きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

牌は投げられた

11/16 晴れ

 

 編入試験に落ちたり、動画制作を再開したり、銀シャリの漫才を見にいったり、地味に多忙な日々が続く。

 最近、自分の大学生活の意義が失われつつあるように思う。

 自分の将来像の理想と、それに進むことのできない現実の自分の乖離が著しい。

 とりあえず、体力の衰えを感じたので、これから一限のない日に朝からランニングをしようと思う。

 体力の衰えは好奇心の衰えである。昔のように、1日に10冊の本を読むのが難しくなってきた。

 何はともあれ、生きている以上は前に進むしかない。

 

 近頃、自分の可能性が閉ざされていく感覚に襲われている。

 編入試験に失敗したことが原因ではない。この程度の挫折は何度でも経験している。高校受験、大学受験とこれまでも私は第一志望に合格できた試しはなかった。

 それとは別に、自分の将来の可能性が縮んでいるような気がするのだ。

 その感覚は、勉強や読書をするほど己の内から湧き出てくる。

 

 結局は、知識をつけることは自分の将来の可能性を閉ざすことでしかないと、気づいてしまった。

 一般には、教養を身につけ多くの経験を得るほど、将来の可能性は広がるものだと考えられている。

 読書は他人の経験を疑似体験することができるものであり、教養が身につくということについては言わずもがなである。

 

 しかし、そうした社会の見解とは反対に、読書は自分の疑問を突き詰めていく行為でもある。

 つまり、読書を続けるということは、自分の考えをまとめ、自身の将来像を固定化することに繋がる。

 その将来像とは、読書では得ることのできなかったその先の知識を獲得するための研究職だったり、知識を実践に移すための起業だったりする。

 自分がライン工や会社の総合職になることなど、想像も出来なくなってしまう。

 少なくとも私は、読書によって「山月記」の李徴のようになってしまった。己の才能を盲信し突き進むしかない。その末路が獣であっても。野獣先輩。

 

 人生というものは麻雀に似ているなと、ふと思った。

 麻雀は最初はランダムに牌が並んでいる状態が手元にある。運が良ければ、役満を狙い高得点を獲得することもできる。

 しかし時間が経つごとに、様々な役を完成させることのできる可能性が閉ざされていく。

 麻雀はランダムであり、配られた状態が良ければ役を作ることは容易く、配られた瞬間から役が完成していることも稀にある。

 19歳という若造ながら、そう思った。

 そろそろ自分の人生も理想的な役に向けて組み立てていかなくてはならない。

 家庭、才能、身長、知能、容姿。誰もが、配られた牌から勝負を始めるしかないのだ。

歩くのがヘタ!!

11/8 雨

 

 久々の日記である。学祭が終わり、編入試験も終わり、忙しい日々にひと段落がついたので、日記を再開する。

 するべきことはした。あとは結果を待つのみである。

 もし受かっていたら儲けものであり、例え落ちていたとしても、また歩き出すだけだ。成功でも失敗でも、私にとっては大きな転機となる。

 これからも、日々勉学などを精進していきたい。おちんぽ。

 

 私は歩くのが下手である。

 これは人生だとか人間関係を渡り歩くのが下手だという比喩的な意味ではなく(確かにそういう一面もあるが)、ただ単に「歩く」という行動が下手くそなのだ。

 歩いている時、頻繁に私はつまずく。その他にも、エスカレーターを上っていると、50%くらいの確率でコケる。その度に膝を強打し、激痛に悶える羽目になる。

 そのようなことを、生まれてこのかたずっと続けてきたので、さすがにそろそろ歩き方を矯正しようという気になった。

 せっかくの二足歩行を不完全なまま行い続けるのは、ホモ・サピエンスという種全体及び、先祖への冒涜である。ダーウィンが草葉の陰で泣いている。

 

 まずは、普通に歩けている人の歩き方を観察し、自分の歩き方の参考にする。

 梅田や登山登校の最中に、他の人の歩き方をじっくり吟味してみた。

 こうしてみると、一人一人の歩き方には結構個性があるものである。

 足をつく時はかかとからか、地面と平行に置くのか。

 どの程度膝を曲げて踏み出すのか。

 後ろ足を体が進むのに対して、どれくらいの時間地面に留めているのか。

 それぞれが人によって異なっている。

 歩くのが早い人は歩幅が大きいだけではなく、地面を強く蹴っているようだ。そして、たいていはぼっちだ。

 反対に、歩くのが遅い人は歩幅が小さく、膝をあまり曲げていない。この歩き方はアルマゲドンのように集団で横に広がる女子によく見られる。

 

