きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

ブンブンハロー善意

7/16  晴れ

 

 地震、大雨ときて猛暑である。

 地元の枚方市は大阪で一番の暑さを記録した。

 ひたすらに暑い。

 

 かくいう私は、クーラーの効いた部屋で、一昨日家に届いたoculus riftを使ってVR三昧を満喫している。

 バーチャル世界の中で一時間ほど動くと、それだけで酔ってしまうので、少しずつ体を慣れさせている。

 

 名古屋までRの勉強会に赴いたり、これからテスト期間が始まったりと忙しいが、これを乗り越えれば殺人的に暇な夏休みがやってくる。

 

 バーチャル世界で外国人と話をするために、夏休みは英会話にも挑戦してみたい。

 なんやかんやで刺激的な夏休みが過ごせそうだ。

 

 

 大雨の被災地に対する募金で、HIKAKINが100万円を寄付しているのを見て、「偽善者」と言われている、という旨のツイートをよく見かける。

 実際に彼を糾弾している人は見たことがないので、多くはツイート主の妄想か、うわさ話に便乗しているだけなのかもしれない。

 

 それでも、彼が「偽善者」と呼ばれという話に対する人々の反応は凄まじいものがあって、過剰に神経質になっているようにも見える。

 これが正義感という、人間に潜んでいる狂気が為せる業か、と思う。

 

 

 純粋な善意というものが、私は怖い。

 

 これは、私が全く善行を行わない、という意味ではない。

 私は誰かに無償で勉強を教えることもあるし、募金をすることもあるし、落とし物を律義に警察などに届けたりする。

 

 しかし、それにも理由があって、大抵は退屈しのぎだったり、それらの善行を見た人の中で、私の評価が挙がってくれればいい、という暇潰しのおまけ程度の気持ちで、人に何かを施したりする。

 

 「純粋な善意から生じる向社会行動」を善行の定義とするのならば、私のこれらの行動は間違いなく偽善にすぎないだろう。

 

 

 では、HIKAKINの行動はどうだろうか。

 

 おそらく、彼への「偽善者」呼ばわりが本当にあったとするならば、彼の募金活動が売名行為と捉えられたことによるものだろう。

 この時、彼の行動は純粋な善意によるものではなくなり、善行ではなくなる。

 

 しかし、多くの人に、彼の行動は純粋な善行として見なされている。

 この差はいったい何なのだろうか。 

 

 私が思うに、これは個人の心中の、どの程度の行為を善とするかの物差しの違いによるものだろう。

 

 

 まず、間違いなく客観的で絶対的な善というものは存在しない。

 

 安っぽいアニメの敵キャラやらが言う通り、人間は地球にとっては病原菌かもしれないし、さらに言えば、個人の善行など宇宙からしてみれば塵以下でしかない。

 

 客観的で絶対的な善というものは一神教が幅を利かしていた時代ならば、認識上はありえたかもしれないが、それはまやかしであって実際には存在しないものだ。

 

 

 では、人間にとっての客観的な善はあり得るだろうか。

 

 これについては、現在でも多くの議論が存在する。

 有名どころでは、共同体にとって利益をもたらすことが善だとする、マイケル・サンデルらのコミュニタリアニズムといった考え方や、貧困といった苦悶する人々を富める人々が援助することは義務だとするピーター・シンガーらの応用倫理学といった考え方が代表的だろうか。

 

 HIKAKINの考え方はどちらの立場でも善行になる、ということになるだろう。

 

 だが、実際のところ、どこからどこまでを善とするか、といった物差しには個人の間で大きなばらつきがあり、一貫性に欠ける。

 

 HIKAKINが寄付しても何も言わなかった人が、禁断ボーイズだったりヒカルだったりが寄付を行うと目の色を変えて怨嗟の声をネットに響かせるかもしれない。

 もちろん、そこに一貫性はない。

 

 個人の特定の人物への印象によって、善の物差しは伸び縮みする。

 何を善とするのか、ということへの人の認識は、物差しというよりメジャーに例えたほうが適切なのかもしれない。

 

 

 とすると、安定した善は個人個人の認識上の存在でしかない、ということになる。

 

 誰もが好き勝手に何かについて善だ偽善だと評論する時代に突入しているのは確かで、善のカオス状態の中で私たちは生きているのかもしれない。

 

 HIKAKINに限らず、私たち自身の行動もまた、誰かにとっての善・偽善の査定を受けることになる。

 自分の利己性を積極的に主張してしまったので、このブログを書いた時点で、私の行動はすべて偽善になるだろう。

 

 それもまた面白そうだ。

 

 

 ここで、最初の「善意が怖い」という話に戻る。

 

 私が極端な利己主義者なだけかもしれないが、人に純粋な善意で施しをする人の気持ちが分からない。

 

