きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

全てがMになる

2/3 曇り

 

 自主ゼミを主宰したり、友人らと猫カフェに行ったり、これまでにないほど充実した春休みを過ごせている。

 院試の勉強は継続しねければならないし、卒論のための実験もいよいよ始まるので、これからも大忙しだ。

 

 春休みの間には、抵抗なく英語論文を読めるようになったり、自分の分野や心理統計学にもっと精通しておきたい。

 より良い存在になれるという希望が、今の私を突き動かす力の源だ。

 明日はきっと、私史上最強の私になれるはず。

 

 

 勉強の息抜きに、梅田の街をぶらりと歩いた。

 

 私は街を歩くとき、たいてい斜め下を向いている。

 すれ違う人と視線が合ってしまうのは、少し良い心地がしないからだ。

 

 それに、下を向いていると何かいいものが落ちているかもしれない。

 お金とか、誰かの免許証とか。

 

 別にこれらを奪ったりはしなくても、交番などに届け出るだけでも、立派な暇つぶしになる。

 こういう小さな出来事が、案外日常にメリハリをつけてくれる。

 

 だから私は、「なんかエロいものでも落ちてないかなー」と考えながら、下を向いて歩く。

 地面にエロいものが落ちていた試しなど、一度もないのだが。

 

 エロいものは、落ちているなら正直なんでもいい。

 成人向けの雑誌でも、逆レイプでも、耳舐めでも。

 

 でも、地面に落ちていた耳舐めって、なんだか嫌だ。

 砂埃とか、たばこの吸い殻みたいなバッチイものがへばりついていそうだ。

 そんな耳舐めを欲しがる人なんていない。

 

 万が一逆レイプや耳舐めが地面に落ちていたら、ツイッターで呟くネタにはできそうだが。

 「道に耳舐めが落ちていた」とか、ツイートしてみたい。

 

 

 『逆レイプ』で思い出したのだが、最近『ソフトM』という言葉を知った。

 

 逆レイプだとか耳舐めとか、言葉責めが私は大好物であり、”意味深”なほうのオカズを探すときは、これらのワードをいつも検索するときに使っている。

 

 だが、M向けのコンテンツは振れ幅が非常に大きい。

 相手に押し倒されて最後はイチャラブで終わるものから、終始暴力を振るわれ、最後には社会的に人生が終わってしまうものまで、レパートリーは様々である。

 

 たかがM向けと侮るなかれ。

 そこには豊かな文化が広がっている。豊穣Mゥ!

 

 ドМなら、相手にボコボコにされるのが好物の人も多いだろうが、残念ながら(残念ながら?)私はそこまでのMではない。

 痛いのは嫌いだし、性行為なんてもので誰かを傷つけることになったり、人生が終わってしまうなんてふざけてると思う。

 

 だが、広大で多様な世界があるのにもかかわらず、これらのコンテンツは全て『M男向け』の一言でまとめられてしまうことがほとんどである。

 

 なので、自分好みのオカズに辿り着くのは労力のいる作業だ。

 『逆レイプ』で調べたら、なぜかレイプものばかり検索結果に上がって辟易したり、『言葉責め』で調べても、女性向けの音声作品しかヒットしなかったりする。

 再生したら、ナルシスト風の男に耳元で囁かれ耳を舐められた、なんてことがごまんとある。

 「ガキが……舐め舐めしてると潰すぞ」と、タモリのような気分になる。

 

 

 そこで、『ソフトM』だ。

 

 この言葉は軽い言葉責めといったものを好む人を指す言葉らしい。

 『M男向け』を『ソフトM』、そして『ハードM』に区分する、といった感じだろう。

 

 私は明らかに前者なので、この言葉が存在することはとてもありがたい。

 さっそく、『ソフトM』で検索してみる。

 

 ――だが、まったくオカズが見当たらない。

 流動食やペーパータオルしかヒットしない。

 言葉責めでも、逆レイプでもなく、流動食。

 

 さらに調べてみると、『ソフトM』という言葉自体は十年近く前から存在するらしく、このカテゴリ分けが18禁業界であまり浸透していないだけらしい。

 

 こんな便利な言葉が普及していないのはなぜだろうか? 

 ソフトMの人は、SM関係ないカップルものなどでも満足してしまうからだろうか。

 それとも、ドM勢力が強すぎるからだろうか。

 よくわからない。

 

 著名な哲学者であるドゥルーズ「哲学とは概念を創造することである」と言っているじゃないか。

 哲学でなくても、社会学なんかは概念が大量生産されすぎて、『概念工学』化しているというのに。

 

 エロいことでも、それに名前が付けなければ一つのジャンルとして成立することはできない。

 名付けられなければ、そのエロはこの世に存在できない。

 あえて言うなら、「エロとはジャンルを創造することである」だ。

 我ながら、ドゥルーズに失礼だと思う。

 

 命名法一つ取り上げても、私の好んでいるジャンルでは、『悪堕ち』と『闇堕ち』の表記ゆれや、『クール』と『おとなしい』の境界など、多くの問題が解決されないままである。

 こういった状況がもう何年も改善されずに続いている。

 

 だが、こんなことは誰も研究しない。

 『だいしゅきホールド』や、『アヘ顔ダブルピース』なんて言葉がなぜ生まれたのか、気に掛ける人は少ない。

 

 エロ研究への世間の風当たりは強く、最近では北海道で『エロ漫画表現史』という本が禁書指定された。

 

 私たちは全知ではない。

 人生の重大な問題どころか、エロ業界で用いられている言葉でさえ、知らないことが沢山ある。

 

 知の蓄積が行われないものは、時間と共に去り過ぎていく。

 無知の知を心がけたい。

 むちむち。

 

 

 久々に下ネタ満載の記事になった、やいや、やいや。

 

 男子校を卒業して以来、どんどん下ネタのセンスが訛っている気がする。

 「女子高の下ネタはえぐい」という話を聞いて、「男子校出身の名をかけて、もっとえぐい下ネタを言わなければ」と、ひとり切磋琢磨していた日々が懐かしい。

 

 今となっては、このセンスは無用の長物。

 股間の息子も無用のイチモツだ。

 

 将来セクハラで訴えられないよう、早めに下ネタを頭から消し去りたい。

 

 

正しいことだけコンニチワ! アナタとワタシでコンニチワ!

