きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

O

10/24 晴れ

 

 十三夜。

 まだ昇りきっていない、山吹色の満月がビル街に映えた。

 

 こういう時にカメラが手元にあればいいのだが、あいにく家に置いてきたままであった。

 10万円もした一眼レフは、日の目も月の目も見ることなく、埃をかぶって机の下で眠っている。

 

 それでも、何とか風景を形にして残しておこうと、iPhoneのカメラで撮っておいた。

 

 スマホで映した月は、ひどくぼやけていた。

 どうして、スマホのカメラはこうも天体に弱いのだろうか。

 

 気が付くと、周りを見渡せば大勢の人が立ち止まって空を仰いでいた。

 

 私も彼らと同じように、頭の中のセンサーに今夜の満月をしっかりと焼き付けておいた。

 パシャリ、と。

 

 

 迷走が激しくなってきたので、そろそろ自分の研究の原点を綴っておこうと思う。

 学部三年生のくせに、研究も原点もクソもあるか、という気もする。

 

 だが、いつか自分がどうしようもない精神状態に陥ったとき、帰ることのできる心の故郷的なものがあったなら、それは未来の私の助けになるだろう。

 特に、物事を始めてしばらく経ったらその動機を忘れてしまいがちな私にとって、原点を思い出すことは大切だ。

 

 なので、半ば自己満足だが、ここに書いておく。

 

 

 私は現在、動物心理学や比較認知科学を専門としている。

 

 その中でも、ヒトと動物の向社会行動に興味があり、さらに言えば動物全般に当てはまる『道徳』の法則に関心を持っている。

 分野の周辺領域としては、社会心理学・行動生態学ゲーム理論・応用倫理学・動物行動学・神経科学などを挙げることができる。

 

 領域が非常に広いので、勉強するべきことは多い。

 器用貧乏になりそうだ。

 

 

 もともと、私が道徳というものに最初に興味を持ったのは小学生の頃だった。

 

 多くの人が気にも留めない『こころのノート』を読みふけったり、何が善で何か悪かを暇があれば考えたりする、私はどこかひねくれた子供だった。

 

 今考えれば、直感的に物事の分別が付かない人間だったからこそ、そういったことに頭をフル回転できたのかもしれない。

 

 

 時は進んで中学生の頃、私は学校裏サイトを開設した。

 

 理由は単純で、同級生がどのようなことを考えているかや、どのような恨みを抱いているかに興味があったからだ。

 

 それを作った当初、掲示板の多くの書き込みが日陰者のものになり、クラスの人気者への恨み嫉みが殺到することを秘かに期待していた。

 宣伝をしたり、口コミで噂が広まったおかげで、裏サイトにはそれなりの人数が訪れ、次第に陰口が書き込まれるようになった。

 

 書き込みの発信元を様々な手段を用いて調べてみたところ、予想に反してクラスの人気者が同じく人気者を貶めるような書き込みをしている、ということが判明した。

 日陰者の書き込みは、むしろ少数だった。

 

 今となっては単なる黒歴史だが、当時の私には衝撃的な出来事だった。

 

 

 高校生の時、私はもともと薬学部志望だったが進路を変更し、近大の農学部公募推薦で合格した。

 そのまま農学部に進路を定め、食品メーカーなどに務めて、安牌な人生を送るつもりだった。

 

 しかしある日、河合塾をサボってマクドのコーヒーを片手に大川沿いを散歩していたところ、急に気が変わって心理学の方面を受験することを決めた。

 

 頭のねじがこの時に外れたのだと思う、多分。

 

 その後もなんやかんやあって、今の大学で心理学を学ぶことになった。

 

 

 大学一年生の頃は、臨床心理学や社会心理学に興味を持っていた。

 

 特に認知行動療法に惹かれており、不登校児の支援ボランティアをするなど、完全にカウンセラーになるつもりでいた。

 

 だが、気が変わるのは私の常である。

 

 臨床心理学について学んだり、不登校児と接するうちに、「自分が関心を抱いているのは不登校児を不登校児に至らしめたメカニズムなのではないか」と考え始めた。

 対人支援というより、いじめ行動が生じる仕組みといった方面に興味が徐々に移っていった。

 

 それに、当時の私は明らかに生き急いでいた。

 

 自分の身体で助けになることのできる人数は一生のうちに限られている。

 「それならば、基礎研究に従事することで、より多くの人のためになったほうがいいのでは」と思うようになっていた。

 

