きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

激動っぽい時代

9/21 晴れ

 

 久々に、ツイッターで知り合った人と話をした。

 話したことは多かったが、自分の頭の中で知識の体系化が未だに進んでいないことに気が付いた。まだまだ勉強不足である。

 この世の勉強するべき物事が多すぎる。不老不死でもまだ時間が足りないくらいだ。

 それほど、人間は複雑な生き物だということである。だからこそ挑みがいがある。

 

 最近ハードボイルドなことをするのにハマっている。

 タバコも吸えないのに喫煙可のオシャレ喫茶店へ行ったり、ビリヤードをしたり、夕日を眺めながら黄昏たりするのがマイブームだ。

 ただ、私にダンディズムが足りないので、端から見ればただの寂しい人である。

 私の心中は満ち足りている。俺が満足なら他人の目なんかどうでもいいんだよぉ!

 

 夕日を眺めながら考えた。今流行っているソシャゲも、いつかはビリヤードなどと同じハードボイルドなものへと変わってしまうのだろうか? 

 何となく、ダンディなおじさんがラブライブをしている様を思い浮かべた。あまりにも絵にならなさすぎる。

 でも、大昔の大学生がハマっていた娯楽が、現在ではオシャレなものと受け止められているのだし、可能性は無きにしも非ずである。

 回る回るよ時代は回る。CDやブルーレイディスクも、今のレコードと同じ扱いになってしまうのかもしれない。

 

 現在は「激動の時代」だとよく言われる。

 その言説の根拠は、インターネットの誕生だったり、グローバリズムだったりする。

 社会にも、「何となく『激動の時代だ』と言っときゃいいや」みたいな風潮が漂っている。

 しかし、過去を見てみると、今よりも「激動の時代」など腐る程あることがわかる。

 世界大戦はもちろん、戦後だって学生運動カルト教団、学校内や街の路地裏で暴力の嵐が吹き荒れる、文字どおり「世紀末」の世界が続いていた。

 それに比べると、災害は仕方ないにしても、2010年代は比較的平和な時期だと思う。

 学生は二次元コンテンツに入り浸り、路地裏は換気扇が所狭しと詰められ、MDやフロッピーディスクは過去の産物と化した。

 Lineがメールに代わり、SNSで誰もが常時繋がることができ、女子高校生は画面上でコアラになったり犬になったりする。

 戦争時には技術が、平和な時期には文化が発達するというが、最近はどちらも融合したような進歩の仕方をしているように見える。

 ともかく、人は荒れ狂う最新技術の波を上手く乗りこなしてきた。

 そのおかげで、それほど激動に揺さぶられることなく、それなりに平穏に生活している。

 現在を本当に「激動の時代」だと感知しているのは、一部の知識人のみだろう。

 何より、自分たちの生み出した技術のせいで、自身が震えているのだから、なかなかに滑稽なものだ。武者震いか何かかな?

 

 誰もが、自分たちの生きている時代を「激動の時代」と思いたがる。

 これは至極当たり前のことで、これだけ世界に人が溢れているのだから、何か事件やイベントの起きない日の方が少ないに決まっているのだ。

 だが、そのおかげで私たちは退屈せずに済んでいる。

 同じ日を繰り返したり、何も事件の起こらない日々が続いたりすれば、たちまち私たちは退屈になってしまうだろう。

 それに、誰もが「この時代は平穏だ……」と言い出す時代の方が気持ち悪い気がする。

 退屈せずに済むこの時代に、感謝=感謝である。

私の体罰体験記

 これは私がまだ高校二年生だった頃の話である。

 

 当時、私はヨット部で活動をしていた。

 高校一年生の頃に入部して以来、運動嫌いの私としては珍しく、それなりに上手く活動をこなせていた。

 二年生の始め、新しく高校に赴任してきた教師が、ヨット部の顧問として新しく加盟することになった。

 それがYである。

 YはS大学出身で、大学生の頃はヨットをやっていたらしい。

 彼は私たちと共に筋トレや走り込みをするなど、真面目な教師であった。

 最初は、部員の皆でYのことを歓迎していた。

 

