きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

私選この本がスゴい!2018

12/31 曇り

 

 今年もたくさんの本に出会ったので、特に印象に残ったものを紹介しようと思う。

 

 今年は大学一・二年生の頃に比べれば、読むことのできた冊数は少ない。

 というのも、通学の時間を誰かと一緒に過ごすことが増えたからだ。

 私は本よりは人との会話を優先する質の人間なので、個人的には嬉しい理由でもある。

 

 今年読んだ冊数は、だいたい500冊くらいだろうか。

 大学生活全体で言えば累計5000冊は超えただろう。

 

 読んだ冊数が少ないからちゃちな本しか紹介できない、という訳ではなくて、読む本が少なくなる分、読み応えのあるものを選んできたつもりだ。

 それでは早速、今年出会った素晴らしい本たちを紹介していこう。

 

  1. 自動人形の城: 人工知能の意図理解をめぐる物語

 

なんでも言うことを聞いて、なんでもしてくれる自動人形に囲まれたら、あなたは幸せですか?

 

 誰も自分の意をくんでくれない毎日に嫌気がさした王子は、邪神に「自分の周囲の人間を自動人形に変えてほしい」と望んでしまう。

 城の者はすべて人形に置き換わり、命令をしても意のままに動いてくれない人形に、王子は自分の選択を後悔する。

 城に危機が迫る中、王子はその絶望的な状況にいかに立ち向かっていくのか、というストーリーだ。

 

 ここまでだと単なるおとぎ話だが、その実、テーマは人工知能『人間の言葉』である。

 あいまいな命令を出しても、自動人形は全く動いてくれないし、時には頓珍漢な動きを始める。

 それはプログラミング言語で命令を下されたAIにも、同じことがいえる。

 この物語はありふれた成長物語などではなく、今私たちの目の前で起こっていることでもあるのだ。

 

 ストーリーも面白く、数人の視点を飛び交う軽快さや、中盤までの何気ないやりとりが見事に回収され、物語の核心に触れる構成などは目を見張るものがある。

 寒い冬によく合う、心温まる人工知能入門書だ。

 

 

  1. タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源
    タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

    タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

     

     

心は何から、いかにして生じるのだろう。

進化はまったく違う経路で心を少なくとも二度、つくった。

一つはヒトや鳥類を含む脊索動物、そしてもう一つがタコやイカを含む頭足類だ。

「頭足類と出会うことはおそらく私たちにとって、地球外の知的生命体に出会うのに最も近い体験だろう」

 

 

 タコ・イカの『こころ』に焦点を当てた本。

 回転寿司でも安くて美味い彼らは、いかなる知性の持ち主なのだろうか。

 

 これらの頭足類は脳よりも腕に多くのニューロンが存在し、それぞれの腕がまるで意思を持つかの如く振舞う。

 私たち脊椎動物と全く異なる体の構造や『こころ』を持つ彼らは、真新しい「心身問題」を投げかけてくれる。

 

 また、筆者は本書でタコが社会性を持ち始めているという一つの例を紹介している。

 一匹の変わり者のタコから生まれたタコの都市、『オクトポリス』とは。

 進化の萌芽、とくとご覧あれ。

 

 

  1. セカイ系
    異セカイ系 (講談社タイガ)

    異セカイ系 (講談社タイガ)

     

     

小説投稿サイトでトップ10にランクインしたおれは「死にたい」と思うことで、自分の書いた小説世界に入れることに気がついた。
小説の通り黒騎士に愛する姫の母が殺され、大冒険の旅に……♪
ってボケェ!! 作者(おれ)が姫(きみ)を不幸にし主人公(おれ)が救う自己満足。書き直さな! 現実でも異世界でも全員が幸せになる方法を探すんや!
あれ、何これ。「作者への挑戦状」って……これ、ミステリなん?

 

 まさかの全編関西弁。

 クセの強い文体だが、とりあえず30ページまで読んでもらいたい。

 その後の怒涛の展開に、ページをめくる手が最後まで止まらなくなる。

 

 もしも、自分の書いた作品に入ることができて、キャラクターとイチャつくことが出来たら…… 

 そのような単なる妄想では、この本は終わらない。

 キャラクターを愛する全ての人たちに読んでいただきたい一冊。

 今まで味わったことのない読後感が待っている。

 

 私の場合は、キュンキュンしながら読み終えることができた。

 奇妙な、対象の存在しないキュンキュン感である。

 

 あなたはこの本を読み終わったとき、どのような印象を持つだろうか? 

