きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

霹靂を待つ

5/17 雨のち曇り


 最高の人生の終わり方は、風に吹かれて消え去ることだと思う。

 例えば、こんな終わり方。ある日突然、街からガードレールとか、街路樹がなくなるけれど、自分しか気づかない。そのうち、ショートヘアの女の子や、車や、猫が消えて、私はひとりぼっちになってしまう。漂白された都市を歩いていると、そのうち海辺に着く。そして、ゴミのなくなった清潔な浜辺に座り込む。溶け合うような海と空を眺めているときに、どこからか風が吹いてきて、まぶたを閉じて涼しさを感じているうちに、ふっと消えてしまいたい。

 そんな人生の終わり方が最高だ。
 

 「“分注”って、なんだか語感がディープキスみたいで面白いな」とぽやぽや考えたりしているうちに、こんな時間になってしまった。

 某申請書を提出し、実験をやり、論文を読む。久しぶりの日記だが、まあ以前とそんなに変わり映えしない生活を送っている。


 これを読んでいる皆さんは、自分が一番弱かったときのことを覚えているだろうか。

 一番弱かったときというのは、別に赤ん坊だったときのことを指しているわけではない。大体の幼児は、よっぽど不幸でない限り、親が付きっきりで面倒を見ていてくれるから、惨めな敗北感を味わう必要もない。つまり、私の言いたい「一番弱かったとき」とは、人生において一番負け続けていた時期のことだ。


 今日、御堂筋線の電車に揺られながら、本当の強さとは何かを考えていた。

 能力が誰よりもあることが、強いわけではない。実力があるのにもかかわらず、スポーツでも芸術でも、日の目を見ない人物はごまんといる。また、地位や名声、権力のある者が強い訳でもない。これらの属性はきっと、強さの副産物だ。もしくは、強さを培う土壌でしかない。


 では、本当の強さとは何かというと、「誰かに勝ち続けること」だと思うのだ。勝ち続けた者が、本当に強い者だ。

 裏を返せば、負け続けていると、人はどこまでも弱くなる。

 

 某申請書を書き終えた私は気晴らしに、かつて通っていた天満橋駅マクドナルドに向かった。ここは、私が人生で一番弱かった時期を過ごした思い出の場所である。いい思い出はないが、忘れ難い場所だ。
 店に入って、昔よく注文していたチキンバーガーとコーヒーを購入し、席に着いた。いまだに名前も知らない川に、街灯の光が揺らめくのが眼下に見えた。高校二年生の頃、いつもこの席でネット小説を読み耽っていた。そうしてハンバーガーを頬張りながら、昔のことを考えた。


 強さとは、勝ち負けで決まる相対的なものだ。部活も辞め、成績は最底辺を彷徨い、クソッタレなことが立て続けに起き、私は転がり落ちるように弱くなっていった。高校の偏差値は70ほどだったので、絶対的には弱者ではなかったのだろうが、ともかく所属集団の中で負け続けていると、本当にひどい目に遭うことが多くなる。
 あの頃の私は本当に弱かった。マクドナルドの席に座ってコーヒーを飲んで、ただ時間が過ぎ去ることを待つだけの木偶だった。そうしているのにも関わらず、何食わぬ顔で家に帰り、両親に「今日は学校で自習をしてきた」とホラを吹くのだった。抑圧と、卑屈さと、まとわりつくような甘さのコーヒーが日常を構成していた。


 あれから、6年半が経った。申請書の個人情報を記入するフォームに書かれてある「満24歳」の字が浮き立ったように見える。

 あの頃に比べて、私は確かに強くなった。それでも、人間はなかなか変われないもので、ハイストレスな状況が続いた日には、お腹を下したり、眠れなくなったりする。

 そういう弱い自分を受け止めてくれる人は、やっぱり自分自身しかいないので、そこそこに労ったあげたいと思う。

 自分を優しく労ってあげることは、思いのほか難しいのだから。