正しいことだけコンニチワ! アナタとワタシでコンニチワ!
1/27 曇り
この間、大学院を目指している人が集まるサブゼミのようなものがあって、そこでプレゼンをする機会があった。
私以外の参加メンバーはみんな臨床心理学を専攻していたので、題材として私は『EFT』というものを紹介した。
EFTとは、エモーショナル・フリーダム・テクニックと言われる心理療法の一つである。
全身のツボのようなものをタップすることで刺激し、それが心理的な不具合を改善する――らしいのだが、エビデンスは乏しい。
この心理療法を取り上げ、EFTの効果を的確に検証するにはどのような方法論をとればよいか、といった問題を出題した。
それと同時に、EFTとは質は異なるが、やはりエビデンスがいくらかの研究者に疑われている精神分析を取り上げ、臨床場面で精神分析を用いるのに賛成か反対か、自分の意見を記述させる問題を出した。
EFTの効果の検証については簡単だ。
ランダム化比較試験といった手法を用いれば、プラシーボの影響を考慮して、ある程度は効果の有無について判断を下せるだろう。
そしておそらく、「EFTは臨床の手法として用いるに値しない」という認識に落ち着くだろう。
既に、数多くの研究がEFTの効果が怪しいものだと示している。
だが、精神分析を臨床の場で用いるか否か、といったことになると、話が変わってくる。
言わずもがな、これまでの時代と同様に、心理療法には大きな責任が伴う。
その治療の質の裏付けをするのが、公認心理師という国家資格であったり、臨床心理士という民間資格であったりする。
公認心理師や臨床心理士がもし、EFTを行っていたらどうだろうか。
間違いなく非難の声が上がるだろう。
では、精神分析はどうだろう。
というと、非常にグレーゾーンだ、わからない。
その道を究めていない私は明言を避けたい。
サブゼミでは意外にも、精神分析を臨床場面で用いることに賛成の人が多数派だった。
アイゼンクが1950年代に精神分析を批判したとき、精神分析は確かにプラシーボと同等にしか効果がなかったかもしれない。
だが、今はわからない。
精神分析にもれっきとした効果があるという統計的なデータもあるし、ユング心理学といった周辺領域も着実にエビデンスを積み上げている。
サブゼミの際、博士課程後期の先輩が「精神分析で行われていることは、実際は認知行動療法と同じかもしれない」と言っていた。
「クライエントが納得してどの心理療法を選ぶかが大事」とも。
まったく、その通りだと思う。
思うのだが、私はこの問題が、似た構造の様々な問題と地続きであることから、目を覆いきれない。
例えば、子宮頸がんのワクチン接種だ。
先進国の多くは子宮頸がんワクチンの接種率が高い。
これにより、子宮頸がんのリスクとなるHPVという原因ウイルスからの感染予防が見込まれている。
子宮頸がんは、HPVの感染がなければ発生率が劇的に減少する病気だ。
だが、日本はそうではない。
運動障害など、ワクチンの副作用とされる症状がメディアで喧伝され、子宮頸がんワクチンの接種率が急速に低下した。
接種率は現在、1%未満だという。
しかし、ワクチンによってそのような副作用が起こることは、多くの研究で否定されている。
HPVワクチンの差し控えが今後続いた場合、今後50年間で本来なら予防できるはずの子宮頸がん罹患者数は約10万人、死亡者数は2万人に上るとの推計も存在する。
大災害レベルだ。
世界保健機関による警告がつい最近再び行われていたし、ノーベル賞を獲得した本庶佑も、ストックホルムで子宮頸がんワクチンについての正しい報道がなされることを願っていた。
しかし、これらの活動は「自己決定」の一言ですべて無駄になってしまう。
「ワクチンを接種するかどうかは、本人の自由じゃないの?」という言葉一つで、あらゆるエビデンスも権威も、たちまち力を発揮することができなくなってしまう。
ガンに対する代替医療や、新宗教に入信しようとしている人、ネットで突然排外的な発言を繰り返すようになった人なんかにも、同じことが言えるかもしれない。
もしかしたら、EFTを受けようとしている人にも。
そんなことしても意味ないよ、もっといいやり方があるよ。
私が「正しい」と信じていることは、彼らの「正しさ」の前には全くの無意味だ。
