きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

後ずさりの日々

9/6 晴れ

 久しぶりの日記。大学4年生までは日々の出来事を毎日のように書き連ねていたのだが、その習慣がすっかり途絶えてしまっていた。最近の不調は日記をつけないことに起因しているような気がするので、これからはどんなに拙い内容でも、できるだけ毎日ブログを更新していこうと思う。

 形式としては、クオリティの低い糸井重里の「ほぼ日」みたいなものだと考えてもらっていい。素朴に感じた日々の出来事を、そつがないように記すだけだ。

 

 さて、最近のことを話そう。Twitterでは変わり映えなく、ナンセンスなことばかり呟いている私だが、実のところ弩級の不調に陥っていた。個人的に辛いことが幾つかあって、論文を読むことも、勉強することも覚束なくなっていた。どんなことがあったかについては、そのうち書く。

 そういう知的な営みの代わりに日常に侵食してきたのが、ASMR動画だ。早速「そつがある」ことを書くのだが、こればかりは本心からしんどかった。なので、記録として書いておく。

 これまでも、一日に3時間はASMRを嗜んでいたのだが、近頃は平均10時間は聴いていた。煙草を吸ったり、お酒を鯨飲する大学院の先輩方を尻目に、私はとんでもないASMR依存症となっていた。

 辛いことから目を背けたり、ぐるぐる回る自動思考を止めるために、ASMRは有効だった。それでメイドに罵られるライブ放送とか、どろどろに甘い新婚生活を疑似体験できる音声作品を聴き続けていたら、生活が先っぽから腐敗していった。色んなことに集中できなくなった。あと何故か眠れなくなった。冗談抜きに、私はASMR漬けで頭がおかしくなりそうだった。

 

 このままではいけないと、別の依存先として始めたのが読書である。これが良かった。ここ数日は、少しずつ調子を取り戻しつつある。ASMRの視聴時間も、一日2時間以内に収まってきた。

 読書はいい。真っ暗な心の内を、蛍の光のように暖かく照らしてくれる。学部生の頃は本を貪り読んで心を温め、勉学に励んでいたものだ。思えば、中国の故事である「蛍雪の功」を、精神的に実践していたのかもしれない。

 

 

 最近、「自分史」に興味を持っている。これは自分の人生の出来事や、世界的な事件を文章や写真にそろえてまとめるもので、主に高齢者に人気があるらしい。実際、高齢者向けに(さらに言えば「終活」の一環で)朝日新聞社が自分史を作成するサービスを提供していたりする。

 

lifestory.asahi.com

 

 なぜこういう話を書いているかというと、私も自分史をしたためたい、という機運が高まっているからだ。理由としては大きいものが二つある。

 一つ目は、昔の思い出が少しずつ鮮明に思い出せなくなってきたから。二つ目は、自分の現状が人生におけるどのような位置づけなのか、深く理解をしたいから。あと裏の理由として、このご時世的に、いつ自分が急死してもおかしくないな、と思い始めたことがある。自身の存在を、生きた形跡をちゃんとした形で残したくなった。

 もともとこのブログも、己のその時々の思考などを半永久的に遺すために始めたものだ。なのだが、あまりにもふざけて書きすぎたため、内容がなんだか訳の分からないものになってしまった。その反省として、しっかり現時点から自分の人生を見直し、その意味を問い直してみたくなった。

 

 COVID-19の感染拡大によって外的な交流が規制され、多くの人は内的な世界に閉じこもっていったことだろう。それを避けるために勉強会とか、いろいろやってみたが、結局は私もその例外ではなかった。ここ1年半、過去に囚われ、毎日が後ずさりの連続だった。自分史を綴ることによって、過去の重力を忘れ、それこそムーンウォークのように、後ずさりながらでも前に進めることを願っている。

 

 かつての生活が戻ってくる兆しは未だに見えない。西浦教授の試算では、今後5年間はこのような生活が続くことが予測されている。

 

gendai.ismedia.jp

 

 それでも私たちは不細工に2021年を、その後の未来も生活を過ごしていく。もしくは、最近の私のように、どこかで躓く。もっと悪い場合は、力尽きる。そういう未来が明白で確実なものであるのと対照的に、私たちの過去は朧げになり、遠ざかっていく。

 かつて、私はどのような自分になりたかっただろうか。青葉市子「いきのこり●ぼくら」を流しながら、そんなことを想う夜だ。

 

www.youtube.c

 

 皆様の思い返す過去に、幸多からんことを。