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きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:プロ童貞

4/29 晴れ時々雷雨 

 大量の課題を尻目に、ナゲットの抽選に応募しまくった一日だった。お陰様で三年分のナゲット無料券を手に入れることができそうだ。このナゲットを利用して偉大になりたい。どうやって?

カメラを持って外出したり、スタバの新作を飲みに行ったりと、以前より生活にリア充感が増している。全て一人行動だが。藍色の日々。

 

 最近、童貞を極めている。ノリで復活させた童貞サークルが予想を超える好評っぷり(?)であり、童貞ネタにここまでの潜在的需要があったのかと驚いている。

普段は脳神経の悲鳴を聞きながら阿呆になって、童貞ネタを呟いているが、そもそも童貞がどういうものなのか私はよく知らない。

単に「性交渉を行ったことのない男」と定義づければそこまでだが、童貞という概念が一定のコンテンツになるということは、なかなか単純でない事情が隠されていそうだ。

それには童貞を知る童貞、プロ童貞になる必要がある。初心に戻って、童貞とは何なのか一度考え直してみたい。いや、初心に戻るも何も、最初から童貞なのだが。

 

 「童貞」という和語が誕生したのは19世紀のことであり、本来はカトリックの修道女を指す言葉だったらしい。さらに、聖母マリアの「処女懐胎」のことを「童貞女受胎」と読んでいたと聞く。童貞はどうやら、最初は聖なる雰囲気を醸し出す言葉であったらしい。まさにポジティヴイメージの塊である。

また、1925年出版の広辞林によると、童貞の意味は「婦人又は男子が幼児の純潔を保持し、未だ異性と交遊せざること」となっている。この頃までも、童貞は男女の区別が存在しない、どちらにも使用される言葉だったのである。処女 is 童貞(至言)

逆に時間を遡れば、かのユリウス・カエサルが記した「ガリア戦記」には、童貞を守ることは美徳であり、20歳までにそれを失うことは恥である、という記述がある。童貞は現代とは異なり、誇るべきステータスだったのだ。

だが、カエサル自身は非童貞である。ついでに、ブルータスも非童貞である。ブルータス、お前もか。

 

 しかし、事態は一変する。戦後に『何か』がきっかけで、童貞を恥ずべきものとして見なす風潮が急激に強まっていったのだ。童貞の地位が凋落した原因は未だ不明である。忌々しき非童貞の策略だろうか。これは陰謀だ! 

かくして、長き童貞の栄光の歴史は終わりを告げた。

これまで見てきた通り、童貞という概念が誕生して以来、これは十分に使えるステータスであり、己の切り札にもなりうる存在だった。

ところが現在はどうだろう。高学歴・高身長・高給・高級車持ちというバケモノスペックの持ち主がいたとしても、これに童貞という要素がラベルとして付着した途端、この人物はショボくなる。これは童貞への「二十歳超えても童貞は、何かその人に問題があるんじゃないの?」という偏見の表れでもある。

ここに断言しよう。

童貞だからといって、その人が訳アリである可能性は、非童貞がそうである確率と同程度である。

悲しいことに童貞にもヤベエ奴はいるが、同じく非童貞にもヤベエ奴は存在するのだ。

 

 4日ほど前、我が関西学院大学にどのくらいの割合で童貞・処女がいるのかアンケートで調査したことがあった。

所詮Twitterなのであまり当てにならないが、アンケート結果は、驚くべきものであった。リア充が多いと思われがちな上ヶ原でも、童貞・処女が約6割を占めていたのだ。

これが事実だとすると、これまで我々は自分のことを棚に上げて「童貞はクソ」ラベルを互いにベタベタと貼り付けあっていたということになる。同胞同士で互いを下げ合っていたのだ。これほど悲しいことはない。

我ら哀れなサイレントマジョリティーに救いの手は差し伸べられるのだろうか。童貞女受胎をした聖母マリアも、この現状を天で嘆き悲しんでいることだろう。

 

 おまけ、三田は童貞・処女率とそうでない率がほぼ半々だった。おそらく僻地に閉じ込められた彼らは気が触れて、互いのケツの処女を奪い合っているので、このような割合になったのだろう。

