9/19 晴れ
長かった夏休みも、今日で終わりだ。
しばらく日記を書いていなかったが、この間は中学や高校の同級生と会ったりと色々忙しかった。
本当は日記なのだから、このような出来事を書き綴るべきだとは思うのだが、日記を書くのにはそれ相応の体力を使うので、なかなか書けずにいた。
日記に書くべきイベントが起こっても日記が書けず、そのようなイベントがない日は暇なので日記が書けるという、パラドックス的なことが起こっている。
考えるだけで文字が自動入力されるようなインターフェースが早く開発されることを願う。
最近、漠然とした不安に襲われていた。
それは自分一人が世間一般からズレた進路を選択することの恐怖心から生じているのかもしれないし、最後の十代を過ごすにあたって、もっと充実したものに時間を費やした方が良かったのかもしれないという後悔から来ているのかもしれない。
エリクソンという精神分析家兼発達心理学者の唱えた理論に、発達段階説というものがある。
発達段階説によれば、私たちの年代でもある10代後半周辺で、「アイデンティティ VS アイデンティティの拡散」という危機が訪れるらしい。
詳しく引用すれば、
この時期の危機は 「 同一性 」 と 「 同一性拡散 」 。
「同一化」とはこれまでの見てきた段階 ・・・ 「 肯定的側面 対 否定的側面 」 を心の糧としながら乗り越え、統合してゆくことを示しています。 そして青年期の段階にはいると、その同一化されたものを土台にしながら、自らの自己を作り変えてゆく ・・・ つまり、 「 同一化 」 → 「 同一性」 を経ながらに自己価値を見出してゆく段階であると言えます。
この時期は、 「自分とは何か?」 「自分は何がしたいのか?」 「自分には何が合っているのか?」 「自分は何になりたいのか?」 ・・・ と言う様に、自分自身に気持ちが向けられる時期でもあります。 また、 「自分が自分であると感じている自分」 を意識しつつも、 「自分が周りにどう映っているのか?」 とか、 「周りからどのように見られているのか?」 と言った事が気になり始める時期でもあります。
……だそうだ。
要は、後悔も含めて自分の過去と向き合い、それを受け入れて将来のことを考えることが重要だということだ。
だが、私はそれに対してなかなか踏ん切りがつかなかった。
長いようにも短いようにも感じる自分の過去と、目前にある果てしない未来に足が竦んでしまっていたのだ。
そんな時、たいていの人間は巡り合わせ良く、誰かからありがたーい言葉を貰うものである。それは学校の教師だったり親だったり、一般的には身近な人間だったりするものだ。
しかし私の場合、ありがたい言葉を授けてくれたのは基礎英文問題精講だった。英語の問題集である。
私が無心に英語を勉強していた時、
「The past and the future are only our means and the present alone should be our end.」
という一文に出会った。
和訳すれば、
「過去と未来は手段に過ぎず、現在のみが我々の目的でなければならない」
となる。
私はなぜか、この言葉にとても感動した。
言われてみれば確かに、過去は変えられず、未来は何が起こるか全くわからないものだ。
ならば、自分自身が過去に得たものや、他人を感化させるような自分の未来を自身で定義し、それらを武器に現在で闘っていくしかない。
この考えは私の不安で曇った視界を明瞭にした。
この時から、少しは気が楽になった。不安の素であった過去と未来が頼もしい私の武器であるかのように思えたからだ。
ただ、この言葉は基礎英文問題精講の問題文である。贅沢を言えば、現実世界の人間から直接この言葉を授かりたかった。名言製造マシーンの美少女とかそこらにいないだろうか。
この言葉を英語の問題集の一文のままにしておくのは勿体無いことなので、この文章の出典を調べてみた。
どうやら、かの偉大な哲学者、ブレーズ・パスカルの言葉らしい。「人間は考える葦である」のパスカルである。
調べてみれば調べるほど、パスカルの定理だったり、パスカルの賭けだったり、パスカルの三角形だったり、39歳で鬼籍に入ったにしては残した業績が多すぎる。
かくして、私の励まされた言葉の裏にはしっかりと人間がいたことがわかった。それも世紀の天才である。350年という時を超え、この言葉は私にしっかりと届いた。
パスカルとまではいかないにしても、私もそれなりに業績を残してみたいものだ。
The past and the future are only our means and the present alone should be our end.
この言葉を胸に抱きながら、これからも今を生きていく。