 

 生き急いだまま、私は某大学の三年次編入試験を受験した。

 

 試験が終わって面接で、私を取り囲む教授陣に「社会心理学を専攻して、道徳について解き明かしていきたい」と自分の関心を説いた。

 

 「どうやら、君は人というよりも、動物の面からそれを解き明かすことに関心があるように思えるなあ」と、それがある教授の第一声だった。

 

 その他もろもろの理由により試験に落ち、気が付けばその教授の言った通りに、私は動物心理学のゼミに入っていた。

 

 当時は全く知らなかったのだが、他のゼミに動物の援助行動を専門としている教授がおり、現在は2つゼミを掛け持ちする形で参加させていただいている。

 それなりに忙しいが、充実感もひとしおである。

 

 

 勉強してみると、比較認知科学はぶっ飛ぶほど面白かった。

 

 学習心理学のクールな論理と、認知心理学の大胆な論理が組み合わさっているようで、好奇心がそそられる。

 社会心理学との接点も多い。

 

 こういう、領域の垣根をあまり気にしない分野が私には向いているのかもしれない。

 

 

 その後、統計の授業で某教授に「ベイズ統計というものが流行っていますね」という内容のメッセージを書いて、出席票を提出したことがあった。

 

 すると、しばらくしてから「某大学でベイズ統計の集中講義があるので、参加してみてはいかがですか」という旨のメールが届いた。

 

 その集中講義に参加してみると、未知すぎる世界が広がっていた。

 なんだこれは、という感じだった。

 

 正直今でもあまり分かっていないので、勉強中である。

 

 ベイズで動物の向社会行動における認知モデルを作れるのでは、という考えが胸中にあるのみだ。

 認知モデルについてもあまりよくわかっていないので、これも未だに妄想の域を出ていない。

 

 学部の卒業研究では無理かもしれないが、大学院に進学した暁には、これらの手法もモノにしてみたいものだ。

 

 

 以上の経緯が、私の研究の原点になっている。

 

 道徳、もしくは向社会行動への疑問は結構昔から私の中にあるような気がする。

 それは道徳心が私に欠けているからかも知れないし、そうでないかもしれない。

 

 振り返ってみると、軸がブレブレな人生だ。

 今後もブレていくだろう。

 

 しかし、方法論や分野が変わっても、人間の道徳について知りたいという欲求は変わらないという自信がある。

 

 

 編入試験の面接のとき、動物のゼミを進められた際に、私は「もし、動物を研究の対象にするならば、人間と動物に共通する部分について探求していきたい」と返答した。

 

 ある意味、それは叶っている。

 

 とにかく、まだ研究者としてひよっこどころか孵化してもいない状態だ。

 

 謙虚に知識を深めていこう。

 原点を忘れずに。

 

なんか暗いねナハトムジーク

10/17 晴れ

 

 睡眠時間が9時間を超えるようになってきた。

 明らかにこれは疲れているサインだ。

 

 この疲れが身体的なものか、精神的なものなのかは分からないので、思考停止でぶらついていたら発見した喫茶店に入った。

 高層ビルに店を構える喫茶店であり、高いところが好きな私はすぐさま二階へと向かった。

 

 馬鹿と煙は高いところが好きという。

 私は馬鹿ではない。

 なので、私が煙なのは自明である。

 ただし、論理学的な小難しい話は考えないものとする。

 

 そして、いつも通り何の進捗も生み出せないまま、この日記を書いている。

 

 

 三日ほど前、iPhoneXSに買い替えた。

 だが、フリーSIMカードの設定が諸事情で終わっていないので、未だに外出先ではインターネット回線を使えずにいる。

 

 ネットサーファー歴が10年を超え、ツイッタラーでもある私から電波が奪われると、日常に穿ったような空白の時間が生まれてしまう。

 仕方なく、その埋め合わせにいつにもまして読書をしている。

 

 最近は本を読むと左目が痙攣してくるので辛い。

 視力と知識を等価交換している気分だ。

 

 

 インターネットが使えなくなって、もう一つ困ったことがある。

 それは、外出中に音楽が聴けないということだ。

 

 私はこれまで「SoundCloud」という、音楽制作が趣味の人たちが曲を投稿しているアプリを利用して、登校などの時に流したりしていた。

 それが、すっかり無くなってしまったのだ。

 

