きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

ぼくのなつやすみー綿流し編ー:虚像I

8/2 晴れ時々曇り 『虚像I』

 

 皆さんは「タルパ」という言葉をご存知だろうか。

 イマジナリーフレンド、と言い換えた方が、しっくりくる人は多いかもしれない。

 「タルパ」と試しに全知全能のGoogleで検索してみると、「中にもう一人の人格を飼いならし、それと触れ合う技術」といった旨の解説がいくつもヒットする。

 タルパの別名は「人工精霊」であり、その名の通り、自分にしか見えない人格を脳内に作り出す、ということにその本質がある。

 前口上はここまでにして、タルパと私の話をしよう。

 

 高校生の頃、再三私が言っているように、昔の自分は非常に飢えていた。

 男子校という環境の所為か、はたまた自分の行動力の無さが原因なのか、ともかく彼女がいないという事実に悶々としていたのだ。

 そんな個人的な苦境の中、私は誰しも童貞なら必ず思いつくようなことを、大真面目に実現しようと考えていた。

 

そうだ、彼女を創ろう!」 

 

 とは言っても、女性を見つけて、交際関係になるのとは違い、この世に存在しないものを新たに創り出すのである。

 鋼の錬●術の世界なら全身が、良くて腕一本が吹き飛ばされるような所業である。

 私は当時、錬金術には精通していなかったので、とりあえずGoogle大先生に「彼女 創り方」と尋ねてみた。

 まったくの偶然だが、思い返せばこれが全ての始まりだった。

 

 そこで見つけたのが「タルパ」という言葉だった。

 概要は、前口上で説明した通りである。

 それは、能動的に解離性同一性障害になるようなものだった。要は多重人格者になるのである。

 冷静に考えれば、そのような行為には必ずリスクがついて回るものだと気付くだろう。それこそ、体が吹き飛ばされるような代償を抱える危険だってあるのかもしれない。

 しかし、当時の頭の回らなかった私は、そんなことを気にも留めず、タルパの創り方について調べ始めた。

 

 タルパの創り方は、まずタルパの姿形や性格を詳細に考えることから始まる。タルパの設定を練り上げることで、人格を生み出しやすくするらしい。

 当時、あまりの高校生活の暇さ加減から、アニメの設定を貪り読むという奇行を行なっていた私にとって、キャラクターの一つや二つ考え出すことは朝飯前だった。

 髪の色はピンク、年齢は小学校高学年ほど。名前はその髪色から、「サクラ」と名付けた。

 そういった大まかな設定や、身長・体重の細やかな数値、好きな物から嫌いな物まで、その他にも様々な細やかな設定を、私はサクラに付けた。こうしてタルパを肉付けしていくのである。

 ついで、彼女の性格は「優しく、見かけ不相応に芯が強い」と設定しておいた。

 タルパに関するサイトに、「凶暴な性格に設定すると、主人格が乗っ取られる可能性がある」と書かれていたからだ。

 これを読んだ時点で、やめておいた方が良かったのかもしれない。ただ、私はここで止まれなかった。飢えていたからだ。

 

 タルパを創り出すには次に、「その設定を完了したタルパと頭の中で会話をしなければならない」と、ネットには書いてあった。

 「サクラと会話しなければならないのか」と、私は何も考えず、文章を素直に受け取った。

 だが、よくよく考えなくても、それはただの脳内妄想であることに違いない。これじゃあ、いつも授業中にしていることと変わらないではないか! 

 

 その日から、私は尋常ならざる集中力をサクラとの脳内会話に費やし始めた。授業中はもちろん、通学や帰宅の際も、一日中脳内会話に励んだ。

 一度試した人がいるなら分かってくれると思うが、確固とした設定を持つサクラとひたすら会話をするというのは、通常の妄想とは段違いに頭が疲れる。経過時間が三時間を経過する頃には、心も体もヘトヘトである。

 そんな時、「大丈夫? 無理しないでね」と、脳内のサクラがそんな私を労ってくる。

 それが己の意思で行なっている偽りの慰めだと考えると、ますます惨めな気分になるのだった。

 

