きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

いんせいにっき

11/30 晴れ


 淀屋橋駅が人でごった返していた。どうやら、私の最寄りの隣駅で人身事故があったらしい。改札に向かって果てしなく人の列が続いているのを見る限り、今から並んでも電車に乗るにはかなりの時間がかかりそうだった。

 あまりにお腹が減っていたので、衝動的に餃子の王将に入って、ニラレバとビールを貪りたくなったが、鋼鉄の意思で我慢して、喫茶店でこの文章を書いている。餃子の王将でバカみたいな食事をバカみたいな量、バカみたいな顔で胃に放り込みたくなる時が、私にもあるのだ。


 そういう訳で、約4ヶ月ぶりのブログ更新である。大学院生になってから、日常のアレコレが尋常でなく忙しくなって、駄文を弄することすらできなくなっていた。

 日頃いろいろと考えることはあるのだが、Twitterは研究者の方に数多くフォローされ迂闊な発言ができなくなったので、陽の当たらないツイキャスでこうした鬱憤を連ねるダメな大人になってしまった。こういう大人に、中学生の頃はなりたくなかったのに。でも、餃子の王将で昼からビールを飲んでいる大人には、なりたかったかもしれない。羨ましいから。


 子供の頃、「中学生日記」というNHKの番組を時たま観ることがあった。そのドラマで、一つ記憶に残っているエピソードがある。

 ある華奢な体格の少年が行事のマラソン大会に参加するのだが、同級生に「お前がゴールするのは無理だ」とバカにされてしまう。しかし、目に見える電柱をゴールと思い込むことで、「もう少し、もう少し」と走り続け、ついにはゴールする、というあらすじだ。


 大学院生の生活は、マラソンと似ている部分がある。研究はゴールの見えない持久戦だ。ランナーズ・ハイになって、ゴールまでずっと全力疾走できる人もいれば、途中で身体と心を壊してしまう人もいる。

 私も積み重なるタスクに肺の空気を奪われながらも、口をパクパクさせながら走っている最中だ。そして、ようやく修士というフルマラソンの折り返し地点が遠くに霞んで見えてきた。

 しかし、博士課程後期まで進学すると、これが100kmのウルトラマラソンに変貌する。最悪、人が死ぬ。

 私は高校時代、学校から高野山までの100kmを30時間ほどかけて歩く行事を「ぐっすり眠りたいから」という理由で、60km地点で放り出してバスで熟睡した男だ。そんな堪え性のない人間だが、気づいたら大学院一年目の冬になっていた。博士に進学しても、今度は途中で眠りこけるようなことは、無いようにしたい。


 ともかく、大学院の生活は続く。新型コロナウイルスに振り回されたせいか、今年の時が経つのはいつもの比ではないほど早かった。

 「クロノスタシス」という現象の名前を最近知った。時計の針を眺めていると、止まって見える現象のことを指す言葉らしい。まったく、2020年にぴったりの言葉だと思った。

 

きのこ帝国「クロノスタシス

https://youtu.be/cCx4I4Fk5FE

 

 「もう少し、もう少し」と課題をこなしているうちに、あっという間に12月だ。クリスマスの予定も定まらない22歳。こういう大人に、中学生の頃はなりたくなかったのに。
 まあ、なってしまったものは仕方ない。「こんな大人も悪くないぞ」と、過去の自身に笑いかけられるような毎日を過ごしていこう。

 

コウモリにはなれない

7/12 曇り


 雨ばかりの日々が続く。もうしばらく、日の光を浴びていない。
 根暗な空模様のせいか、些細なミスで精神がヘタるようになってきた。そこで、「セントジョーンズワート」というサプリメントを飲み始めた。

 「セントジョーンズワート」とは、西洋弟切草のことだ。どうやら、軽・中程度の抑うつには効果的らしい(Google Scholarで調べればすぐにメタ分析の論文が出てくる)。しかも、20日分で600円ほど。とても安価だ。寝る前に半日分を飲んでから寝ると、これまで頭の中でネガティブな思考が堂々巡りしていたのが少しマシになった。