 全く奇妙なことだが、久々に音楽をBGMとすることなく一日を過ごしてみたら、めっきりテンションが下がってしまった。

 電車内で会話する女子高生の声が、虫の羽音と同じように耳障りだったし、学校への山道を登っている途中には、環境音の多さに圧倒させられてしまった。

 

 昔は、これほど音に敏感ではなかったはずである。

 いよいよ疲れが溜まっている。

 それを実感させられる出来事だった。

 

 

 私はたびたび、音楽に救われてきた。

 

 受験期、予備校の自習室に閉じこもって鬱屈としているときは、「夏影」や「you」、久石譲の「summer」といった、どこか爽快な夏を感じさせる曲をよく聴いたものだ。

 

 また、寝起きが辛いときはカードキャプターさくらの「プラチナ」を聴くことをルーティンにしていた。

 

 大学の春休みなど、本の読みすぎからか猛烈な孤独感に苛まれたときは、ラジオを付けながら眠りにつくことで、今もどこかで頑張っている人がいるという事実に励まされたりもした。

 ただし、運悪くflumpoolやback numberが流れてしまえば、恋愛ソングと自身の状況を比較してしまい、人知れず苦しんだ。

 

 

 音楽は人並みに好きだが、歌うことは好きでも嫌いでもない。

 お風呂で一人歌うのは好きだが、カラオケに行って、自身の音程が届かなかった瞬間は苦手だ。

 

 でも、別にカラオケが嫌いという訳ではない。

 

 魂のルフラン」を誰かが歌うとき、エヴァンゲリオン二号機が量産機をバッタバッタとなぎ倒していくシーンがひとたび映し出されたなら、歌よりもそっちの映像にみんなが釘付けになってしまう時なんかは、なかなかに趣深いものがある。

 

 そういう楽しみがある一方で、私は少し閉所恐怖症気質なので、カラオケの個室が狭いときは長時間居座っているとキツイ。

 そういうダウナーな気分の時に誰かが失恋ソングを歌えば、人生についてどっぷり考え込んでしまう。

 

 カラオケと私は、ちょっと複雑な関係である。

 

 

 その他にも、音MADを毎日視聴していたり、音ゲーマーだったり、音楽については語ることができるものが多いが、ここらで止めておく。

 

 音楽のない人生などもはや考えられない、というのは間違いない。

 ノーミュージック、ノーライフ。

 メンタルヘルス面でも娯楽面でも、音楽は役に立っている。

 

 ブルーハーツから米津玄師まで、今日も音楽に埋もれた夜を過ごそう。

 

金玉ねぎ

10/8 晴れ

 

 3年生の秋になって今更、大学生活で初めての全休を作った。

 なので、今日はのんびりできている。

 

 日記を書いたり動画を作ったり、こういったアウトプットに時間を割くことができるのは心地いい。

 インプットよりもアウトプットの方がやはり時間がかかってしまうものなので、こういう日に頭の中から思考やアイデアを出し切っておかないと、後々しんどいことになる。

 これに共感してくれる人も、多分いるのではないだろうか。

 いなかったら、それはそれで孤独であり、しんどい。

 

 

 私は、この日記という習慣をかれこれ4年間以上は続けている。

 このブログも、先月に無事2周年を迎えたところである。

 

 昔の記事を読み直してみると、日本語が無茶苦茶だったり、意味不明なことを書いていたりするので、ある意味面白い(それは今も変わっていない)。

 

 高校生の頃はメモ帳に日記をつけていた。

 その頃のメモ帳には、このブログよりもさらに支離滅裂なことが書かれていたりする。

 以下、引用する。

 

自慰をするためにチンコの皮をむいたら、中にさらに皮があった。その皮をむいても、さらに皮が現れる。そういったことを繰り返していると、ついに全ての皮をむき終え、亀頭があるべきところには何もなかった。それは私という人間を象徴しているようだった。

 

 この短文のタイトルは「たまねぎ」だった。

 皮しかなく中身はがらんどう、ということだろうか。

 

 完全に正気のボーダーラインを超えている。

 あぁーイケないボーダーライン。

 難易度自慰でも。

 

 

 それでも、完全にこの日記を馬鹿にすることはできない。

 何か文章を書いているときの私の精神状態は、これに似ているからだ。

 