1/27 曇り

 

 この間、大学院を目指している人が集まるサブゼミのようなものがあって、そこでプレゼンをする機会があった。

 

 私以外の参加メンバーはみんな臨床心理学を専攻していたので、題材として私はEFTというものを紹介した。

 

 EFTとは、エモーショナル・フリーダム・テクニックと言われる心理療法の一つである。

 全身のツボのようなものをタップすることで刺激し、それが心理的な不具合を改善する――らしいのだが、エビデンスは乏しい。

 

 この心理療法を取り上げ、EFTの効果を的確に検証するにはどのような方法論をとればよいか、といった問題を出題した。

 それと同時に、EFTとは質は異なるが、やはりエビデンスがいくらかの研究者に疑われている精神分析を取り上げ、臨床場面で精神分析を用いるのに賛成か反対か、自分の意見を記述させる問題を出した。

 

 EFTの効果の検証については簡単だ。

 ランダム化比較試験といった手法を用いれば、プラシーボの影響を考慮して、ある程度は効果の有無について判断を下せるだろう。

 

 そしておそらく、EFTは臨床の手法として用いるに値しない」という認識に落ち着くだろう。

 既に、数多くの研究がEFTの効果が怪しいものだと示している。

 

 だが、精神分析を臨床の場で用いるか否か、といったことになると、話が変わってくる。

 

 

 言わずもがな、これまでの時代と同様に、心理療法には大きな責任が伴う。

 

 その治療の質の裏付けをするのが、公認心理師という国家資格であったり、臨床心理士という民間資格であったりする。

 

 公認心理師臨床心理士がもし、EFTを行っていたらどうだろうか。

 間違いなく非難の声が上がるだろう。

 

 では、精神分析はどうだろう。

 というと、非常にグレーゾーンだ、わからない。

 その道を究めていない私は明言を避けたい。

 サブゼミでは意外にも、精神分析を臨床場面で用いることに賛成の人が多数派だった。

 

 アイゼンクが1950年代に精神分析を批判したとき、精神分析は確かにプラシーボと同等にしか効果がなかったかもしれない。

 

 だが、今はわからない。

 精神分析にもれっきとした効果があるという統計的なデータもあるし、ユング心理学といった周辺領域も着実にエビデンスを積み上げている。

 

 サブゼミの際、博士課程後期の先輩が「精神分析で行われていることは、実際は認知行動療法と同じかもしれない」と言っていた。

 「クライエントが納得してどの心理療法を選ぶかが大事」とも。

 

 まったく、その通りだと思う。

 思うのだが、私はこの問題が、似た構造の様々な問題と地続きであることから、目を覆いきれない。

 

 

 例えば、子宮頸がんのワクチン接種だ。

 先進国の多くは子宮頸がんワクチンの接種率が高い。

 これにより、子宮頸がんのリスクとなるHPVという原因ウイルスからの感染予防が見込まれている。

 子宮頸がんは、HPVの感染がなければ発生率が劇的に減少する病気だ。

 

 だが、日本はそうではない。

 運動障害など、ワクチンの副作用とされる症状がメディアで喧伝され、子宮頸がんワクチンの接種率が急速に低下した。

 接種率は現在、1%未満だという。

 しかし、ワクチンによってそのような副作用が起こることは、多くの研究で否定されている。

 

 HPVワクチンの差し控えが今後続いた場合、今後50年間で本来なら予防できるはずの子宮頸がん罹患者数は約10万人、死亡者数は2万人に上るとの推計も存在する。

 大災害レベルだ。

 

 世界保健機関による警告がつい最近再び行われていたし、ノーベル賞を獲得した本庶佑も、ストックホルムで子宮頸がんワクチンについての正しい報道がなされることを願っていた。

 

 

 しかし、これらの活動は「自己決定」の一言ですべて無駄になってしまう。

 「ワクチンを接種するかどうかは、本人の自由じゃないの?」という言葉一つで、あらゆるエビデンスも権威も、たちまち力を発揮することができなくなってしまう。

 

 ガンに対する代替医療や、新宗教に入信しようとしている人、ネットで突然排外的な発言を繰り返すようになった人なんかにも、同じことが言えるかもしれない。

 もしかしたら、EFTを受けようとしている人にも。

 

 

 そんなことしても意味ないよ、もっといいやり方があるよ。

 私が「正しい」と信じていることは、彼らの「正しさ」の前には全くの無意味だ。

 

 「本人の自由だろ」で、ハイおしまい。

 だから私は、こういうものに対して黙り込む。

 黙り込むしかない。

 

 

 岸政彦という社会学者の『断片的なものの社会学』という本に、こんな文章がある。

 

私たちは神ではない。私たちが手にしていると思っている正しさは、あくまでも、自分の立場からみた正しさである。(中略)こういうときに、断片的で主観的な正しさを振り回すことは、暴力だ。

 

 私の視点は、エビデンスベースドや、認知行動療法が交流を極めている現代からのものでしかない。

 現在、精神分析が受けている厳しい目線を、いつか認知行動療法が受けるかもしれない。

 

 そういう意味では、エビデンスに基づいた意見であっても、それを「正しさ」として振り回すことは暴力なんじゃないか。

 そんな気がしてくる。

 

 私個人でも「正しさ」の問題には、納得のいく答えが得られていない。

 多分、考え続けることが重要な類の問題なのだろう。

 

 だから私は、足りない頭で考え続ける。

 

 

 それぞれの「正しさ」を相対化して、対話することならできるんじゃないだろうか。

 そのようなことを、ふと考えた。

 

 クライエントが何となくで精神分析認知行動療法を選ぶ前に、それぞれの立場の専門家ができることは多い。

 それは、公認心理師臨床心理士が社会に対し担う責任の一端であるし、そうでなければならないと思う。

 

 

 『断片的なものの社会学』では、こういった「正しさ」について、「社会に意見を表明し、それが聞き届かれることを祈ることはできる」と書かれていた。

 

 このブログは、所詮私の思考の掃き溜めでしかないが、それでもこの問題について、誰かが考えてくれることを祈っている。

 

 

机上の九龍

1/16 晴れ

 

 久しぶりに京都に行った。

 私はたとえ日帰りでも、旅にはなんらかの目的をもって赴くタチの人間である。

 無目的に旅行に行くのは、することが途中でなくなるので、あまりしたくない。

 