 なぜかヨットに乗り込むと、人格が豹変する人が時々いる。それが何故だかはわからない。

 Yもこのタイプの人間だった。

 普段は真面目で柔和な性格だが、ヨットを操舵するときは気性が荒くなるのだ。

 

 ある日、同じヨット部員であるUが、Yに船上で暴力を振るわれたという話をふと漏らした。どうやら、ミスをした際にそれなりの力で頭を叩かれたらしい。

 私たち二年生はまだ操舵の練習中だったので、些細なミスをすることは多々あった。

 それゆえ、幼少期からのヨット経験者や顧問と二人乗りになって、彼らから教授を受けるというのが、私の所属していた部活での慣習だった。

 これまで、先輩や顧問に自分たちの誰かが暴力を振るわれたという話は聞いたことがなかった。

 

 そのうち、私にもYと共にヨットに乗って練習する日がやってきた。

 初めは順調だったが、徐々に私の動きに粗が見えると、彼は明らかに機嫌を損ねたような態度をした。

 しばらくして、船の方角を変えるターンを行った時、私とYのタイミングがズレてしまった。

 その瞬間、突如として彼は激昂し、私の胸グラを掴んで船の支柱へと体を叩きつけた。

 Yは何か叫んでいたが、それとは対照的に、私は心の底から冷めきっていた。

 

 私はそのうち、ヨット部を辞めた。

 建前上は「勉学のため」の行動であったが、実際はYによる体罰が部内に横行し始めていたことが原因だった。

 いつしか、Yは部内で陰口を叩かれるようになっていた。

 私は何も言わなかった。ただ、静かに部活を去った。

 

 教育者による暴力的な行為は生徒を破壊する。

 この出来事は、私の記憶にべったりとこびり付いている。楽しい出来事の方が当時は多かったはずだが、ヨット部のことを思い出す時、必ずこの出来事が始めに思い浮かぶ

 体罰に関わる記憶を、半永久的に悲劇的なものにするということが、体罰の恐ろしいところだ。

 彼は良かれと思ってこのような行為に至ったのだろうか。もはや、Yの意図など関係なく、私が部活を辞めたという事実が残るのみである。

 

 もしも、私が体罰に耐え部活を続けていれば、インターハイに出場できたということもあったかもしれない。そして、Yに後々感謝するということもあったかもしれない。

 だが、少なくとも現在の私は、その「もしも」を絶対に認めない。

 「愚かだ」と断言する。

 体罰による教育で誰かが成功したとしても、それは本人の資質のおかげであり、体罰のおかげではない。

 そうなのにも関わらず、体罰を行なった教育者は必ず体罰を肯定するだろう。これこそが成功への方程式だと。

 この善意の暴力こそが、私の最も恐れるものだ。

 

 現在、私がかつていたヨット部はインターハイで準優勝をするなど、輝かしい成績を収めている。

 それは、決してYのおかげではなく、アジア大会で優勝したという経歴を持つ才気溢れる生徒が入部してきたからだ。

 彼の八面六臂の活躍で、ヨット部の成績は保たれている。

 だが、Yは慢心するだろう。

 才能ある彼が卒業し、高校からの初心者で構成されたヨット部に再び戻った時が、その時の部員にとって最も危険な時期になるだろう。

 

 私を含む部員3人が、Yが顧問になってから部活から去ったという事実は、時間がどれほど経ったとしても、決して消えない。

 もはや、Yの動向を知るすべはない。大事件が起きないように祈るばかりだ。

 

君に巡り会えたそれって鬼籍

9/19 晴れ

 