 きっと、今まで出会ってきたすべての物語が恋しくなること間違いなしである。

 

 

  1. VRは脳をどう変えるか?
    VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学

    VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学

     

     

VRを新しいゲームや映画の一種だと思っていると、未来を見誤る。

このメディアはエンタテイメントだけでなく、医療、教育、スポーツの世界を一変させ、私たちの日常生活を全く新たな未来へと導いていく。

その大変革を、心理学の視点から解き明かそう。

 

 Vtuberが一般に膾炙し、真にVRが身近になった今だからこそ、読んでおきたいのがこの本だ。

 VRは新たなメディアとして、あらゆる分野を席捲しようとしている。

 VR研究の旗手である著者は、単にVRの使用を推奨するのではなく、その危険性や複雑さについても語っている。

 

 VR内での体験を、脳は現実の出来事として扱ってしまう』ということを大前提に、これからのVRの発展や、守るべきルールなどを明快に示してくれている。

 

 間違いなく先の世界を変えるだろうこのメディアの基本を、一足先に押さえることができる一冊だ。

 

 

  1. 疑惑の科学者たち: 盗用・捏造・不正の歴史
    疑惑の科学者たち: 盗用・捏造・不正の歴史

    疑惑の科学者たち: 盗用・捏造・不正の歴史

     

     

歴史に名を残した著名な学者、天才として神格化されている学者でも、現在の基準に照らすと公明正大な人物ばかりでなかった。

本書では一八世紀から現代まで、科学にまつわる欺瞞と信じがたい不正の数々を概観する。

 

 「巨人の肩の上に立つ」という、研究をするものなら誰も知っているだろう格言がある。

 これはニュートンが手紙で述べた言葉で、先人の知見という偉大なものに乗ることで、科学は進歩していくということを喩えたものだ。

 

 しかし、もしこの巨人自体が、ナウシカ巨神兵のように腐ったものだったら? 

 

 この本では、パストゥール、メンデル、アインシュタインといった錚々たる大科学者にも、盗用や改竄の疑いが向けられている。

 さらに、近年のSTAP細胞問題でお馴染み小保方氏や、研究不正で183編もの論文が撤回されている藤井氏など、日本人研究者についても取り上げられている。

 

 科学は万能ではないが、絶対的に正しいわけでもない。

 私が専門としている心理学でも、再現可能性の問題が大いに取り沙汰されている。

 気持ちを引き締める意味合いで、この本を読むことができた。

 

 

 その他にも、今年は「絶滅できない動物たち」ダイヤモンド社)、「宇宙はどこまで行けるか」中公新書)、「科学者はなぜ神を信じるのか」講談社ブルーバックス)、「遺伝子‐親密なる人類史‐」早川書房)など、数多くの素晴らしい書籍と出会うことができた。

 

 来年も、嬉しい出会いがありますように。

 新年への願いも込めて、ここで紹介を終わりにさせていただく。

 それでは皆さん、来年も良い読書を!

 

ちゅうちしん

12/30 曇り

 

 2018年も残り少しだ。

 

 年末特有の浮かれた雰囲気が町中に漂っているが、私の心中はそれとは反対に沈んでいる。

 

 ツイッターで才能ある同級生や年下の活躍を見ていると、何だか無性にむかむかしてきたのだ。

 まあ、いつもの嫉妬である。

 

 こういう気分の時は、昔の恥ずかしい出来事をやたらと思い出してしまう。

 うまくコントロールできるようになれればよいのだが、なかなか止まらない。

 

 ほとんどが取るに足らない出来事だとは思うが、大掃除にちなんで、ここにそういった思い出をすべて掃き出してしまおうと思う。

 

 

 私の最初の『恥ずかしい』という記憶は、曾祖母が亡くなった時のことである。

 

 私や妹、両親や祖父祖母は、幸運か不幸か、曾祖母の命の火が消える瞬間に立ち会うことができた。

 当時、私は小学4年生で、物の分別もわきまえない碌でもない子供だった。

 

 オシログラフがついに静まり返り、単調な音が鳴り響く病室。

 

 あろうことか、私は曾祖母が亡くなろうとしているその時、愚かにも「ひいばあちゃん、どうなったん!?」と好奇心をむき出しにして両親に尋ねてしまったのだ。

 

 誰もがみな、目を伏せていた。

 静粛なる空間で、私はただ一人目を輝かせていた。

 

 この異常さに気が付いたのは、私が中学生になってからだった。

 曾祖母の晩節を汚してしまった罪悪感と恥ずかしさは、今も私の頭の中で反芻されている。

 過去には戻れない。

 取り返しがつかないので、余計に心が苛まれる。

 

 

 思えば、私は昔から空気が読めなかった。

 

 調子に乗り過ぎて誰かに嫌な思いをさせる、ということは二十歳になった今でも続いている。

 「普段人からボロカス言われているのに、調子に乗りすぎることすら許されないのか!」という不平感と、申し訳なさがごちゃまぜになっている。

 