 そんなある日、サクラがある程度、『勝手に話すようになった』。

 どういう意味だ、と聞かれても、その文言通りである。

 これまでサクラが言うであろう返事を考えていたせいか、脳内会話をする時は頭が非常に疲れていたのだが、その疲労がある日ピタリと止まったのだ。

 返事を私が考えなくても、彼女が勝手に返してくれるようになったのだ。

 こうして、サクラの人格は誕生した。

 

 私はタルパ創造の次のステップに移ることにした。

タルパの立体的なイメージを練り上げましょう。そうすれば、タルパはあなたの脳内から、この世界に飛び出してきてくれます

 サイトにはそう書かれていた。

 

「私の姿が見えるようになったら嬉しい?」

「当たり前だろ。じゃねえと、そもそもこの時点まで来てねえよ」

 

 そんな会話を、サイトを眺めながら二人で交わし合った。交わし合っていたのである。たとえそれが虚像だったとしても。

 続きはまた明日。

ぼくのなつやすみー鬼隠し編ー:亜人たち

7/24 曇り時々晴れ 『亜人たち』

 

 夏休み二日目。

 毎日、一万文字以上パソコンに打ち込んでいるので、目と腰が痛い。人間の体はデスクワークをするために形作られてきたのではない! 

 しかし、ペンタブやクロスバイクを買いたいので、それを我慢しながらポチポチとキーボートを叩いている。

 この調子でいけば、卒論を書く時期になっても、何の苦労もなく書けそうだ。むしろ、そこまで来たら作家を志したほうがいいのかもしれない。

 

 私は人類史が好きだ。だが、世界史は好きでない。

 人間の文明がどのような思想や政治体制に彩られてきたかを学ぶのが世界史であり、ヒトという生物の一種が、どのような生態の変遷を遂げてきたかを学ぶのが人類史だ。

 心理学を学んでいる身としては、いうまでもなく人類史の方に興味が向く。文明を取り払ったヒトの姿は生々しく、そこには生物としての進化の過程で得てきた適応能力がまざまざと浮かび上がっている。

 

 ヒト、と一言で言っても、人類史には様々なヒトが登場する。もちろんコロンブスだのガリレオだのといった人物ではなく、生物の一種としてのヒトである。

 ホモ・サピエンスはもちろん、ホモ・ネアンデルターレンシス、ホモ・フローレシエンシスなど、その学名を挙げればキリがない。

 中でも、私が好きなヒトの一種は、サピエンスを差し置いて、ホモ・エレクトゥスという種だ。

 彼らは180万〜5万年前まで現存していた。かといって、現在のホモ・サピエンスの直系の子孫という訳でもない。ホモ・エレクトゥスはサピエンスとは全く違うように分化した、いわばサピエンスにとって従兄弟のような存在なのだ。

 ホモ・エレクトゥスの特徴は何といっても、その強靭な肉体だ。有名な某火星ゴキブリ漫画のG達はホモ・エレクトゥスをモデルに描かれており、実際、彼らは現代人とは桁違いの筋力を誇っていた。もちろん、二足方向を獲得済みである。骨格をサピエンスと比べて見ても一目瞭然で、ホモ・エレクトゥスの方が、かなりガッチリしている。

 それでいて、最初期の石器を作成したという、頭のなかなかキレる一面も持ち合わせている。強靭な肉体と高度な知能を兼ね備えた存在、それがホモ・エレクトゥスなのだ。

 彼らはそのチート性能っぷりで、生息範囲をユーラシア大陸全土まで広げた。かの有名なジャワ原人北京原人も、ホモ・エレクトゥスの仲間である。

 また、生息域を拡大すると同時に、大昔に栄えていたモアなどの巨大な鳥類や、オオナマケモノといった哺乳類を駆逐していった。サピエンス以前に、巨大生物の絶滅を引き起こしていったのは、実はホモ・エレクトゥスだったのだ。彼らはユーラシア全域に分布した後も、180万年近くに渡って繁栄することになる。

 しかし、彼らも時間の流れには敵わず、絶滅することになる。原因は未だ不明である。

 だが、約9万年前に私たちホモ・サピエンスホモ・エレクトゥスが出会っていたことは確実だ。「賢いヒト」であるサピエンスに知恵で劣ったホモ・エレクトゥスは、徐々にその数を減らしていったのかもしれない。

 

