きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:前前前俺

12/30 曇り時々晴れ 

 12年ぶりに、通っていた幼稚園を訪問してみた。

そのまま入るとただの不審者になってしまうので、離れたところから敷地を眺めてみた。昔遊んでいた飛行機の形の遊具が撤去された以外は、あまり変わっていなかったのが逆に意外だった。

しかし、全体的に小さい。幼い頃は飛び降りるのを躊躇していたコンクリート塀が、今の私の腰ほどの高さしかなかったことが衝撃的だった。当たり前の事だが、もう二度と幼稚園児には戻れないのだと悟ってしまった。

 

 最近、過去の災難に悩ませ続けられている。

恥ずかしい思い出、言葉の言い間違え、誤字したツイート、これまでの日記、これらが定期的に頭の中でフラッシュバックする。

寝る前の、なんとなく暇な時間に1日の失敗を思い返して反省してみるのだが、前よりも改善している様子はない。我が身を三省してみても、過ちなく生きることは不可能かと思われた。

しかしながら、もし過去が存在しないとしたら、と考えてみることも多くなった。

 

 例えば、人の細胞は6年で全て入れ替わるという。そうすると、6年前の私、さらに12年前の私、18年前の私は全くの別人ということになる。

この3人が共有しているものは何もない。顔も、体も、性格も、経過時間とともに変わってしまっているからだ。かろうじて記憶という名のヒモで繋がれているのみである。

そのヒモも、片方の先端は解けて、漠然とした形をしている。もう片方は今も組み上げている最中である。かつ、そのヒモには、私が全く経験していないであろう出来事も、不純物として混じっている。

そもそも、このヒモも現在の私が大切に保管しているだけであって、実際に過去から組み上げられてきたという保証はどこにもない。現に、私たちの世界は五分前に生まれたということを反証することは非常に難しい。私たちは記憶を頼りに、「過去は存在する」と信じるしかない。

 

 ここまで書いて煮詰まった。まるで考察が足りない。前前前俺から実質私は進歩していないようだ。深夜なので考えがまとまらないということもあるので、早めに寝るとしよう。

 

日記:花は枯れず

12/27 雨のち曇り 

 数ヶ月ぶりに須磨海浜水族園に行ってきた。水槽で悠々と泳いでいる魚を見ていると、何故だかわからないが、自分の行く末だとか死についてだとか深刻なことばかり考えてしまう。気分は沈むばかりで、全くリフレッシュにならなかった。

それでも、私は水族館という場所が好きだ。というより、生き物が好きなのかもしれない。イワシの大群や巨大なピラルクを見ていると、いかに自然が偉大かを実感することができる。実感することは最高の勉強法だ。久しぶりに頭が痛くなった。

 

 SMAPがいよいよ解散するらしい。昨日、テレビで「世界に一つだけの花」を歌っているところを見た。5人ともいつもより喉に力が入っているようだった。28年間お疲れ様、と上から目線でエールを送ってやりたい。

私にとっても、この歌は思い出深いものの一つだ。

まだ幼稚園児だった頃、卒業式で母を含む保護者がこの歌に合わせながら踊っていた。そういうものが卒業式のプログラムに組み込まれていたらしい。ぎこちない動きで踊る母の姿が頭の片隅にこびりついている。

私は幼稚園児の頃、どうしようもないクソガキだった。自然に関すること全てに関心を持っていたことはまだ良かった。しかし、関心で押さえておけば良いものを、好奇心が暴走したのか、バッタを道路に放り投げ車に轢かれるところを見て楽しんだり、カメムシを種類ごとにすりつぶして匂いの違いを調べたりと、当時の私は非常に行いが残酷だった。まだ子供だったから仕方ないとはいえ、恥ずべき黒歴史の一つだ。

 

 私が育ったのは、ちょうど世界に一つだけの花の「NO.1にならなくてもいい、もともと特別なOnly one」という歌詞と共鳴するかのごとく、子供の個性がやたらと尊重されていた時だった。今でもそうかもしれない。

