きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

ラーメンつけ麺、僕ザーメン

4/10 晴れ

 

 新学期が始まった。

 精神状態は良好。

 

 ゼミの女子はキラキラしていて、チキンハートの私はすっかり萎縮してしまった。

 まあ、何とかなるだろう。

 

 そろそろ「デキるやつ」とやらになってみたいが、その機会も素質も無い。

 チャンスが来るまで、日々鍛錬するしかないようだ。

 「こいついつも鍛錬してるな」と自分でも思う。

 使い所がなければ、いかなる技能も無用の長物に成り果てる。

 動画作りも音ゲーもオチンポも、全てが無用の長物(短物)である。

 

 

 自分が生物だという事実に、最近は一周回って感心している。

 知識として「人間は動物」ということはわかっているのだが、それを実感するのは難しい。

 

 心理学というのは言わば「人間の生物学」という側面もあって、科学者たちは多くの実験から人間の動物性を明らかにしてきた。

 そのような学問をやっていてなお、私は自身が一生物であるという実感が湧かない。

 

 私に限った話ではなく、人は少し自分たちの知覚・認知の特性を当たり前のものとしすぎているのかもしれない。

 言葉を発する過程や、私たち自身の意識さえ、未だ解明されていないのだ。

 よく分からないものを当たり前のものとしながら生きている。

 これって結構凄いことだと思う。

 

 「私たちは、『コウモリである』ということはどういうことか、理解することができない」という有名な話がある。

 実際のところ、私たちは人間であるということがどういうことかさえ、分かっていないのかもしれない。

 

 

 心のような、目に見えないもの以外にも、私たちはよく分からないものを伴って生活している。

 

 野郎共の場合、その代表例は「精子」である。

 一つ一つは小さすぎて見ることができないが、白いゼリー状のものとして、これを見たことがない男は特殊な例を除いてまずいないはずだ。

 

 精子といえば、私たちはまずおたまじゃくしのような形を思い浮かべる。

 遺伝情報の詰まった丸っこい先端に、糸状のものをくねらせ前進する。

 このような姿が、一般的な精子の姿である。

 この程度の知識なら、男女関わらず知られていることだろう。

 生命の原初として、精子卵子とともに保健の教科書などで説明されている。

 

 しかし、従来までのこの精子像は、最近になって覆ろうとしている。

 低温電子顕微鏡断層撮影法という長ったらしい名前の新技術によって、精子が初めて立体的に撮影できるようになったのだ。

 

 これにより、精子のしっぽの部分(これを鞭毛という)の先端に、左巻きのらせん構造が存在することが明らかになった。

 この発見は今年の二月のことである。

 

 AIがなんだのビックデータがなんだの言っている間に、私たちは己の金玉に潜んでいる者たちの形さえ知らずにいたのだ。

 精子の形が判明したことによって、不妊症の治療に応用できることが期待されている。

 一見フケツな精子に関する研究も、世の中の悩めるカップルに貢献することができるのだ。

 

 

 私たちの存在も、元を辿れば精子である。

 私は時々、自分が精子であった時のことを夢想する。

 

 もし「私」の受精がワンテンポ遅れて、違う「私」が生まれていたのなら、彼は今の「私」よりも上手くやれていたのだろうか、と。

 

 「最速で受精した精子が一番優秀」なんて俗説は、少し考えれば嘘とわかる。

 ほんの少しの偶然で、受精の順番は容易に変わりうる。

 「私」が受精の順番を譲った方が、「私」はより良い人生を送れたのかもしれない。

 だが、仮定は仮定である。

 結局存在するのは「私」だけだ。

 

 一回の射精に含まれる精子の数は一億から四億ほどである。

 ありえたかもしれない無数のパラレルワールドを思いながら、私は精子を無駄撃ちした、ザーメン(アーメン)。

 

 

 こんなことばかり調べているからか、精子の研究施設を設立するためのクラウドファンディングの要望がメールで届いた。

 私は500円ほど、寄付しておいた。

 彼らが無事研究所を設立し、精子の謎について寄与することを願っている。

 