 以上のような他人の歩き方を参考に、自分の歩き方を意識してみた。

 これまでの自分の歩き方は歩幅が大きいものの、膝をあまり曲げずに地面と平行に足を振り出すような歩き方であった。

 これでは歩くのは早いものの、すり足のようになり、頻繁につまずいてしまう。

 膝を曲げないことが習慣となっていたので、エスカレーターのような段差の大きい階段でコケてしまっていたのだ。

 そこで、膝をより曲げて、つま先で地面を蹴り上げるような歩き方に変えてみた。

 すると、全くつまづかなくなった。エスカレーターでも全くコケない。

 歩くという動作がこんなに素晴らしいことだったとは! 

 身体にすっかり染み付いてしまった不適応的な日常の動作でも、自身にフィードバックを行えば改善されるものだ。

 最近は歩くのが楽しくてたまらない。毎日がエブリデイ・ウォーキング! ハハッ!

 

 歩くという日常的な動作一つ取っても、色々と面白い発見がある。

 周囲に友人がいるかによって、人の歩き方が大きく変わるというのもそうだし、「歩く」という皆が当たり前に行なっている動作でさえ、明確な個人差があるというのも興味深い。

 こういう細やかな部分に目を向けた人間観察というのも、なかなか面白いものだ。

 皆さんも、自分の歩き方を一度意識してみてはいかがだろうか。もしかしたら、面白い発見があるかもしれない。

 歩き方を矯正したことで、世の中の歩き方も上手くなれば良いのだが……

土偶のエロス・一人焼肉・北野天満宮

10/21 雨

 

 今日は気分転換に京都に来た。

 現在開催中の国宝展で展示されている横山大観の「風神雷神」が見たかったということや、北野天満宮でおみくじを引きたいという目的もある。

 天気が良くないからこそ、人数が少ないということを狙って京都に来た。

 しかし、京都国立博物館は30分待ちの大行列だった。まあ、そういうこともある。英単語の勉強ができたので無問題。

 

 個人的な験担ぎで、私は受験のたびに北野天満宮に参拝している。

 高校受験も大学受験も、おみくじで大吉を引いたが第一志望には落ちてしまった。

 今回はあえて凶を狙う。大吉で落ちるなら、凶で受かる。

 これが、母数が2しかないクソのような帰納法から導かれた答えである。まるで頼りにならない。勉学の方がよっぽど信頼できる。

 

 京都国立博物館土偶を見て考えた。

 縄文時代土偶たちはみな「ボン・キュッ・ボン」な体型だった。エロい。

 縄文人は現代人の同じように、「ボン・キュッ・ボン」が好きだったのだろうか。

 多様化した文化を持ち合わせていなくても、エロスの感じ方が現代人と似通っているというのは、なかなか興味深い。

 エロは時空を超える。いつか「快楽天」などのエロ雑誌も、考古学的な資料になるのだろう。

 

 初めて一人焼肉に来た。一人焼肉は私の悲願である。

 一年ほど前、「孤独のグルメ」の実写ドラマで主人公が一人焼肉に訪れる回が放映されていた。この役者、普段は少食なのに、とても美味しそうに食べるのである。

 その回を見てから、無性に一人焼肉に私は行きたいと思うようになった。

 皆で食べる焼肉もいいが、一人焼肉も何だか満ち足りて幸せそうに思えて来たのだ。

 だが、なかなか一人焼肉に行く機会がなく、今日になってようやくその悲願が果たされることとなった。

 店を訪れ、ランチメニューを頼み、分厚いカルビを小柄な金網の上に置く。

 肉が焼ける小気味良い音が、私の食欲をそそった。

 辛めのタレに少し焦げ目が付いた肉を浸し、一気に頬張る。

 その瞬間、口内に旨味が溢れた。たまらない。

 肉が焼けては、次々と口の中に放り込む。うおォん、まるで私は人間火力発電機だ。

 結局、満腹になるまで焼肉を喰った。一人焼肉はやはり最高だ。社会からのやや冷たい目線を無視すれば。

 

 その後もホットケーキを食べたり、出町ふたばで豆餅を買い、緑寿園で黒豆紫蘇味という謎の金平糖を買ったりと、充実した1日だった。

 十分にリフレッシュできたので、心置きなく編入試験に挑戦できる。

 

