きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:迷走と方向性

 有馬温泉wifiがなかったので昨日の日記を今日になって投稿する。

 

1/2 曇り 

 有馬温泉に滞在中である。

有馬の湯は一般に「金泉」と呼ばれている。多くの塩と鉄を含んでいるので、これらの成分により湯が濁り金色に見えることから、この名が付けられたという。

金泉に金こんにゃくが入る。名前がなんとなく被っているので、危うく対消滅を起こすところだった。アイデンティティが著しく損なわれた気がした。

 

 最近、『方向性』というものを重要に思う場面が増えてきた。そもそも、自分自身が方向性をよく見失うので、この概念がより一層大切に思えてくる。

方向性がなければ、何かをしようにも無駄足に終わることが多い。「〜がしたい!」という目標はあっても、そこへたどり着くための方向が分からなければ、グルグルと迷走を続けることになる。

それ以前に、目標すら定まっていないことあるので、この場合は余計に迷走し、大抵は徒労に終わってしまう。方向性が分からなければ何をやっても上手くいかない。これが結構、私だけに起こっている現象ではないらしい。

 

 私が定義する『方向性』とは、なぜ・なにを・誰に・どこで・いつ・どのように・どのくらい、といった要素を含む、目標への道筋を示すモノのことだ。これは安っぽいビジネス誌などでは「5W2H」とも呼ばれる。略さずに英語で言うなら、Why, What, Who, Where, When, How, How muchだ。

これらのどれか一つでも欠けていると、瞬く間に目標への道筋を見失ってしまう。さらに、これらが欠けていれば、他人からも行動が迷走しているように見なされてしまうので、かなりタチが悪い。この世全ての迷走は、「5W2H」の欠けによって引き起こされていると言っても過言ではない。

私がこれまでにした迷走行動の例をいくつか挙げると、音ゲーを財布が圧迫されるペースでする・女子大生のようなツイートを連投する・ラップにハマりだす、などがある。挙げだすとキリがないのでこれくらいにしておく。

私の例では、音ゲーはWhy, How much、女子大生ツイートはWhy, Where、ラップはWhy, How, How much、といった要素を、迷走した当時は完全に失念していた。その結果が不自然に見える私の行動、迷走である。

私から見た周囲の迷走行動には、不必要な留学・奇抜な色への髪染め・不自然なキャラチェンジ・風俗通いなどがあるのだが、如何だろうか。反論求む。

 

 迷走と一言で表しても、後々笑い話にできるものから、身の破滅を招くものまで様々な種類がある。

「大学生のうちに様々な経験をするべきだ」と世間ではよく言われている。

しかし、有益な経験と履き違えた迷走を繰り返し、無為な時間・金銭を費やすよりは、まず行動を起こす前に熟考し、一番有効とまではいかなくても、ベターな方向を見定める方が良い。自分への忠告と、健忘録を兼ねて、今日の日記をここで締めくくりたい。

日記:初夢もどき

1/1 晴れ 

 元旦である。

超長編かつ、グロテスクな夢を見たので、新品のパンツを履いていたが寝起きは最悪だった。初夢がこの夢じゃなくてよかった。

去年の初夢は、黒髪美少女に和式便所でションベンをしているところを観察されるという夢だった。今年も黒髪美少女は夢に現れるのだろうか。今度は是非とも、よりまともな状況で黒髪美少女と会いたい。 

 明日は有馬温泉でゆっくりするので日記もここで切り上げる。有馬温泉に行きまおんせん?(激寒)

日記:2016年の守り神

12/31 晴れ 

 2016年最後の日。

今年は世界的な事件が相次いだ。イギリスはEUから離脱し、ドゥテルテは人権の無意味さを世界に知らしめ、トランプは勝利し、ヨーロッパの各地でテロが相次いだ。連日騒がれる芸能ニュースがいかに矮小か、これらの事件は示してくれる。

芸能人の一人や二人が消えたところで、生活の何が変わるというのだろうか。芸能ニュースが報じられた2週間ほど後には、大半のファンが別の美形芸能人に現を抜かしているはずだ。そうこうしている間にも、地球はくるくると回っていく。

