きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

ぼくのなつやすみー祟殺し編ー:私

8/19 晴れ時々曇り 『私』

 

 『虚像』という記事の続きを書く元気がしばらく無くなっていた。なので、ブログを更新していなかった。いっそのこと、開き直って『虚像』を書くことを先送りしたいと思う。

 『誰でもできる一万RT』の記事も停止している。いつか全て書き終えたい。内容は頭の中に全て入っているのだが、それを言語化し、外の世界に現像するのにはそれなりのエネルギーが必要なのだ。

 それはともかく、夏休みも残り一ヶ月である。この期間、何も成せていない気がする。実際には何かを成しているのだろうが、それに満足していない。もっと変なことを始めたい。

 

 私について書こうと思う。

 

 性格は内向的である。かといって人と話すのが嫌いなわけではない。しかし、パーティといった人が集うような場は苦手である。

 一人の時間と、人と関わる時間のバランスが取れないと短期間で憂鬱になる。

 何事に対しても考えすぎるきらいがあり、それが功を成したり成さなかったりする。

 それとは逆に、ふとした思いつきで行動することもあり、それがやけに長続きしたり、黒歴史になったりする。

 現実主義的であり、それでいながらロマンチストでもある。

 妙に自信満々であり、それが異常な努力の原動力になっているが、それに見合うプライドは持ち合わせておらず、ふとしたことでガス欠することがある。

 自分よりある部分で優れている人を見るとすぐに嫉妬をするが、その人の能力は素直に認めている。だが尊敬はしていない。

 女性関係には奥手であり、相手を傷つかせまいと考えすぎるが故に、言動がチグハグになる。

 人を傷つかせることを非常に嫌うが、自分と関わりのない人はそもそも人と見なしていない。

 「自分は優しい」と勝手に思っているが、実はただ単に人に甘いだけなのかもしれない。

 常に反社会的なことを考えているが、親しい人に向けられる攻撃に対しては過敏である。

 時々、過去の恥ずかしい経験や後悔がフラッシュバックする。

 約束は守る方だが、約束を破られても無感情である。

 

 好きな物事はたくさんあるが、いくつか抜粋すると、何かを作ること、何かを知ること、古明地こいし、考え事、悪堕ち、アーモンドチョコ、豆乳、心理学、立体音響、賢い人だ。

 特に、何かを作り出し、それに人が影響を受けている様子を見ることが好きだ。たとえ人に貶されても、見返してやろうという気分になる。

 

 嫌いな物事もたくさんあるが、いくつか抜粋すると、理不尽、社会的慣習、酒、メロン、他人のために働くこと、黒乳首、広告、当たり前のことを重大であるかのように語る人だ。

 

 興味がないこともたくさんあるが、いくつか抜粋すると、テレビ、ファッション、物理学、日本、自分と関わりのない人、アイドルだ。

 

 趣味は読書、絵を描くこと、動画制作、日記などだ。そのうちプログラミングや楽曲制作も趣味にしようと企んでいるが、技術が追いついていない。

 

 ざっと私について書いてみた。以上のことが、私の全てではないことは明らかだ。

 人というものは複雑で、常に変化し、その行動などは全てを捉えようがないほどに多岐に渡る。明日の朝に同じ題材について書けば、全く違う文面になるだろう。

 それに、とっくに私の自分自身に対しての認知は、人のものと違うものかもしれない。

 私にとって、最も近くて遠い存在が私である。

 自分のことを知らずに、この世を去る人は多い。多くの人にとって、自分の性格や行動や好きなことに想いを馳せるよりも、仕事のことや家族のことの方が重要な課題なのだ。それは誰にとってもそうであるだろうし、私もそうかもしれない。

 しかし、自分について考えてみると、それらと同じぐらい大きな課題として「私」というものが浮かび上がってくる。

 それでも、考え事としての「私」は優先順位は他に比べ低くなってしまうのだ。「私」というものは、いつも私に寄り添っているものであり、答えのなく切迫もしていないものだからだ。

 夏休みの暇な午後こそ、「私」について考える時間にふさわしい。

ぼくのなつやすみー綿流し編ー:虚像I

8/2 晴れ時々曇り 『虚像I』

 