街灯もない暗闇の中で、彼らはどのような禁忌的な営みを繰り広げているのだろうか。

三田の闇は深い。比喩的にも、物理的にも。

 

日記:断捨離だったりラジバンダリ

4/22 晴れ 

 日記を書くのをしばらくサボっていたが、その間に大学生活を変えうるであろう出来事が数多く起こった。放送部に勧誘されたり、中国語同好会にいつの間にか入っていたり、交友関係が一気に広がったり。

変化は少しずつ日常を蝕んでいくものであり、気が付かぬうちにかつての日常に成り代わっているものである。なんとなく、『スワンプマン』という思考実験を思い出した。気になる方は各自検索していただきたい。その先には眠れぬ夜が待っていることだろう。

 

 いらぬものばかりで、身の回りが埋まってきた感じがする。

いらぬものばかりに囲まれている状態が続くと、非常に息苦しくなってくる。うまく言葉に言い表せないが、これは『自分』の領域が侵食されていくような感覚に近い。普段の生活の中で、いらぬものまで気に掛けなくてはならなくなるので、だんだん何かをするのが煩雑になってくるし、それに、とても疲れやすくなる。

この現況を打開するにはアレしかない。断捨離である。

 

 まずは趣味である。

数ある私の趣味の中でも、一番無駄だと思われる音ゲーから切り捨てよう。音ゲーをするのは新曲が配信された時だけにしよう。

次に動画制作。月に二回程度の投稿にする。これで、汚い映像に触れなければならない時間はグッと減ったはずである。

読書は一日に十冊程度を維持しよう。読みすぎは体に悪い。それはこの一年が証明している。

これらとは逆に、親に借金をしてまで購入したカメラに関わる時間を増量するつもりである。撮影がうまくなると、ツイッターのネタをいちいち考えなくて済むようになるので、経済的である。

 

 次に生活全般の物事を断捨離する。

まずは……と考えたものの、何を改善すべきか思い付かなかった。正しい生活習慣を送ってきた証である。自分で自分を褒めてやる。よお~~~~~~~~しよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしとってもとってもとってもとってもとってもとってもきゃわィィイイねェェェェェェェェェ、ピーちゃん! よく出来たッ!

よく私が人様に指摘されがちな服装も、このままでいいだろう。服装など、一つの季節に三から四パターンあれば充分なのであって、それ以上は自己満足の領域である。

冬はコートを羽織っていたのでほぼワンパターンの服装だったが、何も悪いことは起きなかった。良いことも起きなかった。さらに、他人はそれほど自分の服装に注目していないし、私もそれほど人の服装に注目していない。したとしても、チェックシャツかどうかという点くらいである。チェックシャツは童貞。

こんなことを言っては様々な人にボコボコにされそうだが、「髪色で大学生活が変わる」というのは、全くの幻想だと思う。

髪色を茶色に変えて、自らの印象を明るくするというのはわからんでもない。しかし、金髪などの蛍光色に変えるのは完全な悪手である。

京都工芸繊維大学とリース大学の共同研究がこれを示している。

ci.nii.ac.jp

論文によると、黒髪が一番日本人にとって好感度の持てる髪色であり、次に茶髪、栗色が続いている。私も黒髪が好きだ。

一方、最も印象が悪いのは金髪であり、次に赤、緑、青という結果となっている。

私はモテたいので、黒髪であり続ける。いや、髪色以前に、このような日記を書いている時点で好感度はだだ下がりかもしれない。

 

 最後に、人間関係の断捨離を考えた。

交友関係が(私視点で)広がりすぎて、一人の時間と他者と関わっている時間のバランスが崩れている気がする。また、各人に注げる時間的リソースも明らかに減少している。各人と関わる時間が減少するというのはなんだか相手に対して不誠実な感じがする。

そもそもの話、友人の名前の記憶すら最近危うい。対人認知の限界を迎えている。これ以上交友関係を増やすのは少々マズイかもしれない。

だからと言って、今ある関係を削るのはさらにマズイので、現状維持。より各人との関係の良好化に努めたい。それが一番無理なく、他者に対して誠実であり続けうことができる方法だと悟った。人間関係のリセット癖が自分には無くて良かったとつくづく思う。

