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きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:二十歳の自分への手紙

日記

3/11 曇り 

 東日本大震災から6年。私が13歳になってからも6年。6年という期間で世間の全てが変わってしまった。原発は止まったし、SNSがより普及したし、私の身長も30cm近く伸びた。明日にでも寄付にしよう。

 

 19歳になった。思い返せば、18歳は本当に濃い一年だった。18歳最初の頃の私は自分がこの一年で3000冊以上本を乱読するとは思っていなかっただろうし、動画投稿を始めるとも考えていなかったし、女子とある程度はまともに話せるようになるとは想像できなかった。一年で人は自分の予想以上に変わる。プラスしかりマイナスしかり。

 

 子供の頃に「二十歳の自分への手紙」というものを書いた人はおそらく多いだろう。たいていの人は、卒業アルバムの後半に載っていたりするのかもしれない。

あいにく、私の小中学校にそのような風習はなかったので、私は未来の自分に一回も手紙を書いたことがない。

なので、今書こうと思う。二十歳になって読み直しても一年前の日記なんて覚えていないだろう。

 

 拝啓、二十歳の私。元気にしてますか? 19歳の私はたまに落ち込むこともあるけど基本的には元気です。最近は、心理学関連の本を読み直したり、青春小説を読んだり、汚い動画を作ったりしています。二十歳の私は何をしているでしょうか? 今私がやっていることは継続できていますか? それとも何か新しいことを始めていますか? ご飯はちゃんと食べてますか? 彼女はできてますか? 単位は十分にとれてますか? 友人は増えていますか? フォロワーは増えていますか? 賢くなっていますか? 健康に日々を過ごしていますか? というか生きていますか? 

 

 メンヘラ彼女みたいになってしまった。全く未来は見えない。不安ばかりである。だから面白い。はいはい意識高い高い。

 

 18歳と二十歳に比べると19歳はあまり年齢に価値がない。だからこそ、自分の行いで価値のある一年にしたいものだ。ラストティーン楽しんで♡♡

 

日記:春の生存報告

3/1 曇りのち雨 

 三月が始まった。まだ春休みが半分しか経っていないことに気がついて、思わず発狂しかけた。無間地獄に閉じ込められたような気分だ。大学生の春休みは長すぎる。

日記は日常で何かが起こらなければ書けない。最近、日記をあまり更新しなかった。つまりはそういうことである

 

 春というのは私にとって復活の季節だ。

冬の間は本当に元気が出ない。常に気分は憂鬱であり、マイナス思考が続く。誰かと会えば気分は改善されるのだが、大学生というのは本当に予定を入れなければ誰とも会えないので、抑うつ気分をこれまで以上に悪化させてしまった。ストレスのあまり生産的なことをする気分にも、自慰をする気分にもなれなかった。本当に半うつ病である。しばらくはサンシャイン池崎でしか笑えなかったほどである。 

 

 気温が上がるにつれ、テンションも上がってくるというものである。地球に帰還し、ようやく降り立った宇宙飛行士の気分だ。

でも、日記を万全に書くほどの元気はまだないので、ここで終わりとする。残り懲役一ヶ月をいかに有益に過ごすか考えることで暇を潰そう。

日記:批評家の銅像は建たない

日記 考え事

2/17 雨 

 久しぶりの雨である。こういう日は読書をするに限る。

 

 動画を作り、ニコニコ動画に投稿すると、コメントという形で、自分の作品に対するいろいろな批評を見ることができる。

「シンプルだけど面白かった」、「面白かった+114514点」、「草」などのコメントを見かけると、とても嬉しく思う。

しかしながら、逆にこっぴどく酷評されることもある。「つまんね」、「この内容なら3分でまとめろ」、「投稿やめろ」などの言葉が寄せられることもあった。細やかな批判なら素直に反省できる。しかし、こういう類のコメントを見かけたときは、まず全裸になり、両手の親指と人差し指で乳首を限界まで引っ張りながら、舌を天頂に思いっきり突き出し、太ももでキンタマを揉みしだきながら奇声をあげつつ家の中を猛ダッシュするようにしている。

次こそは! という気持ちに切り替えることが何かを作る上では必要だ。そのためには奇行も辞さない。気持ちを切り替える手軽な奇行としては、やたらと長いカタカナ語を連呼するという方法がある。コンスタンティノープル!! コンスタンティノープル!!

