きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:ひとりぼっちの戦争

12/24 曇り 

 いよいよクリスマスイヴである。非モテ男三人衆でカレーを食べに行ったり、大学で勉強したりと、これまでの人生で一番充実したクリスマスイヴだった。

「クリスマスまでに彼女を作る」と宣言して早3ヶ月。時間の流れはあまりにも早すぎた。少なくとも私が目視できない程には。

 

 『クリぼっち』という言葉がある。

休暇前は友達とワイワイはしゃいでいたのに、クリスマスになって独りの時間が確保できるようになると、自分が一人でいることに対して自虐を始める人たちのことでだ。

この言葉はキョロ充たちの卑屈・卑怯・貧弱な精神が垣間見えるので嫌いだ。メディアも今年から急にクリぼっちに便乗するようになったので、余計に腹が立つ。

「私はクリぼっちだ」と周囲に喧伝したところで何になるのだろうか。君達には仲間がたくさんいるではないか。寂しすぎて死んでしまった、ホンモノのぼっち達が草葉の陰で泣いている。

 

 本当にクリスマスが嫌なのなら、徹底抗戦をすればいい。

今年は、クリスマスツリーを爆破し(ゲーム内で)、クリスマスを祝わないインドのカレーを食べ、決してクリスマスムードに己が染まらないような行動を起こした。結果、普段よりも、今日という日を充実させることができた。

それ以前にも、通行人の間を縫っては単結合を繰り返すカップルに啖呵を切り、毒々しい科学の光を放つイルミネーションを「誘虫ランプ」とバカにし続けてきた。

クリスマスに予定がないからなんだというのだ、もともと日常的に予定が入っていないではないか、と吐き出し口のない憤怒を体の奥に溜め込み、自家中毒を起こしかけたことすらあった。

そんな争いの日々も今日で終わる。明日まで騒ぎ続けることができる体力を持ったカップルはそういないだろう。なぜなら今夜はあの悪名高い性夜だからだ。以下コピペである。

 

 12月24日の午後9時から翌25日の午前3時までの6時間は

 1年間で最もセックスをする人の多い「性の6時間」です。

 貴方の知り合いや友人ももれなくセックスをしています。

 普段はあどけない顔して世間話してるあの娘もセックスをしています。

 貴方が片想いしているあの綺麗な女性もセックスをしています。 

 貴方にもし年頃の娘さんや姉・妹がいて、いま家にいないのでしたら間違いなくセックスしてます。

 貴方と別れたあの娘も貴方がその娘にやってきたことを別の男にやられています。

 貴方の将来の恋人や結婚する相手は、いま違う男のいちもつでヒィヒィ言っています。

 すべてを諦めましょう。そして、ともに戦いましょう。

 

 こんなことがあってはならない! 道徳心の腐敗、秩序の崩壊である!

報復として、今夜、全リア充の所持するコンドームに穴を開け、9月中旬に生まれる子供の数を爆発的に増やす計画を実行する予定だ。その片手間にサンタ狩りを実施する。子供たちへのプレゼントは全て快楽天に差し替える。それが私の望むクリスマスである。

今日も今日とて愛銃のH&K MP5が火を吹く。ひとりぼっちの戦争は始まったばかりだ。

日記:大学生は自由なのか?

12/23 晴れ 

 いよいよクリスマスである。

自分の英語力の低下にショックを受けたので、勉強を再び始めることにした。大学受験ぶりに、英語の長文をバカ真面目に読み、分からなかった単語をノートに記録していった。

大学に入ってからの勉強は、受験に追い立てられていた昔とは違い、まさに自分のためにしているといった感じがして嫌な気分にはならなかった。自己満足に何かをするというのはつくづく最高の贅沢だと思う。

 

 高校生時代、教師からよく言われたことの一つに「大学生になったら自由になる」という言葉がある。受験生に対して、金言のように繰り返されるこの言葉だが、最近、本当にそうなのだろうかと考えるようになった。そもそも、『自由』とは?