 

 ここまで、いろいろなものを断捨離してきた。

今日立てた目標が達成されるのなら困ることもないのだが、大抵は失敗するのがいつもの私だ。私にとって、目標は破棄されるためにある。

志は大きく、器量は小さく。最低である。

 

日記:Juggernaut

4/3  晴れ 

 入学式ラッシュの最終日。熱烈なサークル勧誘に迎えられる新入生たち。春の風物詩である。

今年はまだ桜があまり咲いていない。関学周辺は謎の力が働いて、電柱が地下に埋められているので、桜を綺麗に観ることができる。一眼レフカメラを持った大学生が集まること間違いなしである。

最近、私もカメラがなんだか欲しくなってきた。しかし、カメラが欲しい⇄お金がないの無限ループにハマって、大学生活を進めることのできない深刻なバグが発生しているのが現状である。修正パッチを待つしかない。

 

 山中伸弥羽生善治など、世界の第一線で知的な闘いを続けている人たちの対談集を読んだ。「僕たちがまだ何者でもなかった頃の話をしよう」という題名だったような気がする。

一見、怪物的な知性を備えている彼らも失敗・挫折を重ねて、これほどにまで成長したのだということがよくわかる一冊だった。いつの時代の人でも、何かに全身全霊を捧げている人は格好いい。

 

 そういえば、私はまだ「こいつには勝てない!」という同級生に会ったことがない。「すごいな」と思うことはあっても、その才能に嫉妬するという経験は一度もない。

単に自分の努力不足で、その人のスゴさ加減がわかっていないだけかもしれない。それでも、自分の必死になっている物事ではあまり敗北感を味わったことがなかった。それはまだ負けていないからだろうか? 

「上には上がいる」ことを知って、人は大人になっていくのだと思うのだが、それを知らずにでも大人にはなれるのだろうか? そのうち、「自分より上の才能を持つ人を直視しようともしない、この怠慢なソフィストめ」と誰かに思われてしまうかもしれない。

 

 単に人間より上位の存在・概念なら、この世にいくらでも転がっている。宇宙、生死、国家などなど。

だが、概念と張り合っていても意味がないので、とりあえずは人と自分を比較することとしよう。うむ、すでに各界で活躍できている同学年がいるのに、努力の方向音痴のせいで未だ日の目を見ていない自分に腹が立ってきた。

しかし、今はじっとと力を蓄える時期である。いつか開花することを信じて、コツコツ努力を続けていこう。

 

 とりあえずの楽しみは、どのような後輩と出会えるかということだ。怪物的な能力を備えた後輩の登場を心待ちにしている。

サルでもわかる!履修登録講座

・はじめに

 新入生の方は初めまして。その他の方はこんにちは。金こんにゃくです。

今回の記事では、「大学でどんな授業を取ればいいか全く分からぬ……」という去年の私のような人達のために、履修についてざっくりと説明します。

私がピカピカの大学一年生の頃、シラバス? レポート? は?」といった感じで、履修というものの正体がまったく掴めていませんでした。

なので、そこらへんの用語の説明等も踏まえ、大学で充実した勉強も、単位を楽に取ることもできる履修の組み方をお伝えしようと思います。

 

・基本用語解説

 ここでは、大学の履修登録に頻出する用語を噛み砕いて説明します。なんとなくでも理解している人は飛ばしても構いません。

 

シラバス…講義を担当する先生が書いた授業の計画書です。ググると出てきます。毎回の授業の概要、必要な教科書、成績評価の内約など、講義についての内容が詳しく書かれています。その授業がどのようなものなのかを判断する一番の基準になります。

 

レポート…大学では、先生から「〇〇について論ぜよ」や、「〇〇について調べよ」のような課題が出され、それが成績評価の基準になることがあります。この課題がレポートです。レポートを日本語に直訳すると「報告書」です。この名の通り、感想文のように書くのではなく、しっかりとした根拠に基づいて意見を述べなければなりません。

レポートは学期末だけでなく、授業期間の最中にも、しかも場合によっては数回提出が求められることもあるので、そこは要注意です。

文字数としては、1600~2000文字程度の課題がほとんどです。

 