 長かった夏休みも、今日で終わりだ。

 しばらく日記を書いていなかったが、この間は中学や高校の同級生と会ったりと色々忙しかった。

 本当は日記なのだから、このような出来事を書き綴るべきだとは思うのだが、日記を書くのにはそれ相応の体力を使うので、なかなか書けずにいた。

 日記に書くべきイベントが起こっても日記が書けず、そのようなイベントがない日は暇なので日記が書けるという、パラドックス的なことが起こっている。

 考えるだけで文字が自動入力されるようなインターフェースが早く開発されることを願う。

 

 最近、漠然とした不安に襲われていた。

 それは自分一人が世間一般からズレた進路を選択することの恐怖心から生じているのかもしれないし、最後の十代を過ごすにあたって、もっと充実したものに時間を費やした方が良かったのかもしれないという後悔から来ているのかもしれない。

 

 エリクソンという精神分析家兼発達心理学者の唱えた理論に、発達段階説というものがある。

 発達段階説によれば、私たちの年代でもある10代後半周辺で、「アイデンティティ VS アイデンティティの拡散」という危機が訪れるらしい。

 

 詳しく引用すれば、

 

 この時期の危機は 「 同一性 」 と 「 同一性拡散 」 。

 

「同一化」とはこれまでの見てきた段階 ・・・ 「 肯定的側面 対 否定的側面 」 を心の糧としながら乗り越え、統合してゆくことを示しています。
そして青年期の段階にはいると、その同一化されたものを土台にしながら、自らの自己を作り変えてゆく ・・・ つまり、 「 同一化 」 → 「 同一性」 を経ながらに自己価値を見出してゆく段階であると言えます。

 

この時期は、 「自分とは何か?」 「自分は何がしたいのか?」 「自分には何が合っているのか?」 「自分は何になりたいのか?」 ・・・ と言う様に、自分自身に気持ちが向けられる時期でもあります。 
また、 「自分が自分であると感じている自分」 を意識しつつも、 「自分が周りにどう映っているのか?」 とか、 「周りからどのように見られているのか?」 と言った事が気になり始める時期でもあります。

 

  ……だそうだ。

 要は、後悔も含めて自分の過去と向き合い、それを受け入れて将来のことを考えることが重要だということだ。

 だが、私はそれに対してなかなか踏ん切りがつかなかった。

 長いようにも短いようにも感じる自分の過去と、目前にある果てしない未来に足が竦んでしまっていたのだ。

 

 そんな時、たいていの人間は巡り合わせ良く、誰かからありがたーい言葉を貰うものである。それは学校の教師だったり親だったり、一般的には身近な人間だったりするものだ。

 しかし私の場合、ありがたい言葉を授けてくれたのは基礎英文問題精講だった。英語の問題集である。

 私が無心に英語を勉強していた時、

「The past and the future are only our means and the present alone should be our end.」

という一文に出会った。

 和訳すれば、

「過去と未来は手段に過ぎず、現在のみが我々の目的でなければならない」

となる。

 私はなぜか、この言葉にとても感動した。

 言われてみれば確かに、過去は変えられず、未来は何が起こるか全くわからないものだ。

 ならば、自分自身が過去に得たものや、他人を感化させるような自分の未来を自身で定義し、それらを武器に現在で闘っていくしかない。

 

 この考えは私の不安で曇った視界を明瞭にした。

 この時から、少しは気が楽になった。不安の素であった過去と未来が頼もしい私の武器であるかのように思えたからだ。

 ただ、この言葉は基礎英文問題精講の問題文である。贅沢を言えば、現実世界の人間から直接この言葉を授かりたかった。名言製造マシーンの美少女とかそこらにいないだろうか。

 

 この言葉を英語の問題集の一文のままにしておくのは勿体無いことなので、この文章の出典を調べてみた。

 どうやら、かの偉大な哲学者、ブレーズ・パスカルの言葉らしい。「人間は考える葦である」のパスカルである。

 調べてみれば調べるほど、パスカルの定理だったり、パスカルの賭けだったり、パスカルの三角形だったり、39歳で鬼籍に入ったにしては残した業績が多すぎる。

 

 かくして、私の励まされた言葉の裏にはしっかりと人間がいたことがわかった。それも世紀の天才である。350年という時を超え、この言葉は私にしっかりと届いた。

 パスカルとまではいかないにしても、私もそれなりに業績を残してみたいものだ。

 The past and the future are only our means and the present alone should be our end. 

