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きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:読書のデメリット

5/23 晴れ 

 「NO.1に聞け」的なタイトルのテレビ番組で、芦田愛菜が読書家として登場していた。小学校のうちに1000冊読んだという。読書家が推すナンバーワンの本は何か、というインタビューに笑顔で答えていた。いや、俺に聞きに来いよ。小学生と張り合う大学生、タチが悪すぎる。

嘆いていても仕方がないので、芦田愛菜が推していた山中伸弥氏の自伝を図書館に借りに行った。すでに借りられていた。悔しさと、自分と同じような考えの人がいることへの安心感。なんだか救われた気持ちになった。

 

 自分がなぜ読書をしているのか分からなくなったので、読書のメリットをゆっくり考えてみた。

知識を得ることができる、語彙力が増える、話題が増える、以上。マジでメリットがあまり思いつかない。

Googleで検索してみても、アイデア力が身につく、人間力が身につくなど、曖昧で概念的なものしか見つからなかった。少なくとも、人間力が身につくというのは大嘘である。そもそもなんだよ、人間力って(哲学)。あらゆる物事に対する猜疑心が身についたのは確かである。

 

 ならば、逆に読書のデメリットを考えてみよう。

視力が悪くなる、虚無感に駆られる、周囲の物事が色彩を無くす、以上。

こちらもGoogleで検索してみたが、あまりロクなデメリットが検索結果に出てこなかった。そこまで、読書が崇高な行為だとはとても思えないのだが……。

実は、未だに自分が読書をしていて何かの役に立ったという実感があまりない。ブルーハーツの「情熱の薔薇」ではないが、自分が学んできたことが全てデタラメだったら面白いだろうなあ、というのが現在の自分の素直な感想である。そんな気持ち分かるでしょ?

 

 読書で得た知識が活かせていないのは、まさしく己の怠慢の所為である。知識を活かすため、ディベートサークルに入ろうかと悩んだ時期もあったが、人間関係が険悪そうなのでやめた。

そもそも、自分が理論武装をして物事について語って良い結果を生んだ試しがない。所詮は人を無為に傷付けることへの恐怖故のジレンマである。

人を傷付けるということは、大抵は無意識に行われ、行為者がそのことに気が付くのは事後だ。その事実が人を傷つけることの恐怖の源泉である。その時に、自らの理性が全く働かないことの哀しさ。

 

 読書とは孤独な行為である。読書中、自分と本以外にこの世界にある、あらゆる対象は消え失せる。

その上、その本にふれる他に、誰にも理解することができないような知識が蓄積される。化学物質がプランクトンや小魚、より大きな魚、水鳥を経由して猫に辿り着き、その猫が狂い出すのと同じ原理である。おつむがイタイイタイ病。知識とは毒にもなる。誰かにその矛先を向けることも容易い。

読書はメリットだらけなのではなく、そういう見方もできるということだ。ネガティブ思考な文章は読んでいてあまり気持ちの良いものではないが、ある側面では正しいことでもあると思う。うつ病患者が一般人に比べ現実をそのまま認知する能力に長けているように。「普通の人は日々、夢心地で生きているんだと思う」、そんなうつ病患者の言葉が脳裏に浮かんだ。まぁ、私は最近ハッピーだが。ハッピー!

 

 最近、自分の知識の吐き出し口として、小論文コンテストに応募をしている。どれも表彰された時の副賞の金額が高価だ。最高50万円の物もある。お小遣い稼ぎ程度に入賞したい。ようやく見つけた知識の排水溝なのだから。

己の凡才に溺れることがないように心がけたい。

自省とツイ禁

5/22 晴れ 

 面倒な事案を起こしすぎた。人生の汚点。おそらく、数日後には忘れているので、ここに自責を書き記しておく。それが重要なことだと思う。心境は最悪だ。

 

 まさしく、今回の事案は私の無作法な退屈しのぎが引き起こしたものである。すべての責任は私にある。

これ以上、言葉を続けても醜い文面しか出てこないので、簡潔に記す。

 

 私はあまりにも暇だった。某サークルを某氏に持ちかけられ、復活させてから、つらつらとツイートをしていたものの、どのツイートもいつしかサークルの主題とは違うものに成り果てていった。

それは、衰退した大学教育への失望と、刺激のため、自分の経験から来る怒りによるものだった。そして、壊滅である。

「迷惑」という言葉は嫌いなのであまり使いたくはないが、多くの人に迷惑をかけたことは確かだ。

特にある一人には非常に迷惑をかけた。謝りたいが、実際に会うとクソのような言葉しか出てこないだろうし、ラインでメッセージを送る度胸もない。自分に腹が立つ。

 