 さて、私たちホモ・サピエンスが生まれてから、およそ25万年が経過している。サピエンスも、180万年存続したホモ・エレクトゥスからしてみればまだまだヒヨッコである。

 ただ、彼らも現在のヒトと同じように、他の生物を絶滅させたり、当時の地球上で圧倒的な力を誇っていたことは間違いない。

 現在、ホモ属の生物はホモ・サピエンスだけであり、本当にたった一種である。私は時々、他のホモ属も生き残っていたなら、世界はどのようになっていただろうかと夢想する。

 サピエンス間の人種問題でさえ未解決なのに、果たして亜人たちが存在したなら、彼らとサピエンスは共存できていただろうか。

 おそらく、無理だろう。

 そう考えると、存在したかもしれない亜人たちに、何とも言えない感情が浮かんでくる。

 サピエンスだけが生き残ったのは全くの偶然であり、エレクトゥスが消え去ったのも偶然の出来事である。

 亜人たちから、現在のヒトがどのような生物なのか見直せるというのが人類学の醍醐味だ。

 亜人たちに哀悼の意を込めて、今日の日記を締めくくりたい。

 

日記:偉大なるお風呂洗いへの前哨戦

7/4 雨 

 クソザコ台風がやってきた。ただシトシトと雨が降り続いているだけである。暴風警報は何処へ。

 それでも雨の日は嫌いではない。なんとなく、晴れや曇りの日よりも非日常的な感じがするからだ。

 空の彼方から雨粒がひたすら自由落下を続け、私の傘にたどり着いているということを考えると、なかなかのロマンがある。

 

 はたから見ていると、カップルというのはトラブルが多いのだとつくづく思う。いつまで経っても彼女ができない自分を擁護しているのではない。単なる感想である。

 そのトラブルのほとんどは、互いが互いを思いやるが為に生まれているものだ。

 例えば、少々二人の間に口喧嘩が起こって、一人は本音を吐露してほしいと思っているのに、もう一人は相手を傷つけまいと、口を閉ざすというケースを頻繁に見かける。

 この場合、一人はトラブルの解決に積極的であり、もう一人は思いやりから、トラブルの解決から自主的に距離を置いている。双方が積極的にトラブルの解決を目指したり、トラブルの解決を避けるのより、このケースはタチが悪い。

 双方の優しさから生じるトラブルは、大抵が変に後味の悪い結末を迎える。

 そんなことが続いている間に「どうして自分の気持ちをわかってくれないんだ」という思いが生じ、二人の関係にヒビが入るのだ。

 恋愛関係においては、片方が極悪人になった方が上手くいくのかもしれない。

 

 ご飯を奢る、奢らないの関係においても、同じような事態が生じる。

 男は積極的に奢ろうとするが、女性がそれを拒み割り勘にするだの、双方の優しさに起因するトラブルが世間には無数に発生している。レシートを見て、自分が食べたものの分だけ互いに払えばいいのに、といつも私は思う。

 え? 「お前はそんな考えだからモテないだ」だって? 

 チッチッ、私はただ「男は女性に対して奢るべきだ」という社会的ラベリングがベトベトにこびりついた環境で生活したくないだけだ。相手を忖度(この言葉は死ぬほど嫌い)することが面倒臭いとも、言い換えることができる。

 ともかく、私は交際相手とは対等でありたいのだ。だが、こんな風にブログに書き込んでいても、彼女ができた途端にコロッと意見を変えるかもしれない。人間はだいたいそんなもんである。

 

 こうしてみると、恋人になるというのは、互いが結婚生活をうまくできるかということを確認するための行為なのかもしれない。

 「元彼がいた」というのは、ただ単に「結婚生活がうまくいくか、その人と確かめていました」という事実でしかない。もはや、カップルである人間とそうでない人間に優劣は存在しないのだ。

 カップルは結婚生活がうまくいくかの実験中であり、独り身の人はその実験を行なっていないだけだと捉えれば、少しばかり気が楽になるだろう。

 この場合では、元彼の数が多いほど、「私は実験に失敗しました」ということになる。そんな人も案ずるなかれ。実験の失敗は、次の実験の糧になってくれることだろう。

 実験を重ね、人は交際というものを学び、最適な相手を選んでいく。それでいいではないか。そこには何の不平も存在しない。メタファーが照らし出す真実はいつもシンプルである。