2000年代は本当に子供の個性が重要視されていた。その教育方針が果たして成功したのかどうかはわからない。それは今後10年ほどで明らかになることだろう。だが、自分をオンリーワンと思い込んでいる人が増えているのは確かだ。

周囲がオンリーワンだらけなので、さらにその中で己の個性に磨きをかけようとして迷走している人が大学によくいる。少し昔の私もそうだった。周囲から理解も得られないような趣味を一人でやりこみ、周囲から理解も得られないような量の本を読みふけってきた。その結果、手元に残ったのは、使いどころのない技術と無駄な知識だった。

オンリーワンを求めすぎて、気がつけば自分が得体の知れないものになってしまったように思えた。退屈と絶望感の隙間で身をよじってモゴモゴする日々をしばらく過ごした。

そんな時、自分の中にあるガラクタたちを改めて眺めてみた瞬間、一つのアイデアが思い付いた。「このガラクタたちでナンバーワンを狙えるのではないか?」と思い始めたのだ。生まれ持ったキチガイじみた好奇心でかき集めたガラクタたちは、突如として強力な武器へと変貌した。今ではナンバーワンを目指している。成功するか、行き倒れになるかはまだ分からない。

 

 自分語りのクッセエ日記になってしまった。これだから自分のことを語るのは嫌いだ。

オンリーワンだらけでは必ず皆揃って仲良く沈没していく。個性の沼から這い出るには自信をつけるか、ナンバーワンを目指すしかない。後者を目指せば前者も伴ってついてくる。それが、この短い人生で得られた教訓の一つである。

世界に一つだけの花」は枯れる。ナンバーワンの花は枯れない。ドライフラワーになったとしても、後世に名を残すことができる。それだけは間違いない。

 

日記:オタク再考

12/26 曇り 

 何も日記に書くことがないような素晴らしい1日だった。でも日記は書く。忙しい時には日記を書く元気が無く、退屈な時には日記を書く体力が有り余っているというジレンマ。

あまりにも書くことがないので、金沢に下宿している友人が『オタク』について語っていたのに便乗することにしよう。今日はオタクについて語る。それがいい、そうしよう。

 

 そもそも、『オタク』とはどのような人物を指すのだろうか。

筑波大学教授の斎藤環は、オタクを「愛の対象を"所有"するために、虚構化という手段に訴える人」と定義している。

また、首都大学東京教授の宮台真司は「没入対象に性の自意識が関係している人」をオタクと定義している。

要は「虚構でシコれるかどうか」ということが、オタクと一般人の境界線だろう。

最近、2ちゃんねるで可愛らしいイラストを貼り付けている人たちに向かって、「絵じゃん」とメッセージを送信する荒らしが横行している。これを言われるとオタクは何も言い返せない。確かに彼らの欲情している対象は絵だからだ。

しかし、オタクは絵に欲情することを止められない。それを止めることができれば、そもそも彼らはオタクになっていないだろう。

 

 ならば、なぜオタクはただのイラストに欲情してしまうのだろうか。その原因は絵そのものとオタク、両方にある。

ネオテニーという言葉がある。直訳すると「幼形成熟」だ。

人間は一般に他の動物と違って、子供の頃からの形質の変化が少ない。チンパンジーの場合、子供の頃の骨格は人間の幼児と大差ないが、成長するにつれて、頭蓋骨はあまり変化しないが、顎が強靭になっていく。その結果、骨格は子供の頃と全く違ったものになる。

しかし、人間はチンパンジーとは違い、成長しても子供の頃と骨格の形はあまり変わらない。その結果として、骨に脳が圧迫されず、ネオテニーは人間が高い知性を得た一因とも言われている。

それはともかく、ネオテニー形質を強くもっている人は他者から愛されやすい。芸能人でいえばローラ・橋本環奈・堀北真希などがネオテニー形質の強い人の例に挙げられる。

これは子供の顔を見れば無条件に『可愛い』と思う私たちの感情とつながっている。子供を危険から守るため、私たちは子供を可愛いと思うようにできている。この本能がネオテニーとつながって、童顔の人を可愛いと思うのだ。