 色々と悪いものが溜まっているあるので、リフレッシュし、これ以上周りに害を与えないためにも、しばらくツイッターをしないことにした。

通信制限が近いし、色々な文化圏の人をフォロワーに集めすぎたし、険悪な人間同士のいざこざを眺めていることに疲れたからでもある。ツイッターを続けるメリットがなくなったと言ったほうが早いか。ともかく、無期限で休止する。

ブログは続ける。この媒体なら言葉不足で誤解を生むということも少なくなる。

と言いつつも、ブログでもある程度人に遠慮してしまっている自分がいる。書きたいことをあえて書かないと言ったことも多くなった。「言っても理解されないだろう」という考えの所為である。こんなことをしているから孤独感が積もっていくのだ。

けれども、集団に迎合するようなことはできない。理由は語らない。

 

 肥大化した自尊心の怪物になりかけている。中二病感たっぶりの語彙力。だが、それ以外に自らを表現する術を知らないのだ。

 

 元気がないので今日はここまで。メンタルがやられている。自分が傷つくのは嫌だが、人を傷つけることはもっと嫌なのだ。

赤の他人を「人」とみなすことのできない自分の偏狭さよ。

オミクジ・カタストロフィー

5/14 晴れ 

 母の日。某氏と京都に行った時に購入した金平糖を母親に贈呈したら、たいそう喜ばれた。もちろん、しっかりと代金はいただいた。私は危機的な金欠なのだ。致し方なし。気持ちだけでも受け取ってほしい。

 

 私はおみくじが好きだ。神社に行くと、大抵はおみくじを引く。

もちろん科学的な根拠などないのは分かっているし、そもそも私は不可知論者だが、それでもおみくじはやめられない。

やはり偶然という、人間にとって知ることのできない領域を手軽に味わえることが魅力になっているのであろう。不安が少々ある時など、おみくじは僅かながらも気休めになってくれるのだ。

 

 おみくじというのは不思議なもので、まぁこれは経験則だが、大吉や凶が出ると、中途半端な結果を後に招かない。極端に良いことか、悶えるほど酷いことが起こる。

 私は高校入試の時、かの学問の神である菅原道真公が祀られている北野天満宮でおみくじを引いたことがある。

結果は一番・大吉、学問の欄には「叶う」とだけ書かれていた。受験前の私にとって、これほど心強いことはなかった。意気揚々と受験会場に乗り込み、試験を受けた。

結果は惨敗、男まみれの清風高校に禁固3年の刑に処されてしまった。

なぜだ! 女子が6割もいる寝屋川高校になぜ私は落ちてしまったのか! 輝かしい青春をどこへやった! 嘘っぱちめ! 学問のクソ神が!

その3年後、大学受験。私は再び北野天満宮へ赴いた。目的はもちろん、おみくじである。

結果は一番・大吉! 「叶う」の2文字! 感じるデジャヴ! 

私は同志社大学に落ちてしまった。即落ち二コマ、諸行無常。単に私の鍛錬が足りなかっただけである。おみくじのせいにしてはいけない。

 

 また、その半年後のことである。私は最強の縁結びスポットと名高い貴船神社に行った。もちろんおみくじ目当てである。

この神社のおみくじは少し変わっていて、水に浮かべると結果が浮かび上がるという、伝統もクソもない技術の結晶的なものである。不透明な大学生活を清水のように透き通ったものにするという志を持って、私は貴船に向かったのだ。

おみくじの結果は大吉! 「思う人と必ず結ばれる」という心強いメッセージが! 不吉な感じが頭をよぎる! 

その後、私は恋愛でも爆死してしまった。何が最強の縁結びスポットじゃ! 