 この恐怖は、単に「理解ができない」ということに起因する恐怖ではない。

 

 

 歴史を振り返れば、善意によって破滅の道を進んだ人間の数は膨大だということが直ぐにわかる。

 

 善意によって政治が行われ、善意によって相互の監視が始まり、善意によって全体主義が生まれ、善意によって多くの人が死んだ。

 

 甲南大学で行われているナチスの再現実験を例に出そう。

 

 この実験では、集団でリア充に対する不満を爆発させることによって、疑似的に全体主義を生み出している。

 学生の授業アンケートを見れば、サクラであるリア充のカップルをベンチから退散させたことについて、「すっきりした」という意見が多く見られたらしい。

 

 さらに、冷やかしに来た人たちへのコメントには「お前らが爆発しろ、と思った」といった意見もあった。

 まさしく、全体を乱すものに対する正義感であり、善意の暴走、といった感じがする。

 

 ドイツ人がそうだったように、日本人も善意という狂気を胸中に飼いならしている。

 これは全世界の人々全てに言えるだろうし、誰にだって言えることだろう。

 私だってそうかもしれない。

 

 しかし、誰もが狂気を持ち合わせている世界のほうが、私は退屈しないと思う。

 皆が打算的な世界など、ひたすらに疲れそうだ。

 

 

 善意という狂気が跋扈するこの世界で私たちができることは、この善意というほとんど自動的な心のメカニズムに、どう向き合うか考えることだろう。

 

 今回の大雨では、芸能人が誤って物資の届け先をTwitterで拡散したことにより、現地では行き場をなくした物資がコンビニの駐車場に積みあがったらしい。

 これも善意の暴走の一例である。

 

 人の善意を暴走させることは、経済を上向かせるよりも、オリンピックを成功させるよりも遥かに簡単である。

 どんな無能な政治家でも、善意の暴走だけはどのような形であれ引き起こすことができたことを忘れてはならない。

 

 そろそろ、善意の恐ろしさと向き合うべき時が来ている気がする。

 

 この記事が、誰かの退屈な夜を埋め合わせてくれることを祈る。

 

なぜ知的障害者は坊主頭なのか

7/10 晴れ

 

 数日続いた雨が止んで、一気に猛暑になった。

 汗を垂らしながら登校する日々が始まる。

 

 特に今日の暑さは、地獄の業火を思い浮かばせるほどのものだった。

 3時間目に地獄を主題とした授業に潜りに行ったので、物々しい表現しか思いつかない。

 

 今年もまた、身体は灼熱の太陽に、精神は迫りくるテストに追いやられる日々が始まる。

 今学期はいくつか難しい教科があるので、いつも通りノー勉で単位ゲット、とはいかなさそうだ。

 

 

 知的障害者はなぜ坊主頭なのか。

 そのようなことをふと考えた。

 

 というのも、電車の中で久々に、知的障害を持つ方を見かけたからだ。

 彼もまた、坊主頭だった。

 

 私の通っていた高校の近くに障害者の支援センターがあったので、昔は多くの障害者の方を見かけたものだ。

 彼らにたびたび絡まれつつも、平静を貫き通して通学していた日々が懐かしい。

 

 彼らに対してどう接すればいいのか分からなかったので、制服のピンを弄られようが、耳元で絶叫されようが、ジッとしているしかなかった。

 

 今でも、彼らに対する接し方はわかっていない。

 目の前の知的障害者に、心の瞳を瞑ってしまう自分がどこかにいる。

 

 

 好奇心もとい開放性のパラメータが私は振り切っているので、知的障害者がなぜ坊主頭なのか、いろいろ調べてみた。

 

 日本語論文が見つからなかったので、英語論文で調べてみた。

 しかし、私の探した限りでは見つからなかった。

 なので、唯一見つかったyahoo知恵袋の文言をここに書き写す。

 

 どうやら、知的障害者が坊主頭である理由には散髪代がかからない、洗髪が楽、髪があると自傷行為の原因になる、といった理由があるらしい。

 その他にも、本人が嫌がらないから一番管理の簡単な坊主頭にしている、という意見もあった。

 

 知的障害、と一言で表しても、実際はダウン症や、かつては「カナー型自閉症」と呼ばれていた領域に位置している自閉症スペクトラムの方など、様態は多種多様である。

 知的障害かどうかというのは、病態にかかわらずIQによって決められる。

 

 彼ら全員が坊主頭ではないのは確かだが、男性によく坊主頭がみられるのは、そもそも知的障害を持つ人が男性に多いのと、自傷行為の影響が男性のほうが大きいからだろう。

 ジェンダー的な要因も絡んでいるのかもしれない。

 

 