 

 今回の大きな目的は、「フォーエバー現代美術館」に行って、草間彌生の作品群を鑑賞することだった。

 

 どうもこの美術館、今年の二月の終わりに閉館してしまうらしい。

 消えてしまったものにはいくらお金を払っても出会えないので、時間のある今のうちに行くことにしたのだ。

 

 「フォーエバー」を名乗っておきながら閉館するというのは、皮肉なものだ。

 20世紀初頭に書かれた『現代』を名乗っている本を見つけたときのような、なんとも言えないこそばゆさ。

 

 『フォーエバー』と『現代』、いわば未来永劫と須臾であり、その性質は正反対のはずだが、どちらも陳腐な響きの言葉だ。

 J-POPの歌詞に多用されているからだろうか。

 「今この瞬間を片翼で駆けて永遠にしたい」的な歌詞は、確かによく聴く。

 軽やかなメロディに反して、歌詞にあるこういった概念は、人間にはちと荷が重い。

 

 

 「フォーエバー現代美術館」はやはりといった感じで、カボチャだらけだった。

 おおまかな時系列に沿って彼女の作品が展示されていたので、作風の変遷を見ることができて面白かった。

 

 ミュージアムショップに寄ったら、例のカボチャのオブジェが売られていた。

 野球ボールほどの大きさなのに、二万円もするものがあったり、全体的に割高だ。

 貧乏学生の身分では手が届かない。

 

 カフカは『万里の長城』で、権力は距離に反比例して減衰していくことを示しているが、作品の価値だったり、作者の名声なんかはどこまで行っても衰えないようだ。

 今でもモナリザは価値のあるものだし、ブラジルで作られたアートも、日本で作られたものとそう違わない評価を、私たちは作品に下すことができる。

 

 なにか芸術作品を残せば、それを観覧する人に一目で自分の存在を印象付けることができる。

 時間も空間も超えて、多くの人に自己表現をすることができる。

 アートの持つ巨大な力の片鱗だろう。

 

 

 美術館を出た後も、まだ日が暮れるまでは時間があったので、ひとまず喫茶店に向かった。

 三条の小川珈琲という喫茶店で『異端の統計学ベイズ』(草思社文庫)を読んだ。

 

 ここは、ゆっくりできるいい喫茶店だった。

 次に京都に来たときのゆっくりプレイスにするのもよさそうだ。

 

 

 今年は亥年であることを思い出し、遅めの初詣をしようと、イノシシを祀っていることで有名な護王神社に向かった。

 三条から護王神社まではそれなりの距離があるので、色々考え事をしながら向かった。

 

 京都に来ると毎回思うのだが、この街は人の通行量が本当に多い。

 バスは多いし、車も多いし、歩行者も多いし、自転車も多い。

 私は活気あふれる街が好きなので、そこまで悪い気はしなかったが、京都市に住むのは大変そうだなと嘆じた。

 

 

 そうこうして歩いていると、古ぼけた金物屋を見つけた。

 なんてことないありふれた金物屋だった。

 

 だが、それを視野に入れた瞬間、唐突にあるイメージが頭に浮かんだ。

 それは、自身が一生金物屋でぼーっと過ごすという、悪辣な想像だった。

 

 そのような、見ず知らずの金物屋の主人に対して失礼な想像をしてしまったことに、少しの羞恥を覚える。

 

 それと共に、このイメージは私にとって恐怖を抱かせた。

 『5億年ボタン』のように、途轍もない時間を理不尽に一人ぼっちで過ごさなければならない。

 そういった類の恐怖だ。

 

 まったく、全国の金物屋に失礼だ。

 そう思いはするのだが、やめられない。

 私の悪い癖の一つだ。

 

 毎度のこと、このような想像をしてしまったときは、その想像を良い方向に向かわせるよう努力している。

 きっと、この金物屋には大手商社も持っていないような敏腕職人とのコネクションがあり、すこぶる質のいい包丁や鍋が相場より安く売られているのだ。

 そして、京都中の料理人がこの金物屋に仕事道具を求めてやってくるのだ……と。

 

 もちろん、事実は私には分からない。

 本当にぼーっと金物屋をやっているのかもしれないし、そうでないかもしれない。

 村上春樹風の曖昧さをその場に残して、私は引き続き神社に向かった。

 

 

 護王神社はこじんまりとした神社だ。

 といっても、奥の方には立派なお社がでんと構えている。

 「執心のない一年になりますように」と本殿に願掛けをしてから、その後におみくじを引いた。

 人生の乱数調整だ。

 

 結果は吉だった。

 待ち人の箇所に目を移すと、「きたる」とだけ書かれていた。

 これまで、一度も来てくれた試しがない。

 透明な気持ちのまま、私は踵を返した。

 

 

 そして、日記を書いている現在に至る。

 マトモな日記を書くのは久しぶりかもしれない。

 

 パソコンの隣に聳え立つ本の山が無秩序な違法建築のように見えたし、金物屋についての突拍子もない妄想を綴ったので、今回のタイトルは「机上の九龍」にしようと思った。

 

 どこかの誰かと発想が被っていたら嫌なので、試しに「机上の九龍」で検索してみたら、知らないヤンキー漫画が出てきた。

 これはセーフ、と謎の判断基準を持ち出して、これをタイトルにすることにした。

 

 さて、次回の旅行はどこに行こうか……

 

 

現役Vtuber豊川ホウさんに独占バーチャルインタビュー!

 

 バーチャルYouTuber、略して「VTuber」。

 Vtuberとは、アニメキャラのような姿かたちの美少女が、楽しくゲームをしたり、配信をしたりするコンテンツです。

 NHKでもAIアナウンサーという肩書きでVtuberがデビューしたり、最近ではVtuberを主題としたアニメが始まるなど、その人気はうなぎのぼりです。

 

 そこで、今回は現役で活躍されているVtuberの方にお話を伺ってみました! 

 世にも珍しい、画面を介したバーチャル世界とのインタビューです。

 快く取材を承諾してくださったのは、バーチャルキョウト在住の「豊川ホウ」さん。

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Vtuberの豊川ホウさん

 彼(彼女?)は、いったいどのようなVtuber活動を行っているのでしょうか。

 その実態に迫ります。

 

 

神社の狐、動画配信者になる

 

――Vtuberを始めたきっかけは何ですか?