 この言葉を胸に抱きながら、これからも今を生きていく。

 

きんこんぶろぐ一歳の誕生日

9/11 曇り

 

 喫茶店に行ったのが一昨日だと気づいて、驚愕した。まさに驚愕webである。

 喫茶店に行ったのが、遠き日のことのように思える。ついに、時間の経過がスローになり始めた。

 退屈になり、日々の変化も無くなると、時間の流れがとてつもなくスローになるのだ。これと同じ現象が春休みに起こって発狂しそうだった。

 果たして夏休みの終わりまで、私は精神的ダメージを抑えることができるのだろうか。残りSAN値と相談して、時々娯楽を挟みながら秋学期を迎えたい。

 

 今日でブログを開設してちょうど一年である。

 総記事数はこの記事を含めて84件だ。だいたい四日に一度はブログを更新したということになる。長ったらしい文章を書くことを、よくもまあこれほど継続できたものだと思う。

 「継続は力なり」とよく言うが、何の力が付いたのかは未だによく分かっていない。文章力や皮肉力だろうか? 

 

 パソコンに日記をつけ始めた頃の文章を読み返してみた。

 何度もこのブログで繰り返している通り、日記は思考のタイムカプセルだ。日記をパソコンにつけ始めた最初の記事は、ブログに未だ掲載していないことに気づいたので、ここに全文を載せておく。

 

 

 本日からMacBookを開く機会、そしてタイピングの練習をするためにも、こちらでも日記を書き込もうと思い立った。

 なんやかんや、日記を書く行為自体は1年以上も続いているので、三日坊主になることはないと思うが。

 

 「君の名は。」を見に行った。ぼーっとして見ていればいい映画なのだが、あいにく私は脳みそをこねくり回しながら鑑賞していたので様々な矛盾点が目に付いた。

 その他にも、映画の放映前の、他の映画の予告編などが流れる時間で、あからさまに若者世代向けの映画ばかりが予告されていたので、自分が経済の一部に組み込まれているような気分になって、嫌悪感を覚えた。

 

 これは今日気づいたことだが、最近映画を見た後に、しばらくその映画の物事について考え込んでしまう悪い癖が付いている。そういったことが積もり積もって考えることが多すぎて頭がパンク寸前である。キャパシティーオーバーにならないように注意したい。

 

 最近は隔月で書いていた日記を、なぜ突然再開したかというと、この映画に多少影響されたという事もあるが、何より自身が語るべきことが増えたと感じたからである。

 読書数は1400冊を超え、得た知識を定着させていくステップへと遷移するべきだと感じた。

 そこで、多様な学説・考えに惑わされないように、どこかに自分の思考を書き込んでおく必要性があると考えた。

 考えは放置しておくと、生もののように徐々に腐敗していくのは、以前の日記に書いたとおりである。せっかくの得た知識を活かすためにも、ほぼ毎日このページへと書き込んでいきたい。

 

 この日記を読み返すまで、自分が日記をつけていたのは思考をまとめるため、そしてタイピング能力を高めるためだということすら忘れていた。

 現在は、日記を書くために日記を書くという、目的と手段が奇妙に合成されたような状態に成り果てている。目的を忘れる時というのは、忘れたということ自体にすら気が付かないらしい。ついでに、読書冊数も4000冊に達しようとしている。

 こうして積み上げた一年間の日記の分量は、なんと11万文字を超えていた。

 文字数だけなら、長編小説一冊にも匹敵する。一年間で積み上げてきたものは、振り返ってみると、とてつもない分量になっていた。おそらくレポートなども含めると、20万文字はゆうに超えるだろう。もういっそ、物書きにでもなった方がいいような気がする。