 知的障害について語るときに一番困るのは、私たちが知的障害について見て見ぬふりをしているという事実と嫌が応でも直面しなければならないということだ。

 

 本当は、侮蔑や憐れみ無しに知的障害者について語ってもいいはずなのだ。

 彼らについて感情の揺れもなく語ることは、彼らが他者に承認されている、社会に居場所があるということと同義になるはずだ。

 

 しかし、それでも私たちは知的障害者について語ることを無意識的に拒みがちだ。

 電車内で日常的に接するはずの彼らに、出来るだけ触れないようにしている。そんな私たちがいる。

 

 知的障害者に坊主頭が多い、ということを考えた人は、少なくないはずだ。

 それでも、検索しても全くその情報が出てこないのは、知的障害者にまつわる事実を私たちが避けているからだろう。

 

 発達障害や、知的障害を持つ方への散髪サービスの充実は、かなり前から必要だと感じ取っている。

 全国的に見ても、類似のサービスは少なかった。

 

 

 そして、知的障害者について語る際に難しいことがもう一つある。

 それは、自分の書いた文章を読んだ人の視点を、いちいち気にしなければならない、ということだ。

 

 言うまでもなく、私は知的障害者に対する差別意識など考えることなく、この文章を書いている。

 

 だが、このようなことをいちいち注意書きしておかないといけない。

 そんな一種の強迫観念が、私にこびりついている。

 

 「お前は差別意識を自認していないだけだ」という非難を避けるためか。

 「そのようなことに興味を持つのが、差別をしている証拠だ」という誰かの感想に、先手を打っておきたいからか。

 それらが理由なのかもしれない。

 

 しかし、実際に知的障害者が坊主頭である理由を調べてみたら、至って合理的な意味がそこにはあった。

 この「合理的」の意味ですら、知的障害者視点なのか、彼らの庇護者視点なのか、明記しておかないといけない。

 そんな焦燥感がまとわりつく。

 

 しかし、彼らについての語りをやめることは、社会的な彼らを無視しようとする風潮に、自分も加担していることになるのではないか。

 そういったことも考えてしまう。

 

 私は未熟なので、知的障害者についていかに語るべきか、知らないし、分からない。

 これからも、分からないのだろう。

 いつでも語ることは難しい。

 

 といいつつも、もう2000文字程度も書いてしまっている。

 自己矛盾である。

 

 

 今日は知的障害者について書き綴った。

 

 ここに述べたことは、人種の問題やジェンダー、その他の社会のデリケートな部分を語るときに、それを語る人が毎回ぶち当たる問題なのかもしれない。

 

 これらのトピックには、学術的に語る以外に、ニュートラルに語る方法があるはずだ。

 「かわいそうだ」という憐憫でもなく、真に中立的に語る方法が。

 

 今回の文章で、誰かの心中に何かぞわぞわしたものを感じさせたなら、それは私の文章表現力の不足が原因である。

 

 せめて、このような話題について、何かを考える機会にこの記事がなったのなら、それだけでも幸いである。

イルカの夢でこんにちは

7/5 大雨

 

 あいにくの大雨である。

 

 片道二時間の長時間通学が災害にめっぽう弱いことは先日の地震で学んだので、今日は学校を自主的に休んだ。

 学校自体も、一時間目は教師が来ず、二時間目以降は休校になってしまったので、結果オーライである。

 

 今日は家でゆっくりレポートを書くなどした。

 家にいると、実際はレポートにまみれて忙しいはずなのに、何だか退屈である。

 

 こういう時は、何処かをさまよい歩きたい気分になる。

 明日も雨なので、外出は土曜日まで待とう。

 

 

 最近、夢を見ない。

 寝つきがいいのか悪いのか、気がついたら朝になっている。

 

 夢を見ないと、日常にハリがなくなってしまう。

 夢で見た物語や出来事を回想しながら、朝の支度をするのが個人的に好きなのだが、その機会すらなくなってしまった。

 少し寂しい感じがする。

 

 

 昔の自分の日記を読んでいると、「確実に夢を見る方法」と銘打たれたものを見つけた。

深呼吸をしながらひたすら妄想ストーリーの話の続きを考える。

そうすると眠くなってくるので、深呼吸をそのまま続ける。

そのうち体は寝ていて頭は起きている状態になるので、この状態になってから寝ると夢を見る。

 と書いてあった。

 

 なんだか大昔のワザップの記事みたいな文体だ。

 

 安っぽい裏技のようなことを、昔の自分はよくメモ書きしていた。

 今の自分からしてみれば、ライフハックにすらならないことばかりである。

 

 でも今日くらいは、昔の自分を信じてみようと思う。

 この方法でうまく夢を見ることができたなら、その詳細をまた記事にしてみようと思う。

 

 

