きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

最近読んだ中で面白かった本

6/27 晴れ

 

 クソ暑い。

 近頃はほどほどに過ごしやすかったのに、今日あたりになって一気に温度が上がった。

 

 汗はかくわ、腹は減るわ、生きるのが難しい日がこれから続いていくのだろう。

 

 最近なんだかよくわからないが、代謝が急に良くなったので、無性に腹が減る。

 1日5食が生活習慣になりつつある。

 学校の松屋に通って、夏を乗り越えよう。

 

 

 これから定期的に、ブログの方でも面白かった本を数冊紹介していこうと思う。

 

 以前まではこのような取り組みをツイッターでやっていたが、やはり140文字の制限がさりげなくキツい。

 なので、「ブログで書けば、心置きなく本を紹介することができるだろう」という魂胆で書評を書いていこうと思う。

 

 あなたが知っている名著を私が知らないように、あなたが知らない名著を私は知っているはずだ。

 これらの記事が、誰かの読書ライフの助けになれば幸いである。

 

 

1.遺伝子-親密なる人類史-

遺伝子‐親密なる人類史‐ 上

遺伝子‐親密なる人類史‐ 上

 

 

  読書中に鳥肌が立ったのは久しぶりである。

 もちろんいい意味で。

 

 著者はノンフィクション作家などに送られる名誉ある賞、ピューリッツァー賞を受賞した経歴を持つシッダールタ・ムカジー

 

 上下巻からなり、計800ページを超える大著である。

 そのページ数の多さを感じさせないほど、すんなりと読めた。

 

 ダーウィンやメンデルに始まり、現在のクリスパー/キャス9といった遺伝子工学に至るまでを描いた、いわば遺伝子の人類史。

 この手の本は、これまでにでも多数出版されている印象があったが、ピューリッツァー賞作家というだけあって、読ませる文章である。

 訳もこなれていて読みやすく、それでいて読み応えのある本だった。

 

 遺伝子を巡り、多くの人間が熱意を持って研究を進めてきた歴史と、遺伝子の存在が優生思想の根本となり、障害を持つ人やユダヤ人などの民族浄化を招いた事実は表裏一体である。

 この惨劇は、遺伝子工学の誕生により復活してしまうのだろうか。

 遺伝子との向き合い方は、それこそ人類全体で考えなくてはならない問題だと思う。

 

 個人的なオススメは、ワトソンとクリックがこちらが気圧されるまでの情熱をもって、遺伝子の二重らせん構造に迫っていく章である。

 科学者たちの果てしない探究心には、敬服せざるを得ない。

 

 

2.世界を変えた6つの「気晴らし」の物語

世界を変えた6つの「気晴らし」の物語【新・人類進化史】

世界を変えた6つの「気晴らし」の物語【新・人類進化史】

 

 

 前作の「世界を変えた6つの革命の物語」に続いて、お勧めしたい一冊。

 前作が光や冷たさなど、6つの事象からテクノロジーの発展を概観したのとは異なり、今作では6つの娯楽に人類の歴史がどう動かされてきたのかを軽快に語っている。

 

 ファッション、音楽、味、イリュージョン、ゲーム、パブリックスペース。

 これら6つの「気晴らし」は、確かに人類を変えてきた。

 それと同時に、これらは生きていくのに絶対必要ではないが、現代の私たちの生活に欠かせないものになっている。

 

 ファッションのための木綿が国家を滅ぼし、味のための胡椒が世界最強の通貨になり、映画は市民に幽霊を幻覚させ、ゲームが人工知能の進化を加速させ、喫茶店で民主主義が生まれた。

 

 娯楽が人間にいかに栄光と破滅を与えてきたか、この本は人類史を縦横無尽に飛び回り、私たちに刺激的な「気晴らし」を与えてくれることだろう。

 

 

3.日本のありふれた心理療法:ローカルな日常臨床のための心理学と医療人類学

  

 公認心理師が今年から誕生する、そんな日本の臨床心理学の変遷期にこそ、読んでもらいたい本である。

 