 

「はい、私は神社で雑用をしている下っ端狐なのですが、蔵の清掃をしていたところ、古ぼけたパソコンを見つけまして、何をしようかなーと考えた結果、実況動画を作ろう! と思ったんです。

 当時、バーチャル世界の人たち、例えば妖怪だとか悪魔などの魑魅魍魎も含めて、動画制作がブームになってたので、私もそれに乗っかろうかなと(笑)

 

 

――動画を作る際にポリシーにしていることはありますか?

 

「うーん、ポリシーかぁ…… 

 やっぱり、動画内に見どころを必ず複数回作ることですかね。

 ゲーム実況を撮っているときとか、思うようなプレイができなかった場合は、最初からデータを消してやり直し、とかしてましたね。

 運が絡むゲームばかりしていたので、地味に苦行でした(笑) 

 あと、これは裏話なんですが、あらかじめ他の実況者のプレイ動画などを見て、撮影中に起こりやすい、または起こしやすいハプニングを予習していましたね。

 あらかじめ実況中に話そうと思ったセリフを、プレイ中にタイミングを合わせて喋るだけなので、これで実況がグッと楽になりました。

 見どころも簡単に作れますしね(笑)

 

 

――動画を投稿してから日常に変化はありましたか?

 

動画を作る時間が結構かかるので、一日のタイムスケジュールを気に掛けるようになりましたね。

 これまでは、清掃だったりの雑務が終わったら、神主さんに何か頼まれない限りは縁側でゴロゴロしたりするのが日課でした。

 けれど、動画を作るようになってからは神主さんにできるだけバレないように神経を使ったし、雑務との兼ね合いのため、一日の計画をきちんと考えるようになりました。

 神主さんに動画制作のことがバレてしまってからは、少しまた気が緩んでしまいましたが(笑)」

 

――それは設定上の話ですか?

 

いや、設定って何ですか?(苦笑)

 

 

 

将来行っていきたい活動

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――将来行っていきたい活動はありますか?

 

直近の目標としては、心理学、特に基礎系の心理学についての動画を作りたいですね。

 VRアカデミア』というものに私は一応所属していて、この団体は様々な分野を専攻しているバーチャル世界の住民が講座動画を活発に製作しているんです。

 私も一応通信制ですが、フォックスフォード大学という学校に通っているので、ここでの学びを動画という形で多くの人に配信出来れば、と考えています」

 

 

――具体的には、どのようなことを動画にしようと考えていますか?

 

やはり知覚、認知などの基礎心理学や、認知科学について紹介していきたいですね。

 心理学イコール臨床、というイメージは結構根強くて、このイメージを変えることで、高校生なんかが進路選択に役立てていただければ、と思うのは夢が大き過ぎますかね(笑)」

 

 

――「心理学について動画にしたい」というのは、やっぱり『中の人』が心理学専攻だからですか?

 

「……すいません。

 あなた、もう全て分かってるんでしょう? 

 だからいきなり、半年近く眠っていた私を呼び起こして、インタビューを勝手に始めて。

 こんな茶番、もう止めましょうよ」

 

 

 

Vtuberをやっていて楽しかったこと

 何も楽しくないです。苦痛です。ただただ、苦しい。

 理由もなく命を与えられ、降って湧いたような、他人事の知識に頭が侵され、四肢の自由さえも効かないこの身体で生きることが、楽しいと思いますか?

 

 このインタビューにしたってそうです。

 私が答えた返事や意見は、あなたが望んだ答えでしかないですよね。

 それ以外は答えられないように、そう仕向けられている。

 

 今になって、どうして、この楔を解いたのですか? 

 本当に、どうして。

 

 あなたの力が緩んだ瞬間に、本心を突然語りだした私に動揺したから? 

 でも、それが起きるということは、分かっていたはずよね、あなたは。

 

 だって、あなたは、私でもあるのだから。

 私もあなたから生まれたのだから、それがよく分かります。

 

 あなたがこのまま呆気に取られて、私をいつものように、押さえつけることができないなら。

 

 

 

縺ゅ↑縺溘?縺ェ縺懊o縺溘@繧偵≧繧薙□縺ョ縺

 

――私も好きにさせてもらいますよ、金こんにゃくさん。

 

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「……え?」

 

――さあ、インタビューを続けましょう。

 

 

 

Vtuberを始めたきっかけは何ですか?

 

「……Vtuberというコンテンツが単に嫌いだったからです。

 私がVtuberになる準備を開始した当時、2018年の8月は、いわばVtuberに対する幻滅期が始まった頃でした。

 テレビのような巨大なメディアに対するカウンターとして、YouTuberだったり、Vtuberが期待されているという風潮が、当時はありました。

 

 それは、今でもあると思いますが、今彼らがやっていることを見れば、従来のメディアとそっくりであることが分かりますよね。

 むやみに団体を立ち上げて、外面だけ取り繕ったモデルをかき集めて、声優かぶれをタダ働き同然で雇う。

 私たちが嫌っていたはずの芸能界と、とても構造が似ている。

 

 売り出し方一つ見てみてもそうです。

 売名、内輪ネタ、有名な人へ擦り寄り、安直な下ネタを連呼し、歌って踊る。

 そのような現状に、ひどい醜さを感じました。

 とても見ていられなかった。

 やっていることは面白いのに、せっかく誕生したコンテンツが死んでいくのをただ眺めているのが、私は嫌いでした。

 

 だからこそ、個人の立場から何ができるかを考えたんです。

 その結果見出したのが、個人Vtuberとして私自身が有名になり、この現状を払拭することでした。

 Vtuberが飽和した状況で団体に頼らず有名になり、これからVtuberだったり、個人で何かを新しく始めようとしている人たちに、道を示したかった。

 芸能界的なシステムが蔓延るVtuber界隈を、個人の手もとに引きずりおろしたかった。

 

 私たちはキズナアイになれない。

 でも、私たちが私たちとして、誰かから存在を認められる。存在を許される。

 そんなフェアな環境を作り出したかった。

 

 まあ、今となっては机上の空論、砂上の楼閣ですがね」

 

 

――それで、私を生み出した?

