きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:偉大なるお風呂洗いへの前哨戦

7/4 雨 

 クソザコ台風がやってきた。ただシトシトと雨が降り続いているだけである。暴風警報は何処へ。

 それでも雨の日は嫌いではない。なんとなく、晴れや曇りの日よりも非日常的な感じがするからだ。

 空の彼方から雨粒がひたすら自由落下を続け、私の傘にたどり着いているということを考えると、なかなかのロマンがある。

 

 はたから見ていると、カップルというのはトラブルが多いのだとつくづく思う。いつまで経っても彼女ができない自分を擁護しているのではない。単なる感想である。

 そのトラブルのほとんどは、互いが互いを思いやるが為に生まれているものだ。

 例えば、少々二人の間に口喧嘩が起こって、一人は本音を吐露してほしいと思っているのに、もう一人は相手を傷つけまいと、口を閉ざすというケースを頻繁に見かける。

 この場合、一人はトラブルの解決に積極的であり、もう一人は思いやりから、トラブルの解決から自主的に距離を置いている。双方が積極的にトラブルの解決を目指したり、トラブルの解決を避けるのより、このケースはタチが悪い。

 双方の優しさから生じるトラブルは、大抵が変に後味の悪い結末を迎える。

 そんなことが続いている間に「どうして自分の気持ちをわかってくれないんだ」という思いが生じ、二人の関係にヒビが入るのだ。

 恋愛関係においては、片方が極悪人になった方が上手くいくのかもしれない。

 

 ご飯を奢る、奢らないの関係においても、同じような事態が生じる。

 男は積極的に奢ろうとするが、女性がそれを拒み割り勘にするだの、双方の優しさに起因するトラブルが世間には無数に発生している。レシートを見て、自分が食べたものの分だけ互いに払えばいいのに、といつも私は思う。

 え? 「お前はそんな考えだからモテないだ」だって? 

 チッチッ、私はただ「男は女性に対して奢るべきだ」という社会的ラベリングがベトベトにこびりついた環境で生活したくないだけだ。相手を忖度(この言葉は死ぬほど嫌い)することが面倒臭いとも、言い換えることができる。

 ともかく、私は交際相手とは対等でありたいのだ。だが、こんな風にブログに書き込んでいても、彼女ができた途端にコロッと意見を変えるかもしれない。人間はだいたいそんなもんである。

 

 こうしてみると、恋人になるというのは、互いが結婚生活をうまくできるかということを確認するための行為なのかもしれない。

 「元彼がいた」というのは、ただ単に「結婚生活がうまくいくか、その人と確かめていました」という事実でしかない。もはや、カップルである人間とそうでない人間に優劣は存在しないのだ。

 カップルは結婚生活がうまくいくかの実験中であり、独り身の人はその実験を行なっていないだけだと捉えれば、少しばかり気が楽になるだろう。

 この場合では、元彼の数が多いほど、「私は実験に失敗しました」ということになる。そんな人も案ずるなかれ。実験の失敗は、次の実験の糧になってくれることだろう。

 実験を重ね、人は交際というものを学び、最適な相手を選んでいく。それでいいではないか。そこには何の不平も存在しない。メタファーが照らし出す真実はいつもシンプルである。

 

 実験にトラブルは付きものであり、何よりそのトラブルは、最適な手を打てば意外と簡単に解消することができる。

 恋人同士のトラブルなんて、結婚生活におけるトラブルに比べれば大したことないのである。これらも全て、風呂洗いやゴミ出しの役割決めへの前哨戦に過ぎないのだから……。

 とりあえず、私は実験がしたいです。