 

 奇声をあげながら、批評するということについて考えた。芸人しかり、漫画しかり、何にでも批評家はいるもので、的確な指摘を飛ばしたり飛ばさなかったりしている。

でも、そのような優れた観察眼を持ち合わせている批評家が偉いかと言われると、そうではない。『進撃の巨人』の実写映画の脚本は有名な映画批評家が務めたらしいが、散々この映画は叩かれていた。失敗したのは明らかだろう。いつもは批評している人が、こっぴどく批評される側に回るというのも皮肉な話だ。

さらに、「クリエイターの像は建つが、批評家の像は建たない」という悲しい名言もある。言われてみれば確かにそうだ。銅像が立つほどの批評家というのを私は一人も知らない。

 

 それでも私たちは批評家になってしまう。コンテンツだけならまだしも、悲しいことに他者の人間関係や行動まで批評してしまうことが多々ある。そこからガラガラと日々の平穏が崩れることもあるだろう。

それでも、批評は進歩を生むので、なかなか無視するわけにはいかない。私個人に対する厳しい批評も、渋い顔をして受け入れようと思い始めている。暴言には奇声で対抗だ。

 

 最近まで、批評する側だった私が批評される側に回った結果、おちおち声高々に批評することができなくなった。もうPPAPがつまらないだの、ブリゾンちえみの面白さがわからないなんて言えないよ! こちらとしては「面白くないものをブームにすることができるか」という社会実験に巻き込まれている気分だ。

しかし、製作者ならではの利点もある。何度コメントでボロクソに言われても、私が諦めずに技術の向上に励むことができれば、もしかしたら銅像が建つかもしれない。

時は2100年、某駅の改札前。両手の親指と人差し指で乳首を限界まで引っ張りながら、舌を天頂に思いっきり突き出し、太ももでキンタマを揉みしだきながら奇声をあげつている全裸の男の銅像。彼は今日も、行き交う人々を温かい目で見守っている……。

狂気だ。

日記:バレンタイン前夜祭

日記

2/13 曇り

 バレンタイン前日。バレンタインの由来は、聖ウァレンティヌスが婚姻を禁止されていたローマ帝国の兵士達の結婚式を内緒で執り行ったために処刑されたことらしい。彼の処刑日が現在のバレンタインになっているという。

そんなことはどうでもいい。聖人の血よりも、バレンタインの日に貰えるチョコの方が価値がある。私なんかは人生でチョコを貰ったことがないんだから尚更である。

献血センターで500ml献血すれば可愛い看護婦さんからチョコを貰えるだろうか? せっかく共学の大学に通っているのだから、せめて一回はチョコを貰いたいものだ……。

 

 明日のことを考えると憂鬱になってきたので今日はここで日記を終える。ああ虚無。

日記:ゴキブリジュースのいうとおり

日記 考え事

2/12 今日は語呂合わせで「にいに」の日。全童貞が妹萌えというジャンルに感謝して妹キャラを愛でまくる記念日だ。というのは嘘だ。

リアル妹を持っている私からすればサイバー妹は萌えの対象とならない。おそらく姉の場合も同じことが言えるだろう。二次元は理想を描くからこそ二次元なのだ。二次と三次の境界線上で、このギャップに思い悩む同胞らの幸福を祈る。

 

 目の前に一杯のリンゴジュースがあるとしよう。このジュースに繰り返し紫外線や熱で殺菌処理を施したゴキブリを浸して、その後ジュースをろ過する。カップは再びリンゴジュースで満たされた。さて、あなたはこのリンゴジュースを飲めるだろうか。