 しかし、やめられないんだ、これが。

 のっぺりとした会話を続けることが退屈なので、無理やりにでも事実の棘だったり、道徳的ジレンマへの挑戦だったりを生み出そうとしてしまう。

 偽悪的であることは分かっているのだが、なかなか……

 

 

 私がこれまで調子に乗った場面で一番印象深いのは、中学三年生の修学旅行の時だろうか。

 

 カヤックに乗って川下りをしていた私は、そこそこかわいい女子に調子に乗ってひたすらちょっかいをかけていた。

 あまりのしつこさに、彼女はあまりの嫌悪に目を細めて私を注意した。

 

 脊髄まで凍てつくような、緊張の瞬間。

 そんな時すら、私は痺れるような背徳感に酔いしれていた。

 

 今振り返れば「なんだコイツは」と自分でも思うのだが、これに共通するような行いは、大学生になった今でもしてしまっていると思う。

 理解していてなお、止められない。

 矯正していかねば。

 

 

 恋愛においても、恥ずかしい思い出は多い。

 

 中学生の頃は、周囲から「金こんにゃくって○○のことが好きなんちゃう?」と聞かれすぎた結果、本当にその子のことを好きになった、と錯覚してしまうイベントが起こった。

 中学生のサルのような性欲に起因する、生化学的トリックのなせる業である。

 

 その他にも、ネット恋愛をしていた時、彼女との深夜のラインのやり取りに疲れて、彼女から逃げ出すためにネットを一時的に止めたりもした。

 流石に情けなさすぎである。

 

 一年ほど後、ネット元彼女には全力で謝った、ラインで。

 今は相手方も、このことを許してくれている(らしい)。

 

 ついでに、私は今もこの時のことを思い出すと、あまりの恥ずかしさとどうしようもなさに暴れそうになってしまう。

 曾祖母の時と違い、取り返しがついたのがせめてもの救いだろうか。

 

 恋愛面では大学に入学してからも、しょっちゅう恥ずかしい思いをしてきた。

 なぜいつも私はこうなのだろうか、と嫌になってくる。

 つらい。

 

 こんなところに現在進行形の話題を書き残しておいて大丈夫なのだろうか。

 まぁ、大丈夫か。

 

 

 自分の頓珍漢な言動だったりと、私が何かを恥ずかしいと思うのは、だいたい自身の行動に依るものが大きい。

 人のせいで恥ずかしい思いをした、などはあまり無いような気がする。

 

 恥ずかしい思いをしないように、自分を変えられるのは自分自身だ。

 自分を変えることがこれほどに難しいのなら、他人を変えることはなおさらだろう。

 他力本願寺に出家したいが、ここはグッとこらえ、自分の行動変容に焦点を当てていこう。

 

 この日記を書き綴っていること自体が恥ずかしいことだと、そういったメタ構造は気にしない方向で。

 

Wish you a 恋人はきっと来ない いつまでも手をつないでいられることをサンタとやらに頼んでも仕方ないよなぁ

12/24 曇り

 

 冬休みが始まった。

 学期末のレポートや冬休み明けの発表準備など、するべきことは多い。

 特に、統計の授業のレポートは厳しい戦いになりそうだ。

 教授に向かって「レポートはRMarkdownで作ってみます!」と高らかに宣言してしまったため、一からソフトの勉強を始めなければならない。

 それもまた一興である。

 長すぎる冬の夜には、そのくらいの課題がちょうどいい。

 これだけ書いておいて、完成度がクソだったらそれはそれで……

 

 

 クリスマスである。

 そう、クリスマスだ。

 

 クリスマスには苦い思い出がある。

 

 大学一年の時には、「クリスマスまでに彼女を作る!」と公約(誰に?)したものの、その目標が果たされなかったのだ。

 彼女は作るものではなく、互いの同意のもとに自然と出来上がるものだと理解したのは、それからしばらく後のことである。

 

 私が何かを宣言する時は、たいてい上手くいかない。

 レポート、大丈夫か?

 

 

 毎年、クリスマスには交際相手のいない人を少人数集めて、クリスマスのない国の料理を食べる、といったことを主宰している。

 一昨年はインド料理、去年はタイ料理を食べに行った。

 

 今年は人を呼ぶ元気がなかったので、一人で中国料理を食べに行った。

 2500円。

 少々お高いが、小籠包や麻婆豆腐は絶品だった。

 

 地上八階で地元の街を見下ろしながら食事ができる、というのも高得点である。

 しがない中核都市に過ぎないこの街に、クリスマスの時期にうろつくカップルなど、イモい奴らばかりに決まっている。

 私はそんな彼らよりも空間的に高いところで、カップルの仲よりもアツアツな小籠包を食すのだ! 

 最高のクリスマスだとは思わないかね? 