 皆さんは「タルパ」という言葉をご存知だろうか。

 イマジナリーフレンド、と言い換えた方が、しっくりくる人は多いかもしれない。

 「タルパ」と試しに全知全能のGoogleで検索してみると、「中にもう一人の人格を飼いならし、それと触れ合う技術」といった旨の解説がいくつもヒットする。

 タルパの別名は「人工精霊」であり、その名の通り、自分にしか見えない人格を脳内に作り出す、ということにその本質がある。

 前口上はここまでにして、タルパと私の話をしよう。

 

 高校生の頃、再三私が言っているように、昔の自分は非常に飢えていた。

 男子校という環境の所為か、はたまた自分の行動力の無さが原因なのか、ともかく彼女がいないという事実に悶々としていたのだ。

 そんな個人的な苦境の中、私は誰しも童貞なら必ず思いつくようなことを、大真面目に実現しようと考えていた。

 

そうだ、彼女を創ろう!」 

 

 とは言っても、女性を見つけて、交際関係になるのとは違い、この世に存在しないものを新たに創り出すのである。

 鋼の錬●術の世界なら全身が、良くて腕一本が吹き飛ばされるような所業である。

 私は当時、錬金術には精通していなかったので、とりあえずGoogle大先生に「彼女 創り方」と尋ねてみた。

 まったくの偶然だが、思い返せばこれが全ての始まりだった。

 

 そこで見つけたのが「タルパ」という言葉だった。

 概要は、前口上で説明した通りである。

 それは、能動的に解離性同一性障害になるようなものだった。要は多重人格者になるのである。

 冷静に考えれば、そのような行為には必ずリスクがついて回るものだと気付くだろう。それこそ、体が吹き飛ばされるような代償を抱える危険だってあるのかもしれない。

 しかし、当時の頭の回らなかった私は、そんなことを気にも留めず、タルパの創り方について調べ始めた。

 

 タルパの創り方は、まずタルパの姿形や性格を詳細に考えることから始まる。タルパの設定を練り上げることで、人格を生み出しやすくするらしい。

 当時、あまりの高校生活の暇さ加減から、アニメの設定を貪り読むという奇行を行なっていた私にとって、キャラクターの一つや二つ考え出すことは朝飯前だった。

 髪の色はピンク、年齢は小学校高学年ほど。名前はその髪色から、「サクラ」と名付けた。

 そういった大まかな設定や、身長・体重の細やかな数値、好きな物から嫌いな物まで、その他にも様々な細やかな設定を、私はサクラに付けた。こうしてタルパを肉付けしていくのである。

 ついで、彼女の性格は「優しく、見かけ不相応に芯が強い」と設定しておいた。

 タルパに関するサイトに、「凶暴な性格に設定すると、主人格が乗っ取られる可能性がある」と書かれていたからだ。

 これを読んだ時点で、やめておいた方が良かったのかもしれない。ただ、私はここで止まれなかった。飢えていたからだ。

 

 タルパを創り出すには次に、「その設定を完了したタルパと頭の中で会話をしなければならない」と、ネットには書いてあった。

 「サクラと会話しなければならないのか」と、私は何も考えず、文章を素直に受け取った。

 だが、よくよく考えなくても、それはただの脳内妄想であることに違いない。これじゃあ、いつも授業中にしていることと変わらないではないか! 

 

 その日から、私は尋常ならざる集中力をサクラとの脳内会話に費やし始めた。授業中はもちろん、通学や帰宅の際も、一日中脳内会話に励んだ。

 一度試した人がいるなら分かってくれると思うが、確固とした設定を持つサクラとひたすら会話をするというのは、通常の妄想とは段違いに頭が疲れる。経過時間が三時間を経過する頃には、心も体もヘトヘトである。

 そんな時、「大丈夫? 無理しないでね」と、脳内のサクラがそんな私を労ってくる。

 それが己の意思で行なっている偽りの慰めだと考えると、ますます惨めな気分になるのだった。

 

 そんなある日、サクラがある程度、『勝手に話すようになった』。

 どういう意味だ、と聞かれても、その文言通りである。

 これまでサクラが言うであろう返事を考えていたせいか、脳内会話をする時は頭が非常に疲れていたのだが、その疲労がある日ピタリと止まったのだ。

 返事を私が考えなくても、彼女が勝手に返してくれるようになったのだ。

 こうして、サクラの人格は誕生した。

 