 高校生の頃、私は明晰夢に一時期ハマっていた。

 

 明晰夢は私が心理学の方面に進むことになった理由の1つである。

 今は全く関係のないことを勉強しているが。

 

 そもそも明晰夢とは、「起きている状態のような意識で、夢の世界で自由に動くことができる夢」のことである。

 

 この状態では、どんな悪夢も自力で乗り越えることができ、カオスな法則を夢に持ち込むことができるらしい。

 ホラー映画に孫悟空が登場するようなものだと考えていただければ、わかりやすいだろう。

 

 相当胡散臭い現象だと私も思うが、明晰夢には科学的なエビデンスも存在する。

 それでも、結構謎に包まれている現象らしい。

 

 

 今日はなんだか疲れているのでここら辺で日記を終わりにする。

 

 少し明晰夢に入り込むことができるよう、この夏は頑張ってみようと思う。

 平成最後の夏、明晰夢の夏である。

 

 もし明晰夢を見ることができたら、イルカに乗って暴れまくりたい。

 

 なぜイルカなのかと言うと、個人的に好きな哺乳類がイルカだからである。

 特に深い意味はない。

 

 イルカに乗って大海原を駆け巡り、美少女とパールハーバーにランデブーできるようなスペシャルな夢を見たい。

 それだけだ。

 

 最近は死にかける夢しか見ていないので、桃色の夢もたまには見て見たいものだ。

 

身体どこからからだ?

6/28 曇り

 

 日焼け、ニキビ、メンタルヘルスの悪化、この悪循環が続いている。

 学校が坂の上にあるので、登校するだけで汗だくになるし、生産性がこの一日でストンと落ちてしまった。

 

 サマータイム的な感じで、早く寝て早く起きる生活にシフトすべきだろうか。

 もともと学校が遠いので、6時に起きる毎日である。

 

 これ以上早起きしてしまうと、何か悪影響がありそうだ。

 塾講師のバイト中に眠くなる、とか。

 それほど悪影響でもないか。

 

 

 昨日は、CiNetという人工知能脳科学の研究機関が毎年開催しているシンポジウムに行ってきた。

 

 マツコロイドでおなじみの石黒博士を始め、新進気鋭の若手研究者まで、個性豊かな人たちが最近の研究をわかりやすく伝えてくれた。

 良い点や反面教師的な意味も含めて、プレゼンの方法のいい勉強になった。

 

 プレゼンが上手い人は、聞いていて全く冗長に感じない。

 前提知識もあっさりと、それでいて的確にわかりやすく伝えてくれているし、時折挟まれるジョークも面白い。

 私もいつかはあの境地に至り、それを越えていきたいものだ。

 

 シンポジウムが終わった後は、TwitterでフォローさせていただいたN高校の人と大変面白い話をしながら駅に向かった。

 基本コミュ障なので声をかけるのには勇気が必要だったが、それがいい方に向かったので良かった。

 

 彼と大阪駅で別れた後調べたところ、どうやら彼は『1000円VR』というプロジェクトをやっているらしい。

 

1000yenvr.com

 

 具体的には、認知症の高齢者にVRを使って症状の改善を図る、というものだ。

 

 回想療法という、認知症の方に昔のことを思い出し、それを語ってもらうことによって記憶力を向上させる心理療法がある。

 これにVRを利用して、没入感を増幅させることにより、療法の効果をさらなるものにしよう、ということらしい。

 

 VRの医療方面での利用法は聞いたことがなかったので、なかなか興味深い話だった。

 

 私たちが発達障害視覚障害の方の視界をVRで経験することができる、という取り組みは以前から知っていたが、この利用法を見ると、VRには他にも様々な活用法がありそうだ。

 広場恐怖症の治療における曝露法や、PTSDの治療でよく用いられるEMDR法の簡易化にも使えるかもしれない。

 あるいは、新しい治療法そのものを生み出すことができたり。

 

 テクノロジーにより夢や可能性が広がるというのは、本当に素晴らしい。

 面白い時代に生まれてしまったものだなぁ、としみじみと思う。

 

 

 面白い話をたくさん一気に聞くと、想像が止まらなくなるというのは、私の悪い癖だ。

 映画を観に行った後なんかも、同じ様な感じになってしまう。

 

 その中でも、「どこまでが身体か」ということについては、昨日からずっと考えている。

 

 もう10年近く昔のことになるが、私は『アメーバピグ』というアバターサービスをやっていたことがある。

 

 当時(今でもそうかもしれない)、私はとんでもないクソガキで、アバターの顔を小汚いおっさんの顔にして、同年代ほどの女子を追いかけ回していた。

 おっさんのアバターが近づいてくると、それだけで可愛い顔をした女子のアバターは遠くへ逃げてしまう。

 それが可笑しくて、一日中女子アバターとの鬼ごっこに費やした日もあった。

 

 しかし、どうして女子アバターはおっさんアバターから逃げたのだろうか、と今になって思う。

 

 VRならともかく、画面に映っているアバターは二次元上の存在であり、いかにもなアニメ顔をしている。

 義肢や義足を自分の身体の一部と考えるのはまだ分かる。

 だが、アバターはあまりに人間に似つかない。

 

 もしや、平面上のアバターにさえ、私たちはそれを身体の一部と思い込んでいるのでは? 