 ついでに、北野天満宮のおみくじは中吉だった。学問の欄には「入学よし」の文字が。

 「いいよ」の「よし」か、「よしなさい」の「よし」か、それが分かるのは試験の出来次第である。結局は個人の努力ということだ。

 北野天満宮には受験を控えた高校生が多く来ていた。

 何となく、自分の受験期を思い出した。あの頃、私は自分が編入試験を受けるとは微塵も思わなかっただろう。

 未来の自分など知ったことではないので、せめて現在は努力を続けていきたい。

 

 

夏の亡霊たち

10/18 雨

 

 ずっと雨。

 今日は、観察学習と心の理論の関連について考えた。

 最近、京大の霊長類研究所が、チンパンジーにも心の理論が存在するという証拠を発見した。

 チンパンジーは観察学習によって「完全な模倣」を行うことができる数少ない動物でもある。

 観察学習による模倣と心の理論の間には、何らかの関係があるのだろうと私は思う。

 観察する対象に意思があると信じることができなければ、そもそも模倣という現象も生じることはないだろう。

 イルカにもおそらく「完全な模倣」が生じると考えられているので、イルカも原始的な心の理論を持ち合わせているのかもしれない。

 ここら辺のことが勉強したいのなら、やはり中島ゼミだろうか。

 大学院の進学をどこにするのかも、そろそろ考えていかなくてはならない。

 

 夏が完全に過ぎ去り、季節は秋を迎えた。

 肌寒い日が続き、自らが持ち合わせている服装のレパートリーの少なさに嫌気が差す時節でもある。あの長ったらしかった夏が懐かしく思える。

 

 大学生になってから、毎年夏になると、私は図書館に通いつめる。

 起きて、図書館で本を読みふけり、寝る。そんな生活が2ヶ月に渡って続く。

 こんなことを続けていれば精神に異常をきたすのも当然で、1ヶ月を超えたあたりから言動がおかしくなってくる。

 こうした夏休みの後遺症を抱えたまま、いつも秋学期を迎えるのだ。

 他の大学生がどのような夏休みを送っているかなど、もう想像もつかない。

 バイトをしているのだろうか。サークルでどこかに旅行にでもいっているのだろうか。交際相手の家に通っているのだろうか。答えは遠い夏の中。

 

 秋になると、いつも夏のことを忘れてしまう。

 あの肌を焼くような日光も、耳をつんざくような蝉の声も、今となっては朧げだ。

 多くの人は、夏のことを「懐かしい、かけがえのないもの」と捉えがちだ。

 しかしいざ夏が来ると、そんな夏に対するイメージはたちまち消え失せてしまう。真の意味での夏はいつも、私たちの頭の中にのみ存在する。

 

 路傍で蝉の抜け殻を見つけた。

 中に詰まっていたはずのものはもういない。

 ふと、晩夏に一匹の蝉の声が聞こえたのを思い出した。

 仲間が死に絶えた中、交際相手を求めて一人鳴き叫ぶ蝉に、同情を感じたものだが。

 蝉の声はもう聞こえない。

 抜け殻も思い出も、全ては夏の亡霊である。

  

ちんくそ

10/13 雨

 

 また傘を忘れてしまった。実験実習が終わった後に雨が止んでいればそれでいい。

 それにしても通勤中は皆、傘を持っていないのに、雨が降り出した途端に傘をさす人が増えるのは、一体どういうことなのだろうか。

 彼らの持っている傘は、明らかに折り畳みのものではない。世界一一四五一四不思議のうちの一つだ。

 

 目くそ・鼻くそ・耳くそは「くそ」なのに、なぜチンカスだけ「かす」なのだろうか。

 昨日の夕方に「天かすという名称は下品」というツイートを見かけてから、このことについてずっと考えている。

 「くそ」が名称に付くのは、主に身体から生じるものである。目くそ・鼻くそや耳くそは、全て分泌物と埃の混合物である。

 糞(くそ)それ自体も、身体から生じるものだ。さっきまで体の中にずっといたのに、出てきた瞬間嫌われるだなんて、やっぱりうんこはくそである。

 