 

 今日は同時多発テロから16年、東日本大震災から6年半、私が二十歳になるまで半年の、節目の日でもある。

 ブログはこれからも掲載し続けるだろうし、微量の閲覧者を楽しませたり、怒らせたりし続けるだろう。私の意志が続く限りは。

 

 まだまだ文章力も、その他いろいろも拙い私であるが、生暖かく次の一年も見守っていただければ幸いである。

 ハッピーバースデーディアー、きんこんぶろぐ。

 

喫茶店ファイター

9/9 晴れ

 

 編入試験まで残り60日を切った。受験の時はいつも、このくらいの時期から焦り始めている。今回もしかりだ。

 英語の勉強がなかなか捗らない。私の場合、やる気があることはものすごく上達が早いのだが、渋々やっていることは上手くなるのに時間がかかるのだ。果たして間に合うのだろうか。

 

 昨日は久々に、関学のプールで泳いだ。花火を見たり、プールに行ったり、カラオケで遊んだりと、今年の夏は形式上とても充実した夏だった。

 その実、喫茶店に通い、図書館に入り浸り、一人寂しくプールで泳ぐ、いかにも村上春樹的な夏休みだったのだが。

 

 今日もその例に漏れず、とある喫茶店へ行った。大阪駅前第一ビルの地下にある『マヅラ』という名前の喫茶店である。

 地下一階に着くと、なにやら奇声がこの階層一帯に響いている。

 何事かと思い、その奇声のする方へ行ってみると、喫茶店『マヅラ』があった。

 声の出所は、喫茶店の入り口で通り過ぎる人々に「イラッシャイマセ!」と叫んでいる店長だった。私が店内に入ってからも、その店長はときおり発作的に「イラッシャイマセ!」と絶叫している。

 調べてみるとこの店長、90歳を超えているらしい。どっかのクイズ番組の司会者の遺言が「正解は3番でございます」だったように、この店長の遺言も「イラッシャイマセ!」になるだろう。一体どこにイラッシャイマセするのだろうか。是非とも、この喫茶店の顔として、長生きしてほしいものだ。

 

 注文を伺いにきたウエイトレスは、店長とは対照的にお淑やかだった。品のいいマダムといった感じだ。私はホットコーヒーとミックスサンドを頼んだ。

 この店の特徴は何と言っても、昭和な雰囲気と値段の安さである。

 『マヅラ』は喫煙者への風当たりが強い現代においても、当たり前のように全席喫煙可能である。さらに、広々とした店内をノスタルジックな橙色の光が隈なく照らしている。

 きわめつけは、コーヒー一杯で250円という破格の安さである。とても梅田に位置しているとは思えない値段の安さだ。

 自家焙煎のコーヒーは、爽やかな酸味の香る良品のものだった。ミックスサンドも野菜が新鮮で非常に美味しい。コストパフォーマンスと味は100点満点である。

 ただ、店長の声が大きいので、その度に私は驚いてしまう。周りのお客はそこまで店長の声を気にしていない。おそらく、連れとの話に夢中なのだ。こういう時に、独りでいることの悲しさをまざまざと感じる。

 

 ノイズキャンセリング機能の付いたイヤホンを耳に差し込み、私はさらに一人の世界に没入していった。もう、周囲の話し声はおろか、店長の声も聞こえない。

 現代は独りになるのが簡単な時代であると思う。独りでいることを楽しむ、ということが最近できるようになった気がする。

 独りでいることは、人と話している時と同じくらい得るものが多い。自分の考えがまとまるし、目先のことに集中できるからだ。

 目先のこと、少し先の未来と独りで闘うことは、結構つらいことだ。

 闘い疲れた時、その身を休めることができるのは、自分が独りぼっちにならない場所だろう。他者との関係の中で心身を休めることで、再び次のラウンドへと舞い戻ることができる。