小論文の問題に「〜について自由に書け」という形式のものがある。「自由に書け」と言われていても、自由に書いてはいけないというジレンマをこの問題形式は抱えている。

「〜について自由に書け」と言われた時は、たいていはその問題に関連した自分の経験を踏まえた具体例を示さなければならない。そうしなければ、良い点数をとることができないだろう。

点数を取らなければならないという制限が付いていれば、とても『自由』に書いても良いとは言えない。小論文の場合は、良い点数をとるという目的のために、文章を好き勝手に書く自由を放棄しなければならないのだ。

 

 私たちは無意識的に自由を制限されていることもある。

例えば作文用紙を渡され、点数なども関係なく「自由に書け」と言われた場合はどうだろうか。

この命令に素直に従い、作文用紙に何かを書き綴るとしよう。この場合、マス目をまたいで大きく文字を書いたり、マス外にも文字を書いたり、作文用紙に絵を描くような人はまずいないだろう。それは作文用紙自体が、マス目の中に文字を書かせることを目的として作られているものだからだ。

ほぼすべての物は人にある行動をとらせるためにデザインされている。大人がペンを二本持って箸代わりにしていたり、つり革で懸垂をし始めるのを見たなら、私たちはその人達をバカだと思うだろう。

それは私たちがペンやつり革の使い方を幼い頃から学習して、体系的な知識(スキーマ)として脳内に収めているからだ。この知識のおかげで、私たちは一般社会で恥をかかないでいられる。

逆に言えば、「ペンは物を書くためのものだ」、「つり革は電車内で姿勢を安定するためのものだ」といった知識のせいで、自分たちの行動を、ものがデザインされている目的に合わす事を強いられているのだ。

 

 キャンパスライフでさえ、社会的規範・道徳によってデザインされている。

大学生は人と関わることを強いられ、課題を提出することを強いられ、そして他のどの年代よりも『自由』であることを強いられている。高校生が想像するような『自由』など、大学生活には存在しない。

大学生は制限された自由や、不自由の中で日々を過ごしている。その結果として、『自由』と『無秩序』を履き違える者が増えるのだろう。

 

 クリスマスを迎えようとしている今、周囲の様相は混沌を極め、無秩序な行為が社会に蔓延している。私もその混沌に巻き込まれているのは確かだ。

クリスマスに悶々としているうちに、今年も無秩序の渦に吸い込まれていく。

せめて自律を持って、今年くらいはこの季節を過ごしたいものだ。

日記:私のフェチズム

12/13 雨 

 寒い日が続く。

雨の日というのは、やたらと小難しいことを考えてしまう。人間の本性だとか、周囲の人々の心情を邪推してみたりだとか、とにかくいろいろなことを考える。

このようにして様々なことをずっと考えていると、色々な物事が嫌になってくるので、気晴らしに今日は自分が好きなことについて書いてみようと思う。私はこの世の物事の半数以上をおそらく毛嫌いしているが、好きな物事もそれなりには存在するのだ。

 

 第一に、黒タイツ。私は黒タイツがとても好きだ。

黒タイツは女性の柔和な脚部のラインをより一層際立たせる。黒という色が女性を美しく見せることも相まって、黒タイツを履いている女性は皆、綺麗に見える。

完全な偏見だが、黒タイツを身につけている女性にはクールな性格が多いような気がする。私はクールな女性も好きなので、黒タイツとクール女性の相乗効果は凄まじいと感じる。この組み合わせだけでご飯を何杯でも食べられる。無限にナムルも食える(?)。

 

 次に、悪堕ちが好きである。

悪堕ちとは、漫画やアニメのヒロインが敵側についてしまうアレである。悪堕ちしたヒロインは、たいてい服装が際どくなり、いかにも『ワル』っぽい見た目になる。あと、胸がデカくなる。

悪堕ちの真骨頂は、悪堕ちする前の清純なヒロインと悪堕ち後のヒロインのギャップである。悪堕ち前は快活な性格だったヒロインが、悪堕ち後には虚ろな表情を浮かべているのを見ると、感慨深いものがある。

一般作品ではそれほど演出されないが、可憐で純粋なヒロインが悪堕ちするまでの過程が描写されるのも、また一興である。また、悪堕ちしたヒロインが主人公側に戻る瞬間も結構好きである。ヒロインの気恥ずかしさや後悔が画面越しに伝わってきてゾクゾクする。