テスト…基本的に、大学のテストも高校のテストと同じような感じです。テストの内容は、自分の意見を書かされる論述式のテストが多いように個人的には感じます。

テストには大きく分けて「授業内テスト」と「定期テスト」の二種類があります。授業内テストは講義の最終回で行われるものです。定期テストは「試験期間」と呼ばれる、講義が行われず、試験のみが行われる期間中に受けなければならないテストのことを指します。

先生によってテストの難しさはまちまちです。口コミを参考にしましょう。

 

申し込み科目…全ての学部が履修することのできる「全学科目」や特定の科目では、少人数で講義が行われるため、通常の履修期間よりも早めに抽選申し込みが始まります。これらを申し込み科目と言います。だいたい楽単です。

 

・履修の決め方

  1. まずは必修科目を確認しよう!

 必修科目とは、読んで字のごとく、必ず履修しなければならない科目のことです。英語や第二言語といった言語科目などがこれにあたります。

これらの科目を落としてしまうと、次の学期や学年でも、同じ科目を履修しなければならない羽目になります。この必修を落とし続けると、自由に授業を決められる余裕がどんどん無くなります。さらに、必修を落とし続けるとゼミには入れない、もっとひどい場合は留年しなければなりません。

必修科目は死ぬ気で単位を獲得(100点満点中60点以上を取る)しましょう。

 

  1. 専門科目を履修しよう!

 専門科目とは、学部や学科ごとの専門的な知識を学ぶ授業のことです。

専門科目はたいていの場合、四年間で履修しなければならない単位数が決まっています。これが足らないと、留年しなければなりません。ですので、必修科目の次に優先的に履修するようにしましょう。

何らかの不条理的なパワーが働いて、自分の望む学部・学科に行けなかった人以外は、自分の専攻している学問にある程度の興味を持っているはずなので、専門科目の勉強は楽しめるでしょう。

 

  1. 教養科目を履修しよう!

 一年のうちはまだ履修できる専門科目の数が少ないので、代わりに自分の見識を広める教養科目を取ることになります。教養科目はだいたい「経済学」だの「心理学」だの、学問の大雑把な名前が教科名になっています。

教養科目は自分の専門と畑違いの学問の概要をわかりやすく知ることのできる珍しい機会です。少しでも興味が向いたらじゃんじゃん履修していきましょう。

教養科目は楽単の場合が多いので、自分の苦手な科目に敢えて挑戦してみてもいいかもしれません。

 

・履修が決まったら 〜その他のアドバイス集〜

 ここまでお疲れ様でした。無事に時間割を決めることができたら、あとは大学の授業が始まるのを待つのみです。

SNSで同じ専攻の人とコンタクトを取るなり、新歓に参加するなり、本を読むなり好きに一週間程度を過ごしましょう。

新学期の最初一週間のスケジュールくらいは確認しておいた方が無難かもしれません。

 

・ある教科が楽単かどうか判断する最高の基準は「成績における出席点の割合」です。

大学では出席が成績に加点される科目が多いです。出席点が50%以上だと、ほぼ100%楽単です。出席点の割合が小さくなるほど単位取得が難しくなる傾向にあります。出席50%レポート50%の科目などは間違いなく楽単です。

逆に、テスト100%の教科はなかなか手応えのある科目が多いでしょう。その代わり、難しい科目ほど授業が充実しているようには思います。

 

・もし、履修した教科が「自分に合わないな」と感じたら、履修変更の時期に科目を変更しましょう。早めに変更しておいた方が後々苦しまずに済みます。

 

一人で授業を受けるのが心細いなら、SNSや新入生オリエンテーション、新歓の時に一緒に受ける人を募っておきましょう。友達と協力することで、レポート課題が楽になるなど、数多くの利益を享受することができます。

しかし、一緒に授業を受けようと募ったその人と馬が合わなかった場合、地獄が生まれるのでその覚悟はしておきましょう。人によっては、最初は一人で授業を受けておいた方が色々捗るかもしれません。

 