さて、「萌えキャラ」と呼ばれるイラストはどれもネオテニーの形質を備えている。大きな目・広いおでこ・ふっくらとしたクチビルなど、子供が備えている形質にそっくりだ。萌えキャラはどれも人に可愛いと思わせるためにデザインされている。このデザインこそがオタクたちの欲情を誘うのだ。

 

 今度は人間の方を見てみよう。

そもそも、この萌えキャラに親しむことができる環境にまでたどり着かないと、人はオタクにならない。どのようにして、人はオタクになってしまう環境に染まってしまうのだろうか。

第一に、現実の女性と触れ合う場面が日常生活に少ない、ということが挙げられる。これはある意味、実体験に基づいている。

男子校に入学した途端、オタク化した男の多いこと! 

一見オタクとは程遠いように思えるヤンチャ系の生徒ですら、アニメを見ていた。おそらく二次元でシコっている。「現実が不可能なら虚構に逃げ込んでしまえばいい」と言わんばかりに、男子校にはオタクが多かった。

第二に、オタクとなることに意味が生まれる場合が考えられる。仲間内でアニメの話題があがった時、その仲間内での繋がりを強めるためにアニメを見ざるをえないといった状況が生まれる。

これは「みんなこのゲームをやっている」と親に泣きつく子供の論理に似ている。アニメを見ていることが周囲で当たり前になるほど、そのコミュニティ内でのオタク化が進行していく。

そして、虚構に逃げ込まざるを得なくなるほどの状況に置かれるということも理由になるかもしれない。

例えば、いじめなどで心の拠り所を虚構に求める場合もあるだろう。不登校の支援をして思っていることだが、彼らにはオタクが多い。虚構はそこに心の安寧を求める者を拒絶しない。虚構は自分の求める癒しや安心を提供してくれる場でもある。

安心できる場を探求した結果として、オタクに自らの意思でなってしまう人は意外と多いのかもしれない。

 

 さて、絵と人、二つの要因が繋がってオタクが生まれることを説明してきた。

ますますオタクは世の中に溢れ、以前はオタクとならなかったはずの人たちまで、オタク化が進行している。リア充やキョロ充でありながら、オタクでもあるという事態が当たり前のようになった。これからもますますオタクは増え、コミケには大企業が参入し、少子化が深刻になっていくのだろう。

拒絶のない虚構に身を委ねるのか、辛辣な現実と向き合っていくのか。どちらがオタクにとって幸せな結果を生むのかは、神のみぞ知るところである。

日記:寂しいクリスマスを過ごさないために

12/25

 クリスマスである。

ハロウィンの後、街は即クリスマスムードに移り変わり、その甘ったるい空気もようやく今日で終わる・・・と思ったらすぐ後ろに正月が控えていた。

近年になって、ますますイベントの間に息継ぎをする暇がなくなっているような気がする。たまには何もない月があっても良いではないか。このままでは怒涛のスケジュールに溺死しかねない。

 

 結局、今年もモテなかった。一体何がいけなかったのだろうか。

恋愛心理学をほぼマスターしたからといって、モテ期が来るわけでもなかった。身長・体重・構成物質が福士蒼汰と同じだからといって、女性から言い寄られることもなかった。

周囲が交際相手を次々と見つけていく中、私に相手が現れないのはちゃんちゃらおかしい。理論上は私はモテる筈である。それなのに、なぜモテていないのだろうか。

 

 こういう時は、モテている人間とモテていない人間を比較するに限る。集団同士の相違点を発見することで、私達にもモテるためのノウハウが理解できるだろう。

今から、私の長期にわたる人間観察から導き出したモテる人とモテない人の大まかな違いを述べる。全非モテの諸君必見である。ぜひ、このようなクリスマスを送ることがないように参考にしてもらいたい。

 