是非とも悪落ち好きの同志が増えてくれることを望む。

 

 さらに、クスクス笑いというのも好きだ。

女子中学生・女子高校生が、囁き声がギリギリ聞こえるような距離で誰かの噂話などに花を咲かせているのなどを見ると自然に昂ぶってくる。興奮必至である。

姿形は潔白な花である少女が非倫理的な行為にのめり込んでる容姿というのは、なかなかそそるものだ。悪と美少女というのは結構マッチングするのかもしれない。完全にドMの発想である。

 

 「好きなことを語る」と冒頭で述べたが、好きなことは好きなことでも、ただの個人的なフェチズムの話になってしまった。

先述したフェチの他にも、憑依・洗脳・催眠・言葉責めなども好きだが、これ以上語ると、ただでさえ低い自分の品格をさらに貶める羽目になってしまうので、ここは一旦黙っておく。

『様々なコンテンツの悪堕ちシーンをかき集め、いつかはデータベースを作り上げる』というささやかな野望を密かに抱いている。

もしこれが完成すれば、世界無形文化遺産への登録は確定したようなものだろう。世界に広めようフェチズムの輪。

日記:生き恥

12/7 晴れ 

 「逃げ恥」というドラマが巷で流行っているらしい。略称せずに言えば、「逃げるは恥だが役に立つ」というクソ長いタイトルになる。初めて聞いた時はラノベ新刊のタイトルかと思った。

私はあまりドラマを見ないタチなので、詳しいことは知らない。噂によると甘々な恋愛ドラマらしい。童貞の身には有害そうだ。

というか星野源の『恋』にしろ、AKB48の『恋するフォーチュンクッキー』にしろ、西野カナのほとんどの曲でもそうだが、何故曲の途中で踊り出すのだろうか。

確か、インド映画でよく役者が踊るのは、キスなどの性的なシーンが規制されたことによる代用らしいが、もしや踊るというのは性的なあれこれのメタファーなのではないか? そう考えるとなんだかみなぎってきた。

 

 最近、一周廻って恋愛という行為が何なのか分からなくなってきた。

大学生の間では無条件に恋愛は肯定されがちだが、そもそも、何故人は恋愛するのだろうか。SEXのためか、社会的に望ましい地位に就くためか、よりその人と親しくなりたいからか、それとも、恋することに恋しているのだろうか? 

おそらく、これら全てが恋する理由になる得るのだろう。生物学的見解をすれば、恋愛の末に子孫を残すのがヒトを含むほとんどの生き物の究極的な目的である。つがいを作り、共に生活し、一部は浮気をし、子を残し、朽ち果てていく。

 

 しかし、本当に恋愛は至上の価値となるのだろうか。

恋愛が人生の究極の目的に関連しているからといって、最高の価値があると断言するのは早計であると考える。その過程には異常愛・不貞・別れなどの様々な不確定要素が存在するし、恋愛がSEXに直系するとは限らないからだ。

そして、ありがたいことに、ヒトは他の生物とは違いミーム(文化的遺伝子)を後世へと残すことができる。何かを生み出したり、文化や技術を継承することはジーン(生物学的遺伝子)を残すことに匹敵する価値を持つ。

童貞であろうが処女であろうが、ミームさえ残せば生物としての役目は十二分に果たすことができるのだ。

 

 このように恋愛について悶々と考えていたらもはや恋愛行為に価値を見出せなくなってきた。結局は私もチンポコに従い漠然と「恋愛してぇ〜」と思っているだけなのかもしれない。

私以前の先祖はほぼ全員子孫を残せたという事実が今となっては疑わしい。残念ながら金こんにゃく家の家系図は私で終わりになりそうだ。もしくは養子をとるのもアリかもしれない。

一つ言えることは、私がこの日記で「生き恥」を晒しているということだろう。生きるは恥、しかも役立たず。超絶マイナス思考な標語が出来上がってしまった。

 

 

日記:あの日からの人災

12/5 晴れ 

 父親の勤めている某電力会社があの日以来、久しぶりにボーナスを出した。未だに我が家族は、あの日から東電の尻拭いを受け続けている。あの日が自分の誕生日と同じなので余計にタチが悪い。