大学生活の先が見通せるはずもなく、道頓堀のヘドロよりも不透明なままである。もはや公害レベル。

 

 さらに、某氏の話をしよう。

彼は私と京都に行った時、こちらも名高い恋愛スポットである地主神社でおみくじを引き、見事に大吉を当てた。

地主神社には、目を瞑りながらある岩と岩の間を無事通れたら、恋が成就するという言い伝えがある。某氏もこれに挑戦した。ところが、やはり人気スポットなので挑戦する人がとても多く、他人とぶつかってしまう事故が起きてしまう。彼も人にぶつかってしまった。

その相手が、どのアイドルグループのセンターにも負けないほどの美少女だったのだ。おそらく、修学旅行中の高校生である。陶磁器のような白い肌に、男どもの腐った視線を打ち消す黒髪ロングである。とても可愛らしい顔立ちだった。

彼が目を瞑って、ぶつかった後もウロウロしている間に、美少女は岩にタッチし、某氏の方をちらりと見てから、何処かに去ってしまった。なぜあの時、目を開かなかったのか! そういう後悔の念が彼には立ち籠めたことだろう。

余談だが、彼はその後、今現在まで色恋沙汰の気配はない。一瞬の判断が彼の人生に致命傷を与えた好例である。

 

 以上、おみくじが悲劇を招いた例を紹介してきた。

というか、全般的に人間の因果応報である。日頃の行いに気をつけ、チャンスを逃さないように心がけたい。それも叶わぬだろうが。オーヨヨヨヨヨヨヨ。

1年に3500冊読書する私が新入生に勧める厳選10冊

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 今回の記事では、私がこの1年で読んだ約3500冊の中から、新入生に是非とも薦めたい厳選に厳選を重ねた10冊を紹介する。

 

 選考基準は

  • 面白い
  • 基礎知識がなくても読める
  • 全ての学部生が活かせる知識が詰まっている
  • 世界を見る目が変わる教養が身につく
  • 出版が比較的新しい、少なくとも戦後

である。この五つに当てはまるものの中から、異なるカテゴリの名著を抜粋した。

また、こういった「大学生が読むべき本」的なサイトで紹介されがちなビジネス書・アドラー心理学などの本は一切排除した。理由としては簡単で、こういった類の本は科学的な根拠がなく、あくまでも個人の経験に基づいて書かれたものばかりだからである。

 

 以下の本は皆、毒にも薬にもなる。常識を散々打ちこわすもの、真理を暴き出すもの、ロマンを語るもの、希望を抱かせるもの。どれもが必ずこれからの人生に影響を与え、血となり肉となる力を秘めているものばかりだ。

少なくとも、この先50年は読まれ続けるであろうものばかりである。どの本も時間の淘汰に耐える「現在の古典」だ。

 

 さて、前置きはこれまでにして、早速本を紹介していこう。この記事が皆さんの読書ライフの参考になれば幸いである。

 

1冊目:理科系の作文技術

木下是雄著 中公新書

 

理科系の作文技術(リフロー版) (中公新書)

理科系の作文技術(リフロー版) (中公新書)

 

 

 文系・理系関係なく、この本は絶対に読むべき! これを読まずしてマトモなレポートは書けないと言ってもいいくらい、わかりやすく学術的な文章の書き方を伝授してくれている本。

筆者は元学習院大学学長で物理学者の木下是雄。学徒を志すなら必ず本棚に並べておきたい一冊。新書だから安いし。

本にまるで無駄がないので逆にコメントに困る。

 

2冊目:科学の方法

中谷宇吉郎著 岩波新書

 

科学の方法 (岩波新書 青版 313)

科学の方法 (岩波新書 青版 313)

 

 

今日われわれは、科学はその頂点に達したように思いがちである。しかしいつの時代でも、そういう感じはしたのである。その時に、自然の深さと、科学の限界とを知っていた人たちが、つぎつぎと、新しい発見をして科学に新分野を拓いてきたのである。科学は、自然と人間との協同作品であるならば、これは永久に変化しつづけ、かつ進化していくべきものであろう。』

 歴史学などの人文学や商学部などの社会科学も、いかに科学的かが求められる現在。そんな今だからこそ、科学の基礎、そして限界を知っておく必要がある。

何より、この本が昭和33年、西暦1958年に出版されたことが驚きだ。その先見の明に、ただただ驚嘆するばかりである。

著者は北海道大学教授で物理学者だった中谷宇吉郎

教養として、学問を志す全ての人が読むべき一冊。一言で表すなら、超科学入門。

 

3冊目:つきあい方の科学−−バクテリアから国際関係まで

ロバート・アクセルロッド著 ミネルヴァ書房

 

つきあい方の科学―バクテリアから国際関係まで (Minerva21世紀ライブラリー)

つきあい方の科学―バクテリアから国際関係まで (Minerva21世紀ライブラリー)

 

 

 出版年が有名な古典と比べ、比較的新しいのにもかかわらず、プラトンの「国家」、ホッブズの「リヴァイアサン」といった古典と並び、アイビーリーグ(ハーバード大など、アメリカの私立大学トップ10)でのテキスト採用数ベスト10に入った本。