物理的な状態で言えば、ゴキブリを入れる前と後では何も変化していない。一度ゴキブリがジュースに浸かったという経歴が付加されただけだ。アメリカで行われた実験では、37%の人がゴキブリジュースを飲めると答えた。逆に言えば、63%の人がゴキブリジュースを飲むことを選択しなかったということになる。

重要なことは、彼らがゴキブリジュースを飲まない理由を具体的に述べることができなかったという点だ。なんだかわからないけど、嫌悪感を抱く。そういった感想がほとんどだった。このように、この世界には何だかわからないが嫌悪感を刺激する物事が数多く存在する。

 

 最近、ツイッターで話題になっていたツイートに、「お茶碗にこびりついたご飯粒をきれいに食べない人とは分かり合えない」という内容のものがあった。日本では仏教起源のもったいない精神が蔓延しているので、共感できた人も多いかもしれない。その証拠に、このツイートは多くのRT数を獲得していた。

しかし、お隣の国である韓国では、お店などでは少し食べ残すことが礼儀とされている。出された料理を全部食べきるのは卑しいという文化があるからだ。こうしてみると、いかに人間の感情は文化に制約されているかがよくわかる。

文化の下で『善』とされる行動には不合理的なものが多々ある。ヒトは経済学の世界で、合理的な行動をとるホモ・エコノミクス(経済人)と形容されてきたが、実際はそうではないということが明らかになっている。

自動車事故で亡くなった飼い犬の肉を食べることは食費を節約するという面で経済的には合理的だが、多数の人はそれを道徳的に悪いことだと判断する。鳥の生肉で自慰を行なった後、それを洗浄してディナーにすることも、不道徳的だと判断されるだろう。シコれて美味しく食べれて、まさに一石二鳥なのに、人はそれを嫌がる。それは文化のルールに反するからだろう。

人間の異常行動を抑制するために、これまでルールは発展してきた。更に言えば、文化・集団を保つためにはルールが不可欠である。集団の安寧を保つという、人間が進化の過程で獲得してきた能力がこれに関わっていると推測できる。結構この能力は厄介者で、集団間の諍いを誘ってしまうものでもある。この能力のせいで右翼と左翼は結束を強めて争いあっているし、幸福の科学創価学会のような新興宗教と日本的宗教観の間には齟齬が生じ続けている。

『なんでも良い』という寛容な考えが不人気なのは、単に人間の本性に合ってないからなのだ。お茶碗にご飯粒が残っていても、食べようが食べまいがどちらでも良い。飼い犬の肉を食べようが食べまいがどちらでも良い。チキンでシコってもシコらなくてもどちらでも良い。そういった寛容性は普及しない。

異文化理解の単位が取れたとしても、異文化への寛容性が獲得できたかと聞かれればそうではないはずだ。女性が排泄の後、服を着替えずに料理することを罪とする文化(インド文化など)と分かり合えるようになるには、想像を絶するような果てしない時間がかかるだろう。

 

 改めて、私ならゴキブリジュースを飲めるかどうか自問自答してみた。多分、飲めるだろうという結論に落ち着いた。

一人で考えているうちはこんな考えをしているのに、周囲にそれを批判されたなら簡単に考えを覆すだろうとも考えた。私が理性を引き締めてブリブリと答えをひねり出したところで、人間の集団にはかなわない。

近頃は、自分が人に対して抱いている感情でさえ集団からの影響を受けているのではないかとも疑うようになった。私たちは本当に自分の心で人を嫌っているのだろうか? 多かれ少なかれ、やはりこれも集団から影響を受けているのでは? 