 著者は気鋭の心理学者である東畑開人氏。

 臨床心理学に人類学的アプローチで迫る手法が斬新である。

 

 大学院で臨床心理学を駆使する専門家として教育され、カウンセラーたちは臨床の現場に降り立つ。

 しかし現場では、正当な認知行動療法といった技法を駆使することが難しい場面が多々ある。

 それゆえ、多くの技法を柔軟に適応し、クライエントの要望に応える必要に迫られる。

 

 本書はそんな「日本のありふれた心理療法」について、歴史的経緯や実際の事例を用いて解説・考察した一冊である。

 

 「認知行動療法をトッピングした精神分析もどきのユンギアンフレイヴァー溢れるロジェリアン」。

 つまり、認知行動療法ユング心理学を元にした精神分析もどきを駆使するロジャーズ派カウンセラーというのが日本の臨床家の現状であると、著者は述べている。

 臨床心理学に興味を持つ人すべてに読んでほしい。

 

 

4.マツコの何が"デラックス"か?

マツコの何が“デラックス

マツコの何が“デラックス"か?

 

 

 社会学の観点からテレビ業界を分析している著者が、大人気タレント「マツコ・デラックス」について述べた一冊。

 現代アート的な表紙のデザインに惹かれて手に取ったが、内容も面白かった。

 

 巨体、オカマ、大食い、底が知れない膨大な教養。

 何もかもが弩級な彼(彼女?)が、なぜ多くの人を虜にし続けているのか、数多くのエピソードが提示されており、わかりやすく解説されている。

 

 マツコ・デラックスのテレビにこだわり続けるという信念や、物事の判断に迷いやすいという意外な一面、自身の誇大妄想まで、マツコ・デラックスの魅力という魅力がこの本に詰まっている。

 

 マツコがデラックスなら、この本もデラックス。

 普段本を読まない人にも是非とも読んでもらいたい。

 

 

 とりあえず、今回の本紹介はこれまでにする。

 どうだろうか、あなたのお眼鏡に適う本はあっただろうか。

 

 読書は基本、すぐには役に立ってくれない。

 しかし、確かに本は自分の価値観、世界観、存在さえも揺るがしてくれる。

 

 日常の薬とするも良し、毒されるも良し。

 これらの本を、あなたなりの読み方でものにしてもらえたなら、読書好きとしてそれに勝る喜びはない。

 

アルクアンダーグラウンド

6/21 雨のち曇り

 

 すっかり平穏な日常。

 雨も止んだし、余震も比較的少なくなってきた。

 

 地震のあったここ数日は、なんだかやる気が湧かなかった。

 ある程度平和になったことだし、色んなことに本腰を入れていこう。

 

 今年の夏は「認知科学サマースクール」という勉強合宿のようなものにも行くし、どこかの学会を軽く覗いてみようと思っている。

 これらで同年代のスキルが高い人たちに出会えば、それは私にとってもメリットになるはずだ。

 

 私はマトモな討論をしたことがないくせに、ディベートが好きだ。

 討論まで行かなくても、心理学についての話題を話していて、それが溢れてくる人物に出会えることができれば、それは刺激的なことだろう。

 まだ見ぬ誰かとの出会いが、今から楽しみである。

 

 

 歩いていて楽しい街、というのがある。

 

 自分は海外に行く勇気もないのに、旅行好きを自称している。

 旅行の先々で一番好きなのが、街を歩いて、その土地の色を見つけることだ。

 

 比較的身近な場所を例に挙げれば、大阪の天王寺から難波へと歩いて行くのがかなり楽しい。

 

 天王寺は駅周辺はおしゃれな街で、大型のショッピンセンターが立ち並んでいるが、新世界へと向かうと一気に街の色が変わる。

 

 天王寺動物園の横を通り過ぎ、飲屋が連なる商店街へと入って行くと、小汚い中年の男性ばかりが目立つようになる。

 18禁グッズが入っているガチャガチャが道脇に置かれているし、1970年代のアーケードゲームの専門店なんかもある。

 平成も終わりだというのに、新世界周辺は昭和に取り残されたままである。

 