 弟切草は魔よけのお守りとしても、海の向こうでは用いられているらしい。そう見るとなかなかに縁起がいいのだが、花言葉は「迷信・敵意・恨み」と、仰々しい単語が並んでいる。きっと、「呪い」と書いて「のろい」とも、「まじない」とも読めるのと同じようなものなのだろう。

 


 近頃は「人間の想像力などあてにならないのではないか」と思うことが増えた。それは、今流行のBlack Lives Matter運動や、Twitterでの男女の価値観の違いなどを眺める時間が増えたからなのかもしれない。その他にも、COVID-19での「夜の街」に対するものであったりと、いくらでも想像力の欠如に関する問題を挙げることができる。

 単刀直入にいうと、「他者に対して想像力を呼び起こすことが、そもそも私たちにとって理不尽なレベルで困難なのではないか」という疑問が頭にこびりついて離れないのだ。


 哲学者トマス・ネーゲルの有名な問いに「コウモリであるとはどういうことか」というものがある。

 私たちは擬人的な見方で、つまり人間という視点から「コウモリであるとはどういうことか」をある意味では理解できるかもしれない。「虫が飛んでいる。食べちゃうぞ」とか。

 しかし、コウモリ自体の視点に立って、コウモリにとっての「コウモリであるとはどういうことか」を理解することは困難を極める。その理由は考えてみれば簡単で、人間はエコロケーション能力や飛行能力など、コウモリの意識体験を支える重要な要素を併せ持っていないからだ。また、コウモリが人間に比べて中枢がすごく小さいという、どうにもならない理由もある。ユクスキュル風に言えば、人間はコウモリが自身を取り巻く世界をどのように「理解」しているかを読み解くことすら難しい。ここでは、他者の意識体験理解の困難さは、主に生物学的な要因によって規定される。


 これに加えて、「他者を理解することの困難さには、生物学的な要因のみならず社会的な要因も関わっているのでは」と、ふと思うようになった。

 Black Lives Matter運動を例に考えてみる。これを読んでいる人のほとんどは日本人の黄色人種であり、ほとんどの黒色人種とは社会的に異なる状況下で暮らしているだろう。生物学的な差異はさておき(炎上するので触れない)

 


 ここで、飽きた。

 要は「他者への想像力が喚起される背景には、その他者に関連する経験の大小が深く関わっている」ということを言いたかった。


 「We are the world」を聴きながら、このブログを書いた。

 元々はエチオピアでの飢饉をきっかけに作られた曲らしいが、その歌詞とメロディは35年たった今でも色あせない。

 COVID-19が流行しているこのご時世、「We are the world」を再収録しようという動きもあるようだが、ウイルスの特性から歌手が集まることが難しく、進捗は芳しくないらしい。

 

 夏の夜は浅い。今日も弟切草を飲み込んで眠りに就こう。

 

ぼっちのグルメ

6/10 晴れのち雨


 梅雨の季節が始まった。雨の日は好きなのだが、あまりにも低気圧が続くと頭痛が酷くなり、なにも進捗が産めなくなる。

 程度を弁えて、梅雨には早々に過ぎ去ってほしいが、そんな人間の都合とは関係なく雨は降り続けるのだろう。『天気の子』でも同じようなことを作中の登場人物が言っていた。自然のそういう理不尽さは嫌いじゃない。マゾヒストなので。

 


 人生の面白さは、卒業した“童貞”の数で決まると私は考えている。要は、どれだけ初めての体験をこなすことができるか、ということだ。

 それに、新しい経験は海馬のニューロン新生や、メンタルヘルスにも効く。確かそういう研究があった気がする。

 小学生の頃から、私は初めての経験をするのが好きだった。学校からの帰りに、いつもと違う道を選んでみたり。スターバックスであらゆるドリンクをコンプリートしてみたり。

 たとえ、一般的な意味での“童貞”を卒業できていないとしても、私は初体験を他の人より沢山こなしてきた自負がある。これはもう、実質的に私はヤリチンである(?)