 「バカげた過去の行為を冷静に見る自分」の外に、「その客観視から得た教訓を台無しにする自分」がおり、さらにその外に「教訓を台無しにした私を戒める自分」がいる。

 このような精神状態で、私は日記を書いている。

 

 現実世界の私の行為を眺める無数の眼差しが、メタ的にどこまでも連なっている。

 これをモノに例えるなら、マトリョーシカか、玉ねぎか、つづら箱だろうか。

 

 そういう眼差しの包皮で丁寧に梱包された日記を、さらに未来の自分が批評したりする。

 限界のない入れ子構造が「心」だと、何人かの認知科学者や哲学者が言っていたような気がするが、まさしくそういった状態にこの日記は近い。

 

 この散文を読んでいる皆さんも、同じような状態を実感したことがあるのではないだろうか。

 なかったなら、それはそれで孤独であり、しんどい(二回目)。

 

 

 ネトウヨ学校裏サイト管理人、学歴厨、淫夢動画投稿者や、底辺Vtuberなど、私はこれまで現代最悪の肩書を総なめにしてきた。

 私の日記にはその軌跡が刻まれている。

 熱狂と自省の記録がここにはある。

 

 これまでの日記の文章量を確かめたら、このブログだけでも単行本一冊を超えていた。

 塵くそうんこぶりぶり記事も積もれば山となる。

 有益かどうかはわからない。

 

 ともかく、私はこれからもピリリとメタ認知が効いた日記を書き綴っていこうと思う。

 

 インターネットの最深淵で、このブログがメンダコのように人々の癒しになることを願っている。

 

ばーちゃるゆーちゅーばーのいちにち

9/20 雨

 

 5時半。

 目が覚めてすぐ、自分のチャンネル登録者が増加したか確認する。

 今日は、寝ている間に4人増えていた。

 

 まどろみながらも、何処かの誰かのASMR動画を開き、再び眠りにつく。

 

 

 7時。

 再び目が覚める。

 二度寝してしまった1時間半の間に、何か幸せな夢を見たような気がするが、うまく思い出せなかった。

 

 リビングへ出て家族と朝の挨拶を交わした後、食パンと暖かいコーヒーを朝食にする。

 適度に焼けた食パンを齧りながらまとめサイトを見て、Vtuber関連の最新情報を確認する。

 

 Vtuberデビューしてから1週間は、自分のチャンネル登録者が伸びない現状と、最前線で活躍するVtuberを比較して、嫉妬に狂っていた。

 嫉妬心からくるストレスによって下痢になったりもしたが、それも今は収まった。

 

 人気のVtuberは近頃、インドネシア国家を歌ったり、よみうりランドとコラボしたりもしているらしい。

 前ほどではないにしろ、少しの悔しさを感じながら、少し冷めたコーヒーを啜った。

 

 

 8時。

 親が朝ドラを見ているうちに、動画に届いたコメントに返事をしたり、アナリティクスを確認する。

 デビューから動画の再生数が落ちていないこと、そして高評価が三桁ちょっとの再生数にしては多いことが幸いである。

 

 ついで、空いている時間で他のVtuberの最新動画を確認する。

 無編集で配信をただ垂れ流しただけの動画が数万再生もされているのを見て、少しへこむ。

 それと同時に、私も安心して配信できる環境を作らなければならないと思う。

 

 それがVtuberというコンテンツの、コミュニティが閉じていく現象に加担することに繋がるのでは? と自問自答し、自己嫌悪に陥る。

 

 個人でブームが冷めてきた頃に参入しても、ある程度の人気は獲得することができる。

 それを実現して、後続する誰かの灯になりたかった。

 

 そのような思いも、動画投稿を始めたきっかけの一つだったからだ。

 実際は、ひどい力不足という有様である。

 

 手段を選んでいる暇はない、という考えが日に日に強まっていく。

 

 

 9時。

 動画に用いるための素材作りをする。

 

 Vtuberの動画の作り方というのは人さまざまである。

 それは用いているソフトの仕様が各Vtuberで大きく違うことが要因だろう。

 

 一番高価なものでは、全身の細やかな動きを3Dモデルと対応させることができる。

 逆に安価なものでは、数千円のソフトで一枚の絵を動かすことによって、感情などを表現することができる。

 