 「まだ間に合います!」という串カツ屋の謎の宣伝文句を耳に挟みながら、そのまま歩き続けると、日本橋に着く。

 東の秋葉原、西の日本橋が日本二大オタクの街だと、個人的に勝手に思っている。

 

 日本橋は電機メーカーの看板をぶら下げた店がどこまでも連なっている街である。

 そういう店を覗いてみると、得体の知れない電子部品がカゴに無造作に積まれている。

 コンデンサーやHDMIコードや、グラフィックボードのジャンク品なんかもある。

 それに、えっちなDVDを販売する店も、ちゃっかり電気屋さんに混じって店を構えている。

 

 そのような中でも、ひときわ大きいのがアニメイトメロンブックスなどが入っているビルである。

 同人誌も持っている人はそれをヒソヒソと隠すのとは対象的に、萌えキャラが描かれた巨大なビルが胸を張るかのように、しゃんとそびえ立っている。

 

 それらに一人で入るにには心の準備が必要なので、スルーして難波へと歩いて行く。

 

 そうすると、大きな銀行の支店だったり、小ぎれいなブティックだったり、はたまたネオンが吊るされた怪しい水商売の店だったり、様々な店が入り混じる難波にたどり着く。

 難波はご飯屋が美味しいところが多い。

 そのうち開拓しに行きたい。

 

 こういった街の色の移り変わりを全身で体感するのが好きで、私は暇さえあれば街を歩いている。

 

 

 街歩きは遠くに旅行に行った時にも、もちろん楽しむことができる。

 この前東京に行った時は、大阪の街と比較しながら歩くのが興味深かった。

 

 大阪と違い、東京は全体として建物の大きさはあまり変わらないものの、そこを歩いている人の様子が様変わりするというのが印象的だった。

 

 上野を歩けば教養を求めて徘徊する中高年ばかりだし、青山を歩くと紳士淑女が多いし、原宿なんかは若者ばかりだ。

 

 それぞれの街の建物の様子も、そこを歩く人に合わせるように変化する。

 上野は博物館や美術館が多いし、青山はブランドものの洋服店が目立つし、原宿はメイク用品を売る店や芸能人の写真屋さんなんかもあった。

 人が先か、店が先か。

 

 自分とあまり合わないような街でも、歩くと楽しい。五感で感じる全てが刺激的である。

 刺激的すぎて、疲れることもあるが。

 

 

 今度の夏は中国地方や九州に旅に出てみよう、と考えている。

 少し踏み出して台湾や韓国なんかもいいかも知れない。

 日本の街と見比べながら、食べ歩きして見るのも良さそうだ。

 

 

 基本的に街歩きが好きな私だが、そこまで楽しくなかった街が一つだけある。

 

 それは名古屋だ。

 

 あそこは歩いていても何も変わらない。

 ビルがあるところから少し抜けると、地平の彼方まで住宅街が続いている。

 「なんだか多様性に欠けた街だな」と、当時は思った。

 

 名古屋港水族館や、トヨタ博物館など、オススメの観光スポットは数多くあるが、街歩きにはあそこは向かないと考えている。

 三週間後に名古屋に行く予定があるので、もうちょっと目を凝らして名古屋を歩いてみたい。

 そうすれば、思わぬ発見があるかも知れない。

 

 疲れない程度に、街を歩こう。

 

地震、6/18

6/18 曇り時々雨

 

 阪急電車の車内でこの記事を書いている。

 

 先頭の車両から避難誘導が始まっているらしいが、先行きの見通しは立たない。

 この後、近くの駅に移動してどうするか、ということすら、わからない。

 私もこれで立派な帰宅難民である。

 東日本大震災の時、多くの人が困った理由がよくわかった。

 

 「地震はいつか来るもの」と少しの心構えはして来たつもりだったが、いざ地震が起こると何をすればいいのかわからない。

 ペットボトルの水を買って、家に持ち帰ることぐらいしか思いつかない。

 その帰った先の家でさえ、食器棚が倒れたりと無茶苦茶である。

 

 家族全員が無事なことだけが、不幸中の幸いである。

 生きていれば、なんとかなる。

 