 つい最近も、私は初めての経験をした。大学の近くのタイ料理屋に訪れたのだ。

 適当にネットで大学周辺のグルメ情報を検索すると、その店が目に入った。このタイ料理屋には、「2016年度社会心理学会」という語がタグ付けされていた。

 私は大学1年生の頃、この学会にお手伝い役として参加したことがある。昔の私はいま以上に情報伝達が下手くそで、無理くりに言葉を口から捻り出したせいで意味が上手く通じず、ある先輩にこの学会で眉を顰められたことがある。本当に苦い思い出だ。


 ともかく、学会のタグに運命じみたものを感じたので、このタイ料理屋に行くことにした。長い坂を下ってしばらく歩くと、エキゾチックな外装の店が見えた。

 入店するといかにも優しそうな、目を細めた高齢の女性が案内してくれた。新型コロナの影響で出費をあまりせずお金が余っていたので、1700円のランチコースを注文した。


 最初に生春巻とサラダが届いた。生春巻を食べるのはこれが初めてだ。

 赤く、いかにも辛そうなソースに生春巻をつけて一口。見た目とは裏腹に、甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。もっちりした春巻きの食感に粘土のあるソースが相まって、とても美味しい。まるで生春巻にディープキスをされているようだった。ディープキス、経験したことないけど。


 次にトムヤムクンが机に並べられた。トムヤムクンのクンは“海老”、ヤムは“混ぜる”という意味があるのよ」と、穏やかな声で店主は説明してくれた。「じゃあトムは外国人ですか?」という私の茶々に応じることなく、店主は奥の方へ引っ込んでいった。少し凹んだ。ついでに、トムには“煮る”という意味があることを後で知った。

 トムヤムクンにはパクチーが乗っていた。パクチーが苦手な人は多いと思うが、私は得意だ。

 というのも、東京のホテルニューオータニに一人旅で泊まりに行った際、ビュッフェで腹がはち切れるほどトムヤムクンを飲んだことがあるからだ。最初にパクチーを口に入れたとき、シンプルにカメムシだと思った。トムヤムクン自体は美味しかったので、意固地になって何度もパクチーを食べていると、そのうちに慣れてしまったのだ。今では美味しいカメムシ程度にしか感じなくなった。

 この店のトムヤムクンはホテルで食べたものよりも酸味が強く、いかにもエスニック料理を食べている、という気分にさせられた。こちらの方が、私の好みだ。


 メインにグリーンカレーを食べた後、デザートがやってきた。仙草ゼリーの上にパイナップル・キウイ・ドラゴンフルーツが添えられていた。

 「仙草は、仙人の食べる草と言われているのよ」と、店主は先ほどと変わらない様子でウンチクを説いてくれた。駄々滑りしたから、嫌われたかと思った。よかった、嫌われてなくて。

 仙草とは、シソの仲間の植物である。以前台湾スイーツにハマっていたことがあるので、私は仙草の正体を知っていた。タイの仙人は霞でなくシソの仲間を食べるらしい。仙草ゼリーは、カレーやトムヤムクンといった辛めの料理で火照った身体を心地よく冷やしてくれた。

 


 オチというオチもなく、今日のブログはここまでだ。また機会があればグルメな文章を書いてみたいが、今後2週間はレポートや学会準備等で忙しくなりそうなので、それは叶いそうにない。

 落ち着いたら、またタイ料理屋に行きタイと思う。なんつってぇぇぇぇぇぇええええええええええええええあひゃひゃひゃひゃひゃひゃはyはyははははっっhっyは

ファッキンボーイ・ミーツ・ジーニアスガール

5/13 曇りときどき晴れ


 論文を書いたり、久保『データ解析のための統計モデリング入門』を積み重なった本の地層から掘り出して読み始めたり、そこそこ進捗を生めるようになってきた。しなければならないことや勉強したいことは沢山あるので、何気に忙しい毎日である。

