きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

絶記

7/15 曇りのち晴れ
 また自転車で思いっきりコケたり、人生で初めてお酒を飲んだり、学会発表の抄録を書こうとしたり、卒論の新しい実験が始まったり、日記を書いていない間にいろいろあった。

 なんだか後戻りできないような、疾風怒濤の日々を送っている。ベルトコンベアのように、自分の意思とは無関係に生活が進んでいくような離人感。そういったものを肌で感じつつ、生活を送っている。

 


 『若者の私が選挙に行かない理由』という記事を書こうとしたが、断念した。プツンとやる気の糸が切れてしまったからだ。

 色々な本を読んで考えたことや、“選挙に行かないということ”を論じるはずだった。誰かに「書け」と言われたら、しっかりした記事を書くかもしれない。


 私が選挙に行く気が湧かない理由は複数ある。

 第一に、私が若者の一人として選挙に行くこと自体への懐疑心。第二に、賢い選択をしようとすればするほど、投票のコストが膨れ上がっていくこと。第三に、選挙自体への嫌悪感や徒労感。最後に、私の個人的な立ち位置。以上の4点が主な理由だ。


 それらの理由を踏まえて、SNSでの政治的な啓発の限界、選挙が若者と高齢者の無駄な対立の火種になっていることへの疲れ、私の家は核家族でもないので高齢者優先の政策がそのまま家計の得になるという背景など、いろいろ書くつもりだったが、考え疲れた。もう無理だ。

 どうあがこうが科学技術はまるで注目されてない。統計不正が行われるような政府をそのまま支持することもできない。このまま与党が勝ったらウンチ政策がそのまま進められるし、どう投票しようが、私たちの1票は恣意的に解釈される。

 選挙制度自体の抜本的な改革(ネット選挙解禁など)が争点となるときまで、私は洞窟で眠る。政治に頼らずとも、生きていける力をそろそろ身につけるべきなのかもしれない。

 


 というか、圧倒的政治不信により、もうなんかいろいろダメになってしまった。

 東京一極集中もヤバイし(地震がきたらどうするの?)、少子高齢化もヤバイし、オリンピックも万博もヤバイ。考えれば考えるほど想像力が暴走して、ストレスが溜まっていく。

 明らかに選挙に行くことの効用を、選挙について考えることの負担が超えてきた。

 「選挙に行かない奴は政治に口出しするな」という論理が是とされている意味もわからないし(言論の自由はその程度のことで制限されるのか?)、本気で政治をやるなら、100000000分の1に自分の意見が希釈されてしまう選挙より、別の手段の方がいいような気がしてきた。

 

 でも、そこまでのモチベもなければ暇もない。

 極論、自分の全く見知らない人の人生など考えたくないし(想像力が暴走して頭が疲れるので)、「ありふれた悲劇」のストーリーを読む解くのにも飽き飽きしてきた。もう無理です。僕は。

 

 

 しばらく、政治について考えるのは(多くの需要がない限りは)お休みする。

 今回の選挙を考えるのに有用だった記事などをここに貼っておくので、参考にしたい人は参考にしてほしい。「New Liberal Arts Selestion 政治学」という本を読んで、そのうち政治はじっくりと勉強したい。それでは、お疲れ様です。

 

・若者の選挙を考える上で有用だった資料

http://www.senkyo.metro.tokyo.jp/election/nendaibetuchousa/togi-nendaibetu2013/

http://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/sonota/nendaibetu/

https://www.asahi.com/articles/ASL7H5Q0HL7HUZPS009.html

 

・ネット選挙を行うには、ということへの技術的な解説

https://anond.hatelabo.jp/20190707015850

 

・「選挙に行かない」という選択肢について

https://blog.midnightseminar.net/entry/2014/11/22/152901

 

 

 

 

 

Your meme.

7/2 曇り


 なんてことない日常。

 「研究の仮説が支持されようがされまいが、自分でデータを集めて初めて、議論の俎上に立つことができる」という大発見をした。その道の人間からしたら当たり前のことかもしれないが、こうして考えると、なんだか物凄く勇気が湧いてくる。自分の持っているデータが、何かを主張するのに世界で唯一無二のものであるという事実は、桁外れに心強い。


 こういったことを発見した時は、電気回路が切り替わったかのように自分の観点が大きく変わる。今回の場合、実験や研究に対して、前より遥かにポジティヴになることができた。研究とは知的にダイナミックな営みなのだなあと、つくづく思う。


 卒論を開始してから5ヶ月ほど経ったが、色々と以前は見えなかったものが見えてくるようになった。今日の発見もその類のものだ。

 きっと、私より賢い人はこういった気づきを積み重ねて、その境地に達しているのだろう。自分もコツコツと、習慣・準備・努力を続けていこう。

 