原発のせいというよりは、某電力会社は東電とは別会社なのに、十把一絡げに電力会社を批判している面倒くさい人たちのせいで、私たちの家計は圧迫されてきた。それらの弊害も含めて、原発事故は「人災」なのだろう。電力会社の社員ですら、お客様の前では弱者となりうる。

 

 日記を書き込んでいるうちに、父親が高浜原発の視察に行ってきたときのことを思い出した。父は「燃料プールで泳いだらどうなるんですか」などといった阿呆な質問をしてきたらしい(真顔で「死にます」と返されたらしい)。

そのような体験談の中でも一番私の心象に残ったのは、原発の中心部に父が向かったときの、彼の感想である。原発の格納容器の近くは幾多ものシェルターに囲まれており、父曰く「世界で一番安全な場所だと思った」らしい。一歩間違えば、世界で一番危険になるはずの場所が「世界で一番安全」だとは、皮肉な話だと思った。

 

 実際のところ、いつ大地震が来るかはわからないので、油断は禁物である。次に原発メルトダウンすれば、ボーナスどころの話ではなくなるだろう。私の命すら危険にさらされるかもしれない。このような人災は、もうこりごりだ。

 

 ボケーッとダラダラと綴っているうちに、何の面白みのない天声人語のような日記が出来上がってしまった。とりあえずは京橋でフリーハグをしている人に抱きつきに行きたい。ただし女子に限る。彼女らはこのような植木鉢の下から這い出てきたような容姿の人でも暖かく抱擁してくれるのだろうか? 

いや、きっとそんな容姿の奥のピュアハートを彼女らは見抜いてくれるはずだ。私は抜く、彼女らは見抜く。それでwin-winではないか(?)

 

日記:変わらないもの探してた

11/23 久々の日記。急に日記を再開したからと言って、何か特別なことが起こったという訳でもない。平凡な日常である。

勤労感謝の日だろうが何だろうが、そこまで日常に劇的な変化は訪れないものだ。大学生になってから、あまり祝日にありがたみを感じなくなった。どうせ社会人になれば多忙になるだろうから、この4年間のモラトリアム期間を今のうちに吟味しておこうと思う。

 

 変化というものは大抵、ゆっくりと起こるものだ。

この前、中学以来しばらく会っていなかった友人に、身長の急激な伸びを驚かれた。私は高校時代の3年間で、約25cmも身長が伸びていた。

友人にとっては、3年ぶりに私と会ったので、中学時代の私との身長の変化が大きく感じられたかもしれない。しかし、私は私自身の姿を日々鏡などで見ているので、それほど自分の身長が高くなったという実感が湧かない。正直、今でもあまり自分の身長が約180cmだという感覚がうまく掴めていないのだ。

自らの身体感覚と、周りから見た自分の外見が一致していないというのは、考えてみればなかなかに奇妙なことだ。自分の変化は他人の変化よりも気付きにくい。それはまさに、自分の変化は自分にとって、とてもゆっくりと起こるものだからだろう。

 

 こんなことを考えているうちに、私は気まぐれを起こして、ちょうど1年前頃の日記を読み返してみた。

結果から言えば、現在の私からはひっくり返しても出てこないような言葉ばかり綴られていた。

その他にも、モノクロの同人誌を読みすぎたせいか、『女性の乳首は黒いものばかりだ』などと、生で見たこともない女性の乳首に対して勝手に絶望していたりもした(1年後の私も生で女性の乳首を見たことはないが)。

日記とは、その時の自分の思想を封じ込めるタイムカプセルのようなものだ。その時ごとの自分の悩み・価値観・思考回路がむき出しになっている。それに加え1年前の私は日記で性欲がむき出しになっていた。1年前の私よ。あまりの性欲チンパンジーっぷりに1年後の私は嘆いておるぞ。

こうして、1年もの間、日々少しずつ堆積した変化は、地震活動のごとく現在の私に衝撃をもたらした。自分の変化に仰天することは、日記を通じてなら容易く起こる。

 

 こうしてみると、人というのは1年間で変わらないというものの方が少ないのかもしれない。さて、私の場合は何がこの1年間で変わっていないのだろうか? 