「本人の自由だろ」で、ハイおしまい。
だから私は、こういうものに対して黙り込む。
黙り込むしかない。
岸政彦という社会学者の『断片的なものの社会学』という本に、こんな文章がある。
私たちは神ではない。私たちが手にしていると思っている正しさは、あくまでも、自分の立場からみた正しさである。(中略)こういうときに、断片的で主観的な正しさを振り回すことは、暴力だ。
私の視点は、エビデンスベースドや、認知行動療法が交流を極めている現代からのものでしかない。
現在、精神分析が受けている厳しい目線を、いつか認知行動療法が受けるかもしれない。
そういう意味では、エビデンスに基づいた意見であっても、それを「正しさ」として振り回すことは暴力なんじゃないか。
そんな気がしてくる。
私個人でも「正しさ」の問題には、納得のいく答えが得られていない。
多分、考え続けることが重要な類の問題なのだろう。
だから私は、足りない頭で考え続ける。
それぞれの「正しさ」を相対化して、対話することならできるんじゃないだろうか。
そのようなことを、ふと考えた。
クライエントが何となくで精神分析や認知行動療法を選ぶ前に、それぞれの立場の専門家ができることは多い。
それは、公認心理師や臨床心理士が社会に対し担う責任の一端であるし、そうでなければならないと思う。
『断片的なものの社会学』では、こういった「正しさ」について、「社会に意見を表明し、それが聞き届かれることを祈ることはできる」と書かれていた。
このブログは、所詮私の思考の掃き溜めでしかないが、それでもこの問題について、誰かが考えてくれることを祈っている。
机上の九龍
1/16 晴れ
久しぶりに京都に行った。
私はたとえ日帰りでも、旅にはなんらかの目的をもって赴くタチの人間である。
無目的に旅行に行くのは、することが途中でなくなるので、あまりしたくない。
今回の大きな目的は、「フォーエバー現代美術館」に行って、草間彌生の作品群を鑑賞することだった。
どうもこの美術館、今年の二月の終わりに閉館してしまうらしい。
消えてしまったものにはいくらお金を払っても出会えないので、時間のある今のうちに行くことにしたのだ。
「フォーエバー」を名乗っておきながら閉館するというのは、皮肉なものだ。
20世紀初頭に書かれた『現代』を名乗っている本を見つけたときのような、なんとも言えないこそばゆさ。
『フォーエバー』と『現代』、いわば未来永劫と須臾であり、その性質は正反対のはずだが、どちらも陳腐な響きの言葉だ。
J-POPの歌詞に多用されているからだろうか。
「今この瞬間を片翼で駆けて永遠にしたい」的な歌詞は、確かによく聴く。
軽やかなメロディに反して、歌詞にあるこういった概念は、人間にはちと荷が重い。
「フォーエバー現代美術館」はやはりといった感じで、カボチャだらけだった。
おおまかな時系列に沿って彼女の作品が展示されていたので、作風の変遷を見ることができて面白かった。
ミュージアムショップに寄ったら、例のカボチャのオブジェが売られていた。
野球ボールほどの大きさなのに、二万円もするものがあったり、全体的に割高だ。
貧乏学生の身分では手が届かない。
カフカは『万里の長城』で、権力は距離に反比例して減衰していくことを示しているが、作品の価値だったり、作者の名声なんかはどこまで行っても衰えないようだ。
今でもモナリザは価値のあるものだし、ブラジルで作られたアートも、日本で作られたものとそう違わない評価を、私たちは作品に下すことができる。
なにか芸術作品を残せば、それを観覧する人に一目で自分の存在を印象付けることができる。
時間も空間も超えて、多くの人に自己表現をすることができる。
アートの持つ巨大な力の片鱗だろう。
美術館を出た後も、まだ日が暮れるまでは時間があったので、ひとまず喫茶店に向かった。
三条の小川珈琲という喫茶店で『異端の統計学ベイズ』(草思社文庫)を読んだ。
ここは、ゆっくりできるいい喫茶店だった。
次に京都に来たときのゆっくりプレイスにするのもよさそうだ。
今年は亥年であることを思い出し、遅めの初詣をしようと、イノシシを祀っていることで有名な護王神社に向かった。
三条から護王神社まではそれなりの距離があるので、色々考え事をしながら向かった。