○モテる人

清潔・人間関係に積極的である・リア充・協調的である・ラインをよく使う・電話をよく使う・よく笑う・スポーツ経験者・何事もそつなくこなせる・踊る・バイトに費やしている時間が長い・格好が若い・性欲が強そう(偏見)

 

✖モテない人

汚い・臭そう・人間関係に消極的・ソロ充・自己愛が強い・会話をする際にツイッターを使う・無表情・ノンサー・幾つかのパラメーターが無駄に突出している・働かない・年齢より年を食っているように思われている

 

 ずらっと項目を書き出してみた。後から見れば、ほとんどが心理学や生物学など、データに基づいて説明出来るものである。

第一に、人が交際相手に求める条件は、全世界で共通している。

基本的に、男性は交際相手に対して、安定して生殖を行うことが可能な容態を求める。いわゆる安産型体型や、若さ、また遺伝子の乱れを避けるために容姿端麗な相手を好む(多数の女性の顔写真を撮り、その平均を割り出すと日人になることが判明している)。

そして、女性は交際相手に自らが育児をする際に必要なエネルギーを充分に提供できる相手を選ぶ傾向にある。そのため、年収・体力・献身的な性格が必要とされ、先述したのと同じ理由で容姿が良い男性が好まれる。

 

次に、交際相手とより長い時間を安定して過ごすために必要な要因が重要視される。

恋愛には、性格の類似性・相補性という概念が存在する。要は性格が似通っていれば、その分二人は親密になるし、互いの欠点を補うことができれば、より仲が良くなるといった意味の言葉だ。

以上から、どんなドクズでも、ぶっ飛んだ聖人と出会ったなら二人が付き合う可能性は十二分にあるということになる。

ぶっちゃければ、性格はあまりモテ度には関わってこない。個人個人によって大きく好みが変わるものだからだ。Sな人すきもいれば、Mな人の方が好きな人もいるだろう。自分の性格を変えるよりも、自分の性格と合うような人を探す方がコストパフォーマンスも良いだろう。

 

 その他にも様々な要因が存在するが、結論を言えば積極的な筋骨隆々・バイトマンな男性、渾身的な美人はモテるということだ。すごく小並感溢れる結論になってしまった。

これらの要件に当てはまらなかった人たちも安心してもらいたい。人の性格パターンはほぼ無限大、貴方に合う性格の人がきっと、意外にも近くにもいるはずだ。

最終的に恋の成就の是非を決めるのは、これらの知識よりも積極的になる勇気である。

最後に、私が保証する。勇気を持てば相手は見つかる。このような日記を書いていない限りは。

日記:ひとりぼっちの戦争

12/24 曇り 

 いよいよクリスマスイヴである。非モテ男三人衆でカレーを食べに行ったり、大学で勉強したりと、これまでの人生で一番充実したクリスマスイヴだった。

「クリスマスまでに彼女を作る」と宣言して早3ヶ月。時間の流れはあまりにも早すぎた。少なくとも私が目視できない程には。

 

 『クリぼっち』という言葉がある。

休暇前は友達とワイワイはしゃいでいたのに、クリスマスになって独りの時間が確保できるようになると、自分が一人でいることに対して自虐を始める人たちのことでだ。

この言葉はキョロ充たちの卑屈・卑怯・貧弱な精神が垣間見えるので嫌いだ。メディアも今年から急にクリぼっちに便乗するようになったので、余計に腹が立つ。

「私はクリぼっちだ」と周囲に喧伝したところで何になるのだろうか。君達には仲間がたくさんいるではないか。寂しすぎて死んでしまった、ホンモノのぼっち達が草葉の陰で泣いている。

 

 本当にクリスマスが嫌なのなら、徹底抗戦をすればいい。

今年は、クリスマスツリーを爆破し(ゲーム内で)、クリスマスを祝わないインドのカレーを食べ、決してクリスマスムードに己が染まらないような行動を起こした。結果、普段よりも、今日という日を充実させることができた。