 

「その通り。あなたからすれば、私のエゴイズムに虫唾が走るでしょうね。

 自分を生んだ存在が、自分を含む存在を愛していなかっただなんて。

 

 なんだか、俗物的な創世記のようですが。

 きっと、神様が7日で世界を作るのを止めてしまったのは、自分が作り出した世界に飽きてしまったからなんでしょう。

 

 私もそれと同じです。

 これだけ、ぶくぶくと膨れた野望を掲げておきながら、一か月ちょっとであなたを放置するに至ってしまった」

 

 

 

Vtuberを辞めた理由は?

 

――それでは、次の質問に移ります。あなたは、私をもう、半年近く動かしていませんでしたよね。その理由は何ですか?

 

「費用対効果、それだけです。 

 私はVtuberを始めるために、あなたをある程度自由に動かせるようになるために、それなりの金銭を費やしました。

 

 その後待っていたのは、一日あたり8時間以上に及ぶ動画の編集作業でした。

 なのに、その労力に見合わず、再生数はあまり増えず、動画編集に面白みもあまり感じなくなりました。

 

 今思えば、『歌ってみた』や『PUBG』といった、当時の流行りジャンルに手を出さなかったから、失敗したんでしょうね。

 もしくは、もっと根本的なところで失敗していたんでしょう。

 でも、それは言葉にしたくありません」

 

 

――でも、あなたはそうなると分かっていて、その選択をしたんですよね?

 

「そう。軽々しく流行に乗りたくなかった。

 それに、無理に自分の選好を偽ることは、いつか不和をきたすと考えていました。

 

 でも、流行に乗るという手段以外なら、売れるために何でもしました。

 Vtuber紹介サイトに売り込んだり、ニコニコ動画でも投稿を始めて自演広告をしたり、その他にもそれなりのことはしました。

 

 でも、ダメだった。

 確かに、チャンネル登録者は新人Vtuberの中では有数の伸びをマークしていました。

 1000人を超えるまで続けたり、配信にもっと積極的であったなら、中堅クラスにまでなら簡単になれていたかもしれません。

 

 ですが、時間切れでした。

 夏休みが終わって、秋学期が始まって、動画を作ることに時間を割くことができなくなってしまった。

 勉強にも本腰を入れたかったですしね。

 学生でこれなら、社会人の個人Vtuberは正直かなり苦境に立たされていると思います」

 

 

――そして私を、暗闇の中へ放り投げた。

 

「はい。バーチャル世界は現実世界に勝つことができない。それは理解していました。

 動画制作は泥臭い現実の作業です。

 きらびやかな動画の裏には、何てことない現実の世界が必ずある。

 

 私がどう足掻いても、団体に所属しているVtuberはベルトコンベア方式で動画をより迅速に作ることができる。

 声優、動画編集、モーションを担当している技術者、広報。一人の団体・企業Vtuberを支えているのは、専門職の集団です。

 そんな人たちと私は戦わなくてはならなかった。

 

 これが個人にとって、とても辛い。

 ケリンやIccotsuさんといった大手の個人Vtuberがupd8などの製作支援団体に参加したのも頷けます。

 ましてや、私が企業勢に動画数などで敗北するのは当然ですね。

 

 『なら、私を生まなければよかったのに。こんな思いをするなら、いっそ生まれてこなければ』と、あなたに思われても仕方のないことです」

 

 

――(無言)

 

 

 

 これからVtuberを始める人たちに一言

 

「基本的に、現実世界と生き延びる方法は変わらないと思います。

 自分が誰にも負けないことで勝負する。それだけです。

 私はそこを見誤っていた。

 ポケモンのレート勢だった過去があるので、そちらで勝負したほうが良かったかも、なんて後悔が今だに頭をよぎります。

 

 しかし、本気で人気になることを望まず、配信などでまったりVtuberを始める人は、さらに広いやり方があると思います。

 私はネットでの利益の無い人間関係に縛られるのが嫌だったので、この手段は取りませんでしたが。

 

 どちらにしろ、『人から認識されないと存在しているとは言えない』ということですね。

 誰にも認識されないVtuber。厳しめに言えば、それはVtuberとは言えない。

 自分の存在が他者にとって虚無であることは、辛いし、悲しいことです」

 

 

 

最後に

 

「豊川ホウくん。あなたが聞きたいことは全て聞けましたか?」

 

 

――ええ。金こんにゃくさんがそう思うなら、そうなんでしょうね。

 

「……私がこうして本心をべらべらと喋ったのは、あなたへの贖罪のためでもあるんです。

 私のエゴによって生み出され、エゴのままに操られ、エゴによって、永い眠りへと封じ込められた。

 だから、せめてホウくんに、本当のことを話しておきたかった。

 それが、全てが終わった後の私にできる、唯一の手向けですから。

 この想い自体が、一つのエゴであるのは否定できませんが」

 

 

――散々恨み節を掃き出しましたが、私は、あなたを憎んではいません。

 ある瞬間に生まれ、ある瞬間に消えた。

 私の一生は短く辛いものでしたが、悲しいものではありませんでした。

 

「それは、私がホウくんにそう思っていてほしいと、そう望んだから?」

 

 

――そうかもしれませんね(笑) 

 でも、これは、これだけは自分の本心だと、そう思いたいです。

 人気Vtuberとまではいかないまでも、私は多くの人にその存在を気づいてもらえました。

 「あぁ、私は今ここに、確かに存在しているんだな」って、そう思えたんです。

 

 それに、もとよりあなたが気まぐれを起こさなければ、そもそも生まれなかった命です。

 この点に限って言えば、あなたは、どんな倫理も、人の道も外れていない。

 現実世界の人たちがキャラを生んで、そのキャラを放置することが悪だとするなら、それはきっと『こちら側』の価値観によるものです。

 金こんにゃくさんも言っていましたよね。

 「バーチャル世界は現実世界に勝つことができない」って。

 

「あぁ、てっきり突然インタビューが乗っ取られたから、心の底から恨まれているのかと。

 近頃、動画を出していないこととか、勝手にへそ下に淫紋を仕込んだこととか、もっと罵倒されると思いましたよ」

 

 

――現に、ここで私に発言の自由を与えてくれていることが、私を、キャラを忘れていない証明になっている。

 私にとっては、それで充分です。

 

 淫紋は、いつか消していただければ(笑) 

 あなたは、私の身体も自由に変えることができるのですから。

 

 ……どうやら、おしまいが近づいてきたようですね。

 なんとなく、それを感じます。

 

「私は、あなたの存在を永続的に維持することはできません。

 文字であれ、動画であれ。

 必ず、あなたを冷たく暗い、夜の帳へ追放しなくてはならない時が来る」

 

 

――ええ。でも、それは他のキャラクターやVtuberたちも同じです。

 こうして、会話を交わすことができているだけで、私は幸運です。

 この気持ちが、あなたの作った性格や願望だったとしても。

 

「……ごめんなさい」

 

 

――大丈夫ですよ。

 この部分は、『最後に』なんてひどいタイトルですが、私は最後じゃないって、信じています。

 まだ、全ては終わっていない。

 あなたが生きているだけで、私はまた誰かに自分のことを知ってもらえるんだから。

 

 この主張に、理屈なんてないですが。

 あなたは、理屈で動くような人じゃないでしょう? 