 

 クリスマスなので、夜が深まると彼氏は彼女のクリトリスをご馳走になるのだろうが、そんなことは私にとってはどうでもよい。

 カップルなんざクソである。

 彼らは己の自由を引き換えに、性交渉権を手に入れたに過ぎないのだから! 

 ばーかばーか! ホーリーナイト、ホーリー嫉妬!!

 

 

 本屋で自分用のプレゼントに、『異セカイ系』という小説と、『ずっと喪』というショートショート集を買った。

 どちらもツイッターで読書家がやたらと推薦していたので、今から読むのが楽しみである。

 

 クリスマスとかどうとかは関係なく、今夜はいつも通り「裁判ではなぜいつも半ケツが言い渡されるのだろうか、全ケツもたまには出されてもいいのに」だとか、「デヅルモヅル由来の成分で作られたベビーパウダー自然派ママに受け入れられるのか」など、取るに足らないことを考えながら過ごそうと思う。

 

 そして、サンタさんが素敵なプレゼントを運んでくれることを信じて眠りにつくのだ。

 サンタさん、今年のプレゼントは耳かきをしてくれる理学修士の甘々なお姉ちゃんをよろしくお願いします。

 

ぼくらはみんな科学特捜隊

12/13 晴れ

 

 私は子供のころから、『ウルトラマン』シリーズの防衛隊が嫌いだった。

 

 理由は単純で、彼らは無力だからだ。

 怪獣が出現すれば戦闘機を飛ばし、それがことごとく撃ち落される。

 出会い頭にどういう光線銃を撃ちまくっては、それがまったく怪獣には効かない。

 

 私がウルトラマンを見ていた頃は、ちょうど『コスモス』や『ガイア』の頃だっただろうか。

 特撮オタクではないので、あまり各作品の防衛隊については詳しく知らない。

 それでも、防衛隊を画面越しに眺める私は幼心ながらに、彼らの無力さに呆れたものだ。

 

 単純なお金や命の勘定ができるようになってからは、防衛隊がますます嫌いになった。

 毎度のこと怪獣を倒せないのに、戦闘機やら洗車やら大層なものを持ち出しては数分で怪獣に破壊されていく。

 「それを購入した税金はどこからやって来ているのだろうか」

 そんなことを考えたりした。

 

 何もかも、防衛隊の行動は無駄に思えた。

 ウルトラマンが来ると、どうせ3分以内に倒してくれるのに、防衛隊は何を必死になって街を守っているのだろう? 

 そんな無邪気で残酷な感想を抱いたりした。

 

 

 時は過ぎて、私は背丈が伸びた。

 多くの子供がそうであるように、私は年を経るにつれて、ウルトラマンなどの特撮物にはあまり興味を示さなくなった。

 

 怪獣にはもちろん、何に対しても脅威を感じなくて済むような安寧の日々。

 泥のような平穏の中で、私は生活している。

 

 しかし、雨がいつか止むのと同様に、のっぺりとした日常はいつまでも続かない。

 

 周囲にも、就活について考える人が増えてきた。

 インターンに参加したり、企業説明会に赴いたり。

 ドラマや小説で見たそのままの姿で、就活というイベントはやってきた。

 

 私は大学院に進学を志望しているので、斜め下からその風景を眺めている。

 絶景かな絶景かな、いや、あまりいい眺めではない。

 

 

 就活とともに目立つようになったのが、公務員試験への対策を始める人たちだ。

 私の周囲にも何人かいる。

 

 私は公務員というものがあまり好きではない。

 

 小中学校の教師が嫌いだったこともあるが、公務員という職業については無個性で形式ばっていて、窮屈なイメージがある。

 そのような職に自ら志望するという、その心情があまり理解できなかった。

 

 もちろん、公務員になって行政側から自分の目的を成し遂げたい。そのようなことを考えている人もいるだろう。

 私もそう思っていた。

 

 だが、周囲の公務員を目指している人たちに動機を聞いてみれば、「安定しているから」と、口をそろえたように皆が同じことを言う。

 

 本当にそれでいいのか? 一回きりの人生だぞ? 