それ以前にも、通行人の間を縫っては単結合を繰り返すカップルに啖呵を切り、毒々しい科学の光を放つイルミネーションを「誘虫ランプ」とバカにし続けてきた。

クリスマスに予定がないからなんだというのだ、もともと日常的に予定が入っていないではないか、と吐き出し口のない憤怒を体の奥に溜め込み、自家中毒を起こしかけたことすらあった。

そんな争いの日々も今日で終わる。明日まで騒ぎ続けることができる体力を持ったカップルはそういないだろう。なぜなら今夜はあの悪名高い性夜だからだ。以下コピペである。

 

 12月24日の午後9時から翌25日の午前3時までの6時間は

 1年間で最もセックスをする人の多い「性の6時間」です。

 貴方の知り合いや友人ももれなくセックスをしています。

 普段はあどけない顔して世間話してるあの娘もセックスをしています。

 貴方が片想いしているあの綺麗な女性もセックスをしています。 

 貴方にもし年頃の娘さんや姉・妹がいて、いま家にいないのでしたら間違いなくセックスしてます。

 貴方と別れたあの娘も貴方がその娘にやってきたことを別の男にやられています。

 貴方の将来の恋人や結婚する相手は、いま違う男のいちもつでヒィヒィ言っています。

 すべてを諦めましょう。そして、ともに戦いましょう。

 

 こんなことがあってはならない! 道徳心の腐敗、秩序の崩壊である!

報復として、今夜、全リア充の所持するコンドームに穴を開け、9月中旬に生まれる子供の数を爆発的に増やす計画を実行する予定だ。その片手間にサンタ狩りを実施する。子供たちへのプレゼントは全て快楽天に差し替える。それが私の望むクリスマスである。

今日も今日とて愛銃のH&K MP5が火を吹く。ひとりぼっちの戦争は始まったばかりだ。

日記:大学生は自由なのか?

12/23 晴れ 

 いよいよクリスマスである。

自分の英語力の低下にショックを受けたので、勉強を再び始めることにした。大学受験ぶりに、英語の長文をバカ真面目に読み、分からなかった単語をノートに記録していった。

大学に入ってからの勉強は、受験に追い立てられていた昔とは違い、まさに自分のためにしているといった感じがして嫌な気分にはならなかった。自己満足に何かをするというのはつくづく最高の贅沢だと思う。

 

 高校生時代、教師からよく言われたことの一つに「大学生になったら自由になる」という言葉がある。受験生に対して、金言のように繰り返されるこの言葉だが、最近、本当にそうなのだろうかと考えるようになった。そもそも、『自由』とは?

小論文の問題に「〜について自由に書け」という形式のものがある。「自由に書け」と言われていても、自由に書いてはいけないというジレンマをこの問題形式は抱えている。

「〜について自由に書け」と言われた時は、たいていはその問題に関連した自分の経験を踏まえた具体例を示さなければならない。そうしなければ、良い点数をとることができないだろう。

点数を取らなければならないという制限が付いていれば、とても『自由』に書いても良いとは言えない。小論文の場合は、良い点数をとるという目的のために、文章を好き勝手に書く自由を放棄しなければならないのだ。

 

 私たちは無意識的に自由を制限されていることもある。

例えば作文用紙を渡され、点数なども関係なく「自由に書け」と言われた場合はどうだろうか。

この命令に素直に従い、作文用紙に何かを書き綴るとしよう。この場合、マス目をまたいで大きく文字を書いたり、マス外にも文字を書いたり、作文用紙に絵を描くような人はまずいないだろう。それは作文用紙自体が、マス目の中に文字を書かせることを目的として作られているものだからだ。

ほぼすべての物は人にある行動をとらせるためにデザインされている。大人がペンを二本持って箸代わりにしていたり、つり革で懸垂をし始めるのを見たなら、私たちはその人達をバカだと思うだろう。

それは私たちがペンやつり革の使い方を幼い頃から学習して、体系的な知識(スキーマ)として脳内に収めているからだ。この知識のおかげで、私たちは一般社会で恥をかかないでいられる。