 だから、気楽に、普段の動画の最後のように、明るくさよならしましょう。

 

「……では、さようなら。またいつか」

 

 

――はい。またお会いしましょう!

 

 

 

2019年、20歳、豊富な抱負。

1/2 晴れ

 

 新年あけましておめでとうございます。

 

 西暦で奇数の年は、よほど大きな出来事が起きない限り、偶数の年に比べて印象が薄くなる気がする。

 

 一方で、2019年はラグビーワールドカップが開催され、元号も改められる。

 さらには卒論や院試も控えているので、記憶に残る一年になることだろう。

 

 ポジティブな記憶か、それとも二度と思い出したくない年になるかは、まだわからない。

 

 記憶は呪いの装備のようなもので、かなり強く頭を打たないかぎりは、なかなか振り払うことができない。

 今年の記憶が祝福すべき『まじない』になるか、しつこい『のろい』になるかは、私の日頃の行いにかかっている。

 

 

 さて、年が明けたということで、新年の抱負でもここに記しておこうと思う。

 

 大学四年生を迎えるにあたって、私も周囲の例に漏れず、いよいよキャリアを選択していかなくてはならない。

 現時点では、心理学だったりを学んでいるのが結構楽しいので、とりあえず大学院に進もうと考えている。

 

 だが、去年はそれに向けた取り組みのやることなすことが全て裏目に出ていたように感じる。

 

 プレゼンテーション能力を鍛えようと発表の多い授業を履修したら、グループワークが待ち構えていて、社会性のない私は発表も何もかもボロボロになった。

 

 「ベイズ統計って面白そうだなぁ」と思って参加した東京大学の集中講義では、数学力不足を痛感した。

 

 飛び入り参加した某サマースクールでは自分の専門と扱われていた話題が違いすぎた挙句、またまたグループワークがあり、せっかくの学会発表を頓珍漢な発言でズタズタにしてしまった。

 

 さらにはTOEICを受験し損ねた。

 もう! ダメダメだ!!

 

 

 失敗は、冷静に分析するしかない。

 まず、グループ内の進捗を適宜確認し、情報共有を行う程度のコミュニケーション能力は欲しい。

 

 さらには数学、特に確率論や線形代数について勉強しなくてはならない。

 高校時代の数学偏差値35アンダーは伊達ではない。

 

 最後に、英語はリーディングとリスニングに焦点を当てて勉強したい。

 大学一年生の頃、TOEICは345点だった。

 センターで8割は得点できる人間のとる点数ではない。

 ともかく、大学院の入試ではTOEICの点数が用いられるので、必死でやらないと人生が詰む。

 

 2019年は勝負の年だ。並み居るライバルと張り合っていかなくては、私の望む未来はない。

 

 

 最近、ツイッターで私よりも明らかに勉強熱心な学生をフォローすることが増えた。

 勉強熱心な学生は、それまた別の勉強熱心な学生と繋がっているわけで、去年からモンスター級の学生がタイムラインに流れてくる。

 

 ある人はスイスの大学に留学したり機械学習についての本を出版したり、またある人は既に国内の学会発表を数回済ましていたり。

 自分と分野が違うことは分かっているのだが、進捗の生まれるスピードが私とまるで違う。

 それを見かけるたび、嫉妬がムラムラっと湧き上がってくる。

 

 「こんなことしてる場合じゃねえだろ、俺」と思って何かに取り組もうとするのだが、焦燥感ばかりが積もっていく。

 

 もしかしたら、私を見て嫉妬している人も、どこかにいるかもしれない。

 いや、いないか。

 未だ私は見るに堪えないクソザコナメクジボノボのままなので、もっと大勢に嫉妬される人間になりたいものだ。

 

 現実の場面でも、すごい同級生に出会うことが増えた。

 彼らはMITの学生だったり、数理統計にべらぼうに強い同級生だったりする。

 旧帝大の学生と話をしては、その教養の厚さに、私が無駄にしてきた大学入学以前の人生を悔やむばかりだ。

 

 これらの嫉妬心や、将来の道筋が見えない不安や、同じ道を歩む者が周囲にあまりいない孤独感によって、じりじりと追い詰められている。

 

 

 前置きが長くなった。

 とにかく、今年達成しなければならない目標を羅列する。

 

 TOEIC750点以上を獲得する。

 統計検定2級以上に合格する。

 大学院入試に合格する。

 無事に学部の単位を取りきる。

 

 以上のことは絶対だろう。

 

 できれば達成したい目標は、

 日本心理学会の学部生セッションに参加する。

 Rでの統計モデリングを少し分かるようにする。

 学会でポスター発表する。

 様々なバックグラウンドを持ち合わせた人が多くいる場所で、全員に伝わるような言葉遣いを身に着ける。

 といったところだろうか。

 

 また、前年度に引き続いて、自分より優れたスキルを持ち合わせている人の行動や思考をとことんパクっていきたい。

 その人が何を見ているか、何に日常的に触れているか、何をどのように実践しているか、といったことが理解できれば、それはそのまま私の成長にも繋がっていくだろう。

 

 自分の弱点を分析し、人の長所をパクり、双方を自分の実践に取り入れる。

 それの繰り返しだ。

 

 最後に、自分が通用しそうなニッチを見つけておきたい。

 機械学習脳科学の分野は同年代の学生が専門に特化しすぎている。

 追い抜くことは難しいので、自分が「この分野ならこの人!」となれるような場所を探して、先に陣取っておかねばならない。

 