その答えは、散々被験体にされてきたゴキブリジュースのみぞ知るところである。

日記:私がブログを有料にしない理由

日記 考え事

2/10 自分の製作した動画がyoutubeに無断転載されていた。と言っても、私にコンタクトを取る方法がニコニコからは存在しないので仕方ないのかもしれない。

無断転載が嫌いなわけでも無いので、もししてくれるならどんどん動画を転載してほしい。そうすれば、より汚いインターネットの世界へと変わっていくだろう。それは快感。

 

 ツイッターで、「ブログを配信することをビジネスにしませんか?」という誘いが来た。私自身は全くこのブログがお金に変わるものだとは思っていなかったので、心底意外な誘いだった。私の返答を先に言えば、ブログを使ってお金を稼ぐことは嫌だ

 

 理由その1。このブログを配信してお金を稼ぐような仕組みを作ってしまうと、私の書くことにある程度の責任が発生してしまう。『無責任に振る舞える』という学生特有の権利を失うことは大きなデメリットになる。

それに、これまでのように不定期更新や、煮詰まって途中で執筆を投げ出すということがおちおち出来なくなってしまう。私のような変態クソ自由人にそれは堪えるのだ。

 

 理由その2。私は学生のうちからビジネスを行うことを愚策だと思っている。お金は普通のバイトで十分に稼げるし、わざわざ起業をしなくても経営のノウハウなどはサークルや生協委員会の活動で体感的に学ぶことができるからだ。

マーケティングがしたいのなら、一回自分で再生数を稼ぐことを目的に動画を制作してみるといい。最低限のPCスキル、動画サイトのユーザーが何を必要としているか、サムネイルはどのような画像にするか、動画の作りは人が楽しめるものかなど、マーケティングのエッセンスをこれ以上ないほどに学び、習得することができる。しかも無料で。

よくわからない肩書きだけの講師をセミナーに招くまでもない。私たちにはインターネットも、大学図書館もある。これ以上何を望むというのだろうか? ビジネスを行う人はただ別のベターな方法が見えていないだけだと思う。

 

 理由その3。有料でブログを配信すると、タダで配信している今よりも閲覧が減る。そして、情報というモノにおいて、タダで配信されるより価値の高い状態はない。

テレビ・ラジオ・インターネット、これらは機器さえ揃えば安価に情報を得ることが出来るモノたちだ。情報を得る機会はスマホの普及によって近年ますます増加している。

大正時代、本の価格は今の約8倍だった。現在の価格にして一冊二、三万円である。比較的情報吸収能率の悪い紙媒体でさえ、この有様なのだ。昭和30年のテレビの値段は、サラリーマンの月収が約三万円なのに比べてなんと三十万円。馬鹿高い。情報の価格は昔に比べて下がっていることは明らかだ。

しかし、それとは対照的に価値は上がっている。情報に触れる人の数が増えるたびに、情報の質はより洗練されるからだ。面白いもの・感動するものが多くの人の目に触れることにより厳選されていく。ツイッターでRT数の多いツイートはまあ面白いというのが最たる例だろう。そして、何遍も繰り返すが、この洗練された情報は無料で得ることが出来るのだ。逆に言えば、情報は無料でなければ多くの人の目に触れることが出来ない。大人数の人間なくして情報の価値が向上することはありえないのだ。

個人的な体験を述べれば、無料で情報を得ることができたおかげで、私は動画制作が少しできるようになったし、様々な素晴らしき知識にも出会うことができた。タダは機会を生む。情報を選別できる鑑識眼さえあれば、無料の情報は至上の価値を孕む。

私のこのブログにも同じことが言える。もしかしたらここに書き込んだ私のアイデアが、誰かが転用して世界を変える革新を引き起こすかもしれない。決してありえないことではない。ブログが無料であるからこそ、その可能性が生じる。人に触れることで爆発的な化学反応を起こすという情報特有の性質のおかげで、世界はこれまで進歩して来た。これからもより情報は安くなり、より革新が起こるようになるだろう。情報のおかげで人類は加速する。加速したまま崖に突っ込むかもしれないが。

 