 

 年末はすることがない。特に大学生になってからはなおさらだ。時々本を読んでは、こたつに入りながらテレビを何も考えずに見つめる日々が続いている。

現に、今もぼーっとテレビを眺めている。何も考えないというのは、暇をつぶすにはもってこいの方法だ。

「隣、いいかしら?」

 彼女の一言が、テレビに吸い込まれていた私の意識を呼び戻した。

返事も待たず、私が乗っていた座布団を奪い取って、狭いこたつに無理やり潜り込んでくる。

男子校時代とは違い、大学に進学して、多少は女性と接近することに慣れたつもりだった。でも、密着するほど女性に、少なくともその姿をしているモノに近づくのは、今でもそこはかとなく恥ずかしい気分になる。

かくいう彼女は、そんな私の内情を汲み取ることもなく、番組に見入っている。

なぁ、と私は彼女に声をかけた。

「そういや、君と出会ってからもう一年なんだな」

「なに、口を開けばそんなこと? 無理やり話題を探さなくてもいいのよ」

ちらりとこちらを一瞥して、彼女は棘を放ってきた。

「この一年は、長々と語れるほど大きな出来事もなかったと思うけど」

「俺は良い一年じゃなかったと思うけどな、特にお前のせいで」

「あれよ、やられた方ほど、そのことをよく覚えているってやつじゃない?」

「やった方は覚えてないのかよ・・・」

 今年の元旦、彼女がこの家に訪れてからというものの、私はロクな目に合わなかった。

新年早々インフルエンザを患うわ、第一志望の大学に落ちるわ、憧れのキャンパスライフのスタートダッシュで盛大にずっこけるわ、春頃までは本当に不幸の連続だった。

 彼女曰く、私が不幸なのは、彼女がこの家に来て『厄』というものを発散しているかららしい。

初対面の時、「私は守り神だ」なんて、無い胸を張って自慢していたことを記憶している。私にとっては守り神というより疫病神だ。胸に関して毒吐くと殴られた。

 このような変なモノを無理やり追い出すほどの根性もなく、一年経てば勝手に出て行くと言っているので、仕方なく放置して、現在に至っている。幸い、『厄』は春頃までにほとんど発散してしまったらしく、それからはあまり不運な出来事は起こっていない。

そうか、彼女がここにきてからもう一年になるのか。

「確か、そろそろこの家から出て行くんだったな」

「うん、今日でサヨナラ。しみったれたこの家ともお別れね」

 大晦日の存在を最近まで忘れていた。クリスマスやハロウィンなどのイベントに隠れて、前々から音を立てずにゆっくりと迫っていたのだ。あまり日頃は気にかけていないので、この日が急に訪れたような気がした。

彼女と今日でお別れと聞くと、なんだか急にムズムズしてくる。

「なんか、寂しくなって来たな。もう1日だけいるとかできないのか?」

「それは無理ね。別の守り神がこの家に居座れなくなっちゃうじゃない。それに、私自身ももっといろんな場所を見て回りたいし。」

 別れには区切りがあったほうがいいわ、寂しいけど、と彼女は続けた。

紡ぐ言葉とは裏腹に、別れを惜しんでいる様子はなかった。ずっと長い間、このようにしてきたのだろうか。

「まあ、私との触れ合いは今日限りってわけ、だからといっておさわりは厳禁だけど」

「てか、そもそも守り神なんてものに性別があるのかよ・・・」

 私の問いには答えることなく、彼女は再びテレビに視線を移した。答えのわからない質問には答えない主義なのだ。少女の形をとっているからといって、性別は決まっているわけではないのだろう。無性別だろうか? そのうち私も答えのない問いについて考えるのはやめて、テレビを見ることにした。

 