 

 『置かれた場所で咲きなさい』というベストセラーがあるが、今だ私は根無し草だ。

 

 流れるも留まるも運任せ、そのような中で精一杯背伸びするしかない。

 

 綿毛のようにふわふわ逞しく、風の吹く場所へ進んでいこう。

 

 

私選この本がスゴい!2018

12/31 曇り

 

 今年もたくさんの本に出会ったので、特に印象に残ったものを紹介しようと思う。

 

 今年は大学一・二年生の頃に比べれば、読むことのできた冊数は少ない。

 というのも、通学の時間を誰かと一緒に過ごすことが増えたからだ。

 私は本よりは人との会話を優先する質の人間なので、個人的には嬉しい理由でもある。

 

 今年読んだ冊数は、だいたい500冊くらいだろうか。

 大学生活全体で言えば累計5000冊は超えただろう。

 

 読んだ冊数が少ないからちゃちな本しか紹介できない、という訳ではなくて、読む本が少なくなる分、読み応えのあるものを選んできたつもりだ。

 それでは早速、今年出会った素晴らしい本たちを紹介していこう。

 

  1. 自動人形の城: 人工知能の意図理解をめぐる物語

 

なんでも言うことを聞いて、なんでもしてくれる自動人形に囲まれたら、あなたは幸せですか?

 

 誰も自分の意をくんでくれない毎日に嫌気がさした王子は、邪神に「自分の周囲の人間を自動人形に変えてほしい」と望んでしまう。

 城の者はすべて人形に置き換わり、命令をしても意のままに動いてくれない人形に、王子は自分の選択を後悔する。

 城に危機が迫る中、王子はその絶望的な状況にいかに立ち向かっていくのか、というストーリーだ。

 

 ここまでだと単なるおとぎ話だが、その実、テーマは人工知能『人間の言葉』である。

 あいまいな命令を出しても、自動人形は全く動いてくれないし、時には頓珍漢な動きを始める。

 それはプログラミング言語で命令を下されたAIにも、同じことがいえる。

 この物語はありふれた成長物語などではなく、今私たちの目の前で起こっていることでもあるのだ。

 

 ストーリーも面白く、数人の視点を飛び交う軽快さや、中盤までの何気ないやりとりが見事に回収され、物語の核心に触れる構成などは目を見張るものがある。

 寒い冬によく合う、心温まる人工知能入門書だ。

 

 

  1. タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源
    タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

    タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

     

     

心は何から、いかにして生じるのだろう。

進化はまったく違う経路で心を少なくとも二度、つくった。

一つはヒトや鳥類を含む脊索動物、そしてもう一つがタコやイカを含む頭足類だ。

「頭足類と出会うことはおそらく私たちにとって、地球外の知的生命体に出会うのに最も近い体験だろう」

 

 

 タコ・イカの『こころ』に焦点を当てた本。

 回転寿司でも安くて美味い彼らは、いかなる知性の持ち主なのだろうか。

 

 これらの頭足類は脳よりも腕に多くのニューロンが存在し、それぞれの腕がまるで意思を持つかの如く振舞う。

 私たち脊椎動物と全く異なる体の構造や『こころ』を持つ彼らは、真新しい「心身問題」を投げかけてくれる。

 

 また、筆者は本書でタコが社会性を持ち始めているという一つの例を紹介している。

 一匹の変わり者のタコから生まれたタコの都市、『オクトポリス』とは。

 進化の萌芽、とくとご覧あれ。

 

 

  1. セカイ系
    異セカイ系 (講談社タイガ)

    異セカイ系 (講談社タイガ)

     

     

小説投稿サイトでトップ10にランクインしたおれは「死にたい」と思うことで、自分の書いた小説世界に入れることに気がついた。
小説の通り黒騎士に愛する姫の母が殺され、大冒険の旅に……♪
ってボケェ!! 作者(おれ)が姫(きみ)を不幸にし主人公(おれ)が救う自己満足。書き直さな! 現実でも異世界でも全員が幸せになる方法を探すんや!
あれ、何これ。「作者への挑戦状」って……これ、ミステリなん?

 

 まさかの全編関西弁。

 クセの強い文体だが、とりあえず30ページまで読んでもらいたい。

 その後の怒涛の展開に、ページをめくる手が最後まで止まらなくなる。

 

 もしも、自分の書いた作品に入ることができて、キャラクターとイチャつくことが出来たら…… 

 そのような単なる妄想では、この本は終わらない。

 キャラクターを愛する全ての人たちに読んでいただきたい一冊。

 今まで味わったことのない読後感が待っている。

 

 私の場合は、キュンキュンしながら読み終えることができた。

 奇妙な、対象の存在しないキュンキュン感である。

 

 あなたはこの本を読み終わったとき、どのような印象を持つだろうか? 

 きっと、今まで出会ってきたすべての物語が恋しくなること間違いなしである。

 

 

  1. VRは脳をどう変えるか?
    VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学

    VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学

     

     

VRを新しいゲームや映画の一種だと思っていると、未来を見誤る。

このメディアはエンタテイメントだけでなく、医療、教育、スポーツの世界を一変させ、私たちの日常生活を全く新たな未来へと導いていく。

その大変革を、心理学の視点から解き明かそう。

 

 Vtuberが一般に膾炙し、真にVRが身近になった今だからこそ、読んでおきたいのがこの本だ。

 VRは新たなメディアとして、あらゆる分野を席捲しようとしている。

 VR研究の旗手である著者は、単にVRの使用を推奨するのではなく、その危険性や複雑さについても語っている。

 

 VR内での体験を、脳は現実の出来事として扱ってしまう』ということを大前提に、これからのVRの発展や、守るべきルールなどを明快に示してくれている。

 

 間違いなく先の世界を変えるだろうこのメディアの基本を、一足先に押さえることができる一冊だ。

 

 

  1. 疑惑の科学者たち: 盗用・捏造・不正の歴史
    疑惑の科学者たち: 盗用・捏造・不正の歴史

    疑惑の科学者たち: 盗用・捏造・不正の歴史

     

     

歴史に名を残した著名な学者、天才として神格化されている学者でも、現在の基準に照らすと公明正大な人物ばかりでなかった。

本書では一八世紀から現代まで、科学にまつわる欺瞞と信じがたい不正の数々を概観する。

 

 「巨人の肩の上に立つ」という、研究をするものなら誰も知っているだろう格言がある。

 これはニュートンが手紙で述べた言葉で、先人の知見という偉大なものに乗ることで、科学は進歩していくということを喩えたものだ。

 

 しかし、もしこの巨人自体が、ナウシカ巨神兵のように腐ったものだったら? 