京都に来ると毎回思うのだが、この街は人の通行量が本当に多い。
バスは多いし、車も多いし、歩行者も多いし、自転車も多い。
私は活気あふれる街が好きなので、そこまで悪い気はしなかったが、京都市に住むのは大変そうだなと嘆じた。
そうこうして歩いていると、古ぼけた金物屋を見つけた。
なんてことないありふれた金物屋だった。
だが、それを視野に入れた瞬間、唐突にあるイメージが頭に浮かんだ。
それは、自身が一生金物屋でぼーっと過ごすという、悪辣な想像だった。
そのような、見ず知らずの金物屋の主人に対して失礼な想像をしてしまったことに、少しの羞恥を覚える。
それと共に、このイメージは私にとって恐怖を抱かせた。
『5億年ボタン』のように、途轍もない時間を理不尽に一人ぼっちで過ごさなければならない。
そういった類の恐怖だ。
まったく、全国の金物屋に失礼だ。
そう思いはするのだが、やめられない。
私の悪い癖の一つだ。
毎度のこと、このような想像をしてしまったときは、その想像を良い方向に向かわせるよう努力している。
きっと、この金物屋には大手商社も持っていないような敏腕職人とのコネクションがあり、すこぶる質のいい包丁や鍋が相場より安く売られているのだ。
そして、京都中の料理人がこの金物屋に仕事道具を求めてやってくるのだ……と。
もちろん、事実は私には分からない。
本当にぼーっと金物屋をやっているのかもしれないし、そうでないかもしれない。
村上春樹風の曖昧さをその場に残して、私は引き続き神社に向かった。
護王神社はこじんまりとした神社だ。
といっても、奥の方には立派なお社がでんと構えている。
「執心のない一年になりますように」と本殿に願掛けをしてから、その後におみくじを引いた。
人生の乱数調整だ。
結果は吉だった。
待ち人の箇所に目を移すと、「きたる」とだけ書かれていた。
これまで、一度も来てくれた試しがない。
透明な気持ちのまま、私は踵を返した。
そして、日記を書いている現在に至る。
マトモな日記を書くのは久しぶりかもしれない。
パソコンの隣に聳え立つ本の山が無秩序な違法建築のように見えたし、金物屋についての突拍子もない妄想を綴ったので、今回のタイトルは「机上の九龍」にしようと思った。
どこかの誰かと発想が被っていたら嫌なので、試しに「机上の九龍」で検索してみたら、知らないヤンキー漫画が出てきた。
これはセーフ、と謎の判断基準を持ち出して、これをタイトルにすることにした。
さて、次回の旅行はどこに行こうか……
2019年、20歳、豊富な抱負。
1/2 晴れ
新年あけましておめでとうございます。
西暦で奇数の年は、よほど大きな出来事が起きない限り、偶数の年に比べて印象が薄くなる気がする。
一方で、2019年はラグビーワールドカップが開催され、元号も改められる。
さらには卒論や院試も控えているので、記憶に残る一年になることだろう。
ポジティブな記憶か、それとも二度と思い出したくない年になるかは、まだわからない。
記憶は呪いの装備のようなもので、かなり強く頭を打たないかぎりは、なかなか振り払うことができない。
今年の記憶が祝福すべき『まじない』になるか、しつこい『のろい』になるかは、私の日頃の行いにかかっている。
さて、年が明けたということで、新年の抱負でもここに記しておこうと思う。
大学四年生を迎えるにあたって、私も周囲の例に漏れず、いよいよキャリアを選択していかなくてはならない。
現時点では、心理学だったりを学んでいるのが結構楽しいので、とりあえず大学院に進もうと考えている。
だが、去年はそれに向けた取り組みのやることなすことが全て裏目に出ていたように感じる。
プレゼンテーション能力を鍛えようと発表の多い授業を履修したら、グループワークが待ち構えていて、社会性のない私は発表も何もかもボロボロになった。
「ベイズ統計って面白そうだなぁ」と思って参加した東京大学の集中講義では、数学力不足を痛感した。
飛び入り参加した某サマースクールでは自分の専門と扱われていた話題が違いすぎた挙句、またまたグループワークがあり、せっかくの学会発表を頓珍漢な発言でズタズタにしてしまった。
さらにはTOEICを受験し損ねた。
もう! ダメダメだ!!