 そんなやり取りからしばらく時間が経って、時計は11時を指していた。突然、今度は彼女から口を開いた。

「そういえば、あなたの『厄』、全部吸い取っておいたから」

 はぁ? と素で声が出た。そもそも吸い取ることができたのか。

「それって、一年前俺に『厄』を発散する必要がなかったってことか?」

「あの時は『厄』で満タンだったのよ、あと誰かに嫌がらせもしたかったし」

 思わず、ため息が出た。こうして、『厄』を吸い取り、『厄』を発散し、浮世を渡り歩いているのだろうか。彼女の当たりの強さは誰に対しても同じなのだろう。

「でも、なんで最後にそんな気遣いを? らしくないな」

「あそこ、見て」

 彼女はそう言ってドアの隙間を指差した。

最初は暗くてよく見えなかったが、目を凝らすと、何かいる。

谷亮子吉田沙保里を足して二で割ったような顔をしていた。要はホモ・サピエンスよりゴリラ・ゴリラに近い容態をしている。

「次の守り神。急ぎすぎて年が変わる前に来ちゃったみたい。あの子、興奮するとチョークを仕掛けてくるわよ」

 彼女は私の耳元でそう囁いた。次の守り神は人間の姿すらしていなかった。守り神なのに、もはや私を何から守っているのか分からない。私は疫病神のボスラッシュを食らっているような錯覚に陥った。

「あの子と来年はベストコンディションで過ごしてもらいたいなーと思ってね」

 わざとゴリラに聞こえるように言って、彼女は意地の悪い笑みを浮かべた。それを聞いたゴリラも鳴いて、拳をゴチンとぶつけて鳴らした。

 来年も波乱の年になりそうだ。

 

日記:前前前俺

12/30 曇り時々晴れ 

 12年ぶりに、通っていた幼稚園を訪問してみた。

そのまま入るとただの不審者になってしまうので、離れたところから敷地を眺めてみた。昔遊んでいた飛行機の形の遊具が撤去された以外は、あまり変わっていなかったのが逆に意外だった。

しかし、全体的に小さい。幼い頃は飛び降りるのを躊躇していたコンクリート塀が、今の私の腰ほどの高さしかなかったことが衝撃的だった。当たり前の事だが、もう二度と幼稚園児には戻れないのだと悟ってしまった。

 

 最近、過去の災難に悩ませ続けられている。

恥ずかしい思い出、言葉の言い間違え、誤字したツイート、これまでの日記、これらが定期的に頭の中でフラッシュバックする。

寝る前の、なんとなく暇な時間に1日の失敗を思い返して反省してみるのだが、前よりも改善している様子はない。我が身を三省してみても、過ちなく生きることは不可能かと思われた。

しかしながら、もし過去が存在しないとしたら、と考えてみることも多くなった。

 

 例えば、人の細胞は6年で全て入れ替わるという。そうすると、6年前の私、さらに12年前の私、18年前の私は全くの別人ということになる。

この3人が共有しているものは何もない。顔も、体も、性格も、経過時間とともに変わってしまっているからだ。かろうじて記憶という名のヒモで繋がれているのみである。

そのヒモも、片方の先端は解けて、漠然とした形をしている。もう片方は今も組み上げている最中である。かつ、そのヒモには、私が全く経験していないであろう出来事も、不純物として混じっている。

そもそも、このヒモも現在の私が大切に保管しているだけであって、実際に過去から組み上げられてきたという保証はどこにもない。現に、私たちの世界は五分前に生まれたということを反証することは非常に難しい。私たちは記憶を頼りに、「過去は存在する」と信じるしかない。

 

 ここまで書いて煮詰まった。まるで考察が足りない。前前前俺から実質私は進歩していないようだ。深夜なので考えがまとまらないということもあるので、早めに寝るとしよう。

 

日記:花は枯れず

12/27 雨のち曇り 

 数ヶ月ぶりに須磨海浜水族園に行ってきた。水槽で悠々と泳いでいる魚を見ていると、何故だかわからないが、自分の行く末だとか死についてだとか深刻なことばかり考えてしまう。気分は沈むばかりで、全くリフレッシュにならなかった。