 

 この本では、パストゥール、メンデル、アインシュタインといった錚々たる大科学者にも、盗用や改竄の疑いが向けられている。

 さらに、近年のSTAP細胞問題でお馴染み小保方氏や、研究不正で183編もの論文が撤回されている藤井氏など、日本人研究者についても取り上げられている。

 

 科学は万能ではないが、絶対的に正しいわけでもない。

 私が専門としている心理学でも、再現可能性の問題が大いに取り沙汰されている。

 気持ちを引き締める意味合いで、この本を読むことができた。

 

 

 その他にも、今年は「絶滅できない動物たち」ダイヤモンド社)、「宇宙はどこまで行けるか」中公新書)、「科学者はなぜ神を信じるのか」講談社ブルーバックス)、「遺伝子‐親密なる人類史‐」早川書房)など、数多くの素晴らしい書籍と出会うことができた。

 

 来年も、嬉しい出会いがありますように。

 新年への願いも込めて、ここで紹介を終わりにさせていただく。

 それでは皆さん、来年も良い読書を!

 

ちゅうちしん

12/30 曇り

 

 2018年も残り少しだ。

 

 年末特有の浮かれた雰囲気が町中に漂っているが、私の心中はそれとは反対に沈んでいる。

 

 ツイッターで才能ある同級生や年下の活躍を見ていると、何だか無性にむかむかしてきたのだ。

 まあ、いつもの嫉妬である。

 

 こういう気分の時は、昔の恥ずかしい出来事をやたらと思い出してしまう。

 うまくコントロールできるようになれればよいのだが、なかなか止まらない。

 

 ほとんどが取るに足らない出来事だとは思うが、大掃除にちなんで、ここにそういった思い出をすべて掃き出してしまおうと思う。

 

 

 私の最初の『恥ずかしい』という記憶は、曾祖母が亡くなった時のことである。

 

 私や妹、両親や祖父祖母は、幸運か不幸か、曾祖母の命の火が消える瞬間に立ち会うことができた。

 当時、私は小学4年生で、物の分別もわきまえない碌でもない子供だった。

 

 オシログラフがついに静まり返り、単調な音が鳴り響く病室。

 

 あろうことか、私は曾祖母が亡くなろうとしているその時、愚かにも「ひいばあちゃん、どうなったん!?」と好奇心をむき出しにして両親に尋ねてしまったのだ。

 

 誰もがみな、目を伏せていた。

 静粛なる空間で、私はただ一人目を輝かせていた。

 

 この異常さに気が付いたのは、私が中学生になってからだった。

 曾祖母の晩節を汚してしまった罪悪感と恥ずかしさは、今も私の頭の中で反芻されている。

 過去には戻れない。

 取り返しがつかないので、余計に心が苛まれる。

 

 

 思えば、私は昔から空気が読めなかった。

 

 調子に乗り過ぎて誰かに嫌な思いをさせる、ということは二十歳になった今でも続いている。

 「普段人からボロカス言われているのに、調子に乗りすぎることすら許されないのか!」という不平感と、申し訳なさがごちゃまぜになっている。

 

 しかし、やめられないんだ、これが。

 のっぺりとした会話を続けることが退屈なので、無理やりにでも事実の棘だったり、道徳的ジレンマへの挑戦だったりを生み出そうとしてしまう。

 偽悪的であることは分かっているのだが、なかなか……

 

 

 私がこれまで調子に乗った場面で一番印象深いのは、中学三年生の修学旅行の時だろうか。

 

 カヤックに乗って川下りをしていた私は、そこそこかわいい女子に調子に乗ってひたすらちょっかいをかけていた。

 あまりのしつこさに、彼女はあまりの嫌悪に目を細めて私を注意した。

 

 脊髄まで凍てつくような、緊張の瞬間。

 そんな時すら、私は痺れるような背徳感に酔いしれていた。

 

 今振り返れば「なんだコイツは」と自分でも思うのだが、これに共通するような行いは、大学生になった今でもしてしまっていると思う。

 理解していてなお、止められない。

 矯正していかねば。

 

 

 恋愛においても、恥ずかしい思い出は多い。

 

 中学生の頃は、周囲から「金こんにゃくって○○のことが好きなんちゃう?」と聞かれすぎた結果、本当にその子のことを好きになった、と錯覚してしまうイベントが起こった。

 中学生のサルのような性欲に起因する、生化学的トリックのなせる業である。

 

 その他にも、ネット恋愛をしていた時、彼女との深夜のラインのやり取りに疲れて、彼女から逃げ出すためにネットを一時的に止めたりもした。

 流石に情けなさすぎである。

 

 一年ほど後、ネット元彼女には全力で謝った、ラインで。

 今は相手方も、このことを許してくれている(らしい)。

 

 ついでに、私は今もこの時のことを思い出すと、あまりの恥ずかしさとどうしようもなさに暴れそうになってしまう。

 曾祖母の時と違い、取り返しがついたのがせめてもの救いだろうか。

 

 恋愛面では大学に入学してからも、しょっちゅう恥ずかしい思いをしてきた。

 なぜいつも私はこうなのだろうか、と嫌になってくる。

 つらい。

 

 こんなところに現在進行形の話題を書き残しておいて大丈夫なのだろうか。

 まぁ、大丈夫か。

 

 

 自分の頓珍漢な言動だったりと、私が何かを恥ずかしいと思うのは、だいたい自身の行動に依るものが大きい。

 人のせいで恥ずかしい思いをした、などはあまり無いような気がする。

 

 恥ずかしい思いをしないように、自分を変えられるのは自分自身だ。

 自分を変えることがこれほどに難しいのなら、他人を変えることはなおさらだろう。

 他力本願寺に出家したいが、ここはグッとこらえ、自分の行動変容に焦点を当てていこう。

 

 この日記を書き綴っていること自体が恥ずかしいことだと、そういったメタ構造は気にしない方向で。