失敗は、冷静に分析するしかない。
まず、グループ内の進捗を適宜確認し、情報共有を行う程度のコミュニケーション能力は欲しい。
さらには数学、特に確率論や線形代数について勉強しなくてはならない。
高校時代の数学偏差値35アンダーは伊達ではない。
最後に、英語はリーディングとリスニングに焦点を当てて勉強したい。
大学一年生の頃、TOEICは345点だった。
センターで8割は得点できる人間のとる点数ではない。
ともかく、大学院の入試ではTOEICの点数が用いられるので、必死でやらないと人生が詰む。
2019年は勝負の年だ。並み居るライバルと張り合っていかなくては、私の望む未来はない。
最近、ツイッターで私よりも明らかに勉強熱心な学生をフォローすることが増えた。
勉強熱心な学生は、それまた別の勉強熱心な学生と繋がっているわけで、去年からモンスター級の学生がタイムラインに流れてくる。
ある人はスイスの大学に留学したり機械学習についての本を出版したり、またある人は既に国内の学会発表を数回済ましていたり。
自分と分野が違うことは分かっているのだが、進捗の生まれるスピードが私とまるで違う。
それを見かけるたび、嫉妬がムラムラっと湧き上がってくる。
「こんなことしてる場合じゃねえだろ、俺」と思って何かに取り組もうとするのだが、焦燥感ばかりが積もっていく。
もしかしたら、私を見て嫉妬している人も、どこかにいるかもしれない。
いや、いないか。
未だ私は見るに堪えないクソザコナメクジボノボのままなので、もっと大勢に嫉妬される人間になりたいものだ。
現実の場面でも、すごい同級生に出会うことが増えた。
彼らはMITの学生だったり、数理統計にべらぼうに強い同級生だったりする。
旧帝大の学生と話をしては、その教養の厚さに、私が無駄にしてきた大学入学以前の人生を悔やむばかりだ。
これらの嫉妬心や、将来の道筋が見えない不安や、同じ道を歩む者が周囲にあまりいない孤独感によって、じりじりと追い詰められている。
前置きが長くなった。
とにかく、今年達成しなければならない目標を羅列する。
TOEIC750点以上を獲得する。
統計検定2級以上に合格する。
大学院入試に合格する。
無事に学部の単位を取りきる。
以上のことは絶対だろう。
できれば達成したい目標は、
日本心理学会の学部生セッションに参加する。
Rでの統計モデリングを少し分かるようにする。
学会でポスター発表する。
様々なバックグラウンドを持ち合わせた人が多くいる場所で、全員に伝わるような言葉遣いを身に着ける。
といったところだろうか。
また、前年度に引き続いて、自分より優れたスキルを持ち合わせている人の行動や思考をとことんパクっていきたい。
その人が何を見ているか、何に日常的に触れているか、何をどのように実践しているか、といったことが理解できれば、それはそのまま私の成長にも繋がっていくだろう。
自分の弱点を分析し、人の長所をパクり、双方を自分の実践に取り入れる。
それの繰り返しだ。
最後に、自分が通用しそうなニッチを見つけておきたい。
機械学習や脳科学の分野は同年代の学生が専門に特化しすぎている。
追い抜くことは難しいので、自分が「この分野ならこの人!」となれるような場所を探して、先に陣取っておかねばならない。
『置かれた場所で咲きなさい』というベストセラーがあるが、今だ私は根無し草だ。
流れるも留まるも運任せ、そのような中で精一杯背伸びするしかない。
綿毛のようにふわふわ逞しく、風の吹く場所へ進んでいこう。
私選この本がスゴい!2018
12/31 曇り
今年もたくさんの本に出会ったので、特に印象に残ったものを紹介しようと思う。
今年は大学一・二年生の頃に比べれば、読むことのできた冊数は少ない。
というのも、通学の時間を誰かと一緒に過ごすことが増えたからだ。
私は本よりは人との会話を優先する質の人間なので、個人的には嬉しい理由でもある。
今年読んだ冊数は、だいたい500冊くらいだろうか。
大学生活全体で言えば累計5000冊は超えただろう。
読んだ冊数が少ないからちゃちな本しか紹介できない、という訳ではなくて、読む本が少なくなる分、読み応えのあるものを選んできたつもりだ。
それでは早速、今年出会った素晴らしい本たちを紹介していこう。
- 自動人形の城: 人工知能の意図理解をめぐる物語
自動人形の城(オートマトンの城): 人工知能の意図理解をめぐる物語
- 作者: 川添愛
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 2017/12/18
- メディア: 単行本
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なんでも言うことを聞いて、なんでもしてくれる自動人形に囲まれたら、あなたは幸せですか?