 

 ここからは、友人宅で書き上げた文章である。

 とりあえず、今の所は電車の運行状況や、その他諸々の情報を考慮して、家に帰るかどうか考えようと思う。

 余震の危険性は未だにあるし、これから本震が来る可能性も否定できない。

 地震が起きてしまったことは仕方がないので、ちっぽけな私にできることは、「この状況でどう動くか」と考えることのみである。

 

 これから二週間程度は防災意識を高めていこう。

 私が地震で亡くなった後に、このブログの記事がメディアに引用されないことを祈りたい。

 

 自然に比べてあまりにも矮小な私たちにできることは、万全を期すことのみである。

 

 状況が変わり次第、これからも再びブログを更新する。

 

プレゼン天国と地獄

6/9 晴れ

 

 勉強に忙しくなったら、案の定ピタリと日記を更新することがなくなってしまった。

 

 卒論のテーマについてより理解を深めたり、動物実験の手法について勉強したり、TEDを見てプレゼンの方法とリスニング能力を学んだり、Rの勉強をしたりと、することが多い。

 退屈よりはマシだと、嬉しい悲鳴を上げながら勉強をやっていく。

 私は本来、ここまで勉強好きの人間ではなかったはずなのだが。

 

 高校時代に比べて、格段に何かをこなしたり、色々な作用の効率が大学生になってから跳ね上がった。

 成長するのは基本的には良いことだが、ここまでがらりと変わってしまうと、アイデンティティの拡散に悩まされる。

 真面目な自分は、果たして本当に自分なのか。

 

 

 この頃悩まされていたプレゼンの発表が、ようやく終わった。

 

 英語が得意というわけではないのに英語論文を選択してしまい、グループワークなのに課題を一人で抱え込んだのが運の尽きであった。

 アヒアヒ言いながらパワポを完成させ、なんとか発表に漕ぎ着くことができた。

 動画が反映されなかったり、スライドの一部がバグっていたり、不手際は多かったが、なんとかプレゼンを終わらせることができた。

 

 

 普段は学校の課題には何の興味も示さない私が、今回のプレゼンにそれなりに本気になった理由は3つある。

 

 一つ目は、プレゼン自体が自分の成長に繋がると確信したからである。

 これまで、数多くの卒論生や研究者のプレゼンを見てきたので、そこから得た教訓を自分でも実践してみようという気になったのだ。

 

 二つ目は、この良いプレゼンができれば、多くの人の信頼を得ることができると考えたからだ。

 信頼は金では買えない。

 そこに多くのリソースを割く価値は十二分にある。

 ある程度プレゼンをまとめ上げ、完璧に質疑応答をこなせば、何人かの目には頼れるクールガイに私の姿が映るはずだ。

 このようなことをこのブログに書いている時点で、プレゼンで得た信頼もチャラになってしまったかもしれない。

 それはそれで愉快である。

 

 そして三つ目の理由は、私がマゾだからだ。

 しばらく退屈に苛まれていたので、このプレゼンはいい刺激になった。

 退屈をもっとも忌むべきものとしている私にとって、ここ最近の忙しさは嬉しい限りである。

 自分のかけた努力が、全て自分に跳ね返ってくる。

 本当にこれは素晴らしい、素晴らしいよ。

 

 

 そこそこ頑張ったはずのプレゼンだったが、それでも多くの反省点が残った。

 それをここに記そうと思う。

 

 このブログの醍醐味の一つとして、一人の人間の、失敗の歴史が公にされているということが挙げられると思う。

 成功は記録に残りやすいが、それとは対象的に反省点や失敗というのは、なかなか公開されない。

 

 私は恥という感情が希薄なので、ここにプレゼンの失敗を箇条書きで記す。

 来週以降の発表者が参考にしてくれれば幸いだ。

 

 パワポの文字の大きさは統一する。

 できれば28ポイント以上が見やすい。

 

 リハーサルはきちんとする。

 当たり前のことだが、台本を読むのをぶっつけ本番で行うと、アラが出やすくなる。

 原稿なしで自分の考えを伝えられるようになるのがベスト。

 