 ここまで、私が日記を無料にしない理由を書いてきた。「ブログを有料化すれば閲覧してくれる人は興味を持って来ているので、そちらの方が効率は良いのではないか?」といった批判が寄せられるかもしれない。そのことに対しては、理由1・2と、「興味を持っていない人に無理やり興味を持たせる楽しさを知りたいから」という個人的な雑い理由で反論できる。

というか、学生のうちからビジネスをしている人は目的と手段が食い違っているように思う。株をやるにしても、学生がやるより人工知能にさせた方がよっぽど稼げる。人間の判断がそこまで合理的でないというのは既に行動経済学がの研究結果が証明している。

意識高い系学生への怨念が吹き出したので今日はこの辺で。

日記:退屈ちゃんといっしょ!

考え事 日記

2/3 曇り 

 節分。

それはともかく、からめるという人気ツイッタラーのネタをパクったら、それなりに再生数が稼げた。オリジナリティが足りない。

ホモビデオ男優ばかり動かせるのには飽きてきたので、機会があればMMDの方に転身したい。そういや、MMDにはR-18な感じのモデルもあるらしい。色々捗りそうだ。アハァッ!

 

 現在のように、趣味にエネルギーの全てを注ぎ込めるというのは実に幸せなことだ。

かの有名な画家シャガール

「自分自身を完全に打ち込ませなければならない。仮に99パーセントしかのめりこめないのであれば、情熱が足りないか、才能が足りないかのいずれかだ

と語っている今のところ情熱は十二分に足りているが、そのうち才能のなさが完全に露見しないか不安である。日々鍛錬あるのみ。

 

 趣味の調子が良いうちは、退屈に襲われなくて済む。しかし、趣味に飽きがきたり、限界が見えてきたりすると、急に退屈に付き纏われるようになる。退屈にストーキングされるのだ。退屈のいる日常はこんな感じだ。

眼が覚める、目を開く、さあ、どうかな、いるかな、いないかな。気配がない。眠っているのかもしれない。今日は私を悩ませないでいてくれるかもしれない。

そっと、そおっと、私はベッドから起きる。静かだ。台所へ行く。朝食を始める。音はしない。テレビ? そう「おはよう日本」。ありきたりの悲劇ばかりが映し出される、私には我慢できない番組だ。食べる、番組のゲストを見る。次第に食物が胃に満ちてくる、力が湧いてくる。さあ、手洗いに急いで直行する。朝の散歩に出る。

ああ、やっぱりいる。我が忠実なる「退屈」よ。

「私抜きで出かけられると思ったの?」

 

 もういっそのこと、退屈を擬人化してしまえば少しは気が楽になるかもしれない。

姿形はどうしようか。男性はあり得ない。男に付き纏われるなんてゲイでもない限り歓迎しないだろう。でも、幼き日の神木隆之介のような美少年なら耐えられるかもしれない。ショタコンではないが、美少年なんて美少女のようなものだ。身体的特徴において、性がまだ完全に分化していないので、もういっそ少女とみなしても良いだろう。美少年は美少女、Q.E.D.

だが、どうせ擬人化するなら美少女がいい。姿形はどうしようか。鬱屈な様子を表現するために、まず髪型は黒髪ロングにしよう。雰囲気は大人びていて、貧乳で、陶磁器のような病的なまでの白い肌をしていて、くっきりした二重の漆黒の瞳を持ち合わせている。そして私にとても強く当たるようなドSな性格だ。ほんの少しデレ要素も加えておこう。これでメイキング終了だ。

気が付けば、理想のロリが誕生していた。退屈は理想的なロリだった……?

 

 概念の擬人化というのは結構な暇潰しになる。何よりその概念による恐怖に襲われた時、一瞬で沈んだ心情を萌えに転ずることができる。

ところが、最近はめっきり概念に襲われることがなくなってしまった。この誰得なスキルもロストテクノロジーと化しつつある。

黒髪ロリは消えたんだ。いくら呼んでも帰っては来ないんだ。もうあの時間は終わって、君も人生と向き合う時なんだ……。そんな天の声が聞こえる気がする。