 

 実験にトラブルは付きものであり、何よりそのトラブルは、最適な手を打てば意外と簡単に解消することができる。

 恋人同士のトラブルなんて、結婚生活におけるトラブルに比べれば大したことないのである。これらも全て、風呂洗いやゴミ出しの役割決めへの前哨戦に過ぎないのだから……。

 とりあえず、私は実験がしたいです。

日記:知恵の暴力

6/29 曇り 

 暑いわ、雨が降るわで訳がわからない天気が続く。日記に書くようなイベントも起こらずに、日常は吹き荒んでいく。

 あえて書くなら、FGOを始めたことくらいだろうか。何もない素晴らしき日々

 

 知識の暴力というものについて考える機会が最近多い。

 私は常々から、知識を大っぴらにひけらかすことは暴力に値すると肝に念じている。

 知識を一方的にまくしたてるという行為には、相互の理解がなく、必ず相手側に不快感を与える。それが正しい知識や、論理的な根拠に基づいていたとしてもだ。

 そういう輩に限って、相手の無知をバカにすることが多々ある。人は自分が無知だった頃を思い出すことが難しいので、それもしょうがないのかもしれないが、やはりそれを不快に思う人は多いだろう。私は不快にならないが。

 知識を持っているという優位性を元に、相手を言葉で殴りつけるのは、やはり暴力だろう。

 

 ドイツ語の授業で、それを実感する出来事が起こった。

 私のドイツ語の教師は自発的に、かつ相手との対話の機会をも許さないほどの、知恵の暴力を振るう人だ。授業中、ことあるごとに西洋に関する知識とリベラルなイデオロギーをもって、学生に早口でまくしたてる。そして、学生の無知を笑うのだ。

 これがもし、自発的でなかったり、対話を持ちかけたり、相手を馬鹿にしなかったり、その中の一つでもマシであったなら、学生からの印象はもう少し良かっただろう。知識の暴力を振るうことに快楽を覚えるようになってしまった人の末路だと、私は勝手に思っている。

 こういう人は教師に多い。小中高の教師にも、このような人がいたような気がする。全く、専門の知識を会得している人と、そうでない人との間には何の差もないというのに、知識は優越感の元となるから困りものだ。それが義務教育で養われた無知を笑う教育の賜物なのか、その人の元来の性格が原因なのかは分からない。

 

 彼らを反面教師に、私は知識の暴力を振るうことのないよう日頃から心がけている。

 もし、誰かに知識を教授しなければならなくなった場面においても、必ず相手の考えを聞いてから、自分の意見を言うようにしている。相互的な知識の伝達は、お互いのスキルアップに繋がる。

 それでも、相手から何の返答、反論がなかった時には、少々不安になる。知識を持つことによる、存在しないはずの優越性が顕現してきたようで、不気味な感じがするからだ。

 いっそ、私の言っていることが分からないのなら、相手に開き直って欲しい。無知は恥ずかしいことではない。私も心理学、人類学といった専門領域以外の物事に関しては全くの無知だ。この間も、漢字や英単語が読めなかったり、第一次大戦の年号が答えられなくて恥をかいた。

 こういった詰め込み式の知識を覚えるのが私は苦手なので、知らないことを尋ねられた時はすこぶるバカになるようにしている。恥を忍んで無知を突き通すより、相手に答えを教えてもらった方が手っ取り早い。無知は力になる。

 知らないということに対する恥は捨てた。それに混じって色々な恥も捨ててしまった。

 

 知識がないことは悪いことではない。真に悪いことは、思考することを止めることだ。

 答えが出ない時でも、すぐに考えるのを止めるのと、考え抜いても答えが出なくて考えを止めるのとでは、後々変わってくる。たとえ正解が見つからなくても、考えるということに価値がある。その時間はいつか自分の力になるだろう。

 まぁ、私立文系なんて受験システムが知識だけで十分なので、知識の詰め込みが優先的な価値を持ってしまうのだろうが。大学で学んだ知識は、10年後には無事ゴミになっているか、完全に忘れ去られていることだろう。