 そう考えると、おっさんが近づいてきて逃げる女子の気持ちも理解できる。

 自分の身体の一部に「ぐへへ」とおっさんが近づいてきたなら、間違いなく女子は逃げる。

 私だって逃げる。

 

 当たり前である。

 誰も不審者に近づいて欲しいとは思わない。

 

 その不審者というのが、私だった訳だが。

 てへぺろ

 

 

 それはともかく、解離性障害という精神疾患がある。

 抑うつ感や不安並みにポピュラーな精神症状である離人感が元で、この精神疾患になってしまう、らしい。

 不安や抑うつ感が高じて、不安症やうつ病になるのと同じような感じである。

 

 離人感とは、自分を外から眺めているかのような離脱感のことを指す言葉である。

 嬉しすぎて夢のように感じる、なんかも離人感に入る、かもしれない。

 あとは、『不思議の国のアリス症候群』の時のアレも、離人感に当てはまるらしい。

 知らない人はググって欲しい。

 

 解離性障害の仲間には、強いストレスにより記憶が欠落する解離性健忘や、人格が複数存在してしまう解離性同一性障害など、摩訶不思議な精神疾患が目白押しである。

 

 そのような中、離人症性障害という精神疾患もそれらに負けず劣らず奇怪な精神疾患である。

 この精神疾患の主な症状は、自分の生活を外から観察しているような感じが長時間続くことや、自分が外界から切り離されているように感じることである。

 

 なかなかに理解が難しい。

 経験者の話などを見ると、「自分がロボットになったような気がする、生きる屍になったような感じ」とある。

 うーん? 

 

 ともかく、離人症性障害はそのような症状を伴う精神疾患らしい。

 ストレスによって発症し、認知行動療法が効果的だという。

 他の精神疾患に比べ、ストレスを取り除くと完全に回復するなど、難しい病気ではないらしい。

 

 この話のキモは、この離人症性障害が自分の身体をモノのように感じるということにある。

 義肢やアバターを自分の身体と感じるのとは対照的に、この離人症性障害は自分の身体さえ、自分のものと感じられなくなる精神疾患なのだ。

 

 これは「どこまでが身体か」という問題に対しての大ヒントに違いない!

 

 と思って調べてみたが、日本語のオープンソースの論文には関連するものが全くなかった。

 英語圏の文献も探せば、いろいろ見つかるかもしれない。

 

 離人感を感じている時の脳の活動を計測して、それを実験的に操作することができれば、「どこまでが身体か」という問いの答えへの大きな進歩になるだろう。

 さらに、このデータをVRに活用することができれば、リアルSAOはすぐそこに近づいているかもしれない。

 

 これは思いつきでしかないので、実際は多くの問題があるだろう。

 勉強不足感が否めない。

 時間があったら勉強してみよう。

 

 

 つらつらと妄想を述べていたら、文字数がいつもに比べて倍増してしまっていた。

 学校の課題もいくつか残しているのに、これはいけない。 

 今日はこの辺にしておこう、チャオ。

 

最近読んだ中で面白かった本

6/27 晴れ

 

 クソ暑い。

 近頃はほどほどに過ごしやすかったのに、今日あたりになって一気に温度が上がった。

 

 汗はかくわ、腹は減るわ、生きるのが難しい日がこれから続いていくのだろう。

 

 最近なんだかよくわからないが、代謝が急に良くなったので、無性に腹が減る。

 1日5食が生活習慣になりつつある。

 学校の松屋に通って、夏を乗り越えよう。

 

 

 これから定期的に、ブログの方でも面白かった本を数冊紹介していこうと思う。

 

 以前まではこのような取り組みをツイッターでやっていたが、やはり140文字の制限がさりげなくキツい。

 なので、「ブログで書けば、心置きなく本を紹介することができるだろう」という魂胆で書評を書いていこうと思う。

 

 あなたが知っている名著を私が知らないように、あなたが知らない名著を私は知っているはずだ。

 これらの記事が、誰かの読書ライフの助けになれば幸いである。

 

 

1.遺伝子-親密なる人類史-

遺伝子‐親密なる人類史‐ 上

遺伝子‐親密なる人類史‐ 上

 

