きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

トマトピア

5/31 晴れ時々曇り

 ツバメがクソ飛び交う季節になった。駅前の商店街を歩いていると、店の軒先にツバメの巣が構えられているのをよく見かける。ツバメの巣に右ストレートでパンチをかます輩が近所にいない証だ。平和なのはいいことだ。

 先日、帰るのが夜遅くになったときには、でっぷりとよく育ったツバメの雛鳥が巣を埋め尽くすように寄り合っていて、親鳥はその近くの電線にとまって寝ているのを見た。親の愛情は人も鳥も変わらないようだ、と過度な擬人化に思いを馳せたりした。こういう微笑ましい光景を間近で観察することができるのは、高身長であることの数少ない利点の一つだ。

 

 高身長には、人から舐められないとか、心なしかスタイルがよく見えるとか、そういった特徴があるが、これらはあまり利点とはいえない。こういう特徴は、人間としての尊厳を保つ上での防衛ラインとしての働きしか持たないからだ。

 高身長であることは、低身長であることのデメリットから逃れるための特徴でしかない。世の中には、こういう高身長と同じような特徴を持つ物事がいくらでもある。

 高収入は、野菜を好きなときに買えないとか、いろんな不便を強いられるとか、そういう低収入のデメリットから逃れるための特徴であり、高学歴もまた、それと同じような特徴を持っている。不足なく生きるというのは、案外難しい。

 

 私たちの言う「普通の人」とは、結局はこういうデメリットからあらゆる場面で逃れられている人を指す言葉なのだ。こうして考えると、「普通の人」とは、平均的な人間というよりは、完璧な人間に近いのかもしれない。

 


 最近、晩御飯によくトマトが出てくる。夏が近づいたからか、親が限りなく新トマトを買ってくるのだ。野菜の中でも比較的安く、色合いも良くて、かつ栄養満点。トマトが好きな私はニッコニコの笑顔で、親が斬りまくった無茶な量のトマトを貪り食っている。


 そのようにしてトマトを頬張っていると、小学生の頃にトマトを育てていたことをふと思い出した。青色のプラスチックの植木鉢を抱えて、よくトマトの世話をしたものだ。

 今でこそマシにはなったが、子供の頃は生き物の飼育がとことん下手くそだった。丈夫なスーベニアも枯らしたし、昆虫に餌をやることすら億劫に感じるクソガキだった。それでも、トマトの飼育は彼が真っ赤な実をつけるまで、無事に世話を終えることができた。


 安物の植木鉢に肥料をふんだんに盛り込んで、トマトの苗木を植える。自分の両手に収まる大きさの、一種の「世界」がそこにあるのが、幼心にも嬉しかった。

 今でも、その植木鉢にトマトのユートピアを略して、「トマトピア」と名付けたのを覚えている。どう考えても「ユートマト」の方が語感が合っていて面白いのに、そういう名前にしなかったのは、きっとおふざけなしに、真面目にトマトの楽園を築き上げようと決意したからだろう。

 エデンの園だって、人間はアダムとイブの二人しかいなかった。トマトの楽園トマトピアには、トマトは一株だけで充分なのだ。


 夏も盛り、トマトを刈り取る時期になると、私は嬉々としてトマトピアから生命の実をもぎ取った。よくよく考えると、植物が一生懸命育ててきた果実を奪い去ってしまうというのは、なかなかに野蛮なことだ。でも、植物に意識はないので、遠慮なく努力の成果を頂く。
 親に切ってもらって、自分の育てたトマトを頬張る。少し口内に違和感。

 甘みもなく、酸味もない。青臭い水風船を口に含んだような感じがした。楽園産のトマトは、そんなに美味しくなかった。スーパーのトマトを育てた人ってすげえや。子供心ながら、そう思った。

 それもそのはず、スーパーに並んでいるトマトは日本各地の農協で選別を受けたエリートトマト、エリートマトなのだから。トマトピア育ちのゆとりトマトは、エリートマトには勝てなかった。なんだかトマトがゲシュタルト崩壊してきた。


 
 最近、YOASOBIの「アンコール」という曲を聞いた。すると、突然「トマトピアの〜♪」という歌詞が聞こえてきた。

 https://youtu.be/vcGbefQBvJ4

 3分10秒あたりである。


「えっ!?!? トマトピアって言った!?!? トマトピア!!!! 言ったやん今!?!?! トマトピアって言った!!!!!!」


 びっくりして、狂喜乱舞しながら歌詞を確認すると、「トマトピア」ではなく「止まったピアノ」だった。


 まあ、そんなこともある。完。