 ならば、なぜチンカスは「ちんくそ」ではないのだろうか。

 チンカスの正体を調べて見たところ、これもやはり分泌物であった。むしろ、埃が混じっていないぶん、チンカスの方が純度は高い。

 「くそ」の格上が「かす」なのだろうか。そういや、天かすも衣100パーセントで構成されている。

 試しに辞書を引いてみると、「くそ」は『垢や滓(かす)』を表す言葉としても使われるという記述があった。なるほど、「くそ」は「かす」を含有していているのか。

 一方、「かす」には『良い部分を取り去って、あとに残った不用の部分』、『劣等なもの。つまらぬもの。』という意味がある。「かす」は「くそ」を含有していない。

 

 これより、「くそ」=「かす」ではないことは明らかだ。

 むしろ、「くそ」集合の一部として「かす」が位置付けられていると言っても過言ではない。

 「かす」は「くそ」よりもネガティブなイメージが強調されている。「かす」は「くそ」界の悪役なのだ。

 とすると、目くそなどよりもチンカスの方が悪質なもの、ということなのだろうか。

 まあチンカスは目くそなどに比べて病気を引き起こす可能性が高いので、当然といえば当然のような気がする。

 

 と思っていたら、広島弁ではチンカスのことを「ちんくそ」と言うらしい。

 きっと広島の人たちにとって、チンカスは無害なものなのだろう。彼らの免疫の強靭さにただただ驚くばかりだ。

 でも天かすは天かすのままらしい。もう訳がわからない。

 

 最近、耳かきの同人音声作品を視聴していたら、声優の方が耳くそのことを「耳かす」と読んでいた。

 どうやら、「くそ」か「かす」かは、かなり人の主観によって変わるらしい。

 耳かきに執着する人にとっては耳くそは耳かすになり、性病が怖くなければチンカスはちんくそになり得る。

 ま、どうでもいいけど。

大学生インタビュー Vol.1|「多くの人に正しい知識を」年間読書数2500冊、紆余曲折から見えたこと

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 大学生インタビューという企画を開始します。

 各界で活躍している大学生のみなさんにインタビューを行い、不定期で紹介していきます。

 記念すべき初回は、一年に2500冊もの本を読み、動画サイトやSNSでバラエティあふれる活動を行ってきた金こんにゃくさん”生き方”をお届けします。

 「自分の人生は回り道ばかりだった」と語る金こんにゃくさん。その過程で彼がどのようなものを掴んできたのか、そしてその先には何が見えたのか、お話を伺いました。

 

・インタビュイープロフィール

金 こんにゃく(きん こんにゃく)

K大学 文学部 2年生

過去に数多くのサークルを主宰し、現在は活動の場を動画サイトに移している。大学一年生の夏に心理学検定一級を取得。TOEIC 375点。

 

 

 

 目次

 

何もしなかった高校時代

 

ー現在、様々な活動を行なっている金こんにゃくさんですが、今に至るまでにどのような経緯があったのですか?

 

 はい、自分はとある男子校で理系クラスに配属されていたんですけど、全く勉強をしていなかったんですよ(笑) 

 勉強どころか、本当に当時は何もしていなかった。

 強いて言えば、ツイッターでフォロワーを80,000人まで増やしたことくらいですね。あの頃はただリツイートを貪るだけの生活を送っていました。

 

ーその状況から、どのようにして現在の大学に入学したのですか?

 

 三年の冬になるまで、自分が理系であることに固執していたのですが、それを止めました。

 ほら、なんか文系よりも理系の方が「頑張ってる感」があるじゃないですか(笑) 

 まあ、今となっては元も子もないんですけどね。

 とにかく、苦手な教科を切り捨てて、国・英・社の三教科で試験に挑みました。その結果、なんとか試験に合格して、K大学に入学することができました。

 

心理学と女子と

 

ー大学に入学してから、どのような発見がありましたか?

 

 私は心理学専修の学科に入学したんですが、「大学生からは真面目に勉強しよう」と思い立って、心理学関連の書籍を大学に合格した後に買い込みました。

 そこで「脳と心」という本と、「夢分析」という本、この二冊を読んだんですね。

 そしたら、「脳と心」は認知科学的なエビデンスに溢れた書籍である一方、「夢分析」は精神分析学を基にした、現象学的な内容だったんです。

 要は科学的かどうかという点で、非常に対照的な二冊だったんです。

 全く内容が異なるこの二冊との出会いを通じて、「一体、何が正しいのか」と考えるようになりました。今思い返すと、答えのない学問の世界に触れたのはその時が初めてでした。

 

ー金こんにゃくさんは男子校出身とのことですが、久しぶりに女子と会話して何を感じましたか?