 『全体の奉仕者』なんかになっていいのかよ。

 

 身勝手な怒りに駆られた私の脳裏に浮かんだのは、かつての防衛隊の姿だった。

 

 無力、無駄、無益。多数の人間に自分の生命を投げ出すことのできる、その不気味さよ。

 

 

 今の世で言えば、ある人にとっては中国が、また別の人にとってはテロリストが『怪獣』のような存在かもしれない。

 

 人の命を軽々しく吹き飛ばすことのできる力を持ち、気まぐれで、恐れを抱かせるもの。

 個々の存在を薙ぎ払う圧倒的な事象たち。

 

 それは日本国自体も例外ではない。

 自分の意識がどこまでも薄く溶かされていき、日本という怪獣と一体になる。

 否が応でもリヴァイアサンの一部として組み込まれてしまう。

 これは私が最も嫌悪することだった。

 

 怪獣が健康なら、私も体内の共生菌として、もしくはがん細胞として生きる道を選んだかもしれない。

 おこぼれを怪獣からあずかることができるからだ。

 

 しかしながら、日本は老いぼれて、いつ地に沈むかも分からない怪獣だ。

 私は、このままこの国と共倒れになるつもりはない。

 

 理由もなく産み落とされ、夕焼け小焼けでさようなら。

 壮大な歴史の小さな小さなノイズになることは、私の望むことではない。

 そのような考えを抱くことは、傲慢だろうか?

 

 全身全霊で足掻けば、全ては上手くいくと。

 赤ん坊のような、万能感の夢に微睡んでいる。

 そのような青年期を過ごしている。

 

 安定はいらない。ただ、納得のいく人生を送りたい。

 「私は確かにここにいた!」と号哭することができる、最高の事実が欲しい。

 

 要は、私はウルトラマンになりたかったのだ。

 自分の名前がタイトルにつくような、自身を主人公として人生を生きることができる。

 そんな、自惚れた願望。

 

 その心中とは裏腹に、何かを為すことはできず、ただ無銘の日々が続いていく。

 

 

 散々「嫌いだ」などと書き連ねておいて可笑しい気もするが、私は公務員志望者をいい意味で「大人だ」と思っている。

 

 自分の人生について本当によく考えているし、みな真面目な人ばかりだ。

 チンパンジーが操作しているゲームキャラのように、したばたと四肢を振り回すように生きている私とは真逆である。

 

 『ウルトラマン』の防衛隊は、善意に溢れていてエリートぞろいで、眩しいくらいに良い人たちである。

 そんな人たちでも、怪獣には敵わない。

 当然、私も怪獣には勝てっこない。

 

 ならば、武器を磨くしかない。

 聡明な生き方が出来ないのであれば、大きな力にへし折られないように。

 

 例えば、『ウルトラマン』のゼットンを倒した無重力弾のような、比類なき武器を持つしかない。

 それが、不器用な生き方しかできない私の、数少ない対抗策なのだと思う。

 

 

 私はウルトラマンになれない。

 

 私たちはみんな等身大の人間で、少し群れれば埋もれてしまうほどの能力と個性しか持たない存在だ。

 ある意味では、誰もが怪獣から逃げ惑う市民か、小さな力でそれに立ち向かう防衛軍だ。

 

 それでも、私は夢を見る。

 自分の力が怪獣に届き、真に恐れから解放される。

 そのような夢を。

 

 

 今日は寒空に星が栄える夜だ。

 

 夜空を眺めていたら、ゆらゆらと星が揺れ動きだした。

 『自動運動』という錯覚の一つである。

 

 「宇宙が震えた」なんて詩的な表現でごまかすまでもない。

 私には知識があり、思考があり、身体がある。

 

 この手がいつかM78星雲にも届くことを願って、私は今日も静かな夢に潜り込む。

 

 

『2025 大阪万博誘致 若者100の提言書』を読んで

11/26 晴れ

 

 

 『2025 大阪万博誘致 若者100の提言書』というものが、巷で話題になっている。

 これは、学生がきたる大阪万博に向けて様々なアイデアを纏めたものである。

 

私たちは、議論を重ね、5つの「問い」を決めました。

そして、そのテーマを問うための「アイデア」を計100個発案し、提言書にまとめました。

コンパクトにまとめながらも、抽象的な理念だけではなく、できるだけ具体的な内容まで書くように努めました。

 

 前文には、このようなことが書かれていた。

 

 これが話題になった理由としては、LGBT関連のアイデアが差別だかどうとかで炎上したことがきっかけらしい。

 詳しいことは各自で調べていただきたい。

 要は、ありふれた悲劇である。

 

 『2025 大阪万博誘致 若者100の提言書』を作った団体は東京大学京都大学など、入試難関校の学生が数多く参加している。

 それでも、こういったアイデアが出てしまうというのは、なかなかに考えさせられる。

 

 当たり前だが、若者も一枚岩ではないということだ。

 それに、善意が元のアイデアでも、それが誰かの逆鱗に触れてしまうのは世の常である。

 

 

 これだけ話題になっているものに目を通さないのも勿体ないので、とりあえず全部読んでみた。

 一通り読んでみると、やはりと言うべきか、お金が死ぬほどかかりそうなものや、発想が傲慢なものなど、いくつかの粗が見られた。

 

 が、面白いアイデアも散見された。

 この提言には批判ばかりが目立つので、個人的に良いと思ったアイデアをここでは紹介していきたい。

 