 私の場合は「Vカツ」という3Dモデル作成ソフトでデザインしたモデルを、「VirtualCast」という、3Dモデルで生放送を行うことができるソフトをオフラインで使用して、Vtuberとしての動きを表現している。

 動画制作用として「VirtualCast」は拡張性に欠けるのだが、「Vカツ」が未だ「Unity」という開発ソフトに対応していないので、次善の策としてこの方法を用いている。

 

 VRヘッドセットを付けて、いざバーチャルの世界に潜り込む。

 といっても、録画用の仮想空間なので、地面も空もどこまでもグリーンバック、緑色である。

 

 仮想世界の鏡に自分の姿を写すと、Vtuberとしての私がそこにはいる。

 この鏡を録画することで、Vtuberとしての自分を表現することができる。

 

 身長は現実世界の私とほぼ同じだが、手は現実の私に比べて小さい。

 指の一本一本も、コントローラーの対応するボタンを押すことによって閉じることができる。

 

 何の気の迷いか、この小さな手で私は自分の胸を揉んでみた。

 

 男性モデルとして作ったはずの私の胸が、たゆんと揺れた。

 なんだか、強烈な虚無感に襲われた。

 

 あらかじめ録音、編集しておいた自分の音声を再生し、その音声に合わせて身体や表情を操作し、Vtuberとしての私の姿を録画し終えた。

 

 ここからは、現実世界での長い編集作業が始まる。

 むしろ現実世界での作業が、私のような声質に恵まれないVtuberにとっては本番である。

 

 

 12時。

 編集をしていると気が付けば昼になっていた。

 母の作ってくれた豚肉の炒め物とお味噌汁とご飯を食べる。

 おいしい。

 

 

 15時。

 編集に疲れたのでリフレッシュのため外出した。

 

 京阪電車淀屋橋、それから御堂筋線で梅田に向かい、ヨドバシカメラで最近断線したHDMIケーブルを買い替えた。

 ついでに、ヨドバシカメラでマイクなどを物色した。

 

 本当はゲーム実況用にキャプチャーボードも欲しいし、音質改善のために高性能なマイクも欲しい。

 だが資金が足りない。

 個人勢の辛いところである。

 

 その後天満橋まで赴き、ネットで調べた喫茶店に入った。

 

 間食がてら、チキンカレーとコーヒーのセットを頼む。

 チキンカレーは私好みの辛口のもので、とても美味しかった。

 

 コーヒーは、丁寧に小さな白磁のミルクピッチャーと砂糖入れが添えられて出てきた。

 経験則だが、市販のフレッシュミルクではなく、ミルクピッチャーが出てくる店は大体が当たりだ。

 

 コーヒーを飲みながら、次の一手を考えた。

 私はコーヒーを飲むとき、いつも考え事をしている気がする。

 

 とりあえず、空いているニッチの探索と、現在勢いのある新人Vtuberと自分の比較を行うことにした。

 

 人気のある誰かと、自分の比較をするのは辛い。

 

 三次元の現実世界のみならず、二次元の仮想世界でも、私は何者にもなれなかった。

 そのようなことを考えてしまうからだ。

 

 現実世界以上に、仮想世界では誰かから認識されることが求められる。

 誰かに認識されないと、Vtuberは存在できない。

 

 現実でも仮想でも、誰かの感情を揺さぶり続けることが、真に価値があると私が認められるものを、いつかは与えてくれると信じている。

 今現在の私は、大勢の無関心に囲まれるばかりである。

 

 未だ、私は名前のない市民Aのままである。

 少し中二病的だろうか。

 

 

 19時。

 家に着いて、軽く夕食を済ましてから、動画を投稿した。

 

 ツイッターでの反応は良好だが、それに反してYoutubeのリンクを踏んでくれる人は案外少ない。

 このギャップに耐え続けるのにも、精神力を使う。

 

 何度でも動画を見返してもらえるような、そのような面白いものを作らなければとは思うが、それが難しい。

 

 私を認識してくれる人が少ない以上、一度きりではなく、末永く私をコンテンツとして摂取してくれる人を増やすことが大切だと考えている。

 仲間を増やして立ち上がるのは、RPGでも何でも、最初にしなければならない重要なことだ。

 

 多くの人の目に触れることに少し怯みながら、今でも私は動画を投稿している。

 

 辞めたくなったら、バーチャル自殺でもして活動に幕を下ろすつもりだ。

 