著者は現在もミシガン大学の教授を務めており、一時期はアメリカ政治学会の会長も歴任していたロバート・アクセルロッド。

囚人のジレンマなどを例として、今流行りの「ゲーム理論」を解説してくれている。果たして、最も優秀なつきあい方の戦略とは? その答えがこの本には書かれている。

国家間からバクテリアまで、進化生物学の観点から「つきあい」を科学的に解き明かした一冊。

 

4冊目:宇宙論入門—誕生から未来へ—

佐藤勝彦著 岩波新書

 

宇宙論入門―誕生から未来へ (岩波新書)

宇宙論入門―誕生から未来へ (岩波新書)

 

 

 宇宙の始まりから終わりまで、壮大な宇宙の物語がこの一冊に描かれている。

宇宙はたくさんあるという「マルチバース仮説」や、「宇宙の赤ちゃん」を作り出すという人類最大の野望にまで触れられている。宇宙の限界に挑むことは、人間の想像力の限界に挑むことでもある。

筆者は東京大学教授である佐藤勝彦、宇宙創生研究のパイオニアだ。

自分を包み込んでいるものの最大単位である宇宙、これについて知りたいなら絶対に読んでおくべき一冊。

 

5冊目:利己的な遺伝子

リチャード・ドーキンス著 紀伊國屋書店

 

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 

 

『この本はサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい。イマジネーションに訴えるように書かれているからである。けれどこの本はサイエンス・フィクションではない。それは科学である。いささか陳腐かもしれないが、「小説よりも奇なり」ということばは、私が真実について感じていることをまさに正確に表現している。われわれは遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。この真実に私は今なお驚きつづけている。』

 「なぜ世の中から争いがなくならないのか」「なぜ男は浮気をするのか」など、身近な問いかけから、「個体は有限だが遺伝子は永遠である」という壮大な思索までが描かれている。主としては、生物の進化について分かりやすく書かれた本だ。

筆者はオックスフォード大学教授であるリチャード・ドーキンス、彼は「戦闘的無心論者」としても知られている。「ミーム」という言葉の生みの親も彼である。

一冊にしてこれまでの常識が崩れ去ること間違いなし、暴力的なまでの力を備えた一冊だ。

 

6冊目:銃・病原菌・鉄

ジャレド・ダイアモンド著 草思社

 

銃・病原菌・鉄 上巻

銃・病原菌・鉄 上巻

 

 

 00年代最高の本は、これに違いない。ピュリッツァー賞など、数々の著名な賞を受賞した本でもある。

「あなたがた白人は、沢山のものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私達ニューギニア人には自分のものといえるものがほとんどない。それは何故だろうか?」という、一人のニューギニア人の問いかけからこの本は始まる。筆者はこの問題に「白人はたまたま住んでいた環境に恵まれていたから」と答えた。

タイトルは白人がインカ・マヤを滅ぼした最大の武器、「銃・病原菌・鉄」からきている。

なぜインカ帝国はヨーロッパを侵略することができなかったのか? 稀代の博学者、ジャレド・ダイアモンドが、人類史の巨大な謎に迫る過程を描いた知的エンターテイメント。これを読まずして、読書家は名乗れない。

 

7冊目:サピエンス全史

ユヴァル・ノア・ハラリ著 河出書房

 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

 

『想像上の秩序から逃れる方法はない。監獄の壁を打ち壊して自由に向かって脱出したとき、じつは私たちはより大きな監獄の、より広大な運動場に走り込んでいる。』

 「銃・病原菌・鉄」が、人が生み出したものではないものたちが、人類にどう影響を与えたかを描いた本なら、「サピエンス全史」は、人が生み出したものによって、人類がどう変わってきたかを記述した本だろう。

現在、世界を動かしている主な力は国家・お金・宗教だが、これらは全て人間の想像の産物、「虚構」である。人権・法律・企業・幸福、これらの虚構はいかにして生まれ、どのような影響を人類に与えたか。そして、人はこれから「何を望みたい」のか。

10年代最高の本はおそらくこの本だ。ヘブライ大学教授、新気鋭の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが送る、人類が知恵を得てから、未来までの物語。

 

8冊目:人間の本性について

エドワード・O・ウィルソン著 筑摩書房

 

人間の本性について (ちくま学芸文庫)

人間の本性について (ちくま学芸文庫)

 

 