 

  読書中に鳥肌が立ったのは久しぶりである。

 もちろんいい意味で。

 

 著者はノンフィクション作家などに送られる名誉ある賞、ピューリッツァー賞を受賞した経歴を持つシッダールタ・ムカジー

 

 上下巻からなり、計800ページを超える大著である。

 そのページ数の多さを感じさせないほど、すんなりと読めた。

 

 ダーウィンやメンデルに始まり、現在のクリスパー/キャス9といった遺伝子工学に至るまでを描いた、いわば遺伝子の人類史。

 この手の本は、これまでにでも多数出版されている印象があったが、ピューリッツァー賞作家というだけあって、読ませる文章である。

 訳もこなれていて読みやすく、それでいて読み応えのある本だった。

 

 遺伝子を巡り、多くの人間が熱意を持って研究を進めてきた歴史と、遺伝子の存在が優生思想の根本となり、障害を持つ人やユダヤ人などの民族浄化を招いた事実は表裏一体である。

 この惨劇は、遺伝子工学の誕生により復活してしまうのだろうか。

 遺伝子との向き合い方は、それこそ人類全体で考えなくてはならない問題だと思う。

 

 個人的なオススメは、ワトソンとクリックがこちらが気圧されるまでの情熱をもって、遺伝子の二重らせん構造に迫っていく章である。

 科学者たちの果てしない探究心には、敬服せざるを得ない。

 

 

2.世界を変えた6つの「気晴らし」の物語

世界を変えた6つの「気晴らし」の物語【新・人類進化史】

世界を変えた6つの「気晴らし」の物語【新・人類進化史】

 

 

 前作の「世界を変えた6つの革命の物語」に続いて、お勧めしたい一冊。

 前作が光や冷たさなど、6つの事象からテクノロジーの発展を概観したのとは異なり、今作では6つの娯楽に人類の歴史がどう動かされてきたのかを軽快に語っている。

 

 ファッション、音楽、味、イリュージョン、ゲーム、パブリックスペース。

 これら6つの「気晴らし」は、確かに人類を変えてきた。

 それと同時に、これらは生きていくのに絶対必要ではないが、現代の私たちの生活に欠かせないものになっている。

 

 ファッションのための木綿が国家を滅ぼし、味のための胡椒が世界最強の通貨になり、映画は市民に幽霊を幻覚させ、ゲームが人工知能の進化を加速させ、喫茶店で民主主義が生まれた。

 

 娯楽が人間にいかに栄光と破滅を与えてきたか、この本は人類史を縦横無尽に飛び回り、私たちに刺激的な「気晴らし」を与えてくれることだろう。

 

 

3.日本のありふれた心理療法:ローカルな日常臨床のための心理学と医療人類学

  

 公認心理師が今年から誕生する、そんな日本の臨床心理学の変遷期にこそ、読んでもらいたい本である。

 

 著者は気鋭の心理学者である東畑開人氏。

 臨床心理学に人類学的アプローチで迫る手法が斬新である。

 

 大学院で臨床心理学を駆使する専門家として教育され、カウンセラーたちは臨床の現場に降り立つ。

 しかし現場では、正当な認知行動療法といった技法を駆使することが難しい場面が多々ある。

 それゆえ、多くの技法を柔軟に適応し、クライエントの要望に応える必要に迫られる。

 

 本書はそんな「日本のありふれた心理療法」について、歴史的経緯や実際の事例を用いて解説・考察した一冊である。

 

 「認知行動療法をトッピングした精神分析もどきのユンギアンフレイヴァー溢れるロジェリアン」。

 つまり、認知行動療法ユング心理学を元にした精神分析もどきを駆使するロジャーズ派カウンセラーというのが日本の臨床家の現状であると、著者は述べている。

 臨床心理学に興味を持つ人すべてに読んでほしい。

 

 

4.マツコの何が"デラックス"か?

マツコの何が“デラックス

マツコの何が“デラックス"か?

 

 

 社会学の観点からテレビ業界を分析している著者が、大人気タレント「マツコ・デラックス」について述べた一冊。

 現代アート的な表紙のデザインに惹かれて手に取ったが、内容も面白かった。

 

 巨体、オカマ、大食い、底が知れない膨大な教養。

 何もかもが弩級な彼(彼女?)が、なぜ多くの人を虜にし続けているのか、数多くのエピソードが提示されており、わかりやすく解説されている。

 

 マツコ・デラックスのテレビにこだわり続けるという信念や、物事の判断に迷いやすいという意外な一面、自身の誇大妄想まで、マツコ・デラックスの魅力という魅力がこの本に詰まっている。

 

 マツコがデラックスなら、この本もデラックス。

 普段本を読まない人にも是非とも読んでもらいたい。

 