 精子について知ることは、私たち自身の理解にも繋がるはずだ。

 精子無くして人間は愚か、全生命の繁栄はあり得なかった。

 

 精子を経由し万物は流転する。

 らせんの鞭毛は回り回って輪廻を描く。

 その延長線上に、私たちは確かに存在しているのだ。

 

四分の一の永遠

4/8 曇り

 

 大学二年生の春休み、最終日。

 四月になって私は三回生になったが、授業の開始までその実感が伴うことはなかった。

 明日からはまた、当たり前の日々が始まるのだろう。

 

 編入試験の失敗が私の気づかぬところで心身を蝕んでいたらしく、この春休みはずっと疲れていた。

 四月に入る頃からは回復し、様々なことにこれまで通り集中できるようになった。

 

 今年度はアルバイトやゼミなど、新しく始まることが多い。

 中だるみした人生が刺激的になることを期待して。

 20歳の私は一味違う。

 

 

 春休みは感情が摩耗していた。

 長期休暇に私はあまり人に会わない。

 バイトでもしていれば、この孤独はマシだったのだろうか。

 

 この数カ月で、「一人で延々と何かに打ち込み続けるのは無理がある」と思い知った。

 大学受験の時に浪人しなくて、本当に良かったと感じた。

 数ヶ月、たった一日数時間の孤独にすら、私は耐えることができなかった。

 

 

 何回もこのブログに書いていることだが、孤独は本当に辛い。

 焦燥、嫉妬、不安、憂鬱などの感情が私の中で喰らいあう。

 この春休みに、最後まで生き残ったのは虚無だった。

 私を埋めていた感情たちは生き絶え、心は冷たい洞穴になってしまった。

 

 こうして私は無気力な春休みを過ごした。

 

 この孤独をゆうに乗り越え、大学の籍を勝ち取った浪人生に尊敬の念を抱く。

 指定校推薦にしろ、浪人にしろ、これらを経た人たちは私には無いものを持っている。

 継続力、忍耐力がその例だ。

 継続して勉強できなかった私は指定校推薦の校内選考に落選し、継続力の無さによって編入試験に合格することができなかった。

 そして、この休みのうちに、明日へと向かう翼はすっかり萎えきってしまった。

 

 

 普段は何が自分を助けてくれるのかと言うと、悔しさである。

 自身のピンチの時、私は常に悔しさに頼ってきた。

 

 親は放任主義だし、恩師もいない。

 いざという時にそんな私を助けてくれたのは、傲慢さから沸き立つ無尽蔵の悔しさだった。

 自分をはみ出しものにした詰まらぬ義務教育の学校社会を恨み、模試で得点を急上昇させて嫌いな人間を嘲笑い、より高位の大学にいるまだ見ぬライバルを妬んだ。

 浅ましきプロレタリア精神というか、そういったものを私はエネルギー源にしてきた。

 

 だが、春休みの中盤には、何に対しても悔しさが全く湧かなかった。

 誰かの活躍にも、誰かの誹謗にも、何も感じなくなっていた。

 それは仏教でいう「悟り」なのかもしれないが、そんなものはクソ食らえだと思った。

 今でもそう思う。

 

 

 春休みはあまりにも長すぎた。

 その時間が私の悔しさその他諸々の感情を台無しにした。

 

 この休暇から私が得た教訓は、「休みに対する休みを得ること」である。

 旅に突然出てみたり、図書館で気持ちを奮い立たせて本を乱読してみたり、TOEFLを目指して英語の勉強をしてみたり。

 あえて忙しくすることで、私のメンタルは回復していった。

 

 今では、編入試験から立ち直って勉強を再び始めたり、音ゲーのスコアが負けたことで悔しい思いをし音ゲーの練習に励んだりと、必要なことやどうでもいいことにまで、悔しさを発揮することができている。

 こちらの方が、僅差で無気力より生産的だ。

 

 翼が萎えてしまったのなら、必死にそれを動かすだけだ。

 そうすればハチドリのように、少なくとも地に堕ちることはなくなる。

 そのぶん、甘い蜜を吸い続けなければならないが。

 自分の成功か人の不幸か。

 どちらでもいいのだと思う。

 

