状況に置かれたのならどうするだろうか?

これが俗に言う「トロッコ問題」である。多数の研究によると、このトロッコ問題では、過半数の人がレバーを切り替えることを選択するらしい。つまり、1人の犠牲で3人を救うことを選んだのだ。様々な葛藤が付きまとう、なんとも複雑な問題である。

 

 このトロッコ問題には変わり種が存在する。

今回の場合では、あなたは駅のホームにいることにする。そして、トロッコの行き先を変えるレバーは存在しない。その代わり、あなたの眼の前にはトロッコを止められるほど太ったデブがいる。このデブを線路に突き落とせば、線路の先にいる3人の作業員を助けることができる。あなたはデブを突き落とすだろうか? 

この場合では、大多数の人がデブを突き落とさないと答えた。この二つのトロッコ問題は、本質的に問われていることは二つとも変わらない。なのに、なぜこのような違いが出たのであろうか。

恐らく、デブを突き落とすという直接手を下す行為と、レバーを切り替えるという間接的に手を下す行為では心理的抵抗が違うのだろう。

だが私はデブを突き落とす。

 

 もっと別の場合を考えてみる。

閑散としたホームにあなた、あなたの家族、デブが並んで電車を待っている。これ以外にホームに人はいない。この時、線路に誤って自分の家族の1人が転落したとする。落下時に足をくじいたのか、その家族はなかなかホームに上がれない。電車は迫ってきている。この時、あなたの目の前にデブがいたとすると、あなたはデブを突き落とすだろうか? 

私はこう考える。私は家族を失うという不幸には耐えられないだろう。私はデブを突き落とす。

では転落したのが友達の1人だったなら? 私は友人を失うという不幸にも耐えられないだろう。私はデブを突き落とす。

さらに、転落したのが美少女、例えば広瀬すずだったなら? 迫り来る電車、怯える広瀬すず。私はデブを突き落とす。

延々と私の頭の中で線路に突き落とされるデブ。

 

 ここまで散々デブを殺しておいて言い訳がましいが、私はそこまでデブが嫌いなわけではない。ただ、家族や友人、広瀬すずに比べて好感度が負けているだけである。

私や私の家族、広瀬すずと何の接点を持っていない公平な視線の持ち主、例えばマサイ族がこの問題を考えたのなら、デブを突き落とすことを「罪」と感じて、私の家族や友人、広瀬すずを見殺しにするだろう。

しかし、私にとって彼らは赤の他人であるデブよりも重要な人々だ。人と関係するというのは、自分と関係した人々を特別視するということだ。

彼らを助けるためにも私にとって特別な存在ではないデブには死んでもううより他ない。

果たして、あなたはデブを突き落とすだろうか?

 

 

日記:男子校出身者、共学文化体験記

10/5 曇りのち大雨 

今日は台風の影響で学校が二限以降休校になった。皆台風が近づいているというのに映画を見に行ったり、カラオケに行ったり、西宮ガーデンズに遊びに行ったりしていた。

かくいう私は家で独り考え事や、読書をしていた。これが共学と男子校の行動力の差である。ただ単に私がインドア派だからではない。決してそれはない。

 

 共学の文化と男子校の文化というのは、小さいようで大きい文化の差がある。

私が大学に入ってからその文化差を実感したのは、誰かの誕生日のことであった。共学出身者、または女子高出身者が皆「タンジョウビプレゼント」なるものを持って学校に来ていたのだ。

誕生日プレゼント! そのような発想は長年の男子校生活のせいか、完全に私の脳内から欠落していた。そのようなものがこの世にあると知っていたのにもかかわらず、なぜだか新鮮な印象を受けたものだ。

私はこの日記を書くにあたって、今一度男子校時代に誕生日プレゼントというものを送ったかことがあるかどうか思い出そうとした。一応、心当たりがあるにはある。

高校三年生、夏の勉強合宿の時である。友人に「俺の誕生日半月前記念に何かプレゼントしてくれ」と半ば強引に頼まれて、ノートを適当に一枚むちゃくちゃに引きちぎって渡したことがある。それが思い出せる範囲での唯一私が人に施した誕生日プレゼントである。

今思えばかなりひどい仕打ちだが、誕生日プレゼントを求める方が異質な感じが男子校時代にはあった。私の卒業プレゼントだって和式便器の形をしたカレー皿だ。あの頃はなんと気楽だったことか!