 未来へ挑むということは、ボクサーに似ていると思った。まだまだ知力も体力もスーパーフライ級だが、いつかはヘビー級の王者になりたいものだ。

 

 用事を済まして店を出ようとすると、声を張り上げていたはずの店長が、意外にも普通の声でお客を案内していた。

 誰にも気にも留められない、接客という孤独な仕事を、彼は何十年続けてきたのだろうか。

 そう考えると、『マヅラ』の店長も歴戦の戦士のように見えてきた。彼はこの先も闘い続けるのだろう。

 心の中で、ささやかなエールを彼に送り、私は店を後にした。

 

幸せについて本気出して考えてみたら

9/5 曇り

 

 皆さんこんにちは、金こんにゃくです。

 今日のブログは日記ではありません。それは今日が語ることのない素晴らしい1日だったからではなく、あるブログに目を通したことがきっかけです。

 

www.nasnem.xyz

tenkiasitahare.hatenablog.com

 

 これらのブログ、特に後者では「個人的な合理性とは、その個人にとっての幸せになる行為をすること」と語られています。だから、個人的に合理的であれば、人を殺しても構わない、という論法になるわけです。

 

 ここで私が違和感を感じたのは「個人にとっての幸せ」の部分です。

 例えば、ある一人の快楽殺人者、ソシオパスがいたとします。彼が人を殺すことは果たして「個人にとっての幸せ」でしょうか?

 快楽殺人者にとっては、人を殺す行為は「気分を良くする合理的な理由」となるわけです。しかしこの場合、彼が人を殺して感じることは単なる「幸せ」ではなく「快楽」です。快楽殺人者はいても、幸福殺人者はいません。

 こうして考えると、「幸せ」と「快楽」の間には微妙な差異があることがわかります。

 

 皆さんが「幸せ」だと感じるのはどのようなときでしょうか。

 それは家族と団欒のひと時を過ごしている時かもしれませんし、試験に合格した時かもしれません。お酒を飲んでいる時かもしれませんし、スロットでジャックポットになった時かもしれません。

 試しに辞書を引いてみると、「幸せ」には「心が満ち足りていること、また、そのさま」とあります。

 

 これだけでは言葉足らずのような気がするので、「三大幸福論」と呼ばれている本の著者であるヒルティ、アラン、ラッセの、ほれぞれの幸福の定義を見ていきましょう。

 

 まず、ヒルティは「神のそば近くあることが、永続的な幸福を約束する」とする宗教的幸福論を展開しています。

 続けて、ヒルティは刹那的な快を求める状態に陥らず、かといって禁欲的にもならない、バランスのとれた精神の状態を保つことが幸福にとって重要だとも述べています。

 

 対して、アランは「健全な身体によって心の平静を得ること。すべての不運やつまらぬ物事に対して、 上機嫌にふるまうこと。また、社会的礼節を重視すること」を幸せになる条件だと記しています。

 さらに、幸福は持続的なもの、快楽は刹那的なものだとも言っています。

 

 最後の一人、ラッセルは「己の関心を外部に向け、活動的に生きること」を幸せの秘訣としています。

 

 これら3人の哲学者の言葉は、いずれも正しいと思います。

 この3人に共通して言えることは、幸福になるためには、心身のバランスをとり、行動することが必要だと主張していることでしょう。

 

 次に、「快楽」を辞書で引いてみると「心地よく楽しいこと。官能的な欲望の満足によって生じる、快い感情」とあります。

 先ほどの「幸せ」の記述と比較してみると、充足している、という状態は同じでも、それが『楽しいか』ということは、文章として「幸せ」の方には書かれていません。

 こうしてみると、確かに「幸せ」には『楽しいかどうか』が条件として存在していないということがわかります。個人の感情によらず、充足感によって幸福は存在するということです。

 アランのいう通り、「幸せ」はムード的な、長持ちする反応だということです。

 一方、「快楽」は長持ちしない、刹那的な情動だということがわかります。この点が、「幸せ」と「快楽」の対照的な特徴の一つです。

 