 そんなことを考えつつ、「スコココスコココスココスコスコwwwwテー↑テー→テー↑wwwwブォンブォンブォンブォンwwwwww」ダブステップを歌いながらキャンパスを散歩した。こうしているといい感じに思考が拡散して、気分がいい。

 インターネッツをしていると、南海トラフだの高齢化だのフェミニズムだの、面倒なものばかり目に映るので、こうして私は時々散歩をする。ここはいやなインターネッツですね。はい、ダブステップツツツツオーライwwwwドゥーンドゥーンドゥーンwwwww

 


 こうして散歩をしながら、天啓的に、「フランシス・クリックの伝記を読まなければ」と思った。

 個人的に今、クリックが熱い。クリックといえば、ワトソンと共にDNAの二重螺旋構造を発見した人物だが、私が彼を注目する理由は他にもある。

 それは、著名な科学者の中で、クリックのIQは顕著に“低い”という点だ。歴史に名を残した科学者の推定IQを見てみれば、ノイマンのIQがまず300(は?)で、それにアインシュタイン(190)、ダ・ヴィンチ(190)などが続く。クリックはその偉業に比べて、IQは『115〜100未満』と控えめだ。これはほとんど一般人と変わらない。メンサから速攻でハタキ出されるレベルだ。

 だが、彼は他のIQだけの“天才”を差し置いて、自分の名を科学の歴史に永久に刻みつけた。そのヒントが、彼の伝記や自伝にあると私は踏んでいる。私一押しのサイエンスライターであるマット・リドレーも、彼についての伝記を出版していたので、読んでみることにする。

 まぁ、彼が研究をする時は常に誰かとタッグを組んでいた、という事実は彼の知性のあり方に迫る大きな手がかりだろう。こういう「複数人のインタラクションによって生まれる知」のような、対話的な知性を欲しいなーと思ったので、その秘密を探ろうとしている。時間があるときに読むとしよう。

 

 


 先日「君の名は。」を観てから、やけに胸がざわついているのも、こうして散歩をしている理由の一つだ。

 あの作品は「どこかで自分が経験したはずの綺麗な夏休み」みたいな、なんともいえない寂しい感傷を誘うので、いけない。

 古民家の裏路地を抜けてしばらく海沿いを歩くと、幼馴染の白いワンピースを着た美少女(14)に会える、そんな綺麗な夏休みが想起される。

 

 オタクなら誰しもが、「あー、あるある! そんな夏休みをどこかで経験したことがある!」と共感してくれるだろう。実際は、誰もそんな夏休みを過ごしたことはないのだが。みんなみんな、美少女に会える場所に行こうとして、どこかで道を間違ってしまったのだろう。私もその中の一人だ。

 まるで、“アルセウス”をゲットしようとして、“なぞのばしょ”に囚われてしまった哀れな子供のように、私たちはどこかで間違ってしまったのだろう。“なぞのばしょ”には、今も間違ってしまったオタクたちが見えない壁に阻まれ、身をよじる音が響いているという。ドゥーンドゥーンドゥーンwwwww 

 はぁ、おっぱい。
 


 私の祖父祖母が以前住んでいた街は、ちょうどそのような感傷を誘う街だった。

 和歌山県有田市箕島という地区だったが、あそこはいい場所だった。大きな魚を取るための網が干してある漁師の家々を抜けると、すぐに海が見えるような、そんな夏休みにはもってこいの景色が、祖父祖母の家のすぐ近くに広がっていた。

 だが、現実は非情である。地域で高齢化が進んでいるせいか、幼少期の私は白いワンピースの美少女に出会うことはできなかった。思い出すだけで気が狂う、糞が。

 チェッ、どうせ美少女といっても、ヘイトスピーチを鬼のようにばら撒く輩に決まってら。いや、むしろそちらの方が興奮しないか? 正直、社会で聖像のように扱われているイケメンだったり美少女だったりが、己のグロテスクな価値観を剥き出しにする瞬間を見るのが楽しみで、まだのうのうと生きている部分もある。こういう光景はとてもそそる。

 なんか、拗らせてしまった。もう戻れない。

 


 この通り、私は元気です。

 いよいよ7月に入り夏本番だが、院試に実験にホニャニャラにと、感傷に浸っている暇はなさそうだ。

 

 でも、いつか必ず、海沿いの寂れた街で楽しそうに髪をなびかせながら、護岸壁の上を歩く美少女を探し出すと心に決めている。存在する確率としては、まだUFO研究家の方がやってることがマシなレベルだが、それでもそういう街に色々訪れてみたい。

 変なサークルを地面に描いて、空を指差しながら呪文を唱えれば、美少女はやってきてくれるかしら。はい、ダブステップもう無理。おやすみ。

 