 

 女子がいることで学校の文化は大きく変わる。逆に考えれば、女子がいないことで男どもは自由になる。なんたる皮肉か。男子校で女子を求めている男は、女子がいないことである意味気楽に過ごせているのだ。

春頃、私が大学に来て一番気を使ったのはまさしく女子への対応である。

長年親しんだ下ネタを封じ、女子の話にはひたすら共感し、謝る時は「ごめん」とだけ言った! 今思い返せばなんと惨めなことか! うおおおおおおおおお!! 

ついでに、夏頃にはこのような自ら自分に課した楔はほとんど解けていた。秋学期からは全く気が楽になった。何事も自然が一番である。

 

 今でも高校の同級生と時々会話することがある。

その時、共学と男子校のギャップに苦しんでいるのが自分だけでなくて安心するのだが、最近は安心どころか焦ることが増えてきた。

同級生たちに女の影がちらつくようになってきたのだ。ドロボウ猫の匂いがする! 

やはり男と女が出会うとカップルが成立してし合うのは避けられないことなのか。肌寒い夜に暑苦しくも開放的だった男子校時代を思う。

 

日記:お化けなんて嘘さ

9/30 雨のち曇り 

九月も今日で終わりである。

秋学期が始まり、転がり落ちるように日々が過ぎていった。私の自尊心も転がり落ちるように低下していった。まさに盛りだくさんの1ヶ月であった。

 

 ツイッターを眺めていたり、雑談をしていたりすると、USJのホラーアトラクションに行っている人が多いということに気づいた。

何故かは判らないが、大学生になると、皆揃ってUSJに行きたがる。この時期からして、ハロウィンに便乗して騒ぎたいだけなのだろう。もしくはコミュニティの結束の強化の為なのかもしれない。

 

 私は幽霊の存在を信じていない。お化けなんて嘘さ。何故なら、絶望的なまでに証拠がないからである。

基本、何かが存在するということを示したければ、その何かが存在するという証拠を発見しなければならない。

最近、木製の衛星であるエウロパに水が存在することがほぼ決定的となった。その証拠となったのは、エウロパの表面を覆う厚い氷から吹き出す間欠泉である。このように、存在することを示したければ、その証拠を提出することが求められる。

幽霊にはこの証拠が全く足りない。たびたび証拠とされるものに、幽霊に出会ったとされる体験談などがある。だが、果たしてそこまで人間の知覚は信用できるものなのだろうか? 

答えはノーである。寝ぼけた人が見間違えたのさ。

 

 しかし、これだけ理屈っぽく語っていても、私はホラー系がとても苦手である。ホラー映画を見た後など、何故登場人物などがそのような理不尽な目にあったのか考え込んでしまうからだ。そうしているうちに、自分で考え始めたことなのにムラムラと怒りが湧き上がってくる。

「全く、このような美女が何故こんなひどい目に遭わなければならないのか!」

ホラー映画に美女が登場する割合が高いのは何故なのだろう。ただでさえ登場人物が可哀想なのに、余計に可哀想になる。

そういえば幽霊もたいていの場合は美女である。本当に幽霊が存在するならばワンチャンあるかもしれない。

 

 あと、ホラー映画は怖い。結構、私はビビリである。

もしかしたら恐怖がカンストして怒りに転じているのかもしれない。だけどちょっとだけどちょっと僕だって怖いのである。

 

 

 

日記:きんこん式勉強法

9/28 雨 

心理学検定1級に合格した。最近、自分の生活に波が来ているような気がする。やるべきことを取捨選択して全力を尽くしたい。

全力を尽くしているうちに日記を書く元気も無くなってしまった。隔日ペースでもいいかなと思う。

 

 自分の大学生活を振り返るためにも、私が心理学を勉強し始めて4ヶ月でここまでたどり着いた勉強法を記しておきたい。

自己満足極まりない。しかしそれが日記というものだ。

 