 

  1. 献セル

献血」ならぬ「献セル(Cell)」。

万博内では来場者から細胞が「献セル」(=細胞の任意提供) され、万能な初期状態に戻す iPS 技術を用いて HLA 型によって分類し、 iPS 細胞をストックする。

創薬再生医療の発展、難病の治療など様々な ポテンシャルを持つ日本発の技術 iPS 細胞を、日本の医療インフラに。

世界中の創薬再生医療が 2025 大阪万博から変わってゆく。

 

 全然言葉回しが上手くないが、良いアイデアだと思った。

 医学方面に私は造詣が深くないので適当な意見になってしまうが、このアイデアは市民と最前線の医学を繋げるものになるだろう。

 

 また、集めた細胞は臓器移植の際の拒絶反応や、遺伝子疾患への有効な情報源になるだろう。

 大阪万博のテーマにも沿っていて良い。

 

 問題点としては、生体情報というデリケートで重要なデータの取り扱い方法だろうか。

 あと、名前の言い回し。

 

 

  1. The Oldest Tastes

農耕の開始は人類にとって非常に大きな転換点だった。

人類は農耕を通して、芳醇な食文化を形成していくのである。

古代エジプト文明では農耕で得られた穀物を原料とするパンとビールが食べ物の象徴的存在であった。

今なお世界の食文化の中心に位置するパンとビールをはじめ、穀物食が最古の姿で復元され、万博内で振舞われる。

幾千年と積み重ねてきた「食べる」という営為の歴史の深みを味わおう。

 

 万博が否が応でも国際色の強いイベントになってしまう以上、こういう軽食をとるための展示は必要だと思う。

 穀物ならば、ムスリムやその他の宗教の教義に触れないような食事を提供することが幾分簡単になるだろう。

 

 個人的体験談としては、『食博』というイベントに訪れた際、口にしたフランスの米が使われたデザートが衝撃的であった。

 これはどろどろになった米と、細切りにされたオレンジが砂糖で和えられたものだった。

 

 意外にも、このデザートは美味しかった。

 食は、最も手軽な異文化理解の方法だと思う。

 

 

  1. 死生観 On Air

この世には生と死に精通している様々な職業が存在している。

医師・看護師・助産師をはじめとした生に携わる人々と、 僧侶・葬儀者のような死に携わる人々が集い、「人はなぜ生きるのか」をテーマに大討論会「死生観会議 On Air」を行う。

その様子は、オンラインで世界中に配信され、世界中からコメントが寄せられる。

生と死の専門家が、21 世紀の 「真に生きる意味」を語り尽くす。

 

 イベントの一つとして行うなら、面白いかもしれない。

 

 ちょうど、七年ごとに行われる世界宗教者平和会議が次に開催されるのは2020年なので、それを万博でやってもらうというのはどうだろうか。

 2025年にもなれば自動翻訳も多少は進歩しているであろうから、面白い試みになるであろう。

 

 問題は、多くの宗教者が2025年までにそれぞれの天国に行ってしまわないかどうかである。

 

 

  1. Steps For Energy

3,000 億歩。

3000万人の来場者が 1 万歩歩いた時の合計歩数である。

2016 年現在ラスベガスで導入計画がなされている 足踏みのエネルギーを電気に変換する「歩行発電」技術によれば、一歩につき 4~8W を生産できる。

理論上1兆2000 億~2 兆4000 億 W の発電可能になった万博の床から、万博内の LED 街灯に電力供給される。

大地を踏みしめる一人一人の力が、万博を照らす光となって降り注ぐ。

 

 シンプルにいいアイデアなのではないだろうか。

 たくさん歩くことは電力になるだけでなく、健康にも繋がる、一石二鳥である。

 

 うまく動線に合わせて設置しないと、馬鹿にならない無駄な経費がかかりそうだが。

 

 今の大阪に、それを考えるほどの知能はあるのだろうか。

 

 

  1. EXPO SeamlessPass System

「人類の辛抱と長蛇」と揶揄された大阪万博ʼ 70。

せっかく万博に来たのに大混雑で、パビリオンに入れないなんて、やってられない。

パビリオン入場の予約はすべてオンラインで行われ、入場時間が近づくと、自動通知が来るので、行列に並ぶ必要はなくなる。

レストラン、グッズショップにレジはなく、買い物かごに入れるだけで自動的に課金される。

人と人とが無秩序に折り重なる混雑から解放された生活は、私たちにかつてない心の豊かさを与えるだろう。

 

 いる(確信) 

 何だかスシローみたいだ。

 

 ただ、クソのようなUIになることだけは避けていただきたい。

 行政主導のシステムは、いつも使い辛い。

 

 

 特に良かったのは、この5つのアイデアだろうか。

 