 世界で初めて、バーチャルの存在として自死を選ぶ。

 そんな結末も良いかもしれない。

 

 何の連絡もなく失踪するより、キャラクターとしての明確な死を私は選ぶ。

 

 そうならないためには、今の私にできるベターな選択肢を取り続けるしかない。

 それは現実でもバーチャルでも同じことだ。

 

 

 21時。

 日記を書き始める。

 

 誰の目に触れるかは考えない。

 ただ無心にキーボードを叩く。

 

 ああ、私が求めているのはこういった活動なのかもしれない、と思いつつも、文章を打ち込んでいく。

 こんがらがったヒモを解きほぐすような、そんな充足感だ。

 

 これまでの私がそうだったように、5年後、10年後の私がこの記事を見て、「馬鹿なことやってんな」と笑えればそれでいい。

 その時の私も、今の私と同じように馬鹿なことをやっているはずだ。

 

 将来、バーチャルでの活動は終えているかもしれないし、そうでないかもしれない。

 それは誰にもわからない。

 

 明日からは新学期が始まる。

 大学生活も残り3/8だ。

 多いとも少ないとも取れる時間の長さ。

 一つ何かを達成するには十分だろうか。

 

 ただ、これまで以上に愉快なことがあれば、それでいい。

 できれば、何者かになれたという最高の事実と、万雷の拍手を。

 

 

 23時。

 そのような夢を見ながら、私は眠りにつく。

 

近状

9/16 曇り

 

 動画を作ることしかしていない。

 ブログの更新もなおざりになっている。

 

 考えることは多いのだが、あまりVtuberの話題だらけになっても面白くないので、少し控えようと思う。

 何より、身バレのリスクも増大してきた。

 

 九月の月末にはツイッターのアカウントでチャンネルを公開しようと考えている。

 それまでにビッグに慣れている自信がない。

 野望と嫉妬の炎を絶やさないようにしなければ。

 

 これを維持するのは、案外難しい。

 何かに嫉妬しすぎると、体調を崩して下痢になる。

 タイプAの性格ではないので、闘争心を燃やし続けるのは難しい。

 そろそろ自分のペースを見つけなければならない。

 

 

 ブログの更新もそろそろ頑張っていこうと思う。

 だが、今日は眠いのでここまでにしたい。

 インプット量を増やしてアイデアの質を保たなければならない。

 でないと、ただでさえ酷い動画の出来がさらに見ていられないものになってしまう。

 

グロテスク

9/4 暴風雨

 

 台風の直撃を受けて、停電したり、そのせいで動画の編集が遅れたりと、色々とひどい目に合った。

 

 9月中にチャンネル登録者を1000人以上にする、と公言していたが、それは叶いそうにない。

 ホモの力を抜けば、自分の実力はこんなものか、と落胆するばかりである。

 

 そろそろ英語の勉強も始めなければならず、動画の製作にかけることのできる時間もますます限られていく。

 よりスマートなやり方を見つけなければならない。

 

 勉学のために趣味を諦めるようであれば、この先も私は趣味を諦め続けなければならないだろう。

 そんな予感がする。

 

 

 自身の承認欲求について考えることが増えた。

 

私がバーチャルYoutuberを志したきっかけも、承認欲求と金銭への動機があったからだった。

 

 数多の人々に自分の生み出したものが認められるという、蜜の味をなかなか忘れられない。

 その分、今の自分の境遇に惨めささえ感じ始めている。

 

 承認欲求は数字だけで満たされるものではないと知りつつも、数字を求めてしまう。

 そんな自分に嫌気がさす。

 

 この獣が自分の中に巣食い続ける以上、無視を決め込むわけにもいかず、最適な対処法を求め続けている。

 

 承認欲求は恐ろしい。

 一歩踏み外せば、そこは政治・スピリチュアルクラスタに近しい世界が広がっている。

 

 大勢で、互いの安寧を汚らわしく舐め合うのみの日常である。

 そこに私の求めるものはない。

 

 

 バーチャルの皮を被った以上、その皮に合うように振舞わなければならない、と思っていたのだが、実際はそうではないらしい。

 

 人気のバーチャルYoutuberを見ていると、外見というよりも内面の個性で人が集まっているように思える。

 もしくは、企業に属しているかである。

 

 個人で動画を投稿する以上、私は内面の個性で張り合うしかないのだが、企業の人たちに比べ、広報力は明らかに劣っている。

 