・「楽天みんなのキャンパス」というサイトでは、様々な大学の講義の充実度・楽単度が掲載されています。私はこれをめちゃくちゃ参考にしています。もし気になる教科があったら、検索してみてもいいかもしれません。

リンクはこちら→ https://campus.nikki.ne.jp

 

・朝に弱い人は一限に授業を入れるのはやめましょう。もしくは、早起きを習慣にしましょう。大学生活は自由ですが、その分堕ちる人はどこまでも堕ちていきます。社会人になって苦労しないように早起きには慣れておいた方がいいかもしれません。

必修科目が一限に入っていることも結構多いです。そこは踏ん張りましょう。

 

 ・終わりに

 以上で履修登録講座を終わりとさせていただきます。本当にざっくり説明してきたので、至らぬ点も多いとかと思われます。ですので、履修に関する質問をツイッターの方で受け付けようと思います。

金こんにゃく(@_ _O72)のアカウントの方にリプライを飛ばしていただけると、できるだけ早急に質問に答えます。

この履修講座が、あなたの新生活の助けに少しでもなっていただければ幸いです。それでは、ご閲覧ありがとうございました。

 

日記:目指せボカロP

4/2 曇り時々晴れ 

 何事もない素晴らしい日曜日。するべきことは多いのだが、あまりにもそれが積み重なりすぎて、まるでやる気が湧かない。

さらに、西洋人のおっさんに射殺される夢も見たのでテンションも急降下中である。せめておっさんが美少女だったら救いはまだあったのに・・・。

 

 音ゲーをしていると、プレイしたい曲の少なさにイライラしてくる。もっとボカロ楽曲を追加してくれ! と思うのだが、無理なものは無理だ。セガ社員も頑張っている。

だから、最近私は無性にボカロ楽曲を作りたい気分になっている。自分で言うのも変だが、論理が飛躍しすぎな気もする。

大抵、私が趣味を始めるきっかけは不純なものだ。富や名声を求め様々なことに手を出すも、自分の品位を下げる方向へ向かってしまう。そもそも動画作りだって、最初は健全な音MADを作るつもりだったのだ。どうしてこうなった? 

 

 ボカロPになるには、音楽理論の勉強、ソフトの購入、作詞などなど、様々な下準備が必要だ。PVを製作するにあたっては、イラストや曲を売り込む歌い手も必要となってくる。今のボカロの現状じゃ、ある程度有名な歌い手が楽曲を歌ってくれないと、ロクに再生数も伸びないだろう。

作詞はまだしも、作曲となると急にハードルが上がる。音楽分野に全く精通していない私では厳しい世界だ。精進あるのみ。

 

 小難しい単語と、やたら長い英語を組み合わせると、ボカロの楽曲っぽいものが出来上がるということに気がついた。試しに即興で作ってみる。

「水溶性アーキテクト」、「尿路結石ウンウンヘクチウム」、「豊胸発情コンプレックス」。

最後のは同人誌っぽくなってしまった。もし実在したら間違いなく読む。これもしかしたらまともな曲名さえつけらないんじゃないか?

さようならボランティア

4/1 曇り 

 新年度の始まり。関学では理工学部などの入学式があったらしい。

ふと、去年の自分を思い出した。当時、入学式当日に焼肉やボーリングに行っている同級生をツイッターで発見して、非常に焦った記憶がある。しかし、今は普通に大学生活を送れている。入学式からスタートダッシュを決めなくても結局は何とかなるのだ。

新入生にアドバイスを一つするなら、「焦るな」というところだろうか。リア充は焦らなくてもそのうち友達ができるし、コミュ障は焦ってもボロが出るだけだ。流れに身を任せ大学生活を始めよう。きっとなんとかなる。多分。

 

 最近、意識高い系大学生のブログを読むのがマイブームになっている。いかにも「リアルを満喫しています!」といった記事ばかりで、読んでいるとだんだん腹が立ってくるのだが、その感覚がクセになる。

彼らのブログは、日頃私が考えている下劣な物事をドロドロと排泄しているこのブログ、もとい日記とは大違いである。見事に綺麗事ばかりが書き綴られている。「自分に与えられた時間は決まっている」という文面を見た時には思わず吐き気を催した。全く自分とは逆の意見だったからだ。