 

 とりあえず、今回の本紹介はこれまでにする。

 どうだろうか、あなたのお眼鏡に適う本はあっただろうか。

 

 読書は基本、すぐには役に立ってくれない。

 しかし、確かに本は自分の価値観、世界観、存在さえも揺るがしてくれる。

 

 日常の薬とするも良し、毒されるも良し。

 これらの本を、あなたなりの読み方でものにしてもらえたなら、読書好きとしてそれに勝る喜びはない。

 

アルクアンダーグラウンド

6/21 雨のち曇り

 

 すっかり平穏な日常。

 雨も止んだし、余震も比較的少なくなってきた。

 

 地震のあったここ数日は、なんだかやる気が湧かなかった。

 ある程度平和になったことだし、色んなことに本腰を入れていこう。

 

 今年の夏は「認知科学サマースクール」という勉強合宿のようなものにも行くし、どこかの学会を軽く覗いてみようと思っている。

 これらで同年代のスキルが高い人たちに出会えば、それは私にとってもメリットになるはずだ。

 

 私はマトモな討論をしたことがないくせに、ディベートが好きだ。

 討論まで行かなくても、心理学についての話題を話していて、それが溢れてくる人物に出会えることができれば、それは刺激的なことだろう。

 まだ見ぬ誰かとの出会いが、今から楽しみである。

 

 

 歩いていて楽しい街、というのがある。

 

 自分は海外に行く勇気もないのに、旅行好きを自称している。

 旅行の先々で一番好きなのが、街を歩いて、その土地の色を見つけることだ。

 

 比較的身近な場所を例に挙げれば、大阪の天王寺から難波へと歩いて行くのがかなり楽しい。

 

 天王寺は駅周辺はおしゃれな街で、大型のショッピンセンターが立ち並んでいるが、新世界へと向かうと一気に街の色が変わる。

 

 天王寺動物園の横を通り過ぎ、飲屋が連なる商店街へと入って行くと、小汚い中年の男性ばかりが目立つようになる。

 18禁グッズが入っているガチャガチャが道脇に置かれているし、1970年代のアーケードゲームの専門店なんかもある。

 平成も終わりだというのに、新世界周辺は昭和に取り残されたままである。

 

 「まだ間に合います!」という串カツ屋の謎の宣伝文句を耳に挟みながら、そのまま歩き続けると、日本橋に着く。

 東の秋葉原、西の日本橋が日本二大オタクの街だと、個人的に勝手に思っている。

 

 日本橋は電機メーカーの看板をぶら下げた店がどこまでも連なっている街である。

 そういう店を覗いてみると、得体の知れない電子部品がカゴに無造作に積まれている。

 コンデンサーやHDMIコードや、グラフィックボードのジャンク品なんかもある。

 それに、えっちなDVDを販売する店も、ちゃっかり電気屋さんに混じって店を構えている。

 

 そのような中でも、ひときわ大きいのがアニメイトメロンブックスなどが入っているビルである。

 同人誌も持っている人はそれをヒソヒソと隠すのとは対象的に、萌えキャラが描かれた巨大なビルが胸を張るかのように、しゃんとそびえ立っている。

 

 それらに一人で入るにには心の準備が必要なので、スルーして難波へと歩いて行く。

 

 そうすると、大きな銀行の支店だったり、小ぎれいなブティックだったり、はたまたネオンが吊るされた怪しい水商売の店だったり、様々な店が入り混じる難波にたどり着く。

 難波はご飯屋が美味しいところが多い。

 そのうち開拓しに行きたい。

 

 こういった街の色の移り変わりを全身で体感するのが好きで、私は暇さえあれば街を歩いている。

 

 

 街歩きは遠くに旅行に行った時にも、もちろん楽しむことができる。

 この前東京に行った時は、大阪の街と比較しながら歩くのが興味深かった。

 

 大阪と違い、東京は全体として建物の大きさはあまり変わらないものの、そこを歩いている人の様子が様変わりするというのが印象的だった。

 

 上野を歩けば教養を求めて徘徊する中高年ばかりだし、青山を歩くと紳士淑女が多いし、原宿なんかは若者ばかりだ。

 

 それぞれの街の建物の様子も、そこを歩く人に合わせるように変化する。

 上野は博物館や美術館が多いし、青山はブランドものの洋服店が目立つし、原宿はメイク用品を売る店や芸能人の写真屋さんなんかもあった。

 人が先か、店が先か。

 

 自分とあまり合わないような街でも、歩くと楽しい。五感で感じる全てが刺激的である。

 刺激的すぎて、疲れることもあるが。

 

 

 今度の夏は中国地方や九州に旅に出てみよう、と考えている。

 少し踏み出して台湾や韓国なんかもいいかも知れない。

 日本の街と見比べながら、食べ歩きして見るのも良さそうだ。

 