 攻撃・性・社会・宗教、人間の生物的な側面に残酷なまでに焦点を合わせた一冊。この本もピュリッツァー賞を受賞した。

筆者はハーバード大学の教授であるエドワード・O・ウィルソン。「社会生物学」という、数理モデルで生物の社会を研究する学問を始めた第一人者でもある。

彼は、「社会生物学」を人間にも当てはめ、非難を浴び、水を若き研究者にかけられたこともあった。しかし、彼の研究の正当性は次第に認められつつある。まさに現代のガリレオである。

また、彼はこの本で社会学系と自然科学系の統合を訴えている。人間を「冷めた目」で見ることの重要性を訴える、人間の生物学とも呼べる一冊である。

 

 

9冊目:思考の技法—直観ポンプと77の思考術—

ダニエル・C・デネット著 青土社

 

思考の技法 -直観ポンプと77の思考術-

思考の技法 -直観ポンプと77の思考術-

 

 

 至ってマトモな論理から、初見では宮うることが難しい詭弁まで、様々な論述法・思考法を挙げながら、「そうであるとしか考えられない」本質を直接、そのまま汲みだす最強の思考ツール、「直感ポンプ」へと導く本。

後半には中国語の部屋、双子の地球、哲学的ゾンビなどの、まだ未解決の哲学的問題が山ほど載っており、筆者とともにその難問に挑戦することができる。

筆者はタフツ大学教授であるダニエル・C・デネット、意識と心の問題に挑み続けている当代随一の哲学者だ。

読めば気分は哲学者、そんな一冊である。

え? 哲学者の気分なんか味わいたくない? またまた、そんなこと言っちゃってぇ……

 

10冊目:暴力の人類史

スティーブン・ピンカー著 青土社

 

暴力の人類史 上

暴力の人類史 上

 

 

 世界各地ではテロが頻発し、イスラム国が暴れまわり、日本でも暴力事件が日夜起きる……。老人が「昔はもっと良かった」と嘆く姿を誰もが一度は見たことがあるはずだ。平和な時代と言われると、たいていの人は現代ではなくもっと昔、例えば縄文時代を思い浮かべるだろう。

そんな老人の嘆きと、私たちの幻想をブチ壊してくれるのがこの本だ。殺伐としたタイトルとは違い、いかに人類が文明化のおかげで平和になってきたのかを、これでもかというデータの量で示してくれている。「人間の本性について」が冷たい人間観を与えるのとは真逆の内容である。

筆者はハーバード大学教授の心理学者、スティーブン・ピンカーだ。彼はTIMEの「世界で最も影響力のある100人に選ばれたこともある、心理学界の大物研究者だ。

神経生理学など、多彩な手法を用いながら、人間の本性を分析していく様はまさに圧巻である。

この一冊を読んで、あなたも「合理的楽観主義者」に!

 

 10冊の紹介は以上である。いかがだっただろうか。読みたい本は見つかっただろうか。

なかなかに分厚く、手強い本もいくつかあるが、これらは総じて面白く、決してソシャゲをしているだけでは見ることのできない、面白い世界を私たちに見せてくれる。それがファンタジーなどではなく、現実の話なのだから尚更面白い。

これらの10冊を以って、圧倒的な教養を身につける旅のスタートとしてもらいたい。

 

 また、近々惜しくも先行落ちした本たちを一言解説とともに、ブログに載せるつもりである。

こちらも名著揃いなので、この10冊を読み終わった方や、読む本を探したい方には是非とも覗いてもらいたい。きっとお役に立てるはずである。

日記:サークルの条件

5/8 晴れ 

 神戸に行ったり、来週は京都に行ったり、最近は旅行に行きまくっている。

そんなことをするためのお金はどこから湧いているのかって? 母の財布、祖父祖母の年金からである。親のスネをかじるのをやめて、そろそろ働かなくてはいけないのも分かってはいるのだが、やる気が湧かない。

仕方ないから小論文コンペに応募しまくって受賞を待つことにする。運が良ければ30万円である。コストパフォーマンスが良すぎる。いささか夢を見すぎているような気もするが。

 