それでも、私は水族館という場所が好きだ。というより、生き物が好きなのかもしれない。イワシの大群や巨大なピラルクを見ていると、いかに自然が偉大かを実感することができる。実感することは最高の勉強法だ。久しぶりに頭が痛くなった。

 

 SMAPがいよいよ解散するらしい。昨日、テレビで「世界に一つだけの花」を歌っているところを見た。5人ともいつもより喉に力が入っているようだった。28年間お疲れ様、と上から目線でエールを送ってやりたい。

私にとっても、この歌は思い出深いものの一つだ。

まだ幼稚園児だった頃、卒業式で母を含む保護者がこの歌に合わせながら踊っていた。そういうものが卒業式のプログラムに組み込まれていたらしい。ぎこちない動きで踊る母の姿が頭の片隅にこびりついている。

私は幼稚園児の頃、どうしようもないクソガキだった。自然に関すること全てに関心を持っていたことはまだ良かった。しかし、関心で押さえておけば良いものを、好奇心が暴走したのか、バッタを道路に放り投げ車に轢かれるところを見て楽しんだり、カメムシを種類ごとにすりつぶして匂いの違いを調べたりと、当時の私は非常に行いが残酷だった。まだ子供だったから仕方ないとはいえ、恥ずべき黒歴史の一つだ。

 

 私が育ったのは、ちょうど世界に一つだけの花の「NO.1にならなくてもいい、もともと特別なOnly one」という歌詞と共鳴するかのごとく、子供の個性がやたらと尊重されていた時だった。今でもそうかもしれない。

2000年代は本当に子供の個性が重要視されていた。その教育方針が果たして成功したのかどうかはわからない。それは今後10年ほどで明らかになることだろう。だが、自分をオンリーワンと思い込んでいる人が増えているのは確かだ。

周囲がオンリーワンだらけなので、さらにその中で己の個性に磨きをかけようとして迷走している人が大学によくいる。少し昔の私もそうだった。周囲から理解も得られないような趣味を一人でやりこみ、周囲から理解も得られないような量の本を読みふけってきた。その結果、手元に残ったのは、使いどころのない技術と無駄な知識だった。

オンリーワンを求めすぎて、気がつけば自分が得体の知れないものになってしまったように思えた。退屈と絶望感の隙間で身をよじってモゴモゴする日々をしばらく過ごした。

そんな時、自分の中にあるガラクタたちを改めて眺めてみた瞬間、一つのアイデアが思い付いた。「このガラクタたちでナンバーワンを狙えるのではないか?」と思い始めたのだ。生まれ持ったキチガイじみた好奇心でかき集めたガラクタたちは、突如として強力な武器へと変貌した。今ではナンバーワンを目指している。成功するか、行き倒れになるかはまだ分からない。

 

 自分語りのクッセエ日記になってしまった。これだから自分のことを語るのは嫌いだ。

オンリーワンだらけでは必ず皆揃って仲良く沈没していく。個性の沼から這い出るには自信をつけるか、ナンバーワンを目指すしかない。後者を目指せば前者も伴ってついてくる。それが、この短い人生で得られた教訓の一つである。

世界に一つだけの花」は枯れる。ナンバーワンの花は枯れない。ドライフラワーになったとしても、後世に名を残すことができる。それだけは間違いない。

 

日記:オタク再考

12/26 曇り 

 何も日記に書くことがないような素晴らしい1日だった。でも日記は書く。忙しい時には日記を書く元気が無く、退屈な時には日記を書く体力が有り余っているというジレンマ。

あまりにも書くことがないので、金沢に下宿している友人が『オタク』について語っていたのに便乗することにしよう。今日はオタクについて語る。それがいい、そうしよう。

 

 そもそも、『オタク』とはどのような人物を指すのだろうか。

筑波大学教授の斎藤環は、オタクを「愛の対象を"所有"するために、虚構化という手段に訴える人」と定義している。

また、首都大学東京教授の宮台真司は「没入対象に性の自意識が関係している人」をオタクと定義している。

要は「虚構でシコれるかどうか」ということが、オタクと一般人の境界線だろう。

最近、2ちゃんねるで可愛らしいイラストを貼り付けている人たちに向かって、「絵じゃん」とメッセージを送信する荒らしが横行している。これを言われるとオタクは何も言い返せない。確かに彼らの欲情している対象は絵だからだ。