誰も自分の意をくんでくれない毎日に嫌気がさした王子は、邪神に「自分の周囲の人間を自動人形に変えてほしい」と望んでしまう。
城の者はすべて人形に置き換わり、命令をしても意のままに動いてくれない人形に、王子は自分の選択を後悔する。
城に危機が迫る中、王子はその絶望的な状況にいかに立ち向かっていくのか、というストーリーだ。
ここまでだと単なるおとぎ話だが、その実、テーマは『人工知能』と『人間の言葉』である。
あいまいな命令を出しても、自動人形は全く動いてくれないし、時には頓珍漢な動きを始める。
それはプログラミング言語で命令を下されたAIにも、同じことがいえる。
この物語はありふれた成長物語などではなく、今私たちの目の前で起こっていることでもあるのだ。
ストーリーも面白く、数人の視点を飛び交う軽快さや、中盤までの何気ないやりとりが見事に回収され、物語の核心に触れる構成などは目を見張るものがある。
寒い冬によく合う、心温まる人工知能入門書だ。
- タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源
心は何から、いかにして生じるのだろう。
進化はまったく違う経路で心を少なくとも二度、つくった。
一つはヒトや鳥類を含む脊索動物、そしてもう一つがタコやイカを含む頭足類だ。
「頭足類と出会うことはおそらく私たちにとって、地球外の知的生命体に出会うのに最も近い体験だろう」
タコ・イカの『こころ』に焦点を当てた本。
回転寿司でも安くて美味い彼らは、いかなる知性の持ち主なのだろうか。
これらの頭足類は脳よりも腕に多くのニューロンが存在し、それぞれの腕がまるで意思を持つかの如く振舞う。
私たち脊椎動物と全く異なる体の構造や『こころ』を持つ彼らは、真新しい「心身問題」を投げかけてくれる。
また、筆者は本書でタコが社会性を持ち始めているという一つの例を紹介している。
一匹の変わり者のタコから生まれたタコの都市、『オクトポリス』とは。
進化の萌芽、とくとご覧あれ。
- 異セカイ系
小説投稿サイトでトップ10にランクインしたおれは「死にたい」と思うことで、自分の書いた小説世界に入れることに気がついた。
小説の通り黒騎士に愛する姫の母が殺され、大冒険の旅に……♪
ってボケェ!! 作者(おれ)が姫(きみ)を不幸にし主人公(おれ)が救う自己満足。書き直さな! 現実でも異世界でも全員が幸せになる方法を探すんや!
あれ、何これ。「作者への挑戦状」って……これ、ミステリなん?
まさかの全編関西弁。
クセの強い文体だが、とりあえず30ページまで読んでもらいたい。
その後の怒涛の展開に、ページをめくる手が最後まで止まらなくなる。
もしも、自分の書いた作品に入ることができて、キャラクターとイチャつくことが出来たら……
そのような単なる妄想では、この本は終わらない。
キャラクターを愛する全ての人たちに読んでいただきたい一冊。
今まで味わったことのない読後感が待っている。
私の場合は、キュンキュンしながら読み終えることができた。
奇妙な、対象の存在しないキュンキュン感である。
あなたはこの本を読み終わったとき、どのような印象を持つだろうか?
きっと、今まで出会ってきたすべての物語が恋しくなること間違いなしである。
- VRは脳をどう変えるか?
VRを新しいゲームや映画の一種だと思っていると、未来を見誤る。
このメディアはエンタテイメントだけでなく、医療、教育、スポーツの世界を一変させ、私たちの日常生活を全く新たな未来へと導いていく。
その大変革を、心理学の視点から解き明かそう。
Vtuberが一般に膾炙し、真にVRが身近になった今だからこそ、読んでおきたいのがこの本だ。
VRは新たなメディアとして、あらゆる分野を席捲しようとしている。
VR研究の旗手である著者は、単にVRの使用を推奨するのではなく、その危険性や複雑さについても語っている。
『VR内での体験を、脳は現実の出来事として扱ってしまう』ということを大前提に、これからのVRの発展や、守るべきルールなどを明快に示してくれている。
間違いなく先の世界を変えるだろうこのメディアの基本を、一足先に押さえることができる一冊だ。
- 疑惑の科学者たち: 盗用・捏造・不正の歴史
歴史に名を残した著名な学者、天才として神格化されている学者でも、現在の基準に照らすと公明正大な人物ばかりでなかった。
本書では一八世紀から現代まで、科学にまつわる欺瞞と信じがたい不正の数々を概観する。
「巨人の肩の上に立つ」という、研究をするものなら誰も知っているだろう格言がある。
これはニュートンが手紙で述べた言葉で、先人の知見という偉大なものに乗ることで、科学は進歩していくということを喩えたものだ。
しかし、もしこの巨人自体が、ナウシカの巨神兵のように腐ったものだったら?
この本では、パストゥール、メンデル、アインシュタインといった錚々たる大科学者にも、盗用や改竄の疑いが向けられている。
さらに、近年のSTAP細胞問題でお馴染み小保方氏や、研究不正で183編もの論文が撤回されている藤井氏など、日本人研究者についても取り上げられている。
科学は万能ではないが、絶対的に正しいわけでもない。
私が専門としている心理学でも、再現可能性の問題が大いに取り沙汰されている。
気持ちを引き締める意味合いで、この本を読むことができた。
その他にも、今年は「絶滅できない動物たち」(ダイヤモンド社)、「宇宙はどこまで行けるか」(中公新書)、「科学者はなぜ神を信じるのか」(講談社ブルーバックス)、「遺伝子‐親密なる人類史‐」(早川書房)など、数多くの素晴らしい書籍と出会うことができた。
来年も、嬉しい出会いがありますように。
新年への願いも込めて、ここで紹介を終わりにさせていただく。
それでは皆さん、来年も良い読書を!