 そしてもう一つ、「幸せ」と「快楽」には対照的な特徴があります。

 それは、「幸せ」か「快楽」を求める行為によって、そのもの自体以外に何かを得ているかどうかということです。

 

 家族の団欒を例に挙げると、家族内の絆、冷たく言い換えると、家族内の人間関係の良好化が「幸せ」を感じる際に付属的に得られています。

 試験に合格し、その後数日間充足感に浸れたなら、それは「幸せ」と「その試験に合格した結果と、それに付帯する利益」を得ているということです。

 

 反対に、「快楽」には付帯するものが存在しないか、逆に何かを失ってしまうこともあります。

 スロットでジャックポットを当て、充足を感じたとしても、そこまでにそれ以上の金銭を費やし、失っているならそれは「快楽」ということができるでしょう。

 

 「幸せ」と「快楽」は状況や程度によって移り変わる事もあります。

 飲酒を例に出します。

 個人の場合、飲酒は快を感じるとともに、実質的に何もそれ以外に得ることのない行為です。この状態では、飲酒は「快楽」を求める行いだと言えます。

 これが大人数になり、それが互いの人間関係を良好化するものであれば、飲酒は一転して「幸せ」な行為になるでしょう。

 でも、その集団での飲酒が過剰になり、体調に変調をきたすものになったり、飲酒をきっかけとして暴力・強姦にまで発展すれば、それは「快楽」を求める行為になるでしょう。

 

 以上より、「幸せ」であることには

 

1.感情に関わらず、一度の行為によって充足感が比較的長持ちする。

2.そのもの以外にも、付帯的に利益を得ている。

 

のどちらかが必要であり、「快楽」に満たされている状態は

 

1.楽しさが生じ、一度の行為では充足感が短期間にしか得ることができない。

2.そのもの以外に何も得ていないか、むしろ損失さえしている。

 

のどちらかが必要になります。

 

 さて、私の定義からすると、殺人という行為は合理的にはなり得ません。

 殺人が快を感じるものであったとしても、人命を損じ、充足感が長持ちしないのであれば、それは「快楽」のための行為であり、合理的であるとはとても言えません。

 例外的に合理的な殺人があるとするならば、『「快」を感じ、充足感が長持ちし、個人や社会にとっても得るものがある』もののみです。

 それが達成されるのは、事件の被害者となった遺族にとっての、殺人犯の死刑のみでしょう。

 

 人間が一人一人、自分の「幸せ」を追求して生きているのなら、人間は合理的な生き物になり得たでしょう。

 しかし、現実に人間は非合理的な生き物です。「幸せ」だけでなく、時に「快楽」も追求します。

 そのことについて善悪を語ることはできません。善悪の尺度は個人によってバラバラだからです。これも、人間が非合理的な存在であるがために起こることです。

 

 私自身は、人間が非合理的であることは善いことだと考えています。

 「幸せ」にしろ「快楽」にしろ、どちらも相互的に結びつき、人間の生活を豊かにしてきたものです。

 善悪の判断が個人でバラバラであることも、価値観の多様性を生み出し、同一の価値観では絶対に思いつかないアイデアを生み出すことに繋がります。

 もちろん、価値観の相違による諍いも起こるでしょう。しかし、人類の進歩は、自分たち自身が非合理であることのおかげで続いてきました。

 

 人類全体の目的を定義することはできません。個人の目的がバラバラで、非合理的だからです。でも、各個人にとっての善悪や「幸せ」、そして、目的を定義することはできます。それは、その個人にしか為し得ないことです。

 

 以上が本日のブログの内容です。今日のブログは(普段もですが)個人的な意見なので参考程度に留めてほしいところです。このブログも、非合理的な人間の一意見に過ぎないのですから。

 この問題については、みなさんの意見もお聞きしたいので是非ともコメントよろしくお願いします。

ぼくのなつやすみー暇潰し編ー:Sキャラソムリエは今日も征く

9/4 曇り

 