 

 ようやく、明日から授業開始である。

 三回生からは統計にパソコンのソフトを使ったり、ゼミが始まったりと、専門的な授業が増える。

 見るからに難しそうだが、そのぶん楽しみでもある。

 明日になるまで、あとは寝るだけだ。

 

 ここまでの三ヶ月間は本当に長かった。

 さらば、四分の一の永遠よ。

 私が忙しさに嫌気がさしたら、また会おう。

 

はたらキング

4/7 曇り

 

 新年度になり、大学の入学式があり、愛犬は10歳になった。

 私もそろそろ新しいことを始めようと、着々と個別指導塾の講師や大学のラーニング・アシスタントとして働く準備を始めている。

 どちらの研修でも、私のこの世で一番嫌いなものである自己紹介を強いられたので、ここ数日は暗澹たる心持ちが続いている。

 

 自己紹介は本当に嫌いだ。

 吐き気がするし、手汗が止まらなくなるし、ただで遅い思考がさらに鈍くなる。

 春は自己紹介をする機会が多い。

 まだ学校も始まっていないので、ゼミなどの場で数多の自己紹介が待ち構えていると考えると、それだけでゾッとする。

 

 

 働く準備をしていて、働いている人ってスゲェな、と思った。

 正社員やアルバイト関係なく、働いているだけですごい。

 そのような感情が日に日に強まっている。

 

 それと同時に、自分の社会不適合者感にもうんざりしつつある。

 自己紹介一つも満足にこなせない、そんな現状に焦りを覚えている。

 こなせることと、こなせないことの差が、私の場合は大きすぎる。

 

 

 自分の社会不適合者要素は数多い。

 

 人間の集団が嫌い。

 なんの根拠もない言説を押し付けられ、思考停止を強いられるのが嫌い。

 実績も無く、年齢しか誇るものがないのにマウントを取ってくる人間が嫌い。

 怒鳴り散らす人間が嫌い。

 無意味な経験論を長時間講釈垂れる人間が嫌い。

 狂った社会のシステムが嫌い。

 

 こうして見ると、社会の何もかもが嫌いな気がする。

 

 

 私が研究者を志している理由の一つは、論理がしっかりと通っている世界に逃げ込みたいからである。

 自分の考えが論理以外の理由で犯されることなく、むしろ論理によって考えが論破されるなら、それに勝る幸福な環境はない。

 

 しかし、現実は学問の世界すら、アカハラがまかり通る修羅道らしい。

 また、自分が研究者になれるという確証は無い。

 前途多難である。

 

 

 ともかく、私は人間の集団が嫌いだ。

 これは、社会そのものが嫌いだと言い換えてもいいかもしれない。

 

 別に人間自体は嫌いじゃない。

 むしろ好きな方だ。

 人と話すのは楽しいことだし、得られるものも多い。

 

 だが、それが集団になると話は別である。

 私が集団を嫌っているのは、これまで良い集団と出会わなかったからかもしれない。

 もしくは、私の価値観が碌でもなさすぎて、どの集団とも適合しなかったからかもしれない。

 イソップ童話の「狐と葡萄」みたいだが、後者の方があり得そうだ。

 

 

 社会不適合者の私だからこそ、すでに働いていたり、これから就活に臨もうとしている先輩や、インターンを考えている同級生を見ていると、「凄すぎるだろ」と思うのかもしれない。

 研修などに出向くと、みんな自己紹介が上手でたまげることが多々ある。

 彼らはスラスラと自分が働こうとしている理由や、自分の経緯を口頭で説明できている。

 しかもわかりやすく、即興で。

 私には絶対に真似できない領域である。

 そんな時、私は立派な動機を持ち合わせていないので、言いよどんでしまう。

 

 おそらく就職でも、彼らはうまいこと自分を企業にアピールして、内定を獲得していくのだろう。

 私にはそのようなこと、到底できない。

 せいぜい一人で地道に実績を積み上げていき、それを下手でもいいからアピールするしかない。

 