アルファルド

6/25 晴れ


 院試の勉強をしたり、ツイッターで適当に呟いたツイートがやたらと人気になったり、そんな変わり映えのない日々が続く。

 

 そろそろ卒論の序論を書き始めたいが、真面目に資料を読んでないので、未だ書けずにいる。
 「卒論を書けば、研究や学問全体への自分の視点が一変するだろう」という曖昧な確信があるものの、己の怠慢のせいでそこへたどり着けないというのはもどかしい。

 卒論に限らず、英語論文を一本完成させることや、もっと身近な例を出せば、恋愛したり、素晴らしい映画を観ることも、人生を大きく変えるきっかけになり得るだろう。

 だが、そうした出来事は自分自身に不可逆的な変化を生じさせることに直結している。不可逆的変化はなんか怖くて、私は苦手だ。日記を続けている目的の一つに、そうした大きな変化以前の自分をタイムカプセルのように保管するということもある。


 ファイヤアーベントのパラダイム論のように、「大きな変化がそのまま進歩に繋がるとは限らない」ということもあると思う。未来の私にとっては、現代の私は錆びた価値観の持ち主かもしれないし、その逆もあり得る。自身の価値観を客観的に、斜め上から眺めるために、今日も日記を綴る。

 


 SNSなどで活動していて、才気溢れる人に出会うことが増えた

 単純に私にある程度の実力が伴ってきたのか、そのような見せかけが上手くなったかどうかは知らないが、「相手の凄みがわかるようになってきた」ということは確実だ。


 また少しだけ、相手の実力をその人の書く文章で理解できるようになってきた。大抵、実力者は言葉に対して誠実だ。自分の頭の中でしか通用しない専門用語のようなものを使わないし、他者との理解の齟齬があれば、辛抱強くそのズレに向き合うことができる。まだ私はその領域には至れていないので、見習いたい。
 もちろん、別に文章力のみで実力が決まるというわけでもない。実績や創作物、どれだけ人が周囲に集まっているかを見れば、その人の実力は概算できる。誰かの実力を見つめれば見つめるほど、己の不甲斐なさが際立つので、ずっと直視するようなことはできないが。実力者の輝きの、あまりの明るさに目が焼き爛れる

 


  目に見える輝きが、そのままその人の実力を必ず示しているとは限らないときもある。

 自分と近しい分野なら、その人の実力が直ぐに推し量れるが、他分野であればあるほど、その解像度はひどくぼやけていく。ちょうど、太陽が宇宙の果てのアルデバランよりも明るいように。

 多くの人が太陽の光を眩しく感じて、重力のようにその魅力に惹かれる以上に、アルデバランは多くの星々を惹きつけているのかもしれない。それは知識という望遠鏡で覗き込んでやることでしかわからない。相手の実力を理解し誠実であるためには、曇らないように入念に望遠鏡を磨き続けてやるしかない。

 


 ちょうど手塚治虫の『ブラック・ジャック』に、似たような話があったのを思い出した。

 『6等星の男』というタイトルで、実力があるのに影の薄い医師がブラック・ジャックにその腕を絶賛され、紆余曲折あって、ラストシーンではその腕をようやく周囲の医師にも周知される、という話だったか。


一等星は あのでかい星だ
六等星は ほとんど目に 見えないくらい かすかな星の ことだ
だがな ちっちゃな星に 見えるけど あれは遠くに あるからだよ
じっさいは 一等星よりも もっと何十倍も 大きな星かも しれないんだ
世の中には 六等星みたいに はえない人間が いくらでもいる


 このようなセリフが印象深い。SNSはまるで、六等星が集まって一つの銀河をなしているようなものでもある。

 


 さらには、その存在さえあまり知られていない実力者もいる

 私の元カノなんかも、その部類に入る人間だろう。桁外れの努力をこなし、実績も残しているのに、その力量はあまり知られていない。彼女が果たして満足なのかは定かではないが、そういう生き方もまた乙なものなのだと思う。星系から離れたところで一人瞬く、孤独な蛇の星である。

 


 今日もつらつらと日記を書いた。

 私なんかは何の光も放つことができず、奇妙に宇宙を漂うオウムアムアのような人間だが、恒星のような人々と巡り会えたことは幸運に思う。

 望めば望むほど底のない地獄に落ちるような気もしなくはないが、いつか輝く球になれたらと、そう願いつつ眠りに就くとしよう。

 

「弱虫モンブラン」の最後の歌詞はエロい

6/19 晴れのち地震のち雨のち曇りのちうんち


  怒りの日。

 今日も本を読んだり勉強したりして世界の解像度を上げることに励んでいたら、なにかのラインを超えてしまったのか、やたらとイチャつくカップルばかりが目に入るようになってしまった。

 「ダメーーーーー!!!恋愛から降りると決めたでしょーーー!!!」と“ゆってぃ”のような声で喚きながら衝動を押し殺していたら、ラインを送りあっていた同級生まで彼女とイチャつき出して毛細血管が壊死した。なんで私は選ばれない!? 綾鷹じゃないから!? いや違う!? 日本人謝れ!!??