逆に言えば、「ペンは物を書くためのものだ」、「つり革は電車内で姿勢を安定するためのものだ」といった知識のせいで、自分たちの行動を、ものがデザインされている目的に合わす事を強いられているのだ。

 

 キャンパスライフでさえ、社会的規範・道徳によってデザインされている。

大学生は人と関わることを強いられ、課題を提出することを強いられ、そして他のどの年代よりも『自由』であることを強いられている。高校生が想像するような『自由』など、大学生活には存在しない。

大学生は制限された自由や、不自由の中で日々を過ごしている。その結果として、『自由』と『無秩序』を履き違える者が増えるのだろう。

 

 クリスマスを迎えようとしている今、周囲の様相は混沌を極め、無秩序な行為が社会に蔓延している。私もその混沌に巻き込まれているのは確かだ。

クリスマスに悶々としているうちに、今年も無秩序の渦に吸い込まれていく。

せめて自律を持って、今年くらいはこの季節を過ごしたいものだ。

日記:私のフェチズム

12/13 雨 

 寒い日が続く。

雨の日というのは、やたらと小難しいことを考えてしまう。人間の本性だとか、周囲の人々の心情を邪推してみたりだとか、とにかくいろいろなことを考える。

このようにして様々なことをずっと考えていると、色々な物事が嫌になってくるので、気晴らしに今日は自分が好きなことについて書いてみようと思う。私はこの世の物事の半数以上をおそらく毛嫌いしているが、好きな物事もそれなりには存在するのだ。

 

 第一に、黒タイツ。私は黒タイツがとても好きだ。

黒タイツは女性の柔和な脚部のラインをより一層際立たせる。黒という色が女性を美しく見せることも相まって、黒タイツを履いている女性は皆、綺麗に見える。

完全な偏見だが、黒タイツを身につけている女性にはクールな性格が多いような気がする。私はクールな女性も好きなので、黒タイツとクール女性の相乗効果は凄まじいと感じる。この組み合わせだけでご飯を何杯でも食べられる。無限にナムルも食える(?)。

 

 次に、悪堕ちが好きである。

悪堕ちとは、漫画やアニメのヒロインが敵側についてしまうアレである。悪堕ちしたヒロインは、たいてい服装が際どくなり、いかにも『ワル』っぽい見た目になる。あと、胸がデカくなる。

悪堕ちの真骨頂は、悪堕ちする前の清純なヒロインと悪堕ち後のヒロインのギャップである。悪堕ち前は快活な性格だったヒロインが、悪堕ち後には虚ろな表情を浮かべているのを見ると、感慨深いものがある。

一般作品ではそれほど演出されないが、可憐で純粋なヒロインが悪堕ちするまでの過程が描写されるのも、また一興である。また、悪堕ちしたヒロインが主人公側に戻る瞬間も結構好きである。ヒロインの気恥ずかしさや後悔が画面越しに伝わってきてゾクゾクする。

是非とも悪落ち好きの同志が増えてくれることを望む。

 

 さらに、クスクス笑いというのも好きだ。

女子中学生・女子高校生が、囁き声がギリギリ聞こえるような距離で誰かの噂話などに花を咲かせているのなどを見ると自然に昂ぶってくる。興奮必至である。

姿形は潔白な花である少女が非倫理的な行為にのめり込んでる容姿というのは、なかなかそそるものだ。悪と美少女というのは結構マッチングするのかもしれない。完全にドMの発想である。

 

 「好きなことを語る」と冒頭で述べたが、好きなことは好きなことでも、ただの個人的なフェチズムの話になってしまった。

先述したフェチの他にも、憑依・洗脳・催眠・言葉責めなども好きだが、これ以上語ると、ただでさえ低い自分の品格をさらに貶める羽目になってしまうので、ここは一旦黙っておく。

『様々なコンテンツの悪堕ちシーンをかき集め、いつかはデータベースを作り上げる』というささやかな野望を密かに抱いている。

もしこれが完成すれば、世界無形文化遺産への登録は確定したようなものだろう。世界に広めようフェチズムの輪。