私は、これから毎日ランニングをしたりして健康に気をつければ、70年後の自分の遺骨を受肉させることができると考えている。要は、自分の行動次第でいくらでも未来は変わると考えている。私たちに時間を与えてくれているという『何か』を信じるくらいなら、私は人間の力を信じる

説明し難い不条理に、いつも人は理由を求めがちである。まあ、いくら頑張っても個人ではどうにもならないこともある。他人の行動なんかはその代表例だ。

やたらと、海外ボランティアに行きたがる大学生もいる。何が彼らを海外に向かわせるのかは分からない。きっとこの類の人たちには、特別な経験を大切にしていたり、人の痛みを自分の事のように感じてしまうような人が多いのだろう。私も緊急時には彼らを頼ることにしよう。

 

 もう一つ、ボランティアについて考えたことがある。

最近、心臓病になった幼児を助けるのに三億円が必要だ、とかいう募金活動が駅でよく行われている。風の噂によれば、幼児の容態が急変したのに、まだ三千万円しか集まっていないらしい。悲しいことだが、間に合わないだろう。

この件を通して私が考えるのは、日本人を助けるコストは高すぎるということである。三億円あればアフリカ人を何千人助けることができるのだろうか。三億円もあれば、飢餓や下痢、マラリアの苦しみから何千人も救うことができるのだ。日本人の赤子一人を助けるコストで、アフリカ人をその何千倍助けることができると考えると、なかなか複雑な心境になる。

これを踏まえると、大学生ボランティアがラオスカンボジアに行きたがるのも分からなくもない。東南アジアの人々はアフリカの人と同じぐらい低コストに救うことができる。より安く、やりがいを感じられるのだ。

 

 私は先月まで、不登校支援のボランティアをしていた。不登校支援は大阪府NPOが主体で行われていた。彼らの努力もあって、私がボランティアとして参加していた施設に通っていた子供達は皆、高校の進学先が決定した。

だが、これから先は分からない。不登校児が引きこもりになってしまう割合は高い。あとは、彼らの生き抜く力を信じるのみである。

少し前、施設の職員から「最悪、子供が生きてさえいればいいと考えている職員もいる」という話を聞いた。バイト風情が語るのもおこがましいが、それほどまでに不登校支援の現状は苛烈であるらしい。この時ほど、人を助ける大変さが伝わってきた瞬間はない。しかしながら、彼らに共感はしなかった。幸か不幸か、人の痛みをダイレクトに感じる能力を私は持ち合わせていなかった。私は臨床心理学の道に進むことを断念した。

 

 現在、難病の幼児はもちろん、不登校児一人助けるのにも多くのコストがかかっている。なぜそのような状況なのかというと、逆説的だが、ひとえに日本が経済的に豊かな国だからである。

この国では致命的な飢えに苦しんでいる人は滅多にいない。なので、飢えた人に国家が支援することはなくなる。その結果、お金ではどうにもならない問題(不登校認知症など)や国家が手を伸ばせない問題(個人の飢え・難病など)が目立つようになる。そこに民間の支援が集中するようになる。しかし、一丁前の国家でさえどうにもならない問題なので、民間にはかなり荷が重い。民間は未だこれらの難問を解決できずにいる。

このような状況に置かれた時、まだインフラさえ整っていない国家特有の『手軽な』問題に目をつける人が出てくる。『手軽な』問題は不登校の問題に比べれば非常にコストパフォーマンスが良い。人手とお金さえあればいくらでも解決できるのだから。結果、『手軽な』他国の問題にパワーが集中する。

決して海外ボランティアに行くことの善悪を論じているのではない。だが、少し、少しだけでも、意識が高い人たちには、この国が抱えるこれらの難問に目を向けて、できれば手助けをしてほしい。

カンボジアに学校を作るうちに、この国では施設不足で不登校支援もろくに行えない現実があることを、介護の現場がこれからさらに、これから深刻になっていくことを知ってほしい。

これらの難問を解くことができるのは経験だけではなく知識も必要となる。先進国で生まれ、一般的には賢い大学に通っている私たちだからこそ、能力を発揮できる領域があるのではないか。人助けの世界から去った私は、意識高い系の大学生にそう問いかけたい。