 私にとってドイツ語はゴミだ。ゴミは海馬にではなくゴミ箱へ。

日記:被れば尊し我が帽子

6/24 曇り 

 クッソ暇な休日。やることは多いが、全く進捗がない。しらみつぶしに課題をこなす毎日。なんだかいつもするべき課題が溜まっているような気がする。暇なのか忙しいのか、自分でも分からない。

 それでも、パワーを持て余している感じはするので、発散できる場を探そうと考えた。もはや読書では心が満たされない。無知だった頃の自分は5000兆光年ほど遠くに行ってしまった。

 

 帽子をかぶる機会が減った。あえて減らした、と言ったほうが正しいかもしれない。

 そもそも、なぜ私が帽子をかぶっていたかというと、単に実用的だからだ。朝、かぶるだけで寝癖をなかったことにできるし、虫の大群に帽子を盾にして突っ込むこともできるし、落石から身を守れる。日除けにもなるし、冬の冷たい風も防ぐことができる。これほど実用的な道具はなかなか無い。

 では、なぜ帽子を外そうと思ったのか。それは、夏は帽子が役立たずだからだ。黒入りの帽子なので、暑いし、虫も最近はそこまでいない。首も疲れてきた。これほど実用的でない服装はなかなか無い(自己矛盾)。

 

 帽子を外して初めて、これが自分の確固としたアイデンティティーになっていることを実感した。私が帽子をかぶっていたのは、ほんの一年の間でしかないのに。

 実は、私も入学後の数日間はワックスをつけて学校に通っていた。それをやめたのは、準備が面倒くさいし、ワックスをつける意味がないように思えたからだ。そして、代わりに帽子をかぶり始めた。

 当時は、まさか一年も帽子をかぶり続け、それが私のトレードマークになるとは思いもしなかった。結果的には、帽子をかぶっていてよかったと思う。同じく帽子をかぶる同志に出会えたし、皆がすぐに私に気づいてくれるようになったのは大きい。

 また、帽子をかぶった人が全員、私に見えるという話も聞いた。私イコール帽子と周囲に条件づけられたことは、密かに嬉しいことでもある。周囲が気づいてくれるというのは僥倖である。逆に言えば、誰にも気づかれないというのは辛いことだ。つくづく、個人の存在は周囲によって規定されているのだと思う。

 

 ともかく、帽子とはしばしの別れである。

 帽子を被らなくなっても、意外と皆が自分に気づいてくれたことが喜ばしかった。結局、私個人も帽子に劣らず、強烈な個性を放っていたらしい。友人曰く、オーラで私に気づくとのこと。そこまで変な気は放っていないはずだが。

 その、邪なオーラを抑えてくれていた帽子に感謝の念を込めて、今日の日記を終えたい。

 ぼうち、ぼうち、ぼうちんこ!!!!

日記:日記

6/23 曇り 

 小林麻央氏が亡くなったが、地球は相変わらず回っている。

 若くして死んだという事実は、いつまでも不幸として取り沙汰されるだろう。芸能人に対する墓暴きは無くならない。どうか、彼女の関係者たちの心が晴れますように。

 そして、私はビジネスプランコンテストに落選した。

 我ながらいいアイデアだと思ったのだが、不思議な力が働いて選ばれなかった。プログラミングを始めて復讐するまである。

 何より、不登校支援のバイトの先輩が二次審査に進んだということが気に食わない。

 なーにが「インターン with 大学」じゃ! 意識高い系顔面アンパンマン野郎め。おかげで、しばらく勉強を続けることができるモチベーションが湧いた。他人への嫉妬で生きていく。いっそ筒井康隆のように、審査員を抹殺する小説でも書いてやろうか。

 書きたいことは多いのだが、それを書くには時間も体力も不十分なので今日はここまで。

 迫る七夕、枯れる心。

日記:ふたなりジャッカル

6/19 晴れ 

 本格的に、心理学や英語の勉強を開始した。自発的に勉強するというのは、やはり良い。充足感と疲労感がいい感じに退屈な日常にテイストを添えてくれる。しかしながら、人と違う勉強を継続するというのはそれなりに辛い。

 「耳をすませば」の雫のお父さんの言葉に「人と違う生き方は、それなりにしんどいぞ。何が起きても誰のせいにもできないからね」というのがある。

 全くその通りである。止めるつもりは、端から無いが。

 