 私はタルパ創造の次のステップに移ることにした。

タルパの立体的なイメージを練り上げましょう。そうすれば、タルパはあなたの脳内から、この世界に飛び出してきてくれます

 サイトにはそう書かれていた。

 

「私の姿が見えるようになったら嬉しい?」

「当たり前だろ。じゃねえと、そもそもこの時点まで来てねえよ」

 

 そんな会話を、サイトを眺めながら二人で交わし合った。交わし合っていたのである。たとえそれが虚像だったとしても。

 続きはまた明日。

ぼくのなつやすみー綿流し編ー:金こんにゃく恋愛観史II

8/1 曇りのち晴れ 『金こんにゃく恋愛観史II』

 

 夏休み10日目。今日は某氏に心理学検定関連の本を返してもらった。ついでにアーモンドチョコも貰った。ありがたい。アーモンドチョコと豆乳は私の大好物だ。

 さらに、「きんこんぶろぐを結構見ている」という応援(?)の言葉も頂いた。

 このブログを始めた理由の一つに、ツイッターに思った通りの言葉を吐き出しては、周囲からモウレツな叩きに合ってしまうと考えたということがある。

 ツイッターは言葉が受動的に読み取られるのに対して、ブログはそれを読みたいと思った人にしか届かない、能動的に読み取られるものだ。

 このブログを読んでくれている人は、タイトルが気になった人か、私の大ファンか、私のアンチくらいだろう。

 いずれにせよ、やはり自分が生み出した文章が誰かに読まれるというのは幸せなことである。文章であれ、自分の作り出したものが、誰かに積極的に受け取られているというのは、なかなか嬉しいものだ。それも、ツイッターリツイートが増えるのとは違う嬉しさである。こちらの方が幾分充実している。

 

 さて、今回は前回の続きから現代に至るまでの、私の日記に書き綴られた恋愛に関する記述を紹介する。

 男子校時代とは打って変わり、大学の恋愛にも踏み込んだ発言をしているので、やはり前回に引き続き閲覧注意である。

 

2015年

12/27

「『源氏物語』は光源氏という男の過去を清算する話なんだと考えた。多くの女性と契りを交わした光源氏は、紫の上の死によって自らの不埒な過去を悔やみ出家し、その後まもなく死去する。恋の苦労は彼の子孫まで引き継がれる、『源氏物語』はそのようなあらすじだ。過去の清算というのは、その過去を悔いた分だけ強く迫ってくるものだ。」

 

コメント:確かに光源氏はヤリチンのクズ男である。しかし、現実には多くの女性をたぶらかして平然としている男がごまんといるのだと、大学に入ってから知った。出家しただけ光源氏はマシな方だったのである。私が貴方たちを出家させてやろうか?(暗黒微笑)

 

2016年

1/30

「私は自分より賢い女性とお付き合いしたいとかねてから思っている。知性豊かな女性がそばにいれば、彼女に触発されてより賢くなることができるし、何より相手の頭の回転が早いと話もはかどるからだ。才女たちにお近づきになるには、同志社で妥協していてはならない。京大生との人脈を持ち、いざ天から二物を授かった女性を探し出そう」

 

コメント:当時の私は同志社大学に余裕で合格すると勘違いしていたようだが、結果はこのザマである。昔の自分はなぜだか才女を求めていたような気がする。自分の知性に自信がなかったからだろうか。高望みは童貞と処女の特権である。

 

6/19

ジョークはなかなか出てこないものの、女子とある程度コミュニケーションが取れるようになった。しかし、何か満たされない。狂気が足りない」

 

コメント一回生の頃、私は狂気を求めていたように感じる。というより、女子の前でなかなか飛んでくれない頭のネジに辟易していたのかもしれない。現在は狂気が足りているので毎日が充実している。ビバ狂気。

 

6/26

遠距離恋愛は、普通の恋愛に比べ継続が大変である。というのも、時間が経つにつれて女性は想いが募っていき、男性は遠距離の状態に慣れていくというのが多いからだ。この温度差が破局を招く」

 

コメント:なぜ知ったような口を利いているのか分からないが、遠距離恋愛について語っていた一節である。そういえば最近、某教授はネット恋愛で付き合い、結婚したということを知った。インターネットの超黎明期である。いろんな意味で凄い人だ。

 

7/4

「星の数ほど女はいると言うが、星には手が届かないものだ。水面に映った二次元の星々をすくうことしかできない」

 