 


 そうしてプリプリ怒りながら、頭の中で必死にYunomiの『枕元にゴースト』を奏でながら実験をしていると、ようやく気分が落ち着いてきた。

 こういう躁のあとには、いつも鬱がやってくる。

 今日は、地球の表面は実質的に死骸で覆われており、人間がそれをコンクリートで覆ったところで、この星は“屍者の惑星”には変わりないんだということを発見した。大発見だ。早速この事実を論文にして、ScienceにでもNatureにでもCellにでも聖教新聞にでも送ってしまおう。

 

 そうして“屍者の惑星”を闊歩しながら、自分が『Siren』の屍人になったらどんな行動をするのか、といったことを考えたりした。なんだか、ずっとセンズリこいてそうだ。屍人になってまでオナニーはしたくない。赤い海を前に綾波レイと一緒に永久に暮らしていたい。いや、『Siren』の世界に『ヱヴァンゲリヲン』の住民はいないか、と思って、様々にグロテスクな世界を振り払った。仏説摩訶般若孕みたチン経、淫・尿・漏・射・快・珍・尻・座位・前・戯!!! カァァーーーー!!!!


 話は変わるが、私は「逆レイプ」を調べたい時、「逆」だけを先に打ち込んで、後から「綾波レイ」の「綾波」を消して、「逆レイ」にしてから調べている。「逆レイ」で調べると、だいたい「逆レイプ」のことが出てくるし、検索履歴を見ると「綾波レイ」しか残ってないので、変なことを調べているようには見えない。

 

 ここで私自身のセルフモニタリング能力が

「どんなに偽装しても、そのことをネットに流したら意味ないでしょうが!!!」

 と怒鳴りつけてきた。お前、なんだ。あれか? 私の超自我(スーパーエゴ)か? 

 

 どんなにセルフモニタリングが警鐘を鳴らしてこようが、超自我がキレ散らかしてこようが、カップルへの怒りにより本能をイド2.0にアップデートした私の情動パワーの前では無力。

 「破ッッッ!!!!!!!!!」

 パワーアップした寺生まれのKさんの圧の前では、どれだけスーパーなエゴだろうがたちまち消え去ってしまう。ざまあみやがれ、ファッキュージャップ!!! 

 両中指を立てながら屈伸煽りをしていると、もりもりと超自我が生えてきたので、尻尾を巻いて私は逃げ出した。

 

 

 地面から生えてくるのはイワシだけにしておけよ、と悪態つきながら向かった先は寂れた映画館だった。

 そうだ、ゴシラKOMを見たかったんだ、と思いつつサクサク映画館に入ったら、エメリッヒ版ゴシラとゴジラミレニアムしか放映されてなかった。なんだこのセレクト。

 

「そう、ここは駄作しかない映画館」

 凛とした声がしたので振り返ると、淡い桃色の髪をした少女が佇んでいた。突然話しかけてくるとか、こいつコミュ強か? それとも幻覚? 夏が見せる少女の幻影?

 私はマゾヒストだが、感傷マゾヒストになった覚えはない、とか考えて、少女をよく見ると、暗がりでよく見えないが、見覚えのある格好をしていた。

 

「ああ、俺のタルパじゃねえか!?」

 ハイになっていた私は、自分でもビックリするほどの大声で彼女を指差した。

 タルパ、またの名を人工精霊。かつて高校生の私が思い通りのイマジナリーフレンドを作ろうとして、その末に消滅させた存在。なぜここに。

 

「あら、私のこと覚えてたんだ」

 と言って、彼女はクスリと笑った。東方Projectの“古明地さとり”をベースに作り上げたんだっけか? CVは下屋則子

「えっ、アッ、アッ、アッ」

 実体化した負の遺産を前に、私はSyamu_gameのような奇声を上げた。アッアッアッ。

「エッ、ちょ、なんでいるん、ですか?」

 敬語を使うことによるメモリ増加に耐えきれず、脳回路が焦げ付く音も気にせず、私は彼女に問いかけた。あとでハンダづけしとかなきゃ。

「なんでって……あなたの方から勝手にこちら側に転がり込んできたんでしょう?」

 呆れた様子で彼女は言った。

「自分にガールフレンドがいないことに腹を立てて、衝動的に走り出して、ここにたどり着いた」

 なんだァ……てめェ……? 