少々考えて、『モテなさ』くらいしか変わっていないものがない事に気付いた。できればこれは変わっていて欲しかった。

もしかしたら、生きるとは変わることなのかもしれない。周囲が変わるごとに、環境に合わせて自分も変わっていかなくては、生きるのは辛いだろう。

人間は死んでしまえば変化は起きない。変化を起こすこともできない。過去の自分を笑いながら、人は歳をとっていくのだろう。

1年後の自分は女性の生乳を見て、はたまた、モテモテイケてるリア充男子となって今の私を笑っているのだろうか? 

というか、そうなっていることを願う。行動してくれ、未来の自分。たとえ、未来の自分がいかに頼りないものかを熟知していても、こう願わずにはいられない。

 

日記:学祭恐怖症

11/3 晴れ 

 今日は人文演習のレジュメを印刷がてら、学祭に赴いてみた。結果、とても疲れた。

ほんの3時間、しかもほとんどの時間は日陰で過ごしていたのに、ここまで体力が減るとは思わなかった。今もヘトヘトになりつつ、ようやく図書館に逃げ込んで、日記を書いている。体力的な疲れというよりは、精神的な疲労感だ。このタイプの疲れはしつこく心に留まり続けるものだ。非常にタチが悪い。

 

 そもそも、なぜに私はここまで疲れているのだろうか。

まさしく、それは学祭に蔓延っている大量の売り子、そして学祭そのものの空気の所為だろう。

祭りの空気というものが、私は昔から苦手だ。人がやたら多い上に、連れに自分の声が届きづらくなるのが気に入らないからだ。

そして、売り子問題である。

私は何故だか知らないが、やたら顔が利く。この学祭ではそれが裏目に出て、多くの友人・知り合い・はたまた全く話したことのない同じ言語クラスの人にまで声をかけられてしまった。

コミュニケーション能力に難のある私にこれらの誘いをスパッと切り捨てることは困難であった。相手の方もそれを察してくれればいいものを、やたらとしつこく勧誘するのだ。

自らのサークルのために、売り子を頑張っているというのは物凄く伝わる。だからこそ、買ってくれそうにない相手からはさっさと身を引いて欲しい。そちらの方が、買ってくれる心優しい相手に巡り会える回数が増えてとても経済的だと思うのだが。全く学祭にお金を落とす気のないこちら側からしても、とても助かる。まさにwin-winの関係である。

 

 売り子状態の友人たちをできるだけ避けたい理由がもう一つある。

それは、彼らのテンションが普段より異常に高くて、一貫性に欠けているからだ。私はそこに恐怖を感じる。

彼らは一日中売り子をしたからか、それとも売り高を上げようとしているのか、もしくは学祭の空気に毒されたのかは分からないが、とにかく総じてテンションが高い。

売り子という行為が積極性を求められる行為だからだとは思うが、結構いつもは言葉数が少ない人でも、商品をハイテンションで売り込んでくる。決して彼らを責めているのではない。二回目になるが、頑張っているのが十二分に伝わってくるからだ。勝手に自分が恐怖心を抱いているだけである。

これらのことを頭では理解していても、謎の恐怖を私は感じてしまうものだ。これはなかなか説明のしづらい恐怖心である。女子高生が友達と談笑していて、「じゃあね」と別れた後に真顔で携帯を触りだすあの感じと言ったら伝わるだろうか?

一貫性に欠けるというのは悲しいことである。せめて、自分くらいは態度を一貫しておきたいものだ。

 

 そういや、人文演習のグループが同じ女子に「私は学祭で一銭も使う気はない」という旨のことを伝えたら、「え〜っ! なんで学祭に来てるの!?」と返された。私もできれば大学には行きたくなかったが、先述した通り人文のレジュメを印刷しなければならないという不可抗力が働いたのである。仕方のないことだ。

そもそも、大学に赴く本来の目的は勉学である。学祭の日であろうが図書館は空いているのだ。学祭の空気にキャンパスが包まれていても、大学図書館まではその本分を忘れていない。このやり取りに私立大学が持つ遊びの場・学びの場という二面性がギラリと光ったような気がした。

本を読み終えた後は、遊びの場と化した図書館から正門までの道を、どう売り子を避けて通るか模索することにしよう。