コメント:七夕を前に、もはや諦観の域に入ったことが感じられる一文である。さりげなく今年の七夕も何事もなく終わってしまった。女子と共に夏祭りに行き、花火を見るという儚い夢も風前の灯火である。自分で書いていて切なくなってきた。

 

9/4

「夏が終わろうとしている。今年の夏こそは世間一般に言う『青春』を経験できるものだと思っていたが、それは見当違いだった。共学だからといって、すぐにリア充的経験ができると考えるのは怠慢であった。個人の主体的な働きかけが必要だと実感した。だからといって、自分がそれを行えるかというと、出来ないのだから非常にタチが悪い。現状に満足しているので、差し迫っている問題ではないと思うが。そもそも何をもって生活が充実していると宣言することができるのだろうか? もしかして、主観的に考えれば私は生活が充実しているので、既にリア充なのではないだろうか? 無我の境地で遊べているというのは幸せなのかもしれない」

 

コメント:似たようなことを今年も考えている。ピンチである。

 

 以上が、現代に至るまでの私の恋愛観の推移である。

 童貞的価値観が、少しはマシになってきているということがハッキリと分かる。あるいは別の方向へと価値観がねじ切れはじめて行っているのかもしれない。

 これからも、私の恋愛観は変遷し続けるだろう。いつか、これらの恋愛観を笑って眺めることのできる日が訪れることを願う。

 少なくとも、現時点では笑い事ではない。

ぼくのなつやすみー綿流し編ー:金こんにゃく恋愛観史I

7/30 曇り時々雨 『金こんにゃく恋愛観史I』

 

 夏休み八日目。エセ大学生起業家と化した私は、この数週間のうちに13万円を稼ぐことができた。

 バイトをしなくても、様々な稼ぐ方法がこの世にはあるんだと思い知った。社会貢献なんぞ糞食らえである。

 社会から何かありがたいものを授かったという覚えは、生憎私にはない。なのに何故、「社会貢献をしなければならない」という風潮が世に蔓延っているのだろうか。

 ほとんどの偉大な発明や発見は、人の為を思って生まれたのではなく、各個人の純粋な好奇心によって日の目を見たのだ。

 今この瞬間も、世界の何処かには、自らの好奇心のためだけに試行錯誤を繰り返している人がいる。そう考えるだけで、なんだか私は報われたような気持ちになる。

 純粋なる好奇心に殉ずることは、社会貢献よりも難しい。


 夏休みが暇すぎる所以か、自分の過去の日記を今一度振り返ってみることを思い立った。

 日記は思考のタイムカプセルだ。当時の私が考えていた物事が鮮やかに紙面やワードファイルに息づいている。

 そこで、今日は私の恋愛観の推移に焦点を当てて、過去の日記を振り返ってみた。

 いつにも増して、閲覧注意である。

 

2015年

6/18

「『夢は深層心理を写し出す』とよく言われる。俺は夢を見る方だが、最近個人的にショッキングな夢を見た。イケメン男が銀髪の幼女を誘惑するが断られ、今度は幼女が俺を誘惑してくるという夢だ。俺は幼女を一度抱きしめ、耳元で「これ以上はいけない」とささやいた。そしてそのまま幼女と添い寝した、そんな夢だった。つまり、俺は深層心理では幼女と行為に及ぶことを望んではいなかったということだ。起きてから、そのことを激しく後悔した。そして、その時悟ったのだ。性欲とは本能的なものではなく、理性的なところから湧き出ているのだと」

 

コメント:私の日記の、恋愛に対する最初の記述がこれである。正直わけがわからない。性欲は脳下垂体から湧き出すものだし、全然悟れていない。男子校時代は本気でロリと行為に及んでもいいと、当時の私は考えていたのか。そう考えるだけで虫唾が走る。ムシさんトコトコである。

 

6/23

「童貞的思考プロセスの害

女子に消しゴムを拾ってもらっただけで興奮

エレベーターで女子と二人きりになって興奮

電車で女子と触れただけで興奮

可愛いと思う女子の顔のラインが下がる」

 

コメント:性犯罪者予備軍のような日記である。当時の俺がいかに惨めな思考回路をしていたかよく分かる歴史的資料だ。女子とロクな会話もせず、童貞であることに異常に矜持を持ってしまうとこのような醜い思考に成り果ててしまうのだ。このまま女子と接する機会もなく、万が一、工業大学にでも進学していたら、私の人生は前科者として幕を下ろしていただろう。