 実験の「ネタバラシ」はうまく行う。

 MUR先生とOGW先生の合同ゼミに以前参加したことがあったが、序論を全て最初に詰め込んだ発表はすこぶる退屈だった。

 これを参考に、今回のプレゼンでは序盤を分割してプレゼンの前半と後半で割り振ってみたが、その目論見はうまくいかなかった。

 ネタバラシの構成をきちんと見直すべきだった。

 

 質疑応答には備えておくこと。

 これは絶対。

 堂々と、正確な知識を、はっきりした口調で話す。

 質疑応答によってプレゼンの評価が180度変わることだってあると思う。

 今回は予想問題集のようなものも作っておいたので、しっかりと対応できた。

 次回とも、この習慣は続けていきたい。

 

 負担をメンバーで分担する。

 きつかった。

 

 これくらいだろうか。

 

 

 私は人のプレゼンを見るのが好きだ。

 来週からも、誰かがこの反省点を見つけて、より良いプレゼンを見せてもらえたら、と思っている。

 

 ついで、下手な質問を乱射できたら、とも思っている。

 下手な質問、数射ちゃ上達する。

 来週が楽しみだ。

 

6/2 晴れ

 

 自分の身体まで溶け込んでしまいそうな青空。

 いよいよ、夏本番といった感じである。

 

 「本を読む、寝る」の繰り返しの夏には、今年で終止符を打ちたい。

 だからといって、読書の代わりに何がしたいかと聞かれると、論文を読むかRの勉強をするか、そのくらいしか思いつかない。

 果たして私の青春はどこに隠れてしまったのだろうか。

 

 この間、ニキビがひどくなったので皮膚科に行ったら、医者に「ニキビが出ている間は、人間みな思春期」と言われた。

 下手すりゃ、60歳間近までニキビはでき続けるらしい。

 思春期ノットイコール青春、である。

 

 それに、青春が60歳に来られても困る。

 心は若いままでいられても、その年齢になるまで青春を満喫するほどの体力が残っている自信がない。

 まだ若いうちに、青春を能動的に作っていこう。

 というか、そもそも青春ってなんだよ。

 

 

 昔から私は、人間の鼻という部位があまり好きではない。

 

 自分の鼻がコンプレックスだ、ということはない。

 ただ、鼻に集中して顔を眺めると、たちまちどんな美形の人でも、顔の造形が狂って見えてくるのだ。

 

 堀北真希大原櫻子の様な美女から、神木隆之介松本潤の様な美男子まで、どんな顔の人間でも、鼻をじっと見ると醜い肉塊に見えてくる。

 鼻に集中するたび、人の顔が食品売り場のオージービーフとそんなに変わらないもののように思うのだ。

 

 この傾向は、人の顔を努めて見る様になった最近、さらに著しくなった。

 梅田を歩いていて、ふとすれ違う人の顔を見ると、視点が鼻に向いた瞬間、人の顔のデッサンが狂いだす。

 こうして、また私は下を向いてしまう。

 地面のタイル模様を眺めながら、駅から駅へと急いで歩く。

 

 なぜだか、「沙那の唄」というゲームを思い出した。

 人が肉塊に見えるクトゥルフエロゲー、確かそんなゲームだった気がする。

 

 

 鼻を見た瞬間に人の顔がゲシュタルト崩壊する。

 この感覚は、多くの人には理解してもらえないだろう。

 

 なんなら、鼻フェチの人なんかには激怒されるかもしれない。

 「シュッとしていて、この素晴らしい形の鼻の良さがわからないなんて、なんてナンセンスな男なんだ!」と。

 さすがに、このような過激派の鼻フェチはいないか。

 

 巨乳フェチや、黒タイツフェチは数多くいれど、鼻フェチの人にはまだ会ったことがない。

 鼻フェチの生活とはどのようなものだろうか。

 芥川龍之介の「鼻」の、内供の鼻を治療する場面ばかり、読んでいるのだろうか。

 想像がつかない。

 鼻フェチ原理主義なんて連中がもし存在するなら、たちが悪すぎる。

 さすがの私でも、それには引く。

 