 このままでは私は変人一直線である。

 誰にも理解されず、独り身のまま腐っていくしか無いのだろうか。

 

 彼らの領域にどのように近づけばいいのだろうか。

 貧民と王族のように、埋めがたい差がそこにはある。

 

 

 今日の記事はかなり踏み込んだ内容になった。

 いつも私のブログを見ている人たちに、私がかつて所属していた集団に今も属している人がいるのは確実で、彼らには嫌な思いをさせてしまったかもしれない。

 

 だが、『ツイートとは違い、ブログ記事は積極的に人が読みにくるものだから、好きに自分の思いを綴ってもいい』というブログ開設当初の私の考えに基づくなら、この記事も公開した方がいいと考えた。

 

 このような記事も公開できなくては、この先いよいよ何も表現することができなくなるだろう。

 

 これからもそうのようなスタンスで、このブログを続けていこうと思う。

 今年度はもうちょっとブログ映えする日常を過ごしたい。

 

近状

3/26 晴れ

 

 久しぶりのブログ更新。

 ブログを書く以外にも、「東京シティアンダーグラウンドという題で先日の旅行についての日記を書いたり、「ラーメンつけ麺、僕ザーメン」という題のブログ記事を書こうとしたのだが、公開するクオリティに仕上げられることができなかった。

 そのうち書き終えたら、ブログに更新したい。

 下ネタでもエッセイでも、何かについて語る勇気というのは、体力がある時期しか湧いてこない。

 私の体力は退屈すぎる春休みによってもうヘロヘロである。

 

 しかし、今日の裁判傍聴は楽しかった。

 裁判は異様な緊張感に包まれていた。

 生手錠も、生弁護士も初めて見た。

 手錠はドンキホーテのおもちゃ売り場で見たものとは違い、ガッチリとしていて変な冷たさを感じた。

 自分がこの場に立つ想像をふとして、ゾッとした。

 我が身が被告人にならないことを祈りたい。

 

 ただ祈るだけでなく、日頃の行動を見直したいと思った。

 ツイッターでも、公共の場でも、最近私は下ネタを発しすぎている。

 このままでは公然猥褻で検挙されそうだ。

 検挙されないように、謙虚になりたい(ここうまい)。

 

幽玄の未来

3/12 曇り

 

 昨日、20歳になり、久々に中学生の頃の友人たちと遊んだ。

 充実した誕生日になった。

 20代の始まりは上々である。

 

 昔からの友人と話をしていると、本当に過去の自分はロクデナシだったのだな、と思う。

 大学生になった今、ようやく中学時代の禊を済ませつつある。

 早く人間になりたい。

 大人への道のりは遥かである。

 

 

 19歳の誕生日、20歳の自分に向けて、私は手紙を書いた。

 その内容が以下の通りである。

 

 拝啓、二十歳の私。元気にしてますか? 

 19歳の私はたまに落ち込むこともあるけど基本的には元気です。

 最近は、心理学関連の本を読み直したり、青春小説を読んだり、汚い動画を作ったりしています。

 二十歳の私は何をしているでしょうか? 

 今私がやっていることは継続できていますか? 

 それとも何か新しいことを始めていますか? 

 ご飯はちゃんと食べてますか? 

 彼女はできてますか? 

 単位は十分にとれてますか? 

 友人は増えていますか? 

 フォロワーは増えていますか? 

 賢くなっていますか? 

 健康に日々を過ごしていますか? 

 というか生きていますか? 

 

 19歳の自分は明らかに質問過剰である。

 改めて読み直すと、これまで継続できていることは、ブログと読書しかない。

 彼女もできていなければ、賢くなった気もしない。

 ありがたいことに、20歳まで健康体で生きることだけはできた。

 編入試験にも去年は落ちたし、私はいつも、自分の期待に応えられていないようだ。

 悲しみを感じる。

 

 

 正月頃のことである、自宅に一通のある封筒が届いた。

 差出人は小学校の頃の教師であった。

 結婚したのか、名字が変わっていた。

 

 封筒の中身を開けて見ると、そこには小学生の自分から、20歳の私に宛てた手紙が入っていた。

 昔、そういうものを書いたという記憶は微塵も残っていなかったので、それなりに驚いた。

 全文ママで、ここに書き写す。

 

二十の自分へ

 どーも十二の自分です

 まず最初に

 幸せになってますか?