 

 入学当初は、女子という新奇なものに対する恐怖心が少しありましたね(笑) 

 今は全くそんなことないんですが、当時は女子への対応を様々な試行錯誤で図っていました。

 その結果、「素で接せばいい」という結論に達しました。ありきたりですかね(笑) 

 学問と女子、これまで無知だったこの二つとの遭遇が、私を少し成長させたように思いますね。

 

自分史上最大の迷走期

 

ーこれまで、どのような大学生活を送ってきましたか?

 

 まず、大学生になってから、自分に「1日6時間読書する」というノルマを課しました。

 「1日に6時間の読書を続ければ一流の学者になれる」という誰かの名言を目にしたのがきっかけです。

 最初はなかなかページが多いように感じ苦痛でしたが、しばらくすると1日に10冊は読めるようになりました。

 読書以外は、あまり成功しませんでしたね(笑) 

 サークルに入ったり、サークルをいくつも作ったりしましたが、いずれも一年以上は長続きしませんでした。

 TOEICで何故か低い点数をとるわ、いくらかサークルがらみのトラブルが起こるわで、ロクでもありませんでしたね。

 全て自分の自業自得ですが。この一年間は自分史上最大の迷走期と言っても過言ではないですね。

 

ーでは、どのように迷走期から抜け出しましたか?

 

 正直、まだ抜け出せてないです(笑) 

 ただ、少し生産性のあることを始めたのは、動画の制作を開始した頃からですね。

 世界史や、核ミサイルなど、教養の色が強い動画を作ってみたところ、多くの視聴者の方に視聴していただくことができました。

 この頃から、「人に正しい知識を伝えたい」という思いが強くなりました。

 実は、ツイッターにハマっていた頃、情報源を確認せずデマを拡散してしまったことがあって、それがYahooニュースのトップに躍り出てしまったことがあるんです。

 このことへの申し訳なさというのが、ずっと頭の中でわだかまっていて、せめてもの罪滅ぼしで動画を作り始めたということもありますね。

 

嫉妬を燃やして全速力で右往左往

 

ーこれらの精力的な活動の原動力は、ズバリ何ですか?

 

 「嫉妬心」です。

 私は生来、自分が本気になったことに対しては誰にも負けたくないという思いがあります。

 つい先日もテレビ番組を見ていて、年間400冊を読んでいるという慶応の大学生が褒め称えられていて、「ケッ!」と思いましたね。俺はその何倍も読んでいるぞ、と(笑) 

 とりあえず今は、読書や心理学、タメになる動画の製作については、誰にも負けたくないですね。

 その為には、自分より豊かな知識を持っている人や、編集技術を持っている人に追いつき、追い抜かないといけない。

 その力の源となっているのが「嫉妬心」です。

 もちろん、自分の能力が上がっているという実感を得るのが楽しい、ということもありますが。あまり褒められたものでない原動力ですいません(笑)

 

全てを手段に

 

ーでは、ここで金こんにゃくさんの以上の行動の根底にあるものを教えてください。

 

 それは、「全てを手段に変える」という考えです。

 自分の今持ち合わせているもの、己の過去や、未来でさえも現在の手段に変えるということが大切だと考えています。

 私にとって、動画制作は人に正しい知識を広めるための手段ですし、読書も自分の中に使える知識を増やすということへの手段となります。

 自分が持ち合わせている全てを用いて、現在の目的のために利用するというのが必要だと思いますね。

 

ー今後はどのような活動を行なっていきたいですか?

 

 とりあえず、近日中に心理学の解説動画を完成させたいです。

 題材にしているコンテンツがあまり大っぴらに言えるようなものではないので、心理学という自分のフィールドに、私の動画を視聴した中高生を引き込みたいという思いもある(笑) 

 あと、個人的なことですが、これまで読書で得た知識を自分の興味分野の中に位置付けていくということも行なっていきたいです。

 知識を得るための読書から、思考するための読書へと徐々に転換していきたいですね。

 

ー最後に、このインタビューを見てくれている人たちに伝えたいことはなんですか?