ちゅうちしん
12/30 曇り
2018年も残り少しだ。
年末特有の浮かれた雰囲気が町中に漂っているが、私の心中はそれとは反対に沈んでいる。
ツイッターで才能ある同級生や年下の活躍を見ていると、何だか無性にむかむかしてきたのだ。
まあ、いつもの嫉妬である。
こういう気分の時は、昔の恥ずかしい出来事をやたらと思い出してしまう。
うまくコントロールできるようになれればよいのだが、なかなか止まらない。
ほとんどが取るに足らない出来事だとは思うが、大掃除にちなんで、ここにそういった思い出をすべて掃き出してしまおうと思う。
私の最初の『恥ずかしい』という記憶は、曾祖母が亡くなった時のことである。
私や妹、両親や祖父祖母は、幸運か不幸か、曾祖母の命の火が消える瞬間に立ち会うことができた。
当時、私は小学4年生で、物の分別もわきまえない碌でもない子供だった。
オシログラフがついに静まり返り、単調な音が鳴り響く病室。
あろうことか、私は曾祖母が亡くなろうとしているその時、愚かにも「ひいばあちゃん、どうなったん!?」と好奇心をむき出しにして両親に尋ねてしまったのだ。
誰もがみな、目を伏せていた。
静粛なる空間で、私はただ一人目を輝かせていた。
この異常さに気が付いたのは、私が中学生になってからだった。
曾祖母の晩節を汚してしまった罪悪感と恥ずかしさは、今も私の頭の中で反芻されている。
過去には戻れない。
取り返しがつかないので、余計に心が苛まれる。
思えば、私は昔から空気が読めなかった。
調子に乗り過ぎて誰かに嫌な思いをさせる、ということは二十歳になった今でも続いている。
「普段人からボロカス言われているのに、調子に乗りすぎることすら許されないのか!」という不平感と、申し訳なさがごちゃまぜになっている。
しかし、やめられないんだ、これが。
のっぺりとした会話を続けることが退屈なので、無理やりにでも事実の棘だったり、道徳的ジレンマへの挑戦だったりを生み出そうとしてしまう。
偽悪的であることは分かっているのだが、なかなか……
私がこれまで調子に乗った場面で一番印象深いのは、中学三年生の修学旅行の時だろうか。
カヤックに乗って川下りをしていた私は、そこそこかわいい女子に調子に乗ってひたすらちょっかいをかけていた。
あまりのしつこさに、彼女はあまりの嫌悪に目を細めて私を注意した。
脊髄まで凍てつくような、緊張の瞬間。
そんな時すら、私は痺れるような背徳感に酔いしれていた。
今振り返れば「なんだコイツは」と自分でも思うのだが、これに共通するような行いは、大学生になった今でもしてしまっていると思う。
理解していてなお、止められない。
矯正していかねば。
恋愛においても、恥ずかしい思い出は多い。
中学生の頃は、周囲から「金こんにゃくって○○のことが好きなんちゃう?」と聞かれすぎた結果、本当にその子のことを好きになった、と錯覚してしまうイベントが起こった。
中学生のサルのような性欲に起因する、生化学的トリックのなせる業である。
その他にも、ネット恋愛をしていた時、彼女との深夜のラインのやり取りに疲れて、彼女から逃げ出すためにネットを一時的に止めたりもした。
流石に情けなさすぎである。
一年ほど後、ネット元彼女には全力で謝った、ラインで。
今は相手方も、このことを許してくれている(らしい)。
ついでに、私は今もこの時のことを思い出すと、あまりの恥ずかしさとどうしようもなさに暴れそうになってしまう。
曾祖母の時と違い、取り返しがついたのがせめてもの救いだろうか。
恋愛面では大学に入学してからも、しょっちゅう恥ずかしい思いをしてきた。
なぜいつも私はこうなのだろうか、と嫌になってくる。
つらい。
こんなところに現在進行形の話題を書き残しておいて大丈夫なのだろうか。
まぁ、大丈夫か。
自分の頓珍漢な言動だったりと、私が何かを恥ずかしいと思うのは、だいたい自身の行動に依るものが大きい。
人のせいで恥ずかしい思いをした、などはあまり無いような気がする。
恥ずかしい思いをしないように、自分を変えられるのは自分自身だ。
自分を変えることがこれほどに難しいのなら、他人を変えることはなおさらだろう。
他力本願寺に出家したいが、ここはグッとこらえ、自分の行動変容に焦点を当てていこう。
この日記を書き綴っていること自体が恥ずかしいことだと、そういったメタ構造は気にしない方向で。
Wish you a 恋人はきっと来ない いつまでも手をつないでいられることをサンタとやらに頼んでも仕方ないよなぁ
12/24 曇り
冬休みが始まった。
学期末のレポートや冬休み明けの発表準備など、するべきことは多い。
特に、統計の授業のレポートは厳しい戦いになりそうだ。
教授に向かって「レポートはRMarkdownで作ってみます!」と高らかに宣言してしまったため、一からソフトの勉強を始めなければならない。
それもまた一興である。
長すぎる冬の夜には、そのくらいの課題がちょうどいい。
これだけ書いておいて、完成度がクソだったらそれはそれで……
クリスマスである。
そう、クリスマスだ。
クリスマスには苦い思い出がある。
大学一年の時には、「クリスマスまでに彼女を作る!」と公約(誰に?)したものの、その目標が果たされなかったのだ。
彼女は作るものではなく、互いの同意のもとに自然と出来上がるものだと理解したのは、それからしばらく後のことである。
私が何かを宣言する時は、たいてい上手くいかない。
レポート、大丈夫か?