 他のアイデアはお金が信じられないほどかかりそうなのに、「え、それだけ!?」といったパフォーマンスのものや、現段階での最新技術にこだわり過ぎるあまり、行き詰っているようなものが見受けられた。

 

 個人的には、国立民族学博物館が前回の大阪万博の折に設立された経緯に倣って、世界中の苦難を乗り越えた先に製作されたアート作品を展示してもらいたい。

 

 日本では東日本大震災後のアートを、アフリカからは、実際に民博で展示されていたものを例に出すと、内戦後に残された銃などの兵器をつなぎ合わせて製作したアートなど、こういった多くの作品を集めていただきたい。

 

 それらは現在の世界を知るとともに、昨日までの後悔と明日への希望を私たちに伝えてくれるはずだ。

 

 その他には、終活関連の活動にも焦点をもっと当てても良いかもしれない。

 もしくは終末期医療か。

 

 どちらも、トップクラスに高齢化が進んだ日本が世界より進んだ分野である(と信じたい)。

 今後熾烈に高齢化が進行する予定である中国などの国家や、高齢者自身に、その知見を活かしてもらうことは必要だろう。

 

 

 万博は7年後である。

 

 7年前と言えば、地上デジタル放送が本格的に始まったり、東日本大震災が起きたりと、いろいろと混沌とした年であった。

 その頃の私たちは、AIだのアルトコインだの、最新技術に翻弄される私たち自身を、果たして想像できただろうか。

 

 2025年、今からは想像できなかった技術が世間を席捲していることだろう(激うまギャグ)。

 その頃には社会も変わっていて、LGBTの人たちへの偏見もある程度は解消されているかもしれない。

 

 未来はいつも分からない。

 

 私たちにできることは、現時点で思いつく最良のアイデアを提案し続けることだろう。

 

 

アレをこめて紙束を

11/17 晴れ

 

 とてもゆったりした休日。

 『何もしない』をした。

 

 私は外出をしないと気分が落ち込んでしまう性があるので、喫茶店に来てからこうして日記を書いている。

 

 正面のガラスの向こう側では、制服を着た男女のカップルが互いに身を寄せ合い、指を絡めていた。

 こういった、人生全般において正しい人間を見ていると理不尽に腹が立ってくる。

 

 憤怒の季節が始まろうとしている。

 

 

 最近、半ば強引に本を贈りまくっている。

 希望者に対し、その人を象徴するような本を1500円程度で選んでプレゼントしている。

 

 自分が本を買う場面では、自身がそれを読むことしか今まで想定していなかった。

 なので、人のために本を選ぶというのは意外と新鮮で面白い。

 もちろん、本は偏見でセレクトしている。

 

 これまで、Amazonの欲しいものリストから唐突に人に本を贈ったことはあったが、一から本を選ぶというのは初めてである。

 

 クソのような内容の本を贈っては申し訳ないし、読書家としてのプライドも損なわれてしまうので、本を選ぶのには結構な時間を費やしている。

 

 

 例えば、日頃あまり本を読まず、これから読書を始めようとしている男の子がいたとしよう。

 

 彼には『そして、生活は続く』というエッセイと、『面白い本』という新書をプレゼントした。

 

 『そして、生活は続く』は星野源が『恋』などで大ヒットする前の生活を綴ったエッセイ集である。

 言い回しが親しみやすく、下ネタ満載で面白かった。

 

 正直、星野源はこちらが勝手に嫉妬していてあまり好きではなかったが、この本を読んでから、少し好きになった。ウホッ。

 

 著者の人となりが分かるというのは、エッセイの持つ長所の一つだろう。

 

 『面白い本』は岩波から出版されているブックガイドである。

 

 どこかの編集者をしている著者が、オススメの本を簡潔に紹介している。

 

 流し読みしたが、なかなか本のセレクトが良かった。

 こちらが本をうまく選べているかどうか、不安になる程度には。

 

 

 その他にも、猫を飼っていて、ひたすら「就職したくない」とか何やら呻いている女の子には『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』という小説と『ブラック奨学金』という本を贈った。

 

 『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』は小学生の女の子と、猫が主人公の小説だ。

 著者は万城目学。私が昔から好きな作家だ。

 

 中学生の頃にこの小説を読んで、とても心が浄化された思い出がある。

 この小説がなければ私はとうに闇堕ちして、世界に瘴気をまき散らしていたかもしれない。

 

 『ブラック奨学金』は文春新書から出版された話題作である。

 奨学金の怖さが綿密に記述されている。

 

 奨学金を借りている人は、周囲を見渡してみると結構多い。

 彼女にとって、じわじわ迫りくる就職への発破になっただろうか。

 

 私は大学院に進学を志望しているので、就職など屁の河童である。

 モラトリアムを延長することと、自分の無知を自覚することに、暫くは精進していく予定である。

 