 それに、個性と言っても、私がそれほど素晴らしい個性を持ち合わせているとは思えない。

 私の性格は「個性」というよりも「異常」である。

 

 いくらマシなガワを身に纏ったといって、この私の性質は隠しきることができないだろう。

 その時に向けて、いまから準備を始めなければならない。

 このままVtuberを続けるつもりならば。

 

 「結局のところ、フィクションは現実には勝てない」という村上春樹の言葉を何となく思い出した。

 オウムの生み出したフィクションと、1995年の現実を比較した文脈で、彼はそのようなことを述べていた。

 Vtuberと2018年の現実にしても、同じことが言えそうだ。

 

 

 私事だが、次回の動画からボイスチェンジャーを使うのを止めて、地声で録音することにした。

 ボイスチェンジャーを使った方が幾分女性的な声が出るのだが、機械的で聞き取りづらいものになってしまう。

 それなら、地声で録音したほうがよりクリアな音声になるのでは、と考えた。

 

 このような事態に備えて、最初からガワの性別は男性にしておいた。

 設定的にも無理はあまりないようにしてある。

 

 中学生以来、私は設定厨なので、こういった細かいところにも注意している。

 むしろ、設定を破綻させたほうが受けがいいのでは、という考えも無論あるのだが。

 

 ともかく、地声で録音することによって、身バレの可能性はかなり上がった。

 未だ動画の出来はひどく、周囲に見せびらかすことのできるクオリティではない。

 

 「この声は、我が友金こんにゃくではないか」となる可能性も十二分にある。

 そうなれば、いよいよ私は現代の李徴と化してしまう。

 

 アバターのモチーフが虎でないことがせめてもの救いだろうか。

 身バレしても大丈夫な動画づくりにしていかなくては。

 

 

 バーチャルに入り浸っていた結果、日記の更新が遅れてしまった。

 

 それほど筆の進みが衰えていなかったのが嬉しかった。

 これでこそ、2年間ブログを書き続けてきたかいがあるというものだ。

 

 今回の記事の文体が固いのは、私の気分が悪いからである。

 バーチャルの方面である程度の成功を収めることができたのなら、もう少しコメディチックなことも書くことができるようになるだろう。

 

 この夏休みが終わる前に、もう少し自身の黒歴史をブログに小出しにしておきたいものだ。

 生きているだけで黒歴史が溜まっていくので、出しても出してもキリがない。

 

 じゃあそれを辞めろと言われても、今度は退屈で憂鬱になってくる。

 私にとって退屈は死に至る病である。

 

 刺激の予防接種を忘れずに。

 黒歴史はその副作用である。

 

ばーちゃるぼっち

8/21 晴れ

 

 暑さが引いたと思ったら、再び気温が上がってきた。

 甲子園は終わったが、平成最後の夏はまだまだ終わらない。

 

 塾講で働いてばかりいると、そちらにばかり意識がとられて、進めるべきことが進められない。

 認知負荷がかかるというか、バイトの予定のことを考えるだけでも脳内のメモリの大部分がそれに持っていかれるようである。

 

 二年生の夏はこのようなことはなかった。

 何をするにも集中力が持たず、単純作業すらも覚束ない毎日である。

 

 日課だった読書すら、のめり込むことができずにいる。

 久しぶりに、読書に没頭する時間をとってみたい。

 

 

 新人Vtuberとしてデビューして、埋もれないためにはどうすればいいのかを考えている。

 

 私がバーチャル空間で快適に過ごすために、全財産のほとんどを費やしてきたことや、入念な計画を建ててきたことは、私と親しい人ならば周知の事実かもしれない。

 

 「リアルなんて捨ててやる」と傲慢に喧伝しつつも、技術・声質・テンションという重要な要素が欠けているのが、私にとって致命的である。

 

 バーチャル生活を送るために費やした金銭の回収が、Vtuberになった際のとりあえずの目標であるが、Vtuber界隈の現状を見るにそれは難しそうである。

 

 

 「フェアリス」という、それなりに有名な個人Vtuberの生放送を、私は偶然見かけた。

 放送タイトルは「個人Vtuberのこれからについて」であった。

 

 企業に属することなくVtuberを目指すものの端くれである私は、このタイトルに誘われるように彼女の放送を覗いた。

 