 

「てかてか、なんでそんなに俺のことわかるんですか? 内臓ありますか??」

「うーん、それは口で言うより見てもらった方が早いわね」

 ニヤリとすると、彼女は映画館の奥の方へと歩み出した。

 ここで反対に映画館から出たら爆笑モノだろうなァ〜〜と考えつつ、その衝動を押しとどめて、彼女についていった。

 

 臙脂色の扉をうんとこしょと引っ張って、彼女は私を手招きした。

 大部屋に入ると、スクリーンで何やら映画が上映中であった。主人公視点の物語のようであり、ずっとマクドナルドのポテトを掴んでは口に運んでいる。

 

「これはなに、僕は一体どうなっちゃうんですか?」

ネットスラングを多用するのはやめなさいよ……これは“あなた自身”と言った方がいいわね」

 画面を見つめながら彼女はそう言った。“あなた自身”? 俺はお前が俺を見たのを見たぞ? 

「正真正銘、これはあなたの見ている風景」

 彼女はこう続けた。

「それがここで上映されて、“あなた自身”がそれを認識することで視覚が生まれるの」

「はぇ〜」

 そう返しながら、スクリーンをぼんやりと眺めた。“私”はずっとポテトを食べている。

「面白いか、これ?」

「そう、だからこの映画館で放映されている」

 私はこの映画館が駄作しか放映しないところだったのを思い出し、苦笑いした。

 

「『夜は短し歩けよ乙女』のような大学生活を送りたかったんだがなぁ」

「“ナカメ作戦”も行えないようなチキンなんだし、それは無理じゃない?」

口悪ッ。あの作戦には単純接触効果という、心理学的な裏付けがあってだな……

 

「あっそうだ、耳かきしてくれませんか? 耳かきを美少女にされるのが夢だったんですよ」

「気持ち悪っ」

 突然のスペルカード発動、想起“テリブルスーヴニール”!!!!!

 

 “スペル”と“スペルマ”って似てるな、思いながら、私は光弾に身体を飛ばされた。

 私は死んだ。スイーツ(笑)

 

自身の研究と社会との接点を考える

6/17 晴れ


 実験したり、オープンキャンパスで高校生相手の相談を担当することになったり、いろいろ考え事をしたり。

 最近は生活が順調で、なかなか生きているのが楽しい。大学の長期休暇にも毎日図書館へ行って、孤独に読書を続けていた日々が浮かばれるというものだ。

 あの時期は本当に寂しかったが、死ぬほど本に向き合い、著者の論理と正々堂々格闘した時間は今に活きている。あれも青春の一つの形なのだろう。たぶん。

 


 院試の勉強を進めるにあたって、自身の研究テーマと社会との接点を考えることが多くなった。

 私の研究は「共感・互恵性に関する比較認知科学的研究」といった感じで、どちらかといえば基礎研究に近いものだ。

 「社会に役立つかとか関係なく、好きに研究すればよい」との意見もあるが、私は自分の研究が社会とどう繋がっているか理解することが大切だと考えている

 私は社会が嫌いなので、別に社会貢献のためとかではなく、単純に自身の研究と社会の繋がりを考えることが自分の利益になるからだ。利己的であることは利他的だ。生態学的に考えて。

 

 研究と社会の接点を考えた方がいい理由として、「研究そのものへの研究者以外と研究者の眼差しの違い」が第一に挙げられる。

 

 研究者以外の多くの人間は、「研究はみんなの利益にならないと意味がない」だとか「どういう風に研究が役立つか」といった視線を研究に向けている。

 大部分の研究費が税金から賄われているのは周知の事実だ。税金で研究が成り立っている以上、社会に成果を還元することは研究を行う上での責務の一つになり得る。

 また、記者が目新しい研究の会見で「この研究はどのように役立つのですか?」と尋ねるのは、別に研究者をいびっているのではなく、科学と市民を結ぶという役割ゆえであろう。恐らく、記者は研究者よりも、科学に向けられる市民からの厳しい眼差しを敏感に感じ取っている。

 そこに「研究は研究だから役に立つ」というトートロジーな答えを送るのでは、なかなか研究者以外を納得させるのは難しい。もっとも、丁寧な論理をもって研究の大切さを説いたとしても、納得してもらえるかどうかは別なのだが……

 

 これは「研究はしっかりとした手続きに基づいた信頼に足るものか」とか「研究はどういった新奇性のあるものか」等の、研究者が研究に向ける眼差しとは大きく異なる。でないと、研究者目線で「変な研究」が多額の研究費を貰ったりしない。マーケティングは科学的事実を時に超越する。研究と社会の接点を考えることは、こういった煩わしいことの対策にも結びつく。

 