 Scholar(学者)という語は、もともと古代ギリシア語で「暇」という意味だったらしい。大学院生は学者の卵であり、すなわち暇人の卵でもある訳だが、近頃は必要以上にセカセカしているので、どうやら立派な暇人として孵化はできなさそうだ。ある程度タスクをこなし終えて、無事暇人として生まれ変わることができたのなら、美少女の姿を脳のシワというシワに刷り込んで、一生その子についていこう。

 


 私は天才美少女が好きだ。かなり昔から、天才美少女に一度お目にかかりたいという願望がある。

 高校生の頃の日記を読み直したところ、その旨が書かれていて今更ながら驚いた。さらに内心に秘めたことを言えば、天才美少女に論戦を挑んで、全力を尽くしてなおボコボコに言い負かされたいという欲望を中学生の頃から抱き続けている。

 この欲望が、これまで満たされたことはない。悲しいことに、その原因は私にある。論争に全力で挑む度胸が無いのもそうだが、天才美少女に易々と会える環境に身を置けるほど、私自身に実力がないからだ(涙)。

 あとこれは余談だが、「天才美少女」でググるとトップに「天才美少女生徒会長が教える民主主義のぶっ壊し方」という本がAmazonに売られているのが出てくる。あんまり、天才美少女には民主主義をぶっ壊してほしくない。なんか、民主主義なんかよりもっと良いものをぶっ壊してほしい。NHKとか、通天閣とか。


 なぜ突然、天才美少女について語り始めたかと言うと、彼女らと真っ当に接することの出来る時間が、もう既に限られたものになっていることに気づいたからだ。私は今年で22歳。一方で天才美少女は15歳から22歳(個人の感想です)。このままボーッと「あー天才美少女に論破されたいな」と煙を巻いていたら、あっという間に30代、40代になってしまう。

 そうするともう、天才美少女と運良く巡り合えたとしても、オッサンになった私が彼女らに関わろうとすればセクハラだ。私はロジハラを彼女らから受けたいだけなのに。いつの世も、キモい願いを叶えるのは難しい。


 結局、天才美少女と巡り会うためには、自分自身が彼女らのお眼鏡に適うような実力を身につけるしかないのだ。そうすれば自ずと星は巡ってくる。孫正義財団のホームページに載っている人たちの経歴をヨダレを垂らしながら眺めるのはやめて、私も奮起して勉強をするのが吉だ。

 今日からベイズ統計の勉強を再開したのも、そんな理由がちょっとだけある。こういう薄汚いモチベで勉強したら、メチャクチャ学習が捗った。最高に最悪だ。


 実は、「天才美少女に会うために自分自身が賢くなる」という方法は、一種のパラドックスを抱え込んでいる。私が勉強するほど、天才美少女だと私が個人的に考える能力の閾値がドンドン上がって、結果として巡り会うことの出来る確率が下がっていくのだ。世間的に「天才」ともてはやされる東大生が、実際東大に入って才気溢れる人間と出会って意気消沈しているのを見ると、恐らく天才であることの閾値はそれを見る人自身の能力によって簡単に上下する。タブンネ

 これを避けるためには、「自分がさも秀才であるかのように見せかけるスキルだけを身に付ける」という方法があるが、これはなんか嫌だ。平常時でさえソフィスト気味なのに、これ以上フェイク野郎になってしまったら本当に歯止めが効かなくなる。

 濁った水の湖は往々にして深く見えるものだ。こういう手合いは何人もいて、実際に天才美少女を周りに取り囲んでキャッキャしている輩も見かけたことはある。だが、そうはなりたくないので、キィー! とハンカチを噛む古典的な悔しがり方をして、立ち去るしかない。


 今日の日記は、久々に取り止めのない文章を書けた気がする。実は、こういうバカっぽい文章は、新型コロナが跋扈しているような非常時には書くのが難しくなる。こんな文章が書けたということは、私のメンタルヘルスも向上して、日常が好転してきたということだろう。

 好転した気分をコネコネしつつ、天才美少女に出会える日を、首を長くして待っていようと思う。待ちきれなくなったら、アマゾンの奥地にでも天才美少女を探しに行こう。Amazonの奥地では、民主主義をぶっ壊す系の天才美少女にしか出会えないだろうから。