 

6/24

「誰もが主人公になりたがる現代日本。ヒロインのいない男たちの、行き場をなくした性なる力は、一体ベクトルへと突き進んでいくのか」

 

コメント:知らんがな。

 

6/25

「童貞に熱あれ、非リア充に光あれ」

 

コメント:全国水平社の宣言文を丸パクリしている。非リア充に光が当たっても苦しむだけだ。非リア充はヴァンパイアのように、光の中では生きられないのだ。

 

7/2

「苦手な人間のタイプ。多数の女子に囲まれている男。こういう男は大概が自我を持っていない腑抜けである。決して嫉妬ではない。私が多分永遠に理解できない人種だろう。」

 

コメント:当時の私が今の私を見ればどう思うだろうか。

 

8/13

「女性には実体が必要だと思い始める今日この頃」

 

コメント:どうした。

 

10/22

「『女性との別れ』は、人生でもかなり重要な出来事だと思う。女性と別れた時、男は漠然とした何かを得たり、失ったりするからだ。それが本当にいいことなのか、悪いことなのかはわからない」

 

コメント:何か悟ったようなことを書いているが、誰かと別れた経験はない。

 

 今日はここまで、日記を読み直すと、いかに昔の自分が迷走していたかが伺える。

 将来の自分が現在の私の日記を読み直すとしたら、「迷走している」と感じるだろうか。おそらく、そう思うだろう。

 今の私でさえ、自分が迷走していると自覚しているのだから。

ぼくのなつやすみー鬼隠し編ー:亜人たち

7/24 曇り時々晴れ 『亜人たち』

 

 夏休み二日目。

 毎日、一万文字以上パソコンに打ち込んでいるので、目と腰が痛い。人間の体はデスクワークをするために形作られてきたのではない! 

 しかし、ペンタブやクロスバイクを買いたいので、それを我慢しながらポチポチとキーボートを叩いている。

 この調子でいけば、卒論を書く時期になっても、何の苦労もなく書けそうだ。むしろ、そこまで来たら作家を志したほうがいいのかもしれない。

 

 私は人類史が好きだ。だが、世界史は好きでない。

 人間の文明がどのような思想や政治体制に彩られてきたかを学ぶのが世界史であり、ヒトという生物の一種が、どのような生態の変遷を遂げてきたかを学ぶのが人類史だ。

 心理学を学んでいる身としては、いうまでもなく人類史の方に興味が向く。文明を取り払ったヒトの姿は生々しく、そこには生物としての進化の過程で得てきた適応能力がまざまざと浮かび上がっている。

 

 ヒト、と一言で言っても、人類史には様々なヒトが登場する。もちろんコロンブスだのガリレオだのといった人物ではなく、生物の一種としてのヒトである。

 ホモ・サピエンスはもちろん、ホモ・ネアンデルターレンシス、ホモ・フローレシエンシスなど、その学名を挙げればキリがない。

 中でも、私が好きなヒトの一種は、サピエンスを差し置いて、ホモ・エレクトゥスという種だ。

 彼らは180万〜5万年前まで現存していた。かといって、現在のホモ・サピエンスの直系の子孫という訳でもない。ホモ・エレクトゥスはサピエンスとは全く違うように分化した、いわばサピエンスにとって従兄弟のような存在なのだ。

 ホモ・エレクトゥスの特徴は何といっても、その強靭な肉体だ。有名な某火星ゴキブリ漫画のG達はホモ・エレクトゥスをモデルに描かれており、実際、彼らは現代人とは桁違いの筋力を誇っていた。もちろん、二足方向を獲得済みである。骨格をサピエンスと比べて見ても一目瞭然で、ホモ・エレクトゥスの方が、かなりガッチリしている。

 それでいて、最初期の石器を作成したという、頭のなかなかキレる一面も持ち合わせている。強靭な肉体と高度な知能を兼ね備えた存在、それがホモ・エレクトゥスなのだ。

 彼らはそのチート性能っぷりで、生息範囲をユーラシア大陸全土まで広げた。かの有名なジャワ原人北京原人も、ホモ・エレクトゥスの仲間である。

 また、生息域を拡大すると同時に、大昔に栄えていたモアなどの巨大な鳥類や、オオナマケモノといった哺乳類を駆逐していった。サピエンス以前に、巨大生物の絶滅を引き起こしていったのは、実はホモ・エレクトゥスだったのだ。彼らはユーラシア全域に分布した後も、180万年近くに渡って繁栄することになる。