しかし、オタクは絵に欲情することを止められない。それを止めることができれば、そもそも彼らはオタクになっていないだろう。

 

 ならば、なぜオタクはただのイラストに欲情してしまうのだろうか。その原因は絵そのものとオタク、両方にある。

ネオテニーという言葉がある。直訳すると「幼形成熟」だ。

人間は一般に他の動物と違って、子供の頃からの形質の変化が少ない。チンパンジーの場合、子供の頃の骨格は人間の幼児と大差ないが、成長するにつれて、頭蓋骨はあまり変化しないが、顎が強靭になっていく。その結果、骨格は子供の頃と全く違ったものになる。

しかし、人間はチンパンジーとは違い、成長しても子供の頃と骨格の形はあまり変わらない。その結果として、骨に脳が圧迫されず、ネオテニーは人間が高い知性を得た一因とも言われている。

それはともかく、ネオテニー形質を強くもっている人は他者から愛されやすい。芸能人でいえばローラ・橋本環奈・堀北真希などがネオテニー形質の強い人の例に挙げられる。

これは子供の顔を見れば無条件に『可愛い』と思う私たちの感情とつながっている。子供を危険から守るため、私たちは子供を可愛いと思うようにできている。この本能がネオテニーとつながって、童顔の人を可愛いと思うのだ。

さて、「萌えキャラ」と呼ばれるイラストはどれもネオテニーの形質を備えている。大きな目・広いおでこ・ふっくらとしたクチビルなど、子供が備えている形質にそっくりだ。萌えキャラはどれも人に可愛いと思わせるためにデザインされている。このデザインこそがオタクたちの欲情を誘うのだ。

 

 今度は人間の方を見てみよう。

そもそも、この萌えキャラに親しむことができる環境にまでたどり着かないと、人はオタクにならない。どのようにして、人はオタクになってしまう環境に染まってしまうのだろうか。

第一に、現実の女性と触れ合う場面が日常生活に少ない、ということが挙げられる。これはある意味、実体験に基づいている。

男子校に入学した途端、オタク化した男の多いこと! 

一見オタクとは程遠いように思えるヤンチャ系の生徒ですら、アニメを見ていた。おそらく二次元でシコっている。「現実が不可能なら虚構に逃げ込んでしまえばいい」と言わんばかりに、男子校にはオタクが多かった。

第二に、オタクとなることに意味が生まれる場合が考えられる。仲間内でアニメの話題があがった時、その仲間内での繋がりを強めるためにアニメを見ざるをえないといった状況が生まれる。

これは「みんなこのゲームをやっている」と親に泣きつく子供の論理に似ている。アニメを見ていることが周囲で当たり前になるほど、そのコミュニティ内でのオタク化が進行していく。

そして、虚構に逃げ込まざるを得なくなるほどの状況に置かれるということも理由になるかもしれない。

例えば、いじめなどで心の拠り所を虚構に求める場合もあるだろう。不登校の支援をして思っていることだが、彼らにはオタクが多い。虚構はそこに心の安寧を求める者を拒絶しない。虚構は自分の求める癒しや安心を提供してくれる場でもある。

安心できる場を探求した結果として、オタクに自らの意思でなってしまう人は意外と多いのかもしれない。

 

 さて、絵と人、二つの要因が繋がってオタクが生まれることを説明してきた。

ますますオタクは世の中に溢れ、以前はオタクとならなかったはずの人たちまで、オタク化が進行している。リア充やキョロ充でありながら、オタクでもあるという事態が当たり前のようになった。これからもますますオタクは増え、コミケには大企業が参入し、少子化が深刻になっていくのだろう。