 

 なぜ私は鼻にそこまで嫌悪感を抱いているのだろうか、と思う。

 「火の鳥」のような、手塚作品に出てくる登場人物に、何かトラウマでもあるのだろうか。

 それとも、鼻の限りなく小さいアニメ絵の見過ぎか。

 

 アニメ絵はなぜ、あそこまで鼻が強調されていないのだろうか。

 アニメの中の美少女は、みな鼻が小さく描かれている。

 現実世界での美少女にも、鼻はあるのに。

 さりげなく、深い問いかけである。

 

 

 有り余る時間を用いて鼻について考えていると、顔面の部位で鼻だけが、それほど生存に影響しないということに気がついた。

 

 目や耳や口は言わずもがな、人が生きていくのに必須の器官である。

 目が使えないなら視覚障害者、耳が使えないなら聴覚障害者になる。

 口に至っては、食べ物を摂取できないとまず生きていけない上に、コミュニケーションも行えない。

 どれもがなくてはならない器官である。

 

 それに比べて鼻はどうだろうか。

 食物の風味を感じ取るのに必要だが、それにしては他の器官に比べてwell-beingの色が強い。

 呼吸も、別に口でもできることだ。

 日常で自分の鼻から情報を得る場面を考えても、くさい・いい匂いを嗅ぎ分ける時しか思いつかない。

 鼻が現代日本で生存に役に立つ場面といえば、ガスが漏れているときぐらいだろうか。

 

 こうして考えると、鼻というのは現代において「快楽のための器官」として機能しているのではないか。

 そんな器官をよりによって顔面の中心に、しかも大きく出っ張らせて付けている気色悪い生物がいる。

 人間である。

 

 絶え間なく、鼻で快・不快を仕分ける生物が私たちだと思うと、人間の見方が様々に変わってくる。

 宇宙人がそんな生物を見つけたなら、反射的に滅ぼしにかかるにちがいない。

 

 さらにいえば、リトルグレイに鼻はない。

 鼻があっても不気味だし、鼻がなくても不気味だ。

 一体何なんだ、この器官は。

 

 

 このように鼻についてだらだら考えているうちに、鼻が一層余計に変なもののように感じられてきた。

 鼻、鼻、鼻、鼻、と。

 鼻への嫌悪感を無くすエクスポージャーはどうやら失敗したようだ。

 これからもできるだけは鼻を意識しないよう、日常生活を送っていきたい。

 

 もうみんなアニメ顔になってくれねえかなぁ。

 

愛飢え男

5/26 晴れ

 

 最近になって学習指導のアルバイトを始めた。

 小中学校に行って、ICT教材を使って生徒に問題を解かせる、という形式のものをやっている。

 生徒の情報がペーパーレスを求められているのに対して、私たち講師の勤務報告書などは書き込み式なのが不合理を感じるが、全体的には楽しいバイトである。

 

 あれだけ働きたくないと喚いていながら、現在は3つもバイトを掛け持ちしている。

 自分の勉強する時間が少なくなったので、少しシフトを余裕のあるものにしようと思う。

 

 

 周りで恋愛が頻発している。

 人肌恋しい季節はとっくに過ぎたはずなのに、大学三年生にもなって恋愛ブームが巻き起こっている。

 これがゼミ分属の力か。

 それとも春が人間の発情期なだけか。

 

 ガチなことを言うと、人間の発情期は動物の中でも珍しく、存在しない。

 それがどのように人間の生存に役立ったのかは、よく分からない。

 人間は社会的生物である以上、集団で交配の機会を探るには一過性の発情期では不利になるだけだったのだろう。

 

 人間の近縁種であるボノボ(ピグミーチンパンジー)なんかは、万年発情期であるどころか、オスもメスも関係なく、喧嘩からの仲直りなどで日常的にSEXが行われる。

 実際のところ、ボノボの発情期は一年中ではないのだが、発情期でもないのに、発情期のサインである性皮 (股の皮)の肥大化が見られる。

 このことは、チンパンジーで行われているような、発情期のメスを巡ってオスが争うという事態を抑制している。

 オス同士、メス同士で盛り合うことも、彼らにとっては日常的である。

 