 しかし、彼らも時間の流れには敵わず、絶滅することになる。原因は未だ不明である。

 だが、約9万年前に私たちホモ・サピエンスホモ・エレクトゥスが出会っていたことは確実だ。「賢いヒト」であるサピエンスに知恵で劣ったホモ・エレクトゥスは、徐々にその数を減らしていったのかもしれない。

 

 さて、私たちホモ・サピエンスが生まれてから、およそ25万年が経過している。サピエンスも、180万年存続したホモ・エレクトゥスからしてみればまだまだヒヨッコである。

 ただ、彼らも現在のヒトと同じように、他の生物を絶滅させたり、当時の地球上で圧倒的な力を誇っていたことは間違いない。

 現在、ホモ属の生物はホモ・サピエンスだけであり、本当にたった一種である。私は時々、他のホモ属も生き残っていたなら、世界はどのようになっていただろうかと夢想する。

 サピエンス間の人種問題でさえ未解決なのに、果たして亜人たちが存在したなら、彼らとサピエンスは共存できていただろうか。

 おそらく、無理だろう。

 そう考えると、存在したかもしれない亜人たちに、何とも言えない感情が浮かんでくる。

 サピエンスだけが生き残ったのは全くの偶然であり、エレクトゥスが消え去ったのも偶然の出来事である。

 亜人たちから、現在のヒトがどのような生物なのか見直せるというのが人類学の醍醐味だ。

 亜人たちに哀悼の意を込めて、今日の日記を締めくくりたい。

 

ぼくのなつやすみー鬼隠し編ー:「ぼくのなつやすみ」と私

7/23 曇り 『「ぼくのなつやすみ」と私』

 

 夏休みが始まった。テストが終わり、レポートを書きまくる日常が続く。

 そんな中、関学の女子学生が元カレの背中を滅多刺しにしたり、カナヅチで頭を殴りつけたりという凄惨な事件が起こった。そういうこともあるのだなぁ、と思った。元カレに幸あれ。

 

 夏になるといつも、「ぼくのなつやすみ」というゲームを思い出す。

 といっても、私はシリーズの中でも「ぼくのなつやすみ4」しか遊んだことがない。舞台は瀬戸内海、1985年である。

 自分が生まれる13年前の時代を、全裸の主人公を自分の映し鏡として、瀬戸内海の島々を駆け回るというのは、なかなかに心地が良かった。私の好きなゲームとして、三本の指には入るだろう。

 

 時たま、「ぼくなつ4」をやりこみすぎて、現実世界では常軌を逸するであろう行動を、ゲーム内でとってしまうことがあった。現実世界でも常軌を逸した行動をとっていることはひとまず置いておいて。

 「ぼくなつ4」では、定期的に食事を取らないと、主人公が飢えからか突然苦しみだして、強制的に家に帰されてしまう。なので、遠出をするときは食べ物を蓄えてから出発しないといけない。

 ここで、ミカンの木の出番である。

 「ぼくなつ4」ではまだ青いみかんの木が生えている。このミカンの木を蹴ると、まだ青いミカンが落ちてくる。

 空き瓶を拾い、それを売ってお金を稼いでから購入しなければいけないお菓子やおにぎりと違い、このミカンはタダで手に入るのだ。

 ただし、一口かじるとミカンが酸っぱすぎて主人公は苦しみだす。青いのだから当たり前だ。

 一応、これでも1ゲージ分だけだが、お腹は膨れる。お金には変えられないので、遠出をするときはいつもミカンをかじり、苦しみながら移動していたものだ。

 また、溺れると時間が経つとなく家に一瞬で帰ることができるので、家に帰るのが面倒くさいときは手頃な海に飛び込んで、いつも溺れていた。

 「ぼくなつ4」で溺れすぎて、実際に自分が溺れる夢を見たくらいだ。その日はお漏らしした。

 