拒絶のない虚構に身を委ねるのか、辛辣な現実と向き合っていくのか。どちらがオタクにとって幸せな結果を生むのかは、神のみぞ知るところである。

日記:寂しいクリスマスを過ごさないために

12/25

 クリスマスである。

ハロウィンの後、街は即クリスマスムードに移り変わり、その甘ったるい空気もようやく今日で終わる・・・と思ったらすぐ後ろに正月が控えていた。

近年になって、ますますイベントの間に息継ぎをする暇がなくなっているような気がする。たまには何もない月があっても良いではないか。このままでは怒涛のスケジュールに溺死しかねない。

 

 結局、今年もモテなかった。一体何がいけなかったのだろうか。

恋愛心理学をほぼマスターしたからといって、モテ期が来るわけでもなかった。身長・体重・構成物質が福士蒼汰と同じだからといって、女性から言い寄られることもなかった。

周囲が交際相手を次々と見つけていく中、私に相手が現れないのはちゃんちゃらおかしい。理論上は私はモテる筈である。それなのに、なぜモテていないのだろうか。

 

 こういう時は、モテている人間とモテていない人間を比較するに限る。集団同士の相違点を発見することで、私達にもモテるためのノウハウが理解できるだろう。

今から、私の長期にわたる人間観察から導き出したモテる人とモテない人の大まかな違いを述べる。全非モテの諸君必見である。ぜひ、このようなクリスマスを送ることがないように参考にしてもらいたい。

 

○モテる人

清潔・人間関係に積極的である・リア充・協調的である・ラインをよく使う・電話をよく使う・よく笑う・スポーツ経験者・何事もそつなくこなせる・踊る・バイトに費やしている時間が長い・格好が若い・性欲が強そう(偏見)

 

✖モテない人

汚い・臭そう・人間関係に消極的・ソロ充・自己愛が強い・会話をする際にツイッターを使う・無表情・ノンサー・幾つかのパラメーターが無駄に突出している・働かない・年齢より年を食っているように思われている

 

 ずらっと項目を書き出してみた。後から見れば、ほとんどが心理学や生物学など、データに基づいて説明出来るものである。

第一に、人が交際相手に求める条件は、全世界で共通している。

基本的に、男性は交際相手に対して、安定して生殖を行うことが可能な容態を求める。いわゆる安産型体型や、若さ、また遺伝子の乱れを避けるために容姿端麗な相手を好む(多数の女性の顔写真を撮り、その平均を割り出すと日人になることが判明している)。

そして、女性は交際相手に自らが育児をする際に必要なエネルギーを充分に提供できる相手を選ぶ傾向にある。そのため、年収・体力・献身的な性格が必要とされ、先述したのと同じ理由で容姿が良い男性が好まれる。

 

次に、交際相手とより長い時間を安定して過ごすために必要な要因が重要視される。

恋愛には、性格の類似性・相補性という概念が存在する。要は性格が似通っていれば、その分二人は親密になるし、互いの欠点を補うことができれば、より仲が良くなるといった意味の言葉だ。

以上から、どんなドクズでも、ぶっ飛んだ聖人と出会ったなら二人が付き合う可能性は十二分にあるということになる。

ぶっちゃければ、性格はあまりモテ度には関わってこない。個人個人によって大きく好みが変わるものだからだ。Sな人すきもいれば、Mな人の方が好きな人もいるだろう。自分の性格を変えるよりも、自分の性格と合うような人を探す方がコストパフォーマンスも良いだろう。

 

 その他にも様々な要因が存在するが、結論を言えば積極的な筋骨隆々・バイトマンな男性、渾身的な美人はモテるということだ。すごく小並感溢れる結論になってしまった。

これらの要件に当てはまらなかった人たちも安心してもらいたい。人の性格パターンはほぼ無限大、貴方に合う性格の人がきっと、意外にも近くにもいるはずだ。

最終的に恋の成就の是非を決めるのは、これらの知識よりも積極的になる勇気である。

最後に、私が保証する。勇気を持てば相手は見つかる。このような日記を書いていない限りは。