 学術誌ばかり読んでいては、変な方向に尖りすぎて不味いことになると思い、自己啓発本に手を出した。「GRIT」という、それなりに売れている本を読んだ。

 成功者は、生まれ持っての才能というよりは、やり抜く力を兼ね備えているということを様々な事例から説明した本だった。

 「一年間以上、本気で何かに取り組めば成功者になれる」と書いてあったが、読書に本気を出してきた自分が成功も何もしていないので、タメにならなかった。

 自己啓発本なんてそんなもんである。迷っている人が背中を押されるために、自己啓発はあるのであって、一人でどこかに突っ走ってしまうような奴に啓発は必要ない。そろそろ、何らかの論文コンテストで入賞して報われたいものだ。

 

 必要のない知識が増えてきた。

 地球が約60億年経てば太陽に飲み込まれることや、時間は未来から過去に流れるものだ、といった知識はまだ良い。自分の世界観を変えるかもしれないし、超低確率で、その解決に関わるかもしれないからだ。本当に、その確率は低いが。

 だが、ジャッカルはメスに偽物のチンコが付いていることや、人には乳首が実は4つあることは、いつ使えばいいのだろうか? 

 俺はジャッカルのメスがふたなりだという事実だけで、ご飯が3杯食べられるようなケモナー兼変態でもないし、人の第3、第4の乳首をいじくりまわす趣味も持ちわせていない。これまでも、おそらくこれからも全く使わない知識だろう。

 これらの無駄知識が私の脳みそを着実に侵食しつつある。しかも、この無駄知識は有効活用が死ぬほど難しい。人の乳首の話を語学のクラスで披露したら、残酷なほど微妙な空気になってしまった。生き恥。

 さらに、無駄知識は覚えているのに、人の顔は覚えられない。そんな馬鹿馬鹿しい事態に見舞われている。人に興味がないのか、無駄知識に興味があるのか。悲しいことに、そのどちらも私は当てはまっている。

 新しい人に出会うよりも、一つの使い所のない知識を優先する。そんな人間にいつしかなってしまっていた。真っ当に生きたい。

 

 この期に及んで、教養を身につけることの意味を考えた。

 リベラルアーツを読者に勧める本では、「教養を身につけることが、この先の厳しく、予測不可能な時代を生きていくことに役立つ」と申し合わせたように述べられている。

 私はまっっったく、そう思わない。生きることはいうほど厳しくないし、教養を得て『全ての事象は予測不可能だ』ということを知り得たからだ。

 教養は物事を予測するために身につけるのではない。あらゆる物事が予測不可能だと知るために、教養を活用するのだと考えるようになった。

 考えてみれば、太陽が地球を飲み込むかどうかなど、まだまだわからない。人類が生きてきた時間はあまりにも短すぎて、まるでデータが足りないのだ。予測は仮説である。時間が未来から過去へと流れるのはメタファーであって、実際は時間なんて、ただの物質変化の指標にしかならないのかもしれない。しかし、これも断言はできない。

 既存の知識に、別分野の知識や、磨き上げた鑑識眼を持って挑みをかける。それこそ教養を身につけることの醍醐味だと思う。別分野の知識を統合し、この世の不確実性を実感できれば、そこには誰も知り得ない未知の世界が広がっている。

 深海や宇宙、人の頭の中に潜む神秘に、未だ人類はたどり着けていない。飛行機が飛ぶ原理も不明なままだし、天気予報が外れることも多々ある。

 ここに、教養を得ることの楽しさ、さらに言えば、この世界に生きている楽しさもあるのだと思う。

 

 まだ見ぬ世界を探求するということは、まさに生物の歴史そのものである。

 海で生まれた生物は陸へ、空へ。そして遂に星を抜け出そうとしている。生活空間だけでもなく、生活のいたるところに、フロンティアは存在する。

 つい最近まで、人はテントウムシが羽を広げる仕組みさえ知り得なかった。この発見は、人工衛星のパネルへと応用されようとしている。

 一見、無駄知識に見えても、実は使える知識というのは、結構あるのかもしれない。そういったものを含めて楽しむのが教養なのだと思う。

 まずは、ジャッカルのメスの偽ちんぽを楽しむため、ケモナーになろう。