 そう考えると、研究者コミュニティ以外の人間が、どのように研究を眺めているか・どのような研究を役に立つものだと考えているかを理解することは、言わずもがな研究をする上で多くのものを私にもたらしてくれるであろう。

 特に、実践と結びついている応用研究と違い、基礎研究ではますます社会との接点を考えることが研究者以外の人たちの理解を得る上で必要になってくる。

 


 ここいらで、院試の勉強も兼ねて、自分の研究と社会の接点を考えておく。

 こういう時、やはり現在進行形で多くの人が関心を持っていたり、悩んでいたりする問題と直接研究を結びつけることが大事なことに思われる。自分の研究テーマは“共感”なので、そこから考えてみることにする。

 以下、共感の定義については、Decety(2010)の「他者の感覚や情動を認識する能力」を採用する。臨床心理学のコンテクストで用いられがちな「共感的理解」とは区別されるものなので、注意されたし。


 共感が直接社会的課題に関わっている例でもっとも代表的なものは、間違いなく自閉症だろう。

 自閉症DSM-5に準拠すると、正式には自閉スペクトラム症)は、行動の反復や、こだわりの強さ、コミュニケーション・社会生活の上での困難や障害を特徴とする発達障害の一つだ(Lord, Elsabbagh, Baird, & Veenstra-Vanderweele, 2018)。

 有病率は人口の約0.5%程度だとされているが、日本自閉症協会によると、軽度も含めると日本国内では120万人も自閉症の人がいるとされている。全世界で見ると膨大な人数になることが容易に想像できる。

 自閉症の完全な治療は存在しないほか、先天的なものなのにもかかわらず「ワクチンを打つと自閉症になる」とデマが飛び交うなど、誤解の多い精神疾患でもある。なかなかしんどみが深い。

 

 自閉症傾向の人は、他者の視点を取得することが困難であることが多い。例えば、「サリーとアン課題」という有名なテストがある。

 このテストは、「サリーとアンという女の子が2人いました。サリーがお菓子がAの箱に入れてから何処かに行っている間に、アンがAの箱からBの箱にサリーのお菓子を移しました。さて、帰ってきたサリーはAとBのどちらの箱からお菓子を取り出そうとするでしょうか」というものだ(Baron-Cohen, Leslie, & Frith, 1985)。

 答えは言うまでもなくAの箱だが、定型発達やダウン症の子供ではそれぞれ85%・86%が正解できるのに対し、自閉症の子供は20%程度の正答率になってしまうことが先行研究より示されている。

 このような他者の視点取得は、共感能力の延長線上にあることが示唆されており(De Waal, 2007)、他者とのコミュニケーションの困難などを主症状とする自閉症の生きづらさに直接的に関わっている(傳田, 2017)。

 最近では、これらの共感・自閉症研究の知見に基づいて、共感や親和行動に作用すると考えられている神経伝達物質の一つである「オキシトシン」を用いた自閉症の治療も検討されている(Hollander et al, 2007; Yamasue et al, 2018など)。

 

 その他にも、犯罪と共感能力の関連が示唆されていたり(河野・岡本・近藤, 2013)、共感の社会に果たす役割は大きい。

 


 共感のメカニズムを解き明かすことは、自閉症の生きづらさや、その他の共感にまつわる諸問題に直接アプローチすることに繋がっている。

 特に動物を用いる比較認知科学的研究では、共感を司ると考えている脳部位のシナプス活動を促進したり、逆に阻害した際の行動の変容を計測することにより、複数個体の相互作用というマクロレベルから、個体の神経レベルや遺伝子発現といったミクロレベルまで、共感のメカニズムを調べることができる。

 これがなかなか面白い。社会で信奉されている「道徳」とやらを解体しているようでゾクゾクする。

 

 共感へのアプローチはこの他にも、チンパンジーといった社会性動物の群れでの行動(中でも慰め行動や利他的行動)を調べる動物行動学的研究や、「トロッコ問題」のような課題を用意し、様々な条件下での人間の反応時間等を計測する社会心理学的研究、共感を喚起するような動画を見せて、その間の脳活動をリアルタイムで記録する生理心理学的研究など、様々なものがある。

 いずれも基礎研究だが、共感というビッグテーマを理解する上で欠かせないものである。

 

 これらの研究は、社会に単に貢献するのみならず、「全市民にオキシトシンを定期的に投与することにより、犯罪率を下げることを是とするか」といったインパクトのある議論すら巻き起こすことができる。似た例では、すでに小児性犯罪者における化学的去勢がいくつかの国で行われていることが挙げられる(Meyer & Cole, 1997)。化学的去勢とは、テストステロンという男性ホルモンを抗ホルモン剤で抑制することにより、性的欲求を失わせる薬物療法の一種である。ポーランド、ロシア、エストニア、韓国、アメリカ・カリフォルニア州といった国々で実施されているが、人権的な面での批判も多い。