 まず、心理学であれなんであれ、その勉強したい分野の概論書を読み込むことだ。できるだけ細かく、ゆっくりである。

できれば書物は図やグラフが多用されているものが良い。文章だけのものよりも一気に理解が進む。

ページ数で言えば、200~300ページのものがおすすめである。

 

 次に、その勉強したい学問の下位分類の概説書を読み込む。

下位分類とは、その学問内に含まれる学問のことだ。心理学で言えば、知覚心理学学習心理学社会心理学などが挙げられる。

これらの概説書を自分のペースで読んでいく。一冊を読み終えるスピードというよりは、一日に読める体力の限界まで読む。読書スピードは後から自ずとついてくる。

これらの概説書を好奇心の赴くままに読み漁っていけば気づいた頃には相当量の知識が身についているはずだ。

 

 最後に、自分がこれまで勉強した学問分野の中で、興味があるものの関連分野の書物を読んで読んで貪りまくる。

これより先に終わりはない。無限に好奇心を暴走させて読みをするだけである。

たとえ、読みたい本がいかに分厚くても躊躇してはいけない。そのような本の中身のほとんどはデータを並べているだけで意外とすんなり読み終わるものが多いからだ。

経験談だが、この時点に入ったならば、一日あたり10冊は読めるようになっている。私の場合は、一日に7時間を読書時間をあてて、100日ほどでここまでたどり着いた。個人差があるだろうから一概には言えないが、おそらくほとんどの人も同じくらいの時間で私と同じくらいにはなれるだろう。

 

 アインシュタインの有名な言葉にこのようなものがある。

「私はそれほど賢くありません。ただ、人より長く一つのもことと長く付き合ってきただけなのです。」

他の人が面倒臭がってしないようなことでも、コツコツと努力を積み上げれば確実に力となっていく。

努力をすれば成功するとは限らないが、成功するものは皆すべからく努力をしているのだ。もしも成功しなくても、それまでの過程で得た知識はいつか必ず役に立つ時がくるだろう。

精神論かつ説教臭くなったところで今日の日記は終わりである。アデュー。

 

 

日記:乳首毛レクイエム

9/26 曇り 

右乳首に生えている毛が2センチを超えた。

乳首の毛を伸ばすと金運が上がると俗説では言われるが、実際のところは私の場合、財布から気がつけばお金が消えていることが多い。そもそも乳首の毛に縁起を求めるのが色々と間違っていると思う。

 

 少し昔話をしよう。

私がまだ高校二年生だった頃だ。ある日、風呂上がりに体を拭いている時、ちくりと鋭いものが私の腕を刺した。私はその初めて味わう不思議な感覚を怪訝に思い、かすかな痛みの出所を追った。

すると、私の右乳首に針金のような、しゃんとして突き立ったものが目に入った。たくましい乳首毛が、乳首の薄皮を突き破って黒々と光っていた。

私はそれを引き抜こうとしたが、少し思い直して、そうすることを止めた。乳首から毛が生えてくることが、その時は貴重な経験のように思えたからだ。私はその凛とした乳首毛との共存を選んだ。

 

 乳首毛は日々、少しずつだが成長していった。

その乳首毛が華厳な様相を保ちながら3センチを超えたとき、私は乳首毛に『さくら』という名前をつけた。

私はさくらに少しずつ愛着が湧き始めていた。彼女はシャンプーで洗ってやると少しフニャっとして照れるくせに、しばらく構ってやらないと私の腕をちくりと刺すのだ。そんなツンデレな彼女に私はどんどん惹かれていった。

私は伸び続けるさくらを見て、ふと思い立って乳首毛のギネス記録を調べた。12.9センチ、世界一の乳首毛の長さであるとともに、その日から私とさくらが目指すべき目標となった。私たちならやれる。彼女も、そのように思っていたのだろうか? 