 「青少年団体のためのハンドブック」というものを昨日読んだ。1951年に兵庫県教育委員会が出版したものである。昔は教育委員会が団体活動を積極的に推奨していたのだ。

その本の中に、サークル活動の指標とも読み取れる示唆が豊富に記述されていた。例えば「グループ活動の目標」という項目では、

  1. グループに入る機会を全ての青少年に与えること
  2. 他人を尊重する態度を発展させること
  3. 青少年の自主性と、創造性とを発展されること
  4. 個人的、団体的な責任を重んずる態度を養うこと
  5. 他の人々と共同する態度、方法、技術を尊び、その喜びを学ぶようにすること
  6. 中正な批判のできる精神を養うこと
  7. 宗教的、美的な情操を養い、知性を培い個性を伸ばしていくこと
  8. 団体や社会の秩序や規則を重んじ、長上や先輩に対して誠心をもって接する態度を養うこと
  9. 清潔、正直、勤労、社会奉仕、スポーツマンシップなどの人間に大切な習慣や態度を養うこと
  10. 他民族、他国民に対する友情的な態度を養う

と書かれている。全くその通りである。約70年前の文章なのにもかかわらず、ぐうの音も出ない。現在のサークルも、以上の項目を目標にした方が良いと思う。古来のサークル活動がいかに清廉だったのかが窺い知れる文章である。

 

 さらに、「グループ活動についての重要条件」という項目では

  1. グループメンバーの自由意志によって作られなければならない。強制や強要によって無理やり加入させられることがあってはない。
  2. 共通性、等質性を重んじること。グループメンバーが同等の要求または関心ごとを持つこと。
  3. グループの大きさは各人が十分に知り合える程度に留めておくこと。その方がグループのプログラムの実施が容易になる。人間はグループにおける不断の社会的相互作用によって相互に導かれる。
  4. 興味と関心を持つこと。グループの目的は漠然としたものによって集まるだけではいけない。興味や関心があってグループ活動は活発になる。自発的な気持ちによって作られ、集ったグループであることが何よりも大切である。

と述べられている。ヤンヤ、ヤンヤ。正論すぎる。これらの条件を満たすサークルが、様々な全国的かつ名誉ある大会で功績を残しているのも納得である。逆に、幾らかのサークルは完全に返す言葉を失くすだろう。

決して、「ただの理想論だ!」と見くびってはいけない。理想がなければ人間は腐る。それは既に現在の状況が証明しているではないか。

 

 では、どうして現在のサークルはこれら上記の条件を満たし、目標を達成することができなくなってしまったのか。

答えはいたって単純で、このハンドブックが書かれた1950年初期というのは、大学令が発令されたばかりの頃であり、学生の数が少なく、レベルが高かったからである。

1950年当時は、MARCH・関関同立は上流家庭の子息が教養を得る場であった。より賢い学生は国立大学へと進んだ。実際、当時の大学進学率は男女計で12%ほどしかない。現在の大学進学率60%という状況と比べると、1950年と現在の若者の数はほぼ同数なので、実質的に5分の1の学生しか大学へと進学していなかったということになる。

しかも、当時は医科大学が大学全体の比率を大きく占めていた時期でもある。学生の育ちの良さ・レベルの差は現在とは比べ物にもならないだろう。

また、清潔・自律が重んじられていた時代でもある。なにせ、童貞がまだ美徳であった頃である。是非とも、この時代の大学生になりたいものだ。

 

 結局、サークルは先述の4条件さえ満たしていれば何とか真面目な活動ができる。

グループメンバーの自由意志がなければ、活動が活発にならずに風化する。

共通性が重んじられなければ、メンバーは音楽性の噛み合わなくなったバンドのように容易く離散する。

グループが肥大すれば、各個人の影響が小さくなり、メンバー同士の相互作用が断たれ、ストレスが溜まるだけとなる。反対に、グループが小さ過ぎれば先鋭化するか、活動が疎らになる。

興味関心がなければ、飲みサーかヤリサーか、ただの溜まり場になるかである。

たったそれだけのことだ。この4条件だけ満たすことなら、1950年の学生のみならず、私たちにも簡単にできるだろう。できなければ、それは猿の集団と何も変わらない。

人間の、人間であるためのサークルの条件こそが、この4条件なのだ。健全なサークル運営のため、またサークル選びのために、是非ともこの記事を活用してもらいたい。

何この真面目な締め方?(二回目)

日記:ヤリサー見聞録

5/6 曇り時々雨 

 ゴムの日。卑猥な考えしか浮かんでこない。

レポートや資料研究・ドイツ語の課題に追われつつ、なんとかこのハードだった一週間を無事終えることができた。あとは、コンタクトを片目だけ落としてひどい目にあったり、かの彼女持ちイケメン氏が日記を書いていることを今更知ったりと、そのくらいだろうか。本当にそのくらいしか出来事がない。