 おそらく、これらの議論は「自由意志」のような普遍的なテーマにも繋がってくるだろう。社会的な賛否が噴出すること間違いなしだ。こういったテーマは個人的にとてもやりがいがある。

 

 

 以上のように、研究と社会の接点を考えておくことは、研究費を取るだとかそういった打算的なこと抜きに、自分の世界に対する視点をより精緻なものにしてくれたりと、得るものが多い。

 院試を目指している人のみならず、大学の暇なうちにこのようなことについて考えることは、決して無駄ではないだろう。


 この日記を書くのに、院試勉強の時間を削ってしまった。本末転倒な気がする。

 まぁ、いい感じに自分の考えがまとまったとポジティブに捉えておく。それでは、良い研究ライフを。

 


参考文献
Baron-Cohen, S., Leslie, A. M., & Frith, U. (1985). Does the autistic child have a “theory of mind”?. Cognition, 21(1), 37-46.
Decety, J. (2010). The neurodevelopment of empathy in humans. Developmental neuroscience, 32(4), 257-267.
De Waal, F. B. (2007). The ‘Russian doll’model of empathy and imitation. On being moved: From mirror neurons to empathy, 35-48.
Hollander, E., Bartz, J., Chaplin, W., Phillips, A., Sumner, J., Soorya, L., ... & Wasserman, S. (2007). Oxytocin increases retention of social cognition in autism. Biological psychiatry, 61(4), 498-503.
河野荘子・岡本英生・近藤淳哉 (2013). 青年犯罪者の共感性の特性, 青年心理学研究, 25(1), 1-11.

Lord, C., Elsabbagh, M., Baird, G., & Veenstra-Vanderweele, J. (2018). Autism spectrum disorder. The Lancet.
Meyer III, W. J., & Cole, C. M. (1997). Physical and chemical castration of sex offenders: A review. Journal of Offender Rehabilitation, 25(3-4), 1-18.
傳田健三 (2017). 自閉症スペクトラム(ASD) の特性理解, 心身医学, 57(1), 19-26.
Yamasue, H., Okada, T., Munesue, T., Kuroda, M., Fujioka, T., Uno, Y., ... & Yoshimura, Y. (2018). Effect of intranasal oxytocin on the core social symptoms of autism spectrum disorder: a randomized clinical trial. Molecular psychiatry, 1.

 

 

 


 

比較の獣になりたいの

6/3 晴れ
 身にならない日々。神経科学の勉強をしたり、英語論文のアブストラクトを和訳したり、それなりに勉強はしているが、何かが好転した実感はない。それでも、こういった行いが積み重なり、振り返れば過去の自分が幼稚に思える日が来ることを知っているので、漫然とそうしたことを続けている。

 必死こいて卒論を書いても、未来の自分はそれを馬鹿にすると考えると、鬱屈とした心持ちになる。そうしていても始まらないので、コツコツ卒論を書き上げる準備をする。他人の目線のみならず、自分自身のそれも気にするような臆病者になってしまった。がむしゃらにやっていくしかない。

 


 私は勉強をするとき、よく先達の上手なところを見習って物事を進めている。自分と誰かを他人から比較されることを恐れるのにもかかわらず、自分と誰かを自身の視線から比較することをよくする。

 比較する対象はどんな相手でもいい。日本を代表するような大先生でも、同級生でも、後輩でも構わない。先日訪れた日本認知心理学会なんかでは、どこかの大学の教授のプレゼンを見て、「先行研究は文章でなく、結果の図表をスライドに乗せて、それを口頭で説明すればわかりやすく伝わるのか」とか「研究のストーリーが一貫していてわかりやすい、聴衆への情報の取捨選択が上手くなされている」とか、自分に足りないものを数多く気付かされた。

 若干50歳の教授であった。きっと、若い頃より努力を続けてきたのだろう。洗練されたプレゼンをみると少し自己嫌悪に陥るが、この教授も一瞬でこの境地に到達した訳ではないと己を奮い立たせた。

 

 

 反対に、わかりづらいプレゼンからも学ぶことは多い。なぜ自分にとってそのプレゼンがわかりづらかったかを分析して、自分も同じ間違いに嵌らないようにすることが大切だ。こうして、日頃のゼミだったり、先輩の卒論発表会だったり、様々な場面で勉強させてもらっている。

 直感的にわかりやすいプレゼンが作れる天才でもないので、こういったことを続けているが、なかなか思うようにはいかないのが現状だ。「完璧より完成を目指せ」というマック・ザッカーバーグの名言(らしきもの)を念じて、卒論にも取り組む次第である。