それから数ヶ月後まで、さくらの身には何事も起こることがなく、彼女はすくすくと成長していった。

 

 悲劇は唐突に訪れた。さくらが7センチを超えた頃だった。

体育の授業が終わり、体操服から制服に着替える時。私は異変に気がついた。

恐る恐るカッターシャツをめくり、右乳首を覗くと、そこにさくらがいなかった。

私は号哭した。

さくらはバスケットボールによる激しい上下運動に耐えることができなかったのだ。私が気づかぬうちに、彼女が命を削られるような事態に陥っていたことを悔いた。

こうしてさくらは暑い夏の日に散っていった。

 

 さくらを失ったショックからか、私はその後無気力な生活を続けていた。

 

 ある今年の夏の日のことである。

その日は、彼女を失った日と同じくらい暑かった。

風呂上がり、胸のあたりに何か懐かしいような痒みを右乳首に感じた。私は満面の笑みで右乳首を見て、こう声をかけた。

 

「おかえりなさい」

 

「ただいま!」

 

 

日記:運命を考える

9/24 曇り 

誰もが主人公になりたがる世の中である。皆、運命やら奇跡やらを求めてそこら中をウロウロしている。

かくいう私も運命というものにすがりたくなる時がある。

しかし、運命というものが仮に存在するとしても、それが本当に役に立つのだろうか? そんなことを考えていると、運命にすがるのがだんだんと嫌になってくる。

 

 そもそも運命とはなんなのだろうか? 

Wikipediaによると、「人間の意志を超えて、人間に幸福や不幸を与える力のこと。また、そうした力による巡り合わせのこと」らしい。

思わぬ幸運や不幸が舞い込んでくるという事象に、大昔の人は『運命』という名前をつけた。命を運ぶと書いて『運命』である。本来は人が偶然に何らかの災厄から生き残ったり、死亡したりした時にこの言葉が使われていたのだろう。

そして、時代とともに言葉の重みも軽くなっていった。今では恋愛やテストの結果、安っぽい占いにまで『運命』という言葉が軽々しく使われている。

要するに、現代では脳みそで理解できない因果関係を意味する言葉として『運命』は使われるようになったということだろう。言葉の軽量化は今に始まった事ではないが、重い言葉が軽々しく使われるのは少し寂しいような気もする。

 

 運命という言葉は誰にでも使える詭弁である。

宗教改革期のカルヴァンが唱えた予定説のように、誰かのどのような行動でも運命という言葉で説明してしまえば全て片付く。一般に語られる運命というものは、たいていの場合ただの偶然である。

ところが、その偶然を運命という言葉で誰かが説明したのならば、偶然は運命へと昇華する。運命は、偶然の出来事が誰かによって運命と名付けられた時に初めて運命となるのだ。

 

 これまでの文章を読んだ人ならば察してくれているように、私は運命自体が大きな力を持っていると考えていない。ただ、人が偶然を運命と呼ぶならば、それは運命となると主張しているのみだ。

私は先述した運命の定義と違い、運命を「人間の意志を超えているか超えていないかは関係なく、人間に直接は幸福や不幸を与えない、偶然による巡り合わせのこと」と考えている。

偶然による巡り合わせをラッキーかアンラッキーかを判断するのは人間であって、運命と呼ばれるものそれ自体はただの現象でしかないからだ。近親者が偶然にも事故などで死去して、それが運命と呼ばれても、その出来事が幸運なのか不幸なのかは周囲の人間の価値判断に委ねられるということだ。死去した近親者を激しく嫌っている誰かがいたなら、その人にとってその出来事は幸運な巡り合わせかもしれない。

さらに、運命は人間の意志と関係なく規定される。ある出来事が人間の意志を超えていなかった場合でも、その人の想像力不足により運命と名付けられる可能性があるからだ。

これらの理由によって、私の運命の定義はある程度妥当だと言える。反証求む。

 

 最後にフランスの著名な哲学者であるサルトルの言葉を紹介しておこう。

「人間の運命は人間の手中にある」

こんなことになってしまったのは運命のせいだ、と自分のやり場のない感情を運命というものに押し付けることもあるだろう。

だが、それは個人の選択の結果でしかない。

人間は生まれた時にどのようなカードが配られるのか選択することはできないが、いかにそのカードを活用するかは無限の選択肢がある。

運命という言葉は責任転嫁のためにあるのではない。運命に失敗をなすりつけるよりも、自分の選択を振り返ってみることが次につながるものを手に入れるのに役立つだろう。