 

この世界はエロくない

5/8 曇り時々晴れ


 相変わらず自宅にこもる毎日だ。だが、大学のオンライン講義が始まって、心機一転といった感じである。

 あらかじめオンライン勉強会に参加していたので、Zoomといったビデオ会議アプリの扱いに慣れていたおかげか、違和感なくすんなりと講義を受けることができた。家の中で講義を受けてみるのもたまには悪くない。しかし、人に会うという目的で学部の頃は講義に行っていた側面もあるので、やはり一人は寂しいという気持ちもある。

 

 私は学部生の頃、とにかく講義に出たがらないような学生だった。特に1・2年生の頃は、出席点のあるものを出来るだけ避けて履修して、講義の時間には図書館に籠もっていることが多かった。

 我ながらダメな学生だと思うが、それが無ければ身についていなかった知識も多いだろう。その反面、歪な形で知識が身についてしまったという側面も否定できない。体系的に学びたいなら講義を受けるのが一番だと、反省半分悔しさ半分で思っている。

 


 今日は美少女が夢に出てきた。いかにもアニメ的な、燃えるような赤い髪と、静かな湖面に似た青い瞳を持つ美少女だった。彼女が料理した肉じゃがを前に一緒に食卓を囲むという、舞台設定自体は平和な夢だった。

 だが、一点だけおかしい所があった。美少女にすね毛が、ボーボーに生えていたのだ。それを見て、私はもうムチャクチャに興奮してしまった。美少女という清さと、すね毛ボーボーという汚さが同居していることにギャップ萌えしてしまった。

 私はその美少女にスネを撫でさせてもらえるよう執拗に頼み込んだ。すると、美少女はとても嫌そうな表情をしながら、スネを撫でることを許可してくれた。

 

 そこで、夢は終わった。結局、すね毛に触れることは叶わなかった。春眠、美少女のすね毛を知らず

 もしかしたらこの世界の方が、美少女のすね毛が見ている夢なのかもしれない。まさに胡蝶のすね毛。

 あと、肉じゃがは普通に美味しかった。

 


 私がこんな変な夢を見てしまったのは、一重に欲求が溜まってしまっているからだろう。特に、性欲がやばい。

 誰も表で言わないだけで、裏で欲求が溜まりすぎてとんでもないことになってしまっている人は相当数いるはずだ。表で性欲にまつわる話をすることは「キモいこと」なので、なかなか目に見えるところにこう言った事案が出てこないのだ。

 だが、昨今の自粛ムードで「キモいこと」になっている人は多いと、私は確信している。自粛だろうがなんだろうが、人は性欲含む己の欲望からは逃れられないからだ。テレビで笑顔を振りまくアイドルも、夕日が差し込む教室で机に肘をつきながら、浮かない表情で部活に励む生徒を眺める儚げな深窓の令嬢も、裏では「キモいこと」をしているだろう。だからこそ、世界は面白い。


 私の場合も、まあ欲求が溜まりすぎてヤバいことになっている。今日なんか、ゼスプリのキウイのCMの最後に「好きなことなら、きっと続けられるよ」とキウイのキャラが囁く部分で、ファフニールが反応すると同時に、「あぁ、私は研究が好きなはずなのに、最近はうまく継続できていないような気がする。私はダメなやつだ」という自己嫌悪に陥って感情がぐちゃぐちゃになってしまった。

 囁きというASMR要素と“ファフニール”が古典的条件づけされているのと、精神状態の悪化が重なってとんでもないことになった。助けてくれ(素)

 


 こんなひどい状況でなにも手につかないので、近頃は勤めて散歩をすることによって、メンタルリセットに努めている。散歩に行くと、「あぁ、この世界はエロくないんだ」と安心する。最近はその事実に涙まで出てきそうになることが増えた。

 表の世界には、エロいものなんて何一つない。こんなに素晴らしいことがあるだろうか。高校生の頃は「あーあ、どっかにエロいこと落ちてないかな」とひがな一日考えていたが、それはまったくの思い違いだった。世界はエロくないからこそ、私のような人間が生きていけるのだ。