 幸せならうれしいです。

 

 京大うかってますか?

 たまねぎ食べれてますか?

 自動車めんきょとれてますか?

 結こんしてますか?

 いろんなききたいことがあります。

 もしかしたら死んでいるかもしれないけど

 生きていることを願います。

 

 夢はなんですか?

 

 これがいちばんききたいことです

 二十になったらここにかいてください。

 「            」

 元気なことを祈ります。

 十二の自分より。

 

 

 手紙の端には、太陽の塔を模したような謎のキャラクターが描かれてあった。

 手紙を読む限り、未来の自分を質問責めにするのは、いつも変わらないらしい。

 

 だが、12歳の自分が現在の私に会ったところで失望するだけだろう。

 私は彼の願いを何も叶えられていないからだ。

 京都大学に通いながら結婚生活を送れるほどの胆力は私は持っていなかった。

 そして、たまに幸福になり、不幸になったりもする。

 そのような不安定な存在が今の私である。

 せいぜい生きていること、玉ねぎが食べられるようになったことくらいしか、昔の自分の期待に沿うことができていない。

 無力感に苛まれる。

 だが、夢はある。

 

 

 ふと、手紙を読み終わってから、ギリシア神話の「パンドラの箱」のエピソードを思い出した。

 人類最初の女性とされるパンドラは、ゼウスから「絶対に開けてはならない」と忠告された箱を好奇心から開けてしまい、それにより様々な災いが世界中に飛び散ってしまう。

 こうして疫病、悲嘆、欠乏が世界に満ち、後世の人々はそれらに苦しむようになった。

 だが、箱から唯一「エルピス」だけは出ていなかった。

 「パンドラの箱」はこのような話である。

 

 エルピスは主に希望や期待と訳されるが、それらの言葉のニュアンスによって、このエピソードの真意は変わってくる。

 エルピスが希望なら、希望があるからこそ、災いだらけの世界でも人間は生きていける、という解釈になる。

 一方、エルピスを期待とすると、期待があるからこそ人間は期待と絶望の間で、苦しみ悶えながら生きていかなくてはならない、という意味を持つ話になる。 

 

 

 子供の頃、世界は整合性が取れている場所だと、私は思っていた。

 「やさしさに包まれたなら」の「小さい頃は 神様がいて 不思議に夢を 叶えてくれた」という歌詞にも、今なら共感できる。

 

 世界に神はいなかった。

 世界は混沌を極め、様々な物事が絡み合いまるで予測ができない場所だ。

 パンドラの箱が開けられた後の世界で、人は多くの災いに対して鈍感になりながら、麻痺しながら、エルピスを抱いて生きている。

 

 私はまだ、それらにどのように向き合っていけばいいのか分からない。

 災いとエルピスに対し、受容するのか、もしくは拒絶するのか。

 自分が納得できる方法を探すことが、20代の大きな課題になってくるのだと思う。

 

 小学生の自分からの手紙の最後に、20歳の私が夢を書き込む空白が設けられていた。

 私はペンをとって、夢を書き加えた。

 「研究者になること」。

 それが、20歳の私の夢である。

 

 最近、ようやく自分の興味関心が固まってきたが、未だ何もかもが不明瞭である。

 大学院試験、低収入、ポスドク、自分の精神状態など、数多の障壁が未来に立ちはだかっている。

 だからこそ、夢に向かうことは退屈しなさそうだ。

 

 実りある希望か、空虚な期待か。

 残されたエルピスと共に、明日も夢へと向かっていこう。

 

夢幻の過去

3/10 晴れ

 