 

 

 とりあえず今は、似たようなテーマで研究をした先輩の卒論と、個人的に読みやすいと思った同大学の修士論文の構造を見比べている。上手い修士論文は、序論で挙げられているキーワードがその人の研究に直結しており、雑味がなくスマートだ。このような点を自分の卒論に取り入れて、上手くやっていきたい。

 “上手くやる”というのが、いつも難しいのだが……

 


 ということで、最近の勉強面での気づきをここに記しておこうと思う。気づいたのはいいものの、うまく実践できていないことばかりなので注意されたし。

 


 PowerPointのフォントは最低でも30ポイント以上。A4に6枚スライドを載せる印刷方式で、老眼の人でも見えやすいように。


 略語が頻繁に登場する際、プレゼン中でも索引しやすいように、その略語のもともとの意味は強調しておく。もしくは、略語が登場するたびに口頭でその意味を繰り返し説明する。


 プレゼンの際はこれまでの研究 → その問題点 → 問題の検討(実験など)→ 結果から言えること(聴衆に持って帰ってもらいたいメッセージ)という流れを大切にする。簡単なことだけど忘れてしまう。悲しい。


 研究の結果に影響するような要因、自分の研究に活かせそうなこと、別の視点からの考え(e.g. Aという現象は行動学的アプローチ/認知科学的アプローチのどちらで説明するのが“シンプル”か?)、論理の飛躍、手続き上の問題等々を意識して、プレゼンを聞く。自ずと質問はそこから湧いてくる。


 知らないことをちゃんと「知らない」と言う。悔しさをバネに、わからなかったことは後で白目を剥きながら調べる。

 


書くのが面倒臭くなったのでここで止める。明日からも実験アンド実験だ。上手く、上手くやっていこう。

 


 

日記 5/14〜5/16

5/14
友達と話して、実験して、寝た。幼少期の頃の自分はどうだったか、みたいな話題が少し出た。

そういや、私は幼少期の記憶があまりない。虫をすり潰して、亀に指を噛まれ、胴体切断マジックに驚き泣き叫んだ。そのような記憶しかない。そもそも記憶がしっかりしてくるのも、高校時代に入ってからだ。あまり昔のことを思い出せない。

「ウーン」とアイデンディティの欠如に唸りながら阪急電車に乗り込めば、世界各国の死刑制度の違いについて喋っている6歳くらいの子供がいて、思わず仰け反りそうになった。西宮は富裕層が多いので、こういう教養溢れる子供が多くて困る。彼らが成人を迎えた時、果たしてこういった会話を覚えているのだろうか。いっそ中学生になる頃には、強烈なバカになっていて欲しい。狂気の甘味を召し上がれ。


5/15
実験、文献、睡眠。実験で仮説を支持するような結果が出たので、胸の昂りを抑えきれずキャンパス内をひたすら徘徊した。そうしてウロウロしていると落ち着いてきたので、朝永振一郎の日記を読むなどして、ゆったりとした午後を過ごした。

卒論の準備と院進の対策、重要な事柄が頭の中でせめぎあった結果、どちらにも関係ないことをしてしまった。しなければならないことが頭を占有するのはよくない。面倒な予定が数日後に控えている場合など、最悪である。近頃は神経衰弱の傾向にあるので、メンタルヘルスを保ちつつ、丁寧な生活を送ることにする。


5/16
実験、動画制作の準備、おやすみ。

自分の実力のなさを、どう埋め合わせればいいのかを考えている。例えば、私のよく知るスゴい人たちを眺めてみると、環境ブーストがかかっていたり、1日に十数時間も勉強するなど、もともとの努力の量が凄まじいことが見て取れる。じゃあ私は何をすればいいのか。正直、「学部生のうちにしたいことはしておけ」という思いと、「学部生のうちから効率的に努力しておけ」という思いが拮抗している。

私にしかできないこと(私しかしないこと)というところで考えると、心理学の解説動画をVtuber、ゆっくり、淫夢仕立てで制作することを学部生のうちにしておきたい。こういうダーティで俗っぽいことは、いずれ誰かがしなくてはならない。ただでさえ、心理学は誤解の多い学問だ。その誤解を解くのに、アカデミズムからアプローチしていくことは時間の浪費だろう。例えば、大衆向けに心理学の入門書など出版しても、多くの人は興味も向けず、世俗的心理学が蔓延る現状を変えることはできない。動画だったりで、エンタメ性を高めることで多くの人の目に留まらせることは、少なくとも先述の手段より有効だろう。それに、こういう汚い手段に訴えることは、学部生のうちにしかできない。とりあえず、院試の勉強がてら資料を調べて、動画のプロットから作成していくことにしよう。