 

 「君にはもっと経験が必要だ」不登校支援最後の日に、職員から私に投げかけられた言葉だ。

一体何の経験なのかは分からなかった。もしかしたら子供ともっと自然に話すような経験かもしれないし、アフリカにボランティアに行く経験かもしれない。

でも、一番足りない経験は既に分かっている。恋愛経験だ。

日記:世界に架けよう性癖の虹

3/31 曇りのち雨 

 明日から新年度が始まる。この大学一回生で、自分が成し遂げられたことを考えてみた。

体調が悪くなるほどの量の読書を一年間継続できた。動画が作れるようになった。ある程度は女子と話せるようになった。不登校支援をした。何一つ碌なことができていない。読書は私の精神を苛み、そのほかの物事は自身の品位を下げるような結果となってしまった。

来年度はこれらの反省を生かすことができるだろうか? 金こんにゃく先生の来年度にご期待ください!

 

 LGBTPZNという言葉をご存知だろうか? 

LGBTは聞いたことのある人が多いだろう。レズ、ゲイ、バイ、トランスジェンダー(精神と身体の性が異なる人)の頭文字をとって、LGBTである。

では、PZNはどうだろうか。Pはペドフィリア、いわゆるロリコンのことである。Zはズーフィリア、動物性愛者のことであり、つまりはケモナーだ。Nはネクロフィリア、死体を愛する人たちのことである。ペドフィリア、ズーフィリア、ネクロフィリアも紛うことなき性的マイノリティーの人々であり、ヨーロッパなどでは彼らの権利についての活動も始まっている。LGBTの社会的地位さえ守られていない日本では、まだまだこのPZNは異常者として見なされていくことだろう。

非常に悲しいことだが、日本国民の性意識は後進国並みである。だからと言って一気にLGBTPZNを認めましょう! と言うわけにはいかない。少しずつ彼らの足場を踏み固めていくことが大切である。

 

 LGBTPZNという言葉には、この7つの性的嗜好だけではなく、様々な性的嗜好を認めようという願いが込められている。試しにググってみると、凄まじい量の性的嗜好のリストが出てきた。

アルトカルシフィリア(ハイヒールなどの靴で踏まれることに性的興奮を感じる性的嗜好)や、ウロフィリア(尿に性的興奮を感じる性的嗜好)など、変態的ながらもまだ理解できるものもあれば、なレートフィリア(ナレーターに性的興奮を感じる性的嗜好)や、デンドロフィリア(樹木に対して性的興奮を感じる性的嗜好)といった、ちょっとよくわからないものもある。エキシビジョニズム(露出狂)や、バイストフィリア(強姦に性的興奮を感じる)までになると、完全に犯罪である。

さて、性的マイノリティーはどこまで認められるのだろうか。

 

 ここからは完全に個人的な意見だが、性的嗜好も持っているだけで誰も傷つけないのなら、どんな性的嗜好を持ってもいいと私は思う。同性愛者が全員性欲を抑えきれない訳ではないし、異性愛者が全員健全な訳でもないからだ。

たとえ性犯罪が起こったとしても、その原因を真っ先に性的嗜好に求めるのではなく、その犯罪を起こした個人に求めるべきだ。ただし、強姦に性的興奮を感じ、そのことが原因で犯罪を起こしたと認められたのなら、個別の治療は必要となるだろう。

バイストフィリアの人たちがレイプモノのAVを見て、それだけで収まっているなら彼らを罵る資格は私たちには無いはずである。誰かがナレーターの声を聞いて興奮してようが、樹液で興奮していようが、それを止める必要はない。多様な性癖がなじられることのない日本に、世界に一歩一歩進んでほしいものである。イラストで興奮するという、次元を超えたエロを生み出した私たちならできるはずだ。

 

 LGBTPZNは7つのアルファベットでできている。これは多様な性のあり方を象徴する虹に由来している。

虹は傍目に見れば七色だが、実際はスペクトラム状になっており、無限の色で出来ている。これは性癖も同じだろう。

無限の性癖で美しい虹を世界に架けようではないか。