 こうして、散歩によって私のメンタルは改善しつつあるのでした。ぬきたしぬきたし。


 以上のように、本当に最近は、ヤバい。
論文も1日に1本は精読しているのに、線形代数の勉強もしているのに、本もそこそこ読んでるのに、日に日に私は「キモいこと」になってきている。どうすんだこれ、本当に。

 

憎い醜さ、愛してる

4/23 曇り


 生活がズタズタになったので、進捗が狂いつつある。何も手につかなくなった。勉強をしようと思ったり、論文を読み始めた途端に眠くなってしまう。話の流れを体系立てて文章に起こすことすら難しくなってきた。
 なので、執筆のトレーニングがてら、こうして日記を書いている。ともあれ、だらけきった習慣は手軽なことから始めて、上手くチューニングしていくしかない。論文を読むのが苦なら、まずは講談社ブルーバックスくらいの文章を読めばいい。論文執筆が進まないなら、生まれるものが拙文でもいいから手を動かせばいい。私はいつもそうしてきた。今回もそうするつもりだ。小難しいことを為すには、簡単なところから梯子を架けていくことが大切だから。


 リフレッシュがてら、高校生の頃の日記を読んだ。まあ、当時の生活の酷さがうかがえる内容だった。「稲荷神社に参拝して狐耳の幼女を見つけたい」など、今と遜色ないような内容のものも多かった。「私はちゃんと成長できているだろうか」と不安になってくる。
 過去の日記というのは、その時のリアルタイムな感情がダイレクトに書かれていて、なかなか凄まじいものがある。負の感情も正の感情も、豪速球で心中に飛び込んでくる。
 「理不尽な目にあって涙が出た」とか、そういう記述もあったから驚いた。なぜ私が泣いたのか、思い出せない。思い出そうとすると胸がざわついて頭が痛むし、感動によるものではないのは確かだ。
 そのうち、自分のこれまでの人生を振り返った自伝を若いうちに一度書いてみたいのだが、それを公開することによって周囲の目線が変わってしまうことに怯えている。あまり良い過去でもないのだが、今のうちに何処かに書いておかないと記憶はみるみるうちに色褪せて、まったく別のものになってしまうだろう。それはそれで勿体ない気がする。
 こういうことをグルグル考えることは、自身が有限で、弱い存在だということを直視するのと同等なので、精神的にキツい。もしかしたら、私は自分の弱さがあまり許せない人間なのかもしれない。それもまた、一つの弱さなのだろう。


 醜さを愛せ。『リーガル・ハイ』というドラマの2期終盤の台詞だ。この台詞が最近は頭から離れてくれない。
 きっと、それはTwitterで惨い光景を眺めすぎたせいでもある。千里眼を持ちあわせているキャラクターが大抵捻くれ者であるのが何故なのか、少し理解できる。なにせ、TLという比較的狭い世界の出来事の潮流にさえ、私たちの感情は押し流されてしまうから。相当捻くれてないと、TLはとても直視できない。
 他人の激情や過激な言動をいちいち真正面から受け止めていると、こちら側はそのうち耐えられなくなる。鉄球を投げつけられるブロック塀のようなものだ。特に正直な人ほど、SNSの環境や新型コロナが跋扈している現状は辛いものがあるだろう。
 そんなときだからこそ、「醜さを愛せ」という台詞が光る。人間は弱いし愚かだし、醜い。しかし、「それでもいいじゃないか」と、人間のダメなところを認めて、受け入れる寛容性が必要なのだろう。

 それに、そうじゃないと面白くない。全員が強くて聡くて清らかな世界など、勘弁してほしい。漫画版ナウシカの最後も、確かそんな展開だった。


 いろいろと大変な今だからこそ、寛容であることの大切さを認識していきたい。カウンセラーでなくても、自分や他者に無条件の肯定を示すことはできる。弱さも醜さもイヤなものだが、それらの存在を否定するのではなく、無条件に受け入れることができれば、ずっと生きやすくなるだろう。