 10代最後の日。

 モンハンをしたり、本を読んだり、焼肉を食べに行ったりして、ゆっくりと過ごした。

 大学生の春休みは本当にすることがない。

 バイトも何もやっていないので、時間がただ無為に経っている。

 また自分でやならければならない課題を決めて、それに取り組まなければならない。

 春休みも残り1ヶ月だが、その時間で何かのスキルを上達させることは不可能ではないはずだ。

 20歳から本気を出したい。

 

 

 自分の10代を振り返りたい。

 だが、15歳くらいまで空虚な人生を送ってきた挙句、知的とギリギリ言えるような生活を過ごし始めたのは18歳からなので、語れることはそれほど多くない。

 特に、10歳から小学校を卒業するまでの2年間の記憶はほとんど私の中には残っていない。

 何かに熱中することなく、ただ毎日妄想を繰り替えすだけの小学生時代だった。

 

 ただ、昼休みは図書館に行って、世界の紛争地域の写真集や、何かの図鑑、手塚治の漫画ばかり読んでいたことは覚えている。

 小中学校で過ごす毎日は本当に退屈だった。

 

 

 私の10代を総括する言葉を一つ述べるなら、それは「ネット漬け」だろう。

 小学3年生の頃には自分のノートパソコンを持っていたが、小学6年生でwebブラウザ付きの携帯電話を手にしてから、ネット漬けの生活へと突入して行った。

 

 手始めに、親が私の携帯に付けた有害なサイトへのアクセスを妨害する「安心フィルター」を、外国の検索ブラウザを経由するなどしてすり抜けた。

 なぜか、当時はロシアなどのブラウザを経由することで2chやふたば掲示板へとアクセスすることができた。

 それにより、私は人生で初めてのエロ画像と出会うことになる。

 初めて出会ったエロ画像は「触手もの」であった。

 

 その後、中学生になり、退屈な毎日に飽き飽きしていた私は自らが通っていた中学校の裏サイトを立ち上げたり、アメーバピグで自分の部屋でイベントを開き続けることによって、謎の知名度を得たりした。

 

 高校入学と同時にヨット部に入部したことにより、しばらくはネットでの活動を控えていた。

 しかし、部活を辞めるとともに、ネット漬けの日々が再発した。

 ツイッターでフォロワーをやたらと増やして8万人にしたり、炎上して2000RTを食らったりした。

 個人情報の管理を徹底していた当時の自分に感謝である。

 おかげで今私の家には、宗教の勧誘も、政党のパンフレットも、何も迷惑なものは届いていない。

 

 大学生になると、何を思ったか淫夢動画を作り始めた。

 動画のクオリティはクソだったが、何故か10万再生以上の動画を何本も投稿することができた。

 今日、ツイッターなどで検索をかけて見ると、未だに続編を待ち望んでいる人がいた。

 できるだけ期待に応えたいとは思うが、それは私がモンハンを楽しみ尽くした後の話である。

 その他にも、このブログを開設したり、大学のサークルを煽ったりと、生産性のあることをこの大学の2年間では行うことができた。

 

 

 ブログにはまだ書けないことなど含め、この10代を思い返すと、本当に碌でもない人生を送ってきたと思う。

 恥ずかしいことの記憶が薄れていたり、高校・大学と環境が変わるごとに、過去の私の印象を引きずる人が限られているのは幸運なことだった。

 おかげで、私は20歳になるまで憤死することもなく生きていることができた。

 

 

 小学生の頃、私は「20歳までに自分は死ぬ」という強迫観念に襲われていた。

 その亡霊に中学・高校と度々精神を脅かされてきたが、ようやくそれからも逃れられそうだ。

 小学生や、中学生の頃の自分と現在の私は、ほぼ肉体的にも精神的にも別人である。

 そういう意味では、小学生の頃の自分の強迫観念は正しかったのかもしれない。

 

 現在の私も、いつかの自分に忘れ去られ、この世から消え失せるだろう。

 それでも、昔の自分のスキルや人間関係、わずかながら考え方なども引き継がれるはずだ。

 今の、20歳になろうとしている私ができることは、未来の自分に何かを残してやることである。

 今のところ、モンハンのセーブデータしか未来に残せていない。

 いつかの強くてニューゲームのため、勉学に励もう。

 明日から。

 