 クラス発表があったり、彼女連れの某氏と遭遇したり、小さなイベントが相次いだ。

 ついでに編入試験の願書も出し終わった。あとは試験に向けて準備するのみである。英文読解に自信がないので、そこを重点的に勉強したい。

 自称東京で英語が一位のアキ氏に勉強法を聞いたら、「文法と平行で勉強すること」という返事がきた。慶應義塾大学からトロント大学へと編入した彼女の意見は参考になりそうだ。

 最近、トロント大学が東大よりもはるかに賢い大学だと知って驚いた。同級生が何人もこの夏季休暇中にトロント大学へと留学していたので、自分も将来はここに英語研修も兼ねて留学してみたい。

 

 今日、ツイッター菜々緒を見た。菜々緒といえば、Sキャラで自分を売っている芸能人の一人である。日焼けの跡が残る菜々緒の尻は、なんだか臭そうだった

 私は菜々緒のSキャラがあまり好きではない。「私Sでしょ!」と言わんばかりの彼女の言動には辟易させられる。Sキャラ自体は大好物なのだが……。

 私好みのSキャラは、やはり天然のものである。側から見てみればSキャラにはまるで見えない、むしろおっとりした性格のように見える人が時折毒舌を放つ。この瞬間にキュンと来る。

 

 Sキャラというのは幅の広いジャンルだ。

 いつもはツンケンしてる態度を取り、好きな人の前では態度が少し柔くなるツンデレ

 思ったことをストレートに言い過ぎてしまうがために誰かの心を刺してしまうクールキャラ。

 その人を好きすぎるあまり傷つけてしまうヤンデレなども、Sキャラの範疇に入る。

 Sキャラは口調・行動・性格など、その人物の特性や、誰かに対する感情によって定義される。

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 ↑ Sキャラ代表

 

 私がSキャラというのを嗜む時に、何よりも大切にしているのが、その人物の時間軸である。

 要は、Sキャラである現在や、Sキャラなるまでの背景、Sキャラとしての態度がどのように変容していくのかといったことを重視する。

 これらの時間軸が無視されたAVなどは、ただ売り出しのためにSキャラという特性を付属しただけであって、好ましいSキャラとは言えない。時間軸を無視したSキャラはただのサイコパスに成り果てる。

 私が菜々緒のSキャラを好まないのも、彼女にはSキャラとしての時間軸が欠落しているからである。

 

 Sキャラを考える際に、もう一つ大切なのが「どのようにSな行動を起こすのか」である。

 今日、SキャラのS行為は多岐に及んでいる。

 男に殴りかかる暴力系ヒロインもS行為の一種と捉えることができる。毒舌であることもS行為である。逆レ○プだってS行為である。

 

 どのようなS行為を起こす人物が好きか、といったことは一番個人差の大きいところだと思う。

 S行為が暴力的であればあるほどいい! という人は立派なドMである。唐辛子で言うならハバネロをパクパクと食べてしまうような人である。

 対照的に、ほんのり毒舌がいいな、と思っている人は、軽いMだ。ココイチで言うなら1甘をオーダーする人だろう。

 

 今日は久々に自分のフェチズムを語った。

 やっぱり好きなことを書いているときは筆が進む。いつもより段違いの速さでキーボードを叩くことができた。

 余談だが、私が好きなSキャラは戦場ヶ原ひたぎさんである。

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 彼女の特徴である、古風な女言葉から放たれる言葉責めは、まさに二次元最高峰だろう!!

 まるで、毒舌のエレクトリカルパレードやぁ〜〜〜! ヌッッッッッ!!!!

 ……ふぅ。以上、Sキャラについての日記でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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  あと、食蜂操折も好きなSキャラの一人である。言葉責めを主体としたSキャラであり、洗脳能力持ちであることも加え、個人的なフェチズムの二段重ねである。出会えてよかった!! シコシコシコ、フキフキフキ、四国毒吹きッッッ!!!