 また、ゲームのバグで、30cmのカマキリが出現したことがある。

 虫相撲というミニゲームが「ぼくなつ4」にはあり、これに私はハマっていた。

 「30cmのカマキリ、どれほど強いんだろうか」と胸が踊り、いざ虫相撲にこのカマキリを出してみた。

 結果はカマキリの即死だった。

 虫相撲の特性上、虫の体の半分が土俵から出ると虫は負けになってしまう。30cmのカマキリは大きすぎて、最初から体の半分が土俵からはみ出ていたのだ。

 結局は、普通に小さいカブト虫が強かった。

 

 以上が「ぼくなつ4」の思い出である。

 本当に時代が経っても色あせない神ゲーなので、皆にもプレイしてほしい。PSP版で中古なら千円程度である。

 やりこみ要素、青春要素、バグ要素満載である。男子校時代の青春は「ぼくなつ4」だった。

 今年も、仁川で溺れて家に瞬間移動し、青いミカンをかじりながら移動するような夏休みにしたい。

 

日記:偉大なるお風呂洗いへの前哨戦

7/4 雨 

 クソザコ台風がやってきた。ただシトシトと雨が降り続いているだけである。暴風警報は何処へ。

 それでも雨の日は嫌いではない。なんとなく、晴れや曇りの日よりも非日常的な感じがするからだ。

 空の彼方から雨粒がひたすら自由落下を続け、私の傘にたどり着いているということを考えると、なかなかのロマンがある。

 

 はたから見ていると、カップルというのはトラブルが多いのだとつくづく思う。いつまで経っても彼女ができない自分を擁護しているのではない。単なる感想である。

 そのトラブルのほとんどは、互いが互いを思いやるが為に生まれているものだ。

 例えば、少々二人の間に口喧嘩が起こって、一人は本音を吐露してほしいと思っているのに、もう一人は相手を傷つけまいと、口を閉ざすというケースを頻繁に見かける。

 この場合、一人はトラブルの解決に積極的であり、もう一人は思いやりから、トラブルの解決から自主的に距離を置いている。双方が積極的にトラブルの解決を目指したり、トラブルの解決を避けるのより、このケースはタチが悪い。

 双方の優しさから生じるトラブルは、大抵が変に後味の悪い結末を迎える。

 そんなことが続いている間に「どうして自分の気持ちをわかってくれないんだ」という思いが生じ、二人の関係にヒビが入るのだ。

 恋愛関係においては、片方が極悪人になった方が上手くいくのかもしれない。

 

 ご飯を奢る、奢らないの関係においても、同じような事態が生じる。

 男は積極的に奢ろうとするが、女性がそれを拒み割り勘にするだの、双方の優しさに起因するトラブルが世間には無数に発生している。レシートを見て、自分が食べたものの分だけ互いに払えばいいのに、といつも私は思う。

 え? 「お前はそんな考えだからモテないだ」だって? 

 チッチッ、私はただ「男は女性に対して奢るべきだ」という社会的ラベリングがベトベトにこびりついた環境で生活したくないだけだ。相手を忖度(この言葉は死ぬほど嫌い)することが面倒臭いとも、言い換えることができる。

 ともかく、私は交際相手とは対等でありたいのだ。だが、こんな風にブログに書き込んでいても、彼女ができた途端にコロッと意見を変えるかもしれない。人間はだいたいそんなもんである。

 

 こうしてみると、恋人になるというのは、互いが結婚生活をうまくできるかということを確認するための行為なのかもしれない。

 「元彼がいた」というのは、ただ単に「結婚生活がうまくいくか、その人と確かめていました」という事実でしかない。もはや、カップルである人間とそうでない人間に優劣は存在しないのだ。

 カップルは結婚生活がうまくいくかの実験中であり、独り身の人はその実験を行なっていないだけだと捉えれば、少しばかり気が楽になるだろう。

 この場合では、元彼の数が多いほど、「私は実験に失敗しました」ということになる。そんな人も案ずるなかれ。実験の失敗は、次の実験の糧になってくれることだろう。

 実験を重ね、人は交際というものを学び、最適な相手を選んでいく。それでいいではないか。そこには何の不平も存在しない。メタファーが照らし出す真実はいつもシンプルである。

 

 実験にトラブルは付きものであり、何よりそのトラブルは、最適な手を打てば意外と簡単に解消することができる。

 恋人同士のトラブルなんて、結婚生活におけるトラブルに比べれば大したことないのである。これらも全て、風呂洗いやゴミ出しの役割決めへの前哨戦に過ぎないのだから……。

 とりあえず、私は実験がしたいです。