B4の紙切れに収まる僕の人生を

3/6 晴れ 

 

 今日は妹の誕生日である。

 妹は今年で17歳になった。

 17歳といえば、私がナニをアンテナ代わりに反り勃てて、エロいことを探していた年頃である。

 その点、私とは対象的に、妹は部活の部長を務めていて立派である。

 私の知的人生は18歳から始まったようなものなので、17歳までの奇行はノーカウントにしてほしい。

 私の見るところ、妹の知的人生はまだ始まっていないようだ。

 妹には私よりも多くのものを知って欲しいと思う。

 世間体や常識、確定申告の方法まで、知識の幅を広げて欲しい。

 私はそれらを知る気は更々無いが。

 

 

 最近、大学の図書館に行くと就活生をよく目にする。

 自分より一個ほどしか年の変わらない人たちが就活をしているのを見ると、「いよいよか」という気がしてくる。

 私は大学院受験をする予定なので、来年頃には高みの見物をしていることだろう。

 勉強が捗らなくて、そのうち低みの見物に変わるかもしれない。

 編入試験に不合格したトラウマが蘇る。

 

 就活生のツイッターを見ていると、自己分析だの、OJTだの、よく分からない単語が飛び交っている。

 皆が一様に黒髪に染め直し、スーツを着るという姿を見ていると、自己分析もクソも無いと思う。

 個性の尊重がただの建前であることが伺える。

 

 あまりに春休みが暇なので、自己分析とやらを自分もやって見ることにした。

 企業に学生を売り渡している悪徳サイト『リクナビで、自己分析の方法を調べてみた。

 「自己分析は、自分の仕事選びの軸を明確にするため、そして自分のことを他人にわかりやすく説明するために必要です」とあった。

 人は自分のことを実はあまりよくわかっていないので、就職を機に己を見つめなおし、言語化できるようにしましょう、ということらしい。

 

 さらに自己分析について調べていく。

 自己分析の一般的な方法は、これまでの人生のエピソードを振り返り、それらを深掘りしていくことらしい。

 エピソードで「なぜ」そうしたのか、などを突き詰めることによって、自分の価値観を見つめ直そうという寸法だ。

 ううむ、なかなか自己嫌悪に陥りそうな方法だ。

 私も試しにやってみよう。

 まだ比較的自分の人生の中でもマシである、動画作りを例にする。

 

 動画作りを頑張った。


 なぜ頑張れたのか。


 自分の作った動画に多くの再生数が付いたり、コメントで楽しんでいる人の数が直感的にわかったり、動画を作る過程で自分が新しい知識を得るのが面白かったから。


 なぜそれらが面白かったのか。


 新しい物事を知ったり、作り出すのが好きだったし、誰かにそれが評価されるのが嬉しかったから。


 なぜ知ることや物事の創出が好きで、評価されることが嬉しいのか。


 数少ない人が知っている物事を自分が知っているという優越感や、新しいものが作り出され、それがより多くの人に広まる過程に参加することが好きであり、その結果さらに多くの人が自分たちに携わったものにポジティブに触れているのを見るのが楽しいから。

 

 ……エクセトラ、エクセトラ。

 

 実際自己分析をやって見ると、これは案外タメになる。

 自分の興味を具体的に言語化することは結構面白い。

 自分のあまり自覚していなかった部分を知ることができて興味深い。

 今回は比較的肯定的なな内容だったから良かったものの、自己分析がネガティブになろうものなら、それなりに精神的なダメージを食らうだろう。

 果たして現在、どれほどの就活生が自己分析で心に傷を負っているのだろうか。

 毎年、就活で病んでいる大勢の人を見ていると、就活が精神にあまり良くないということは想像に難くない。

 

 自分を知るということは痛みを伴うことだ。

 しかし、自分はいつも変化するので、完全に自己を知ることはできない。

 改めて、自分というのは遠い存在だと思った。

 

 普段に似つかわしく、真面目にブログを書き終えてしまった。

 私も卒論や大学院試験に向けて自分の興味関心を固めなければ。

 自己分析、結構オススメですよ。