毎年、クリスマスには交際相手のいない人を少人数集めて、クリスマスのない国の料理を食べる、といったことを主宰している。
一昨年はインド料理、去年はタイ料理を食べに行った。
今年は人を呼ぶ元気がなかったので、一人で中国料理を食べに行った。
2500円。
少々お高いが、小籠包や麻婆豆腐は絶品だった。
地上八階で地元の街を見下ろしながら食事ができる、というのも高得点である。
しがない中核都市に過ぎないこの街に、クリスマスの時期にうろつくカップルなど、イモい奴らばかりに決まっている。
私はそんな彼らよりも空間的に高いところで、カップルの仲よりもアツアツな小籠包を食すのだ!
最高のクリスマスだとは思わないかね?
クリスマスなので、夜が深まると彼氏は彼女のクリトリスをご馳走になるのだろうが、そんなことは私にとってはどうでもよい。
カップルなんざクソである。
彼らは己の自由を引き換えに、性交渉権を手に入れたに過ぎないのだから!
本屋で自分用のプレゼントに、『異セカイ系』という小説と、『ずっと喪』というショートショート集を買った。
どちらもツイッターで読書家がやたらと推薦していたので、今から読むのが楽しみである。
クリスマスとかどうとかは関係なく、今夜はいつも通り「裁判ではなぜいつも半ケツが言い渡されるのだろうか、全ケツもたまには出されてもいいのに」だとか、「デヅルモヅル由来の成分で作られたベビーパウダーは自然派ママに受け入れられるのか」など、取るに足らないことを考えながら過ごそうと思う。
そして、サンタさんが素敵なプレゼントを運んでくれることを信じて眠りにつくのだ。
サンタさん、今年のプレゼントは耳かきをしてくれる理学修士の甘々なお姉ちゃんをよろしくお願いします。
ぼくらはみんな科学特捜隊
12/13 晴れ
私は子供のころから、『ウルトラマン』シリーズの防衛隊が嫌いだった。
理由は単純で、彼らは無力だからだ。
怪獣が出現すれば戦闘機を飛ばし、それがことごとく撃ち落される。
出会い頭にどういう光線銃を撃ちまくっては、それがまったく怪獣には効かない。
私がウルトラマンを見ていた頃は、ちょうど『コスモス』や『ガイア』の頃だっただろうか。
特撮オタクではないので、あまり各作品の防衛隊については詳しく知らない。
それでも、防衛隊を画面越しに眺める私は幼心ながらに、彼らの無力さに呆れたものだ。
単純なお金や命の勘定ができるようになってからは、防衛隊がますます嫌いになった。
毎度のこと怪獣を倒せないのに、戦闘機やら洗車やら大層なものを持ち出しては数分で怪獣に破壊されていく。
「それを購入した税金はどこからやって来ているのだろうか」
そんなことを考えたりした。
何もかも、防衛隊の行動は無駄に思えた。
ウルトラマンが来ると、どうせ3分以内に倒してくれるのに、防衛隊は何を必死になって街を守っているのだろう?