たかが一週間程度、日記を書かなくてもそれほど困るということも起こらなかった。そもそも、私はスケジュール帳を使わないので、脳内で処理できる範囲でしか予定を立てない。バイトをしていた時もそうだった。

少なくとも、このスタイルは健全な大学生のものではないだろう。スケジュール帳を使うという、社会人になるための初歩的な練習ですら怠っている。社会不適合者極まれり。

 

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最近、ヤリサーに関するあれこれをよく耳にする。

例えば「めいめい」。このサークルでは、新歓の一次会の後に陰気な人々は帰宅を余儀なくされ、彼らの知らぬ存ぜぬところで淫猥な二次会が催されているらしいのだ。実際にそれで性行為まで漕ぎ着けたという報告まであるのだから、全く驚きである。ツイッターのアイコンによる、WWFへの風評被害が激烈なサークルでもある。

その他にも、某ダンスサークルや、某軽音サークル・某合唱サークル、さらに某スポーツサークルまで、そういう噂を私は耳にしてしまった。

エチルアルコールという、文化に許容された麻薬を使用して、半自動的に性行為にまでたどり着いてしまうというのは、やはり彼らが阿呆で寂しがり屋だからなのであろう。一人で寂しい奴らが大勢集まると、だ、だ、だっと堕落である。

 

 それにしても、なぜヤリサーはスポーツや音楽という、極めて文化的な事柄を目的にしているサークルを騙るのだろうか。

性行為とは、一般には文化として取り上げられることは少ないはずである。スポーツや音楽をテレビ放送することは社会的に許されるが、性行為はその限りではないだろう。そんなことが許されるのは、アパホテルの有料放送くらいである。

 

 私が思うに、ヤリサーが偽の目的として掲げる文化的な物事は、敷居が低いものなのだ。

テニスを例に挙げよう。テニスはラケットさえ購入すれば、いつでも始めることができ、運動神経がなくてもある程度は試合を行うことができる。

軽音楽も同じである。楽器さえ購入すれば、誰でも始めることができる。吹奏楽や高尚な弦楽器のように、音を鳴らすだけで練習がいるということもない。ピックをピンと弾けば音が鳴り、ドラムをパンと打てば、これもまた音が鳴る。まるで乳首を弾き、後背位でピストンをするが如しである。

さらに、テニスや軽音楽は先輩が後輩に対して指導するとき、体がかなり密着するのだ。テニスのサーブを指導する時は腕や腰に触れる。また、ギターの弾き方を指導する時は、後ろから包み込むような形で指導を行うことが多い。パーソナルスペースを否が応でも犯してくる先輩に、後輩は抗うことができるだろうか。いや、できない。そのまま夜に犯されること間違いなしである。

 

では、なぜこのような危険に思われるサークルが存続できるのだろうか。

そのヒントは、サークルの年に一度の人員補給、新入生にある。テニサーや軽音楽のサークルに入る新入生は、基本的に友達づくりをサークル活動よりも優先している。

彼らにとって、それほど拘束もなく、すでに人員が腐るほどおり、気軽に始めることのできるサークルというのは好都合である。結果、そのサークルに染まっていき、ドボン、である。こうしてヤリサーは維持され、成長するのであろう。

逆を言えば、サークルに入る新入生が少ないと、ヤリサーの存続は非常に厳しくなる。ぶっちゃけ、ヤリサーの取り柄は人員が多いことしかないからである。ヤリサーに恨みを持っている方には、ぜひこの弱点を突いてもらいたい。

 

 ここまで、ヤリサーについて記してきた。率直に言うと、まあ当たり前のことではあるが、ここまでヤリサーについて考えたのは初めてである。新入生の方々には、注意深いサークルを選んでもらいたい。

公認団体や、部活に入るのが個人的にはお勧めである。いくつかこれらの団体に顔を出したことがあるが、皆真面目で、気前よく接してくれた。新入生も暖かく迎えてもらえるはずである。

また、少なくとも3人以上から「真面目だ」という噂を聞いたサークルも、大体は安全である。ヤリサーは悪い噂が出回っていることが多い。因果応報である。

と言っても、もう五月である。犠牲になった新入生はいるのだろうか。日記に書くのが遅すぎた。彼らが心配である。

ヤリサーは最初からあるのではなく、サークルの空気が徐々に変わっていった後の成れの果て、末路である。集団の空気に取り込まれた時の人間は、ひどく意志薄弱で、脆い存在だ。このことを心に刻んで、華々しい大学生活のスタートを切ってもらいたい。

……何この真面目な締め方?