 

 基本的に街歩きが好きな私だが、そこまで楽しくなかった街が一つだけある。

 

 それは名古屋だ。

 

 あそこは歩いていても何も変わらない。

 ビルがあるところから少し抜けると、地平の彼方まで住宅街が続いている。

 「なんだか多様性に欠けた街だな」と、当時は思った。

 

 名古屋港水族館や、トヨタ博物館など、オススメの観光スポットは数多くあるが、街歩きにはあそこは向かないと考えている。

 三週間後に名古屋に行く予定があるので、もうちょっと目を凝らして名古屋を歩いてみたい。

 そうすれば、思わぬ発見があるかも知れない。

 

 疲れない程度に、街を歩こう。

 

サピエンス前震

6/19 雨

 

 地震が起こってから丸一日が経った。

 倒れた本棚を片付けたり、部屋の高所にある荷物を下ろしたり、避難所などの情報を確認しているうちに、時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。

 

 本当はこれら全て、地震が起こる前にしておくべきことだったのだ。

 私たちはあまりにも不準備すぎた。

 せめて、次に来るかもしれない大きな余震には備えておこう。

 

 こうした準備をある程度終えてから、私は学校に向かった。

 地震速報があてにならないというのは結構な恐怖で、家にいるときも、電車に乗っているときも、胸中に不安がわだかまっていた。

 

 今は運良く関学に着くことができたので、こうしてブログを書いている。

 今回の地震は本当に不幸中の幸いだらけだった。

 家族や飼い犬の全員が無事で、失ったものが食器とタブレット端末だけだったのは大きい。

 家族を亡くした方の悲しみは、計り知れない。

 

 

 今回の地震は、私の災害への見方を永久に変えてしまったかのように思われる。

 何にでも言えることだが、どんなに知識を得たとしても、一度経験すると、それへの自分の視点は180度変わり得る。

 今回は、たまたまそれが地震だっただけだ。

 

 私の場合、心理学でもそうだった。

 最初は精神分析だったり、錯覚だったりが心理学の主流だと勝手に勘違いしていたが、実際はより多様な世界だった。

 

 偏見という狭い世界から一度投げ出されてしまったら、もう二度とそこには戻れなくなる。

 今はただ、心理学の世界には無数の論文が生えてくる草原と、未知の青空が広がっているのみである。

 

 

 だが、井の中の蛙が大海に飛び出したからといって、完全に無力なわけではない。

 私より先に、既に広い世界に挑戦したモササウルスや、リヴァイアサンといった類の人間が大勢いるからだ。

 

 彼らから学ぶことは多い。

 例えば地震では、今この瞬間も震度計に目を光らせて、メカニズムについて考察を続けている人たちがいる。

 

 彼らは本当に心強い。

 SNS地震学者の発信する情報は有益だし、自分のこれから起こすべき行動の指針にすることができる。

 まさに、「知は力なり」である。

 そういった巨人の肩に立ってこそ、私たちにもできることがある。

 その巨人でも敵わないのが、自然現象なのだが。

 

 科学はそこそこ発達しているはずなのに、人間はいつまで経っても自然には勝てない。

 むしろ、現在の都市は災害に対する脆弱性を孕んでいる。

 そこまで科学が無かった時代の方が、都市は災害に強かったのかもしれない。

 

 だからといって、ここで科学を否定することは馬鹿馬鹿しい。

 当たり前だが、脆弱性以上に科学技術は人類に貢献してくれたからだ。

 平均寿命、生活の便利さ、この文章を打ち込んでいるパソコンも、勿論テクノロジーの産物である。

 これらなくして、私たちは存在することができなかっただろう。

 

 だからこそ、私たちを私たち足らしめる科学で、自然現象に向き合うべきだと思う。

 打ち勝つことはできなくても、災害と共存することはできるはずだ。

 

 今回の地震でも、得るべき教訓は多い。

 交通網が麻痺した時にどう振る舞えばいいか、企業や大学といった組織が災害にどう対応すべきか、といったことはこれからも議論を呼ぶだろう。

 その議論の積み重ねが、より良い街づくりや、私たち自身の働き方にも関わってくる。

 そうすることで、私たちはより良い未来を生きることができる。

 

 

 未だ、状況は予断を許さない。

 いつ先日の地震に匹敵、もしくはそれを超越する地震がやってくるか、何もわからない。

 

 私たちに今できることは、過去の知見を活かして現在に対処することである。

 水や食料を備蓄し、避難に備えて身支度を整えておく。

 これだけで3日は一気に安全に過ごせるだろう。

 

 この記事を読んでくれている人に限らず、すべての人が安全にこれから過ごせることを祈る。