 イヤなものでも存在していていいのだと、そういう姿勢でコロナ後になっても日々を過ごしていきたい。

 でも、適度に進捗は生まないと。テヘッ。
 
 

脳裏上のベテルギウス

4/11 曇り
 大学院生活が始まったが、新型コロナによってバリバリと動くことが難しい状況が続いている。物理的にも、心理的にも。

 近頃は無理やり学校に行こうとして、親と喧嘩することが増えた。「進捗を生み出さねば」という焦りのままに研究室に向かえば、その1日は生産的に過ごすことができるのだが、自宅にいると己の怠惰によって人生を進めることが出来ない。不甲斐なさを感じるが、そちらにフォーカスを当ててしまうと精神的に良くないので、意識的にそういった内なる側面から目を逸らすようにしている。

 という訳で、メンタルヘルスはある程度健全に保たれたまま、世界的なカオスの下にあっても、落ち着いてほうじ茶を飲みながらこうして日記を書くことができている。どういう状況であれ、上手くやっていくしかない。


 「最後の人類になれるなら、それほど喜ばしいことはないけどな」。このような一文を中学生の頃に見かけたことがある。

 「ベテルギウスが爆発することによって、γ線バーストで人類が滅ぶかもしれない」という内容のスレッドがまとめられた記事を読んでいた時のことだった。そういった類の与太話がたくさん記事になっていたサイトだったが、過去の自分にとって、この文章だけがやけにキラキラ光って見えた。それは、自分自身が永い歴史の先端に坐している者であるという気づきを与えてくれたからだろう。永劫の歴史の終わりを目撃するということは価値のあることなんだと、この文に諭されたようだった。

 今思えば如何にも終末論的で、まあ当時の私はそうとう騙されやすい人間だったんだろうな、と思う。なにせ、マヤの2012年人類滅亡説を信じて、その当日には怯えきってずっとコタツにくるまっていたくらいだから。


 歴史は永いが、人の一生も相当に長い。それを新型コロナによって一変した日常の景色を眺めながら、しみじみと感じている。

 ペスト、天然痘、スペインかぜなど、これらの致命的な感染症に準ずるものが近年にも興っていたことを知ったのは、ここ最近のことだった。代表的なものは、香港風邪だ。これによって1968から翌年にかけて、およそ50万人が亡くなったと推計されている。“たった”50年前に、このような感染症が存在していたとは知らなかった。その他もろもろの疫病の存在を考えると、健康に過ごせば、私たちはほぼ確実に未知の伝染病とブチ当たることになる。ビル・ゲイツ「私たちが最も恐れるべきは伝染病だ」と語ったという話も、なんだか示唆的である。


 歴史は節目を刻みながらどこまでも続いていく。その様は春の日差しを感じ取った竹が伸びていく様を思い出させる。

 人文学界隈では東日本大震災を一つの歴史の節目と捉える動きがあったが、“次の節目”までは、どうやら案外短かったようだ。“その前の節目”は、オウム真理教阪神淡路大震災だった。約10年刻みであることを考えると、歴史は結構コロコロ流れが変わるらしい。

 現代は「変化の激しい時代」だとはよく言うが、まさかどこまでもラフティングのように激しいままだとは思わなかった。結局、時代の流れは(人間にとって)いつでも激しいものなのだ。


 新型コロナや地震に絶たれることなく、歴史は続く。職がなかろうが研究が捗らなかろうが、生活も続いていく。それはきっと、超新星爆発によってベテルギウスに世界が照らされることになっても変わらないのだろう。
 コロナとは、本来は「王冠」と言う意味を持つ語である。そして、ヘブライ語で「王冠」は「KETER」である。全くの偶然だが、人類の脅威にうってつけの名前だと思う。

 また、太陽の最も外側にあるガスの層もコロナと呼ぶ。

 640光年先のベテルギウスに、コロナはまだあるだろうか。遠い星のことを考えながら、今日は眠りにつくことにする。