 

 読書のしすぎは毒なのでマジでやめてください。私の人格は一年前とすっかり変わってしまいました。あの頃の私は死にました。読書は容量使用法等、正しく守って行いましょう。

 また、今大学一年生の人たちや、高校生の人は自分みたいにはならないようにしましょう。

 以上です。

 

ーありがとうございました。

 

 

 インタビュー中、様々なユーモアを交えながら、金こんにゃくさんは自分について語ってくださいました。

 彼はこれからどのような活躍を見せてくれるのでしょうか。

 金こんにゃくさんの今後にこれからも期待していきましょう。

 これで大学生インタビューの第一回目は終わりです。次回もお楽しみください。

祖父の誕生日

10/8 晴れ

 

 秋晴れの日々、心は晴れやかではない。

 試験の前になると、いつもお腹を壊したり、体調を崩したりする。レジリエンスがなさすぎる。

 今日は阪急十三駅の近くにあるラーメン屋『くそオヤジ最後のひとふり』に行ってきた。

 貝出汁ベースのスープに太めのコシのある麺が程よく絡まり、絶品であった。

 レア状のチャーシューというものも、今日になって初めて食べたが、豚肉の旨味と貝出汁が合わさって非常に美味しかった。もう一度行きたいぜ。

 

 今日は祖父の誕生日である。確か74歳の誕生日だった気がする。

 彼は少し前、脳梗塞を患った。しかし、未だに介護を必要としていない。まだまだ元気である。

 医者曰く、それでも脳の一部に血液が行き届かなくなるので、生活に些細な支障をきたすようにはなるらしい。だが、認知の面では問題は無いそうだ。本人もそこを一番気にしていた。

 祖父は実験用のラットでは無いので、脳のどこの部位が破壊されてどのような行動ができなくなるのか、といった心理学的な好奇心よりも、健康の心配の方が私の中では勝る。さすがに、そこまで私は堕ちてはいない。末長く、健康でいてほしいものだ。

 

 私には従兄弟がいる。私より二つ上の長男と、長男と3歳差の妹で構成された兄妹だ。

 兄の方は現在、大阪府立大学で物理学の研究をしている。心理学とは何の接点もない分野だ。同時に、私の苦手分野でもある。

 妹の方は、何をしているのかわからない。

 というのも、伯母が離婚後、若い男を連れていたことなどのトラブルがきっかけで、祖父と大ゲンカをしてしまって、それっきり私たちとも連絡が途絶えてしまったからだ。

 兄の方は大学の研究室のホームページに名前が記載されていたので、生存が確認できている。

 どうやら風の噂によると、彼は学部を首席で卒業するレベルに成績が優秀らしい。成績がてんでダメな私とは対象的である。

 

 一見、祖父の人生は困難で満ち溢れているように見える。

 終戦と共に生まれ、スマートフォンは愚かエスカレーターも何もかも存在しない世界で若い頃を過ごた。

 中卒で三菱電線に入社し、事故で指一本の先っぽを無くしている。

 お見合い結婚で祖母と結婚し、そして伯母と私の母を男手2つ指9本で養ってきた。

 一度は禁煙したが、それまでずっとタバコを吸ってきたツケが回って脳梗塞を起こした。

 そして、伯母とほとんど絶縁状態が続いている。

 私は祖父の人生のほんの一部しか知らない。

 もしかしたら、困難以上に幸福に満ち溢れた半生だったのかもしれない。

 私に自分の人生の全てを知らしめることを祖父は好まないだろうし、そこまで深く祖父のことを知ろうとする動機もない。

 それでも、彼が人生の黄昏において、今何を感じているのかは知りたいと思う。それについては、祖父自身の口から語られるのを待つしかない。

 親族といえど、個人の心中に不誠実に入り込むことは無礼なことだ。

 

 人生の大部分は、他人に対して語り得ることのできないものだ。

 他人からしてみれば、その人の語られない人生の時間は存在しないのも同じかもしれない。

 それでも、本人にとっては豊穣な、出来事にあふれた人生が確かにそこにあるのだ。

 いつかは老人になることは、誰も避けられない(もしかしたら、今世紀からはならずに済むかもしれない、手のひらクルクル)。

 未来の誰かが、私と同じく過去を「無い無いづくし」だったとなじることもあるだろう。

 そこで立ち止まって、今が「あるあるづくし」なのは、その何もない状態からスタートし、たくさんのものを築き上げてきた今の老人たちのおかげだと考えてみる。

 現在の豊かさは、何もなかった過去と繋がっている。

 老人たちも、なかなか捨てたものではないのである。