 そのような近縁種がいながら、なぜ人間はエロを日常から遠ざけ、禁忌にしてしまったのだろうか。

 そういえば、中世日本など多神教を土着化してきた民族では、あまりエロが禁止されることはないらしい。

 むしろエロに寛容でさえあるのだ。

 

 だが、西洋的価値観や文化の流入によって、日本でもエロがタブー視されるようになったという。

 エロのタブー視は、文化が人間の思考に影響を与えるという好例である。

 自身の感情そのものに対する疑念を抱かせない、その無意識性こそが文化や集団規範の持つ強みであり、恐ろしさでもあると思う。

 私はそこらへんがすっかり分からなくなってしまった。

 

 

 私もしばらくは「彼女欲しい、彼女欲しい」と闇に呻くグールだったわけだが、最近はそんなことをめっきり口に出さなくなってしまった。

 恋愛を話の話題に出すのも疲れてきたし、自分の恋愛感情がただの性欲や、孤独を埋め合わせるもののように思えてきたからだ。

 それに、別に子孫を残さなくても、より多くのものを生み出せる方法が私にはあるのでは、と考え出したのだ。

 

 GeneではなくMemeを残す。

 それは私に限らず、誰もができることだ。

 

 もはや、恋愛を過度に神聖化することも必要がないように感じられた。

 結局は、私が交際相手を求めてモゴモゴしていたのも、一般大衆を真似た健常者への擬態の一環だったのかもしれない。

 世間と自分の解離を身に沁みて感じるこの頃である。

 

 

 こないだ、彼女ができる夢をみた。

 彼女といえども、姿形はぼやけていて、はっきりとしなかった。

 

 朝に、どこかは分からない純白の大理石で造られた綺麗な街で待ち合わせをして、水族館に行った。

 ミュラー・リヤーなどの錯視が描かれた体をくねらせて泳ぐ数多のウツボを彼女とともに眺めた。

 彼女のその横顔も、もやのようで思い出せない。

 

 水族館を出ると、隣にいたはずの彼女が消えて、夢から覚めた。

 なんだか、虚無を連れ回していた気分である。

 

 中身のない夢だったが、目覚めは良かった。

 それだけである。

 

 

 今宵も、夢の中で虚無と共にどこかを歩きたい。

 いつも通り、中国人がよく分からない果物をひたすら齧っている動画を見ながら、眠りに就く。

論破されたい欲

5/19 曇り

 

 暑くなったり、寒くなったり、不安定な気温の日が続いている。

 

 実験実習に卒論の計画、プレゼンテーションに統計の課題など、最近はこなさなければいけないことが増えてきた。

 さらに、バイトを3つ掛け持ちしているため、これらの課題に割くことのできる時間も減ってきている。

 

 やばい、と思う。

 明日の自分がこれらの課題を軽々とこなしてくれることを願って、今日も私は眠りにつく。

 

 

 『論破されたい欲』が強まっている。

 できれば美少女に論破されたい。

 論理的な弁舌によって圧倒されたい。

 いつものようなアヘアヘモードの私ではなく、全身全霊をもって論理を展開し、それでもなお軽く一蹴されたい。

 私は頭の回転がそこまで早い方ではないはずなので、この願いは頑張れば叶いそうだ。

 

 では、誰かに論破されるのはどうすればいいのだろうか。

 まずは私が全力で語れる分野に、私より精通している美少女を探すほかない。

 これが結構難しそうだ。

 

 というか、私は論破よりもより建設的な議論を求めているのかもしれない。

 それとも、最近アホなことばっかり言い過ぎて、ただ単に知的な会話に飢えているだけなのかもしれない。

 

 アァ、なんだか何も私が求めているのかわからなくなってきた。

 知的な刺激が欲しいのか、美少女との接点が欲しいのか、どっちなんだ。

 今日は疲れた。

 ツイートのキレもない。

 

 もう私は寝る、おやすみ。