 

 このほかにも、様々な本を様々な人に贈った。

 

 彼らには本を渡す際、「私に合うようなものをプレゼントしてくれ」と押しつけがましく伝えたので、何が届くか今からでも楽しみである。

 

 もし、私に本をセレクトしてほしい人がいるなら、気軽に私に伝えてほしい。

 やる気とお金があれば、あなたにピッタリの本をお届けしよう。

 

 あ、もちろん返品不可でお願いします。

 

 プレゼント後は、私という存在に『高評価』をお願いします。

 

 

推しなきオタクの挽歌

11/4 晴れ

 

 十一月にあるまじき暖かさ。

 この気温で、街がクリスマス用のリースなどで飾られているというのは、なかなか奇妙で面白い。

 

 クリスマスが来るのを嫌がるフリばかりして、これまで二十年生きてきたが、私は聖夜を一人きりで過ごしたことが実は数えるほどしかない。

 だいたいは家族が一緒にいるし、大学生になってからは、毎年のように有志を募って民族料理を食べに行っている。

 

 今年はどこの国の料理を食べようか。

 トルコ料理なんかが良いかもしれない。

 

 

 自分が推しのいないオタクだということに、じわじわと悩んでいる。

 

 実生活を過ごすにあたって、推しがいないことは別に支障をきたさない。

 だが、周りのオタクの多くが芸能人やキャラクターを推しにして生活しているのを見ると、なんだか侘しい気持ちになってくるのだ。

 

 自分のほかにも、推しなきオタクは数多くいると思うのだが、おそらくこちら側のオタクはマイノリティである。

 

 私は多趣味であると自認しているし、二次元コンテンツを嗜んだり、一部の分野についてはそれなりに深い知識を持つオタクなはずである。

 だが、推しがいない。

 

 「何をぐちぐち言っているんだコイツは」とお思いの方もいらっしゃるだろう。

 

 とどのつまり、推しはもちろん、『自分が全てをなげうってでも、尽くしたい何か』が存在しないということに、やるせなさを抱いているのだ。

 

 周りの人間が当たり前に持ち合わせている、この感情が欠落しているという現実は、私の自尊心の小さな疵となっている。

 

 

 推しを作ろう、と思ったことは何度かある。

 

 だが、すべての場合において、それは『好きなキャラクター』の範疇を超えなかった。

 

 この言いようもない感覚、あえて名付けるなら『空白感』に、これまで真綿で首を絞められるような思いを強いられてきた。

 

 この感情の延長線上には、彼女ができない焦燥感なんかもあるのかもしれない。

 

 なんだか、『オズの魔法使い』のブリキ男になった気分である。

 

 胴体までブリキでできたブリキ男は、がらんどうの胸を埋めるため、ドロシーらと一緒に旅に出る。

 

 「どうして、いつもうつむいて歩いているの?」というドロシーからの質問に、ブリキ男は「自分には心が無いから、気をつけないと、小さな虫をうっかり踏み潰してしまうかもしれない。温かい心を持つ人が、自然にできることが、自分にはできないから、気をつけないといけないんだ」と答える。

 

 私自身、人助けであったり、そういった善いはずの行動全てが空っぽに感じられる、ということがある。

 そこには、「善いことをしたな」という満足な余韻もない。

 

 ただ退屈な日常に、がむしゃらに何かを詰め込もうとしているのみである。

 推しができないもどかしさも、この空白感と繋がっている。

 

 他の人が当たり前にできることの真似事をする。

 それをただ繰り返す。

 そこに温かみはない。

 

 

 ブリキ男は物語の最後、オズの魔法使いにおがくずを詰めたハート型の袋を授かる。

 「あんたには心がある。無いと思い込んでいるだけだ」という言葉と共に。

 

 まがい物の心でも、魔法を信じるブリキ男にとっては救いとなったのだろう。

 

 もちろん、この世界に魔法はない。

 見せかけの夢や不思議があるのみである。

 

 けれども、世界は広い。

 私の空白を埋め合わせてくれる、何かがきっとこの世界にはある。

 

 そんな魔法を、私は信じている。

 

 広い世界に旅に出る。

 それが、私が推しに辿り着き、自身の心の温度を感じさせてくれる方法の一つだろう。

 

 要は、私はまだ無知だということだ。

 

 推しのいない、空白を抱えたオタクたちに心を寄せて、今日の日記はここまでにしよう。

 

 

 じつは『オズの魔法使い」には後日談があり、そこではブリキ男は依然、自分を「心の無い男」と評している。

 救いがない。

 

 オズの魔法使いはただの老いぼれた詐欺師なので、魔法がつかえるはずもないのだから当然である。

 さらに救いがない。