日記:プロ童貞

4/29 晴れ時々雷雨 

 大量の課題を尻目に、ナゲットの抽選に応募しまくった一日だった。お陰様で三年分のナゲット無料券を手に入れることができそうだ。このナゲットを利用して偉大になりたい。どうやって?

カメラを持って外出したり、スタバの新作を飲みに行ったりと、以前より生活にリア充感が増している。全て一人行動だが。藍色の日々。

 

 最近、童貞を極めている。ノリで復活させた童貞サークルが予想を超える好評っぷり(?)であり、童貞ネタにここまでの潜在的需要があったのかと驚いている。

普段は脳神経の悲鳴を聞きながら阿呆になって、童貞ネタを呟いているが、そもそも童貞がどういうものなのか私はよく知らない。

単に「性交渉を行ったことのない男」と定義づければそこまでだが、童貞という概念が一定のコンテンツになるということは、なかなか単純でない事情が隠されていそうだ。

それには童貞を知る童貞、プロ童貞になる必要がある。初心に戻って、童貞とは何なのか一度考え直してみたい。いや、初心に戻るも何も、最初から童貞なのだが。

 

 「童貞」という和語が誕生したのは19世紀のことであり、本来はカトリックの修道女を指す言葉だったらしい。さらに、聖母マリアの「処女懐胎」のことを「童貞女受胎」と読んでいたと聞く。童貞はどうやら、最初は聖なる雰囲気を醸し出す言葉であったらしい。まさにポジティヴイメージの塊である。

また、1925年出版の広辞林によると、童貞の意味は「婦人又は男子が幼児の純潔を保持し、未だ異性と交遊せざること」となっている。この頃までも、童貞は男女の区別が存在しない、どちらにも使用される言葉だったのである。処女 is 童貞(至言)

逆に時間を遡れば、かのユリウス・カエサルが記した「ガリア戦記」には、童貞を守ることは美徳であり、20歳までにそれを失うことは恥である、という記述がある。童貞は現代とは異なり、誇るべきステータスだったのだ。

だが、カエサル自身は非童貞である。ついでに、ブルータスも非童貞である。ブルータス、お前もか。

 

 しかし、事態は一変する。戦後に『何か』がきっかけで、童貞を恥ずべきものとして見なす風潮が急激に強まっていったのだ。童貞の地位が凋落した原因は未だ不明である。忌々しき非童貞の策略だろうか。これは陰謀だ! 

かくして、長き童貞の栄光の歴史は終わりを告げた。

これまで見てきた通り、童貞という概念が誕生して以来、これは十分に使えるステータスであり、己の切り札にもなりうる存在だった。

ところが現在はどうだろう。高学歴・高身長・高給・高級車持ちというバケモノスペックの持ち主がいたとしても、これに童貞という要素がラベルとして付着した途端、この人物はショボくなる。これは童貞への「二十歳超えても童貞は、何かその人に問題があるんじゃないの?」という偏見の表れでもある。

ここに断言しよう。

童貞だからといって、その人が訳アリである可能性は、非童貞がそうである確率と同程度である。

悲しいことに童貞にもヤベエ奴はいるが、同じく非童貞にもヤベエ奴は存在するのだ。

 

 4日ほど前、我が関西学院大学にどのくらいの割合で童貞・処女がいるのかアンケートで調査したことがあった。

所詮Twitterなのであまり当てにならないが、アンケート結果は、驚くべきものであった。リア充が多いと思われがちな上ヶ原でも、童貞・処女が約6割を占めていたのだ。

これが事実だとすると、これまで我々は自分のことを棚に上げて「童貞はクソ」ラベルを互いにベタベタと貼り付けあっていたということになる。同胞同士で互いを下げ合っていたのだ。これほど悲しいことはない。

我ら哀れなサイレントマジョリティーに救いの手は差し伸べられるのだろうか。童貞女受胎をした聖母マリアも、この現状を天で嘆き悲しんでいることだろう。

 

 おまけ、三田は童貞・処女率とそうでない率がほぼ半々だった。おそらく僻地に閉じ込められた彼らは気が触れて、互いのケツの処女を奪い合っているので、このような割合になったのだろう。

街灯もない暗闇の中で、彼らはどのような禁忌的な営みを繰り広げているのだろうか。

三田の闇は深い。比喩的にも、物理的にも。