そんな無邪気で残酷な感想を抱いたりした。
時は過ぎて、私は背丈が伸びた。
多くの子供がそうであるように、私は年を経るにつれて、ウルトラマンなどの特撮物にはあまり興味を示さなくなった。
怪獣にはもちろん、何に対しても脅威を感じなくて済むような安寧の日々。
泥のような平穏の中で、私は生活している。
しかし、雨がいつか止むのと同様に、のっぺりとした日常はいつまでも続かない。
周囲にも、就活について考える人が増えてきた。
インターンに参加したり、企業説明会に赴いたり。
ドラマや小説で見たそのままの姿で、就活というイベントはやってきた。
私は大学院に進学を志望しているので、斜め下からその風景を眺めている。
絶景かな絶景かな、いや、あまりいい眺めではない。
就活とともに目立つようになったのが、公務員試験への対策を始める人たちだ。
私の周囲にも何人かいる。
私は公務員というものがあまり好きではない。
小中学校の教師が嫌いだったこともあるが、公務員という職業については無個性で形式ばっていて、窮屈なイメージがある。
そのような職に自ら志望するという、その心情があまり理解できなかった。
もちろん、公務員になって行政側から自分の目的を成し遂げたい。そのようなことを考えている人もいるだろう。
私もそう思っていた。
だが、周囲の公務員を目指している人たちに動機を聞いてみれば、「安定しているから」と、口をそろえたように皆が同じことを言う。
本当にそれでいいのか? 一回きりの人生だぞ?
『全体の奉仕者』なんかになっていいのかよ。
身勝手な怒りに駆られた私の脳裏に浮かんだのは、かつての防衛隊の姿だった。
無力、無駄、無益。多数の人間に自分の生命を投げ出すことのできる、その不気味さよ。
今の世で言えば、ある人にとっては中国が、また別の人にとってはテロリストが『怪獣』のような存在かもしれない。
人の命を軽々しく吹き飛ばすことのできる力を持ち、気まぐれで、恐れを抱かせるもの。
個々の存在を薙ぎ払う圧倒的な事象たち。
それは日本国自体も例外ではない。
自分の意識がどこまでも薄く溶かされていき、日本という怪獣と一体になる。
否が応でもリヴァイアサンの一部として組み込まれてしまう。
これは私が最も嫌悪することだった。
怪獣が健康なら、私も体内の共生菌として、もしくはがん細胞として生きる道を選んだかもしれない。
おこぼれを怪獣からあずかることができるからだ。
しかしながら、日本は老いぼれて、いつ地に沈むかも分からない怪獣だ。
私は、このままこの国と共倒れになるつもりはない。
理由もなく産み落とされ、夕焼け小焼けでさようなら。
壮大な歴史の小さな小さなノイズになることは、私の望むことではない。
そのような考えを抱くことは、傲慢だろうか?
全身全霊で足掻けば、全ては上手くいくと。
赤ん坊のような、万能感の夢に微睡んでいる。
そのような青年期を過ごしている。
安定はいらない。ただ、納得のいく人生を送りたい。
「私は確かにここにいた!」と号哭することができる、最高の事実が欲しい。
要は、私はウルトラマンになりたかったのだ。
自分の名前がタイトルにつくような、自身を主人公として人生を生きることができる。
そんな、自惚れた願望。
その心中とは裏腹に、何かを為すことはできず、ただ無銘の日々が続いていく。
散々「嫌いだ」などと書き連ねておいて可笑しい気もするが、私は公務員志望者をいい意味で「大人だ」と思っている。
自分の人生について本当によく考えているし、みな真面目な人ばかりだ。
チンパンジーが操作しているゲームキャラのように、したばたと四肢を振り回すように生きている私とは真逆である。
『ウルトラマン』の防衛隊は、善意に溢れていてエリートぞろいで、眩しいくらいに良い人たちである。
そんな人たちでも、怪獣には敵わない。
当然、私も怪獣には勝てっこない。
ならば、武器を磨くしかない。
聡明な生き方が出来ないのであれば、大きな力にへし折られないように。
例えば、『ウルトラマン』のゼットンを倒した無重力弾のような、比類なき武器を持つしかない。
それが、不器用な生き方しかできない私の、数少ない対抗策なのだと思う。
私はウルトラマンになれない。
私たちはみんな等身大の人間で、少し群れれば埋もれてしまうほどの能力と個性しか持たない存在だ。
ある意味では、誰もが怪獣から逃げ惑う市民か、小さな力でそれに立ち向かう防衛軍だ。
それでも、私は夢を見る。
自分の力が怪獣に届き、真に恐れから解放される。
そのような夢を。
今日は寒空に星が栄える夜だ。
夜空を眺めていたら、ゆらゆらと星が揺れ動きだした。
『自動運動』という錯覚の一つである。
「宇宙が震えた」なんて詩的な表現でごまかすまでもない。
私には知識があり、思考があり、身体がある。
この手がいつかM78星雲にも届くことを願って、私は今日も静かな夢に潜り込む。