 放送の要旨を述べるならば、「個人VtuberVtuber全体のトップ層に占める割合はますます少なく、チャンネル登録者数も伸び悩んでいる。このままではVtuber界隈が企業一辺倒になってしまう」といった感じだろうか。

 

 それへの対策として、企業Vtuberとのコラボを個人Vtuber側からも積極的に仕掛けていくこと、配信より動画投稿を重視することをフェアリス氏は訴えかけていた。

 

 しかし、企業Vtuberとのコラボには多くのコンプライアンスが付きまとい、個人Vtuber最大のメリットと言っていいフットワークの軽さが犠牲となってしまう。

 

 さらに、動画投稿の質でも、個人が企業に打ち勝つことは難しく、これからはYoutubeプラス、どこかのクラスタに属しているVtuberでないと、個人での成長は難しいだろう、といったようなことを彼女は繰り返していた。

 

 

 Vtuberの動画を見始めて日が浅い私だが、「ごもっともだな」と思った。

 確かに、今個人で成長しているVtuber、例えばケリンなら、ニコニコの例のアレカテゴリでも活躍するという二足の草鞋によって、一定の成功を収めてる。

 必ず成功する、といったほどではないものの、これはなかなかに有効な戦略だと考えられる。

 

 なお、私も例のアレカテゴリには精通しているつもりではあるが、このクラスタネタは控えるつもりでいる。

 理由は簡単で、不手際を起こした際のリスクが跳ね上がるからだ。

 

 私自身が口の軽く、出来の悪いシニカルな人間なのは自覚しており、例のアレネタを挟めば、炎上の可能性は跳ね上がる、確実に。

 

 小ネタ程度ならまだしも、例のアレとはそれなりの距離を保とうと考えている。

 淫夢抜きのデトックス生活を送りたい、という目的もある。

 

 

 個人でVtuberを始めようとするなら、トークはもちろん、プログラミング、動画の編集、キャラメイク、SNSなどでの広報、必要に応じて歌唱力、ゲームのプレイスキル、最悪の場合は「中の人」の麗しい外見といった能力が要るようになってくるだろう。

 

 私はこのうち半分もカバーできていない。

 

 いくつかの工夫によって能力の欠如をカバーする用意はできているが、うまくいくかは不安である。

 これでこそ、挑戦し甲斐のあるというものだ。

 

 だが、企業に所属しているVtuberはこれらの能力を複数人でカバーしてくる。

 しかも、それぞれがトークの、プログラミングの、動画編集のプロフェッショナルである。

 これには流石に太刀打ちできない。

 

 では、どのように対抗していこうか。

 やはり、コンプライアンスを犯すしかないのか。

 コンプライアンスにも穴はあるんだよなぁ、ゴクリ。

 

 

 つらつらと、ただでさえ少ないVtuberに関する知識で、自分でもよくわからないことを綴ってきた。

 

 企業Vtuberと言っても、実態はマネジメントといった雑務のみを企業に委託している場合も多い。

 

 個人で余裕のあるVtuberは企業Vtuberともコラボをこれからも続けるだろうし、個人Vtuberの企業Vtuber化も止まらないだろう。

 最近では、のらきゃっと氏が新たに企業Vtuberに仲間入りをしていた。

 

 しかし、動画投稿はただでさえ人気商売であるので、Vtuberの人気の固定化は、新規参入のVtuberの人気低迷だけでなく、彼らのモチベーションの低下にも繋がっていくはずだ。

 ボトムアップで盛り上がった文化に、ボトムアップからの代謝が失われた後のことは、想像するのは難しくない。

 

 そのうち、個人勢は個性だけを求めた「一発屋Vtuber」が増えるであろうし、今のテレビ業界と似た構図になるのだろう。

 それすなわち、資本の持ったもの勝ちである。

 

 さて、私はどのように立ち回ろうか。

 

 動画の投稿頻度はもちろん、クオリティや、独自性もなければならない。

 腹に一物抱えてはいるものの、それが上手くいくかはやってみないとわからない。

 

 何より、一人で続けるのが辛いが、頑張ってみようと思う。

 BB素材を動かして、ホモビ男優の喘ぎ声を一日中聞き続けるのに比べたら、Vtuberの編集は幾分マシである。

 

 もし、チャンネル登録者が一万人を超えたら、このブログで報告しようと思